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肩凝りは,全体性より個人へ戻る道のり

ガネーシャ=エレファントマンと,阿弥陀信仰を結び付けて,
その芥川龍之介=東照宮=源頼朝など,堀辰雄=織田信長=平清盛の
堀たっちゃんこに庇護される正当性の覆いに,芥川氏は阿弥陀ガネーシャの
楔形紋様まで嵌り込めずにいる。嵌り込むとゆうより,その道程に向かえず,
更には,そこに護られていた堀辰雄氏の正当性に,かつての信長公の庇護を
想いだすのだった。正当性?何故かしらサナトリウム文学の著者は,その姿に
比して,非常な整合性を持ち合わせている,けれども,ここからは庇護者の
蒼穹を打ち破るように,天蓋を越えて,あの宇宙の真空大海へと飛翔して行く,
むしろ賢治の銀河鉄道みたいなオリオンへと漕ぎ出してゆくべき時ではないか?
アンドロメダと呼んでも良いのだけれど,この陰陽によって成立する,決して
ダークネスを否定せず融合してゆく時節に,肩凝りは,全体性より個人へ戻る道のり
だけれども,それは個に戻る過程で,むしろ強張り半分の,緩み解放半分半分の
そういった道程なのである。ガネーシャのマントラなどをスマホで奏でながら,
あの牛頭大王など浮かんでくる,半獣神の姿は,たぶんもう存在しない本能とゆう
モノのリアリティを,神性の宿している根拠は,低次の性質と思われていた情念の
浄化されて記憶に留めておくにあたって,具現化する物理的精神法則を指してるように
思われるのだった。そうやって兜などを被る,象徴としての立物(たてもの)としての
三日月や愛の字などを顕して,それは歴史の中に置き去りにされずに,遺物としてでも
確実に存在し記憶されている。物質にまで降りた形姿などと相見えるのはすべて象徴で
そこに変化を加えるのは甚だ難しく,そうして,あえて願うのなら,一度天頂の神性まで
申告などしながら遠く待ちのぞんでその時を迎えるのを忍んでゆくしか願いの成就は
適わないものだとも感じるのである。そうして天頂の神性とゆうのも,そうした遺物を
象徴として掲げた半獣神ではあるまいか,など,むしろ創造性をそうゆう風に想像して
そうあってほしいと望むまでキャラクター願望を生活や暮しの情緒まで求むる者である。


半分半分までいって,開放されるのだから人間性の双璧は意外と寛容で軽快なのである。
芥川氏のそういったすがたを沸々と感じさせてくれたのだから,あえて真のフェミニンな
もうひとつの宇宙をガネーシャのマクロコスモスに求めても良い気のするのだった。この
フェミニンな宇宙とゆうのが,あえて開いた扉のしめす他方の大きな世界であり,これは
肩凝りの解消を試みて指向する安定性の高いフェミニズムでもある。肩凝りの解消とは,
結構なテーマであるけれども,下手な言い方で,男性性と女性性の中和や,あえて芸術の
創造性はクリエイティブな男性性ではなく,あの虚空に親い精神性をもって,無に拡がる
広大な無意味さへの船出である。漕ぎ出した舟は知っているのだが,ただ船べりの響きの
揺蕩う感じのみがその存在をしめしているのだから,もう幽玄に身を置いて,有限からは
逃れ,あとは一瞬の意味を掴むのみで有意義である。無意味とはそういった,意義を持つ
ので,開放されたスピリチュアルな結果は,もうそうゆう無意味とゆう答えなのだった。
諸行無常の沙羅双樹,夏は夜の冬はつとめて。あの平安かな文字に親い感性かも知れず,
無常とは言って,それは祈りの裏の感情でもある,切なさは浄化されて悲母の眼差しに,
哀悼は進んで,強靭な生活へと換わってゆく。これを努めて維持してゆくのを合掌と呼び
また,祈りは裏側へ影をひそめてその泉を湛えて涙の奔流を堰き止めている。いいや全て
そうでなければならない。そうなのだから,もう少し耐えて行こう。ここまで来訪する
数多くの哀しみを,自らの不幸と呼ばず,自身の優しさの現れとして,まだ人間性の魂は
ここに保たれてる,崩れてゆけば世界を失うので,涙は堪えて手を合わせるだけにする。
このギリギリの忍耐を続けて行くのは至難の業だけれど,本当に世界は存在して欲しい。
世界は存在して欲しいのは,保持してゆくとかそうゆうのではなく,また四季を通して
産まれ変わって欲しいとゆう願望でもある。自然の豊かさは,季節の豊穣さを通して
この世界にまた新たな姿をしめしてくれるはずだろうなど,軽々しくも,戦後の復興や
数々の被災の歴史が指しているような,奇跡的な希望を願って止まないはずの人間性の
魂のメッセージではないだろうか?何だか,どうしてもこうゆう文章になるのは,柄に
なく真面目に切なくなるので,もうすこし修行が必要な,けれどもこれは切迫してる。


こちらは如何?

解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを

足元のゴキブリをきちんと処理できてからでないと、ものごとの全体的な オーガナイズなど、できたモノではない。かと、言って大きく自然は常に 世界にあるのだから、とりもなおせば、オーガナイズすなわち全体性とは 自然相手に行う人間の営為と言っていい。これは、自然相手の常識を壊す と称しても良いことで、その人間の中の自然、知性や、また、昆虫類の 自然と呼ぶにふさわしい集合意識的な流麗なエナジーに対しての、技術。 意志と呼べば、意志である。かと、言ってワガママには振る舞えない、 無意思の意志である。最近、穀物の喉元を通らないのは、こういった 自然への意志が挫かれている。むしろ、そういった意図を失うべきな 自然バランスの崩れを食欲不振や、情動麻痺に親い感情に観て取れる。 なので、その解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを起こして どうやったら貧血にならず、穀物も避けてよければ避けて通りもして この栄養失調との闘い、いや付き合い。にしても、快く自然のなかを 通り過ぎてゆけるか。酒でもない、薬でもない。とりあえず、イカの つまみでも摘んで、その勢いで、お豆腐、納豆。そうめんをすすいで 二束ほど掻き込んだ。これが精一杯だ。拒食の強い癖はないだろうが 温かい調理など食べられたモノではない。ましてやこれは過覚醒代謝 でもあるだろうが、意識を上向いていられる分、夏の大気は天国へと 持って行かれそうな暑い上昇気流をたずさえているのだから、すこし グラウンディングするように、穀物の製品も頂くべきだろう。夏の夜 昼間はラマダン期間のように食を細めていた自分の夜食に祈りの姿を みせて冷たい食品ばかり頂くのだから、自然の乱れとゆうよりそれは 自分の乱れである。そうして、呆然と朝を迎えて、鳥の声は盛んだ。

生命システムを収束させているようにも感じるのは、真夏の景色だ。 乱れは美しくもあるが、それは整えられた収束するシステムの過程を まざまざとミクロに見ているのだから、そう乱調の美を感受するのか とも思うのだった。いわずも全体性のオーガナイズは自然への技術的 意志の欠如のうちでは成立せず、そこには知恵の要る知的作業の求む らく、あの野草の薬壷へ手を突っ込むような感じで、よもぎ餅を摘む 大きな頬っぺたで味わう春の蠢きを再現させる作業を必要とするのだ。 夜食の後でアイスバーをたべた。空になったバーの木の匂いは象徴的に その感慨を現している。きっと、自然の芳香を実際…

珈琲プレグナンスとゆうは、地球号温室にて培う

さもなくば、右側頭部の情欲野ともとれる情緒的ヒステリクスは肝要。 男性性が這入りこむので、情念はヨコシマなアーリマン的要素をあらわすので、 いたって自然理にあれば、そのヒステリクスは肝要。アーリマンは赤鬼。 ともすれば、男性性を太宰など、イザナギ神話にあてはめまた、 女性性のイザナミ陣営を、アナトールと芥川氏のフレンチな文学に例えて、 大谷崎=イザナミ女神の文学性へ返すように、そうすれば、 自然体の情緒的ヒステリクスは肝要なのだった。能面が、般若に変るのは 黄泉比良坂において、三島文学=菊理媛の仲介役によって、その岩によって 光り輝く太宰のイザナギ男神的精悍さを、情緒の乱れによって見送る時に。 怒り狂えるイザナミ女神の発端は、男神の一枚岩の正義がわがままに響く その呆然とする知性に対しての怒りであって、それは何か裏腹への怒り。 表裏一体こその静けさであるのに、表面的な反射によって判断する誤りに。 この般若の相貌には、ひとかたならぬ静かな暮らしへの想いがあってこそ。
正しく、情念には破壊を浄化してゆく知恵のコントロール技術の含まれる。 そうして裏の循環摂理はなりたっているので、光りによってすべて消す といったようなのは、戦争経済と何も変わらない志向であって、情緒的な 日常の天然湿度の中で解決する身体由来の経過のあるとするなら、それは 情緒の情念的ないわゆる情欲循環コントロールによってしか、その常温は 保たれないのだった。般若は常に嫗である。いや、そうあるべきなのだ。 そうやって、いつも怒りに枯れている茫々と寂寥とした感慨を現すのが、 情念にはふさわしい。計らずも男性性は遠く彼方に押しやってしまえと、 巌に蓋をされた、彼らの国は、もう鉱物的なスピリチュアリティにしか、 含まれず囲われ、だき入れられてはいないようだが、そこに、男性性の 隔絶とした、中和され赤青に別れた大地と空との、水と風との調和は 有りえないのだった。珈琲プレグナンスとゆう造語を嗜好しだすのは、
そこに、情緒ヒステリクスの地球温室においてはぐくまれる暖かさの中で 結果的に正しさとは受容するのによって見出されるモノの多分に大きい、 そうして、正しさとは、ストレートさ素直さ一面性のたぐいにはなく、 多面性を受け容れること。情念コントロールは情欲循環的な何かでは、 そうして破壊を調整してゆく暮らしの技術におきながら、戦争経済とは 一線を画す技術の生活意欲として、裏側の…

業の泉へと向かう身体の、ラッセルと太宰に寄せて

ラッセルは、聖パウロのようで、太宰はイスキリのようで。
だんだん、平和への祈り道が、業の泉に到着しそうな予感がして、 潔癖症なくらいの綺麗好きなのが、人間臭さとゆうか、仏の道などと 融和して行きそうな気のする、不可思議な強靭さを呈している例え頓挫しても 身体は、もっとマジカルなパラレルトリックの物質ベースで核融合する、 そんなカルマベースで行ける世代的にも壮年期である、現代生活ではある。 その業の泉に予め潜ってゆけば、クリームチーズのしっとりパンを食べて 抹茶の豆乳ラテを片手に吸いこんでいるこの孤独なポルターガイストに、 あるいは、怖いは好きの裏返しと言うのは、殺意さえも愛情ではあるが それに対して、業の泉に融けこんでゆくのが、ひとつの世相ではある。 こうして美女と野獣をみながら、眠りに親づいてたまの孤高にある夜中。 ロマンチックにあればまたも安心するが、しかしながらも文学にあっても まだ安堵の嘆息ついてはいられもするのに、ソファに横たわりながら、 空調を点けて念じることのあるならば、やっぱり安寧はここかしこの 瞑目してみえてくる、あるいは知性はラッセルにも、太宰にもある。
鋭意において、横になり手に余るほどの情報を世界は2つか3つあるのか、 この希望ともとれる情報存在は世界を意識すれば動じて溢れ出てくるのだった。 ロバは、四肢によって人間と同じように体幹を感じているのか?とは言えば、 幸福論を読むラッセル的知性は、太宰のアフォリズムによってもまた違う感じ を抱かせている。この感じは綺麗なのと、情熱的な愛のカルマとまた似ている 希薄で軽やかな明度の高さと、低部にありながら、渾々と湧く泉の如く、 頂上と伏流水の部分には地点的に密度は違えど、空間も時間速度も違えど、 知識として共有している何かの輝きのあるのだから、例え山頂と麓にでも 星はみえるのだから。この星とゆう知性の知悉するファンタジーを大切に してゆこう。これは、いつも知識はこの魂にあるゆえの共通地点。なので その叡智によって、wisdomを捨てるとこまで行かなければならないのだ。 Let it beも、風に吹かれて、にゆかなければ、その先は普通の生活なので その繰り返しながら発生する風の地点。送風の生起される場所が好きで、 それでも同じく普通の生活の繰り返しながら、叡智を捨てる所にいれば 叡智を捨てて風の起こ…