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オリジナルに湧出する無意味な情熱の,さながらの脱脂粉乳

障壁はオリジナリティに溢れ,さながら無意味。有意義で無意味な
そんなあわいに居るのだから,意味とゆうモノの定義は,まるであの
オリジナルに湧出する無意味な情熱の,さながらの脱脂粉乳の後味で。
無意味な怒りのエナジーも,何かの原動力になるとはナンセンスながら
ある意味の活用できるエナジーには変わりない点で,それは真である。
そうゆう夜には,イザナミの大谷崎と,イザナギの太宰文学の対比に,
自然と受容さるイザナミへの傾向へ頷いていってしまうのだから,その
ながれに任せる自然体の遊戯は,あながち渓流の水の源へ辿る旅のよう。

つまりは,怒りは必然的にイザナミに連れて行ってくれる水先案内人で,
水色のヴェールに包まれた丘の上には,そうやって霧のかかって,あるいは
イスキリでもある太宰の弔いに,イザナミの大谷崎,ヘロディヤのA.フランスの
2人は手を取り合って巡礼の路を開いている。西のアナトールは歌い続けて
東の大谷崎はカタコトと,炊事の手を休めない。こうやって,一冊に含まれた
イスキリの物語をめぐって,若い女神の精神は,ひたすらつづけて弔いを行う。
なので,ヘロディヤのスピリチュアリティは,ただただエスニックな歌の響きを
奏でながら,それらを周囲に耳にし傾けながら,その懐かしさにようやく瞑目する。
弔いには,それぞれの想いのあって,アートとはクリエイティヴィティながら,
それは,切ない舟唄である必要のある。それは,東西においても女神の共通項である。

女性性と男性性と言っても,それらは性別に関わりなく混在してテーマとされる性質で
基本的に創世記の話などに溯れば,女性と男性の,受容と単純の2性質に,別けられる
そういった静と動の対比。また,そうして,植物の生態上と変わりなくも,その仕組は,
遺伝子上特質の変質なく継承され続けるとゆうシステマチックな発明の歴史をかんがみて
それらはもう,革新的な不朽の自然そのもの。こうして,それら陰陽の混ざり合う時に,
夕暮に茜の浮かぶよう,また東雲の色の発光はもう,すでに曙光とは言え誕生している。
こうして夜半にも,デカフェの珈琲豆を挽きドリップできる心地は,苦い一滴を啜って,
歴史の上では奇跡をみているとしか言いえない気概を抱く,一瞬のロマン歴史トリップ。
過去に高尚な感じでバルサムなど好きな珈琲と楽しむ詩人の夜更けに,眠れなくて苦悶し
過ごした記憶を考えながら,このデカフェとゆう夜でも楽しめる美味しい一杯を想うに,
C.フランソワなどのフレンチポップスを鳴動させながら過ごすエスニカルな,まるで私は
A.フランスの,そうなのだ。こうゆう倦怠感をアンニュイとゆうような身体的には無害な
だらしない趣味を求めて,何だか青臭いプラムを頬張って,音楽を鳴らす,この幸せは。

女性性は海とはゆうが,例えば海を割って渡ったモーセ公は,果たして何を割りたかった
のだろうか?いいや,モーセ自身の割ったのでなければ,海に対して何を願って,割った
のだろうか?神の仕業だとも言えるが,それは答えを回避しているので,きっと海の中の
水を,生命の水そのものを割りたかったのだ,と思える。生命にはファスティングの以前
ここでファスティングとは渇きとも言えるが,この物質の誕生以前,豊穣な水の性質こそ
含まれていた,そうゆう古代の成分みたいなのがあって,それをモーセは割ろうとした。
訣別すべきなのだろうか?水の古代性と。とは,そうゆう問いを常に男性性は抱くので,
男性性のストレートラインだとすれば,対する女性性はそれらを含むオーシャンサークル
なので,タンニンやカフェインのストレートさに,ミルクや大豆などのサークルのあれば
それは,デカフェウーロンドリップ珈琲豆乳となるので,こうした際に持ち出す二者択一
選択傾向にいたって,ミックスするのはまず第一手段ではあるのだが,それらはどちらも
排出する,ミクスチュアは二極対立を相殺する。そうして,コンセプトのリアルへ戻れば
ただ文化を楽しむ,いたって静かな流動的で豊かさの待っているので,それはそれでいて
スルメや,お茶や,酸っぱい梅シロップや,まるで回帰したような,豆乳の甘さを感じて
夜の眠りに就けば良いのだった。それはそれで,リアルな夢物語を甘美に彩る味わいだ。






こちらは如何?

解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを

足元のゴキブリをきちんと処理できてからでないと、ものごとの全体的な オーガナイズなど、できたモノではない。かと、言って大きく自然は常に 世界にあるのだから、とりもなおせば、オーガナイズすなわち全体性とは 自然相手に行う人間の営為と言っていい。これは、自然相手の常識を壊す と称しても良いことで、その人間の中の自然、知性や、また、昆虫類の 自然と呼ぶにふさわしい集合意識的な流麗なエナジーに対しての、技術。 意志と呼べば、意志である。かと、言ってワガママには振る舞えない、 無意思の意志である。最近、穀物の喉元を通らないのは、こういった 自然への意志が挫かれている。むしろ、そういった意図を失うべきな 自然バランスの崩れを食欲不振や、情動麻痺に親い感情に観て取れる。 なので、その解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを起こして どうやったら貧血にならず、穀物も避けてよければ避けて通りもして この栄養失調との闘い、いや付き合い。にしても、快く自然のなかを 通り過ぎてゆけるか。酒でもない、薬でもない。とりあえず、イカの つまみでも摘んで、その勢いで、お豆腐、納豆。そうめんをすすいで 二束ほど掻き込んだ。これが精一杯だ。拒食の強い癖はないだろうが 温かい調理など食べられたモノではない。ましてやこれは過覚醒代謝 でもあるだろうが、意識を上向いていられる分、夏の大気は天国へと 持って行かれそうな暑い上昇気流をたずさえているのだから、すこし グラウンディングするように、穀物の製品も頂くべきだろう。夏の夜 昼間はラマダン期間のように食を細めていた自分の夜食に祈りの姿を みせて冷たい食品ばかり頂くのだから、自然の乱れとゆうよりそれは 自分の乱れである。そうして、呆然と朝を迎えて、鳥の声は盛んだ。

生命システムを収束させているようにも感じるのは、真夏の景色だ。 乱れは美しくもあるが、それは整えられた収束するシステムの過程を まざまざとミクロに見ているのだから、そう乱調の美を感受するのか とも思うのだった。いわずも全体性のオーガナイズは自然への技術的 意志の欠如のうちでは成立せず、そこには知恵の要る知的作業の求む らく、あの野草の薬壷へ手を突っ込むような感じで、よもぎ餅を摘む 大きな頬っぺたで味わう春の蠢きを再現させる作業を必要とするのだ。 夜食の後でアイスバーをたべた。空になったバーの木の匂いは象徴的に その感慨を現している。きっと、自然の芳香を実際…

珈琲プレグナンスとゆうは、地球号温室にて培う

さもなくば、右側頭部の情欲野ともとれる情緒的ヒステリクスは肝要。 男性性が這入りこむので、情念はヨコシマなアーリマン的要素をあらわすので、 いたって自然理にあれば、そのヒステリクスは肝要。アーリマンは赤鬼。 ともすれば、男性性を太宰など、イザナギ神話にあてはめまた、 女性性のイザナミ陣営を、アナトールと芥川氏のフレンチな文学に例えて、 大谷崎=イザナミ女神の文学性へ返すように、そうすれば、 自然体の情緒的ヒステリクスは肝要なのだった。能面が、般若に変るのは 黄泉比良坂において、三島文学=菊理媛の仲介役によって、その岩によって 光り輝く太宰のイザナギ男神的精悍さを、情緒の乱れによって見送る時に。 怒り狂えるイザナミ女神の発端は、男神の一枚岩の正義がわがままに響く その呆然とする知性に対しての怒りであって、それは何か裏腹への怒り。 表裏一体こその静けさであるのに、表面的な反射によって判断する誤りに。 この般若の相貌には、ひとかたならぬ静かな暮らしへの想いがあってこそ。
正しく、情念には破壊を浄化してゆく知恵のコントロール技術の含まれる。 そうして裏の循環摂理はなりたっているので、光りによってすべて消す といったようなのは、戦争経済と何も変わらない志向であって、情緒的な 日常の天然湿度の中で解決する身体由来の経過のあるとするなら、それは 情緒の情念的ないわゆる情欲循環コントロールによってしか、その常温は 保たれないのだった。般若は常に嫗である。いや、そうあるべきなのだ。 そうやって、いつも怒りに枯れている茫々と寂寥とした感慨を現すのが、 情念にはふさわしい。計らずも男性性は遠く彼方に押しやってしまえと、 巌に蓋をされた、彼らの国は、もう鉱物的なスピリチュアリティにしか、 含まれず囲われ、だき入れられてはいないようだが、そこに、男性性の 隔絶とした、中和され赤青に別れた大地と空との、水と風との調和は 有りえないのだった。珈琲プレグナンスとゆう造語を嗜好しだすのは、
そこに、情緒ヒステリクスの地球温室においてはぐくまれる暖かさの中で 結果的に正しさとは受容するのによって見出されるモノの多分に大きい、 そうして、正しさとは、ストレートさ素直さ一面性のたぐいにはなく、 多面性を受け容れること。情念コントロールは情欲循環的な何かでは、 そうして破壊を調整してゆく暮らしの技術におきながら、戦争経済とは 一線を画す技術の生活意欲として、裏側の…

業の泉へと向かう身体の、ラッセルと太宰に寄せて

ラッセルは、聖パウロのようで、太宰はイスキリのようで。
だんだん、平和への祈り道が、業の泉に到着しそうな予感がして、 潔癖症なくらいの綺麗好きなのが、人間臭さとゆうか、仏の道などと 融和して行きそうな気のする、不可思議な強靭さを呈している例え頓挫しても 身体は、もっとマジカルなパラレルトリックの物質ベースで核融合する、 そんなカルマベースで行ける世代的にも壮年期である、現代生活ではある。 その業の泉に予め潜ってゆけば、クリームチーズのしっとりパンを食べて 抹茶の豆乳ラテを片手に吸いこんでいるこの孤独なポルターガイストに、 あるいは、怖いは好きの裏返しと言うのは、殺意さえも愛情ではあるが それに対して、業の泉に融けこんでゆくのが、ひとつの世相ではある。 こうして美女と野獣をみながら、眠りに親づいてたまの孤高にある夜中。 ロマンチックにあればまたも安心するが、しかしながらも文学にあっても まだ安堵の嘆息ついてはいられもするのに、ソファに横たわりながら、 空調を点けて念じることのあるならば、やっぱり安寧はここかしこの 瞑目してみえてくる、あるいは知性はラッセルにも、太宰にもある。
鋭意において、横になり手に余るほどの情報を世界は2つか3つあるのか、 この希望ともとれる情報存在は世界を意識すれば動じて溢れ出てくるのだった。 ロバは、四肢によって人間と同じように体幹を感じているのか?とは言えば、 幸福論を読むラッセル的知性は、太宰のアフォリズムによってもまた違う感じ を抱かせている。この感じは綺麗なのと、情熱的な愛のカルマとまた似ている 希薄で軽やかな明度の高さと、低部にありながら、渾々と湧く泉の如く、 頂上と伏流水の部分には地点的に密度は違えど、空間も時間速度も違えど、 知識として共有している何かの輝きのあるのだから、例え山頂と麓にでも 星はみえるのだから。この星とゆう知性の知悉するファンタジーを大切に してゆこう。これは、いつも知識はこの魂にあるゆえの共通地点。なので その叡智によって、wisdomを捨てるとこまで行かなければならないのだ。 Let it beも、風に吹かれて、にゆかなければ、その先は普通の生活なので その繰り返しながら発生する風の地点。送風の生起される場所が好きで、 それでも同じく普通の生活の繰り返しながら、叡智を捨てる所にいれば 叡智を捨てて風の起こ…