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敗退しては芽吹く麦の種は、それらが産み出すカオスなので。

精神構造をつくりだしてくれる、サディズムの黄昏や
そのエクスカリバーの宝剣みたいな鋭さの訪れには
それをやはり恩寵として受け取ろう。フィルタリングは
精神の待受には要らないのだった。ポエジーは善意の表れ、
けれど、サディズムの訪れに、もう詩性より抜け出して
乱文調には、むしろのつくりだす創作の継続性に、成長の
現れ方を見てとる、それの非常に大事なのだった。それは
フィルタリングしない精神姿態の、あの自然体で充分な、
神性を宿していたのだ、と。構えないのと、力まないことに
神は宿る、以前にそこより爾来居たのだ、と気付く所存に、
フィルタリングしなければ、サディズムの黄昏ですよ。と、
わかっています、光る刃のように居ることが、この世間で。


霊能者、とか。シャーマニズムにおける虹の橋を渡って、
これが、精神姿態に待受を設けない、全体主観よりも、さらに
すすんで、世間の一般に対して身に覚えのない所見まで辿り着いては
けれども、詩性感情の情緒情感より入り込んでゆけば、
そこには朝方に、サディズムの訪れた思春期の黄昏には、きっと
真実の含まれていた。そう気付いて、もう遅い。十余年の巫病みたいな
時期をすぎて、やっと詩情を感じ取って満足いくような感覚には
まだ、乱文調の創作意欲に黄昏への憧憬をくすぐる何かの酵素霊の
自然一帯のなかに含まれる、情景に根源性を深めるのなら、
それは酵素霊と名付けられもするクリエイティブとゆう前進する
車輪の轍をみるようにガラガラゴトゴト、水牛の曳くあの音色に
一度は興じてみたい。あの、牛の角に突かれてすすむ、如来の行進には
ユーモアとペーソス、すべて含まれて悟る心地に諧謔とは、またの
その名を哀切と言い、合わさったものをイロニーとゆう皮肉には、
結び付けられないものか、日輪の水没すれば赤く焼けるのは、それは
酵素霊の紅潮する、彼の意識には皮肉をみた所に、またあの
崩壊のなかに学びをみるといった、叡智の先触れを察知するのだから。


珈琲の生豆を発注しては、今朝の一服には間に合いそうもない、
そんな時にも、こうして感想をしたためる心地。フィルターの
なくていいのだ、と思えるうちには、僕らは朝の酵素に浴して、
心のガードを抜かして、攻撃性も厚い盾も、または不安な準備に
気持ちの安らぎを守らなければ、といった必死なヒューマニズムの
囲いも、すべて廃して僕の酵素霊をさがしに、キッチンへと向かい
ただ、朝方の口寂しさの一手を、豆乳でも、お茶でもヨーグルトでも、
何かを口にした時に、自分の渾然一体に解決して受容できるような。
正直に言うのなら、その言葉に発する、サディズムの意味とは、
攻撃性を除いた自らの詩情とゆう巫病シャーマニズムによっては
修了証書のように詩は講じられたけれども、受容体ではなかった。
そうして、自我の受け入れ先には、攻撃性とゆうのについての、
新しい理解のいる、それは世界への解答。そうして、宝剣のような、
神性としてのサディズムとゆう意味付けを、自らを守るためでも、
また、精神的に同一であるためにも必要である、とゆう解釈。これによって
右脳の側頭葉にあるような、ヒステリックな表現も魅惑的に映るのは、
それは、それが世間の答えであり、愛でもあり、またの名を、この
自我のための受容である。と銘打って、僕はフィルターのない、この世に
対して、到って渾然一体となって自分の変容を見届けたいと、そう思う。
敗退しては芽吹く麦の種は、それらが産み出すカオスなので。と、いった所
なのだった。




こちらは如何?

解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを

足元のゴキブリをきちんと処理できてからでないと、ものごとの全体的な オーガナイズなど、できたモノではない。かと、言って大きく自然は常に 世界にあるのだから、とりもなおせば、オーガナイズすなわち全体性とは 自然相手に行う人間の営為と言っていい。これは、自然相手の常識を壊す と称しても良いことで、その人間の中の自然、知性や、また、昆虫類の 自然と呼ぶにふさわしい集合意識的な流麗なエナジーに対しての、技術。 意志と呼べば、意志である。かと、言ってワガママには振る舞えない、 無意思の意志である。最近、穀物の喉元を通らないのは、こういった 自然への意志が挫かれている。むしろ、そういった意図を失うべきな 自然バランスの崩れを食欲不振や、情動麻痺に親い感情に観て取れる。 なので、その解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを起こして どうやったら貧血にならず、穀物も避けてよければ避けて通りもして この栄養失調との闘い、いや付き合い。にしても、快く自然のなかを 通り過ぎてゆけるか。酒でもない、薬でもない。とりあえず、イカの つまみでも摘んで、その勢いで、お豆腐、納豆。そうめんをすすいで 二束ほど掻き込んだ。これが精一杯だ。拒食の強い癖はないだろうが 温かい調理など食べられたモノではない。ましてやこれは過覚醒代謝 でもあるだろうが、意識を上向いていられる分、夏の大気は天国へと 持って行かれそうな暑い上昇気流をたずさえているのだから、すこし グラウンディングするように、穀物の製品も頂くべきだろう。夏の夜 昼間はラマダン期間のように食を細めていた自分の夜食に祈りの姿を みせて冷たい食品ばかり頂くのだから、自然の乱れとゆうよりそれは 自分の乱れである。そうして、呆然と朝を迎えて、鳥の声は盛んだ。

生命システムを収束させているようにも感じるのは、真夏の景色だ。 乱れは美しくもあるが、それは整えられた収束するシステムの過程を まざまざとミクロに見ているのだから、そう乱調の美を感受するのか とも思うのだった。いわずも全体性のオーガナイズは自然への技術的 意志の欠如のうちでは成立せず、そこには知恵の要る知的作業の求む らく、あの野草の薬壷へ手を突っ込むような感じで、よもぎ餅を摘む 大きな頬っぺたで味わう春の蠢きを再現させる作業を必要とするのだ。 夜食の後でアイスバーをたべた。空になったバーの木の匂いは象徴的に その感慨を現している。きっと、自然の芳香を実際…

珈琲プレグナンスとゆうは、地球号温室にて培う

さもなくば、右側頭部の情欲野ともとれる情緒的ヒステリクスは肝要。 男性性が這入りこむので、情念はヨコシマなアーリマン的要素をあらわすので、 いたって自然理にあれば、そのヒステリクスは肝要。アーリマンは赤鬼。 ともすれば、男性性を太宰など、イザナギ神話にあてはめまた、 女性性のイザナミ陣営を、アナトールと芥川氏のフレンチな文学に例えて、 大谷崎=イザナミ女神の文学性へ返すように、そうすれば、 自然体の情緒的ヒステリクスは肝要なのだった。能面が、般若に変るのは 黄泉比良坂において、三島文学=菊理媛の仲介役によって、その岩によって 光り輝く太宰のイザナギ男神的精悍さを、情緒の乱れによって見送る時に。 怒り狂えるイザナミ女神の発端は、男神の一枚岩の正義がわがままに響く その呆然とする知性に対しての怒りであって、それは何か裏腹への怒り。 表裏一体こその静けさであるのに、表面的な反射によって判断する誤りに。 この般若の相貌には、ひとかたならぬ静かな暮らしへの想いがあってこそ。
正しく、情念には破壊を浄化してゆく知恵のコントロール技術の含まれる。 そうして裏の循環摂理はなりたっているので、光りによってすべて消す といったようなのは、戦争経済と何も変わらない志向であって、情緒的な 日常の天然湿度の中で解決する身体由来の経過のあるとするなら、それは 情緒の情念的ないわゆる情欲循環コントロールによってしか、その常温は 保たれないのだった。般若は常に嫗である。いや、そうあるべきなのだ。 そうやって、いつも怒りに枯れている茫々と寂寥とした感慨を現すのが、 情念にはふさわしい。計らずも男性性は遠く彼方に押しやってしまえと、 巌に蓋をされた、彼らの国は、もう鉱物的なスピリチュアリティにしか、 含まれず囲われ、だき入れられてはいないようだが、そこに、男性性の 隔絶とした、中和され赤青に別れた大地と空との、水と風との調和は 有りえないのだった。珈琲プレグナンスとゆう造語を嗜好しだすのは、
そこに、情緒ヒステリクスの地球温室においてはぐくまれる暖かさの中で 結果的に正しさとは受容するのによって見出されるモノの多分に大きい、 そうして、正しさとは、ストレートさ素直さ一面性のたぐいにはなく、 多面性を受け容れること。情念コントロールは情欲循環的な何かでは、 そうして破壊を調整してゆく暮らしの技術におきながら、戦争経済とは 一線を画す技術の生活意欲として、裏側の…

業の泉へと向かう身体の、ラッセルと太宰に寄せて

ラッセルは、聖パウロのようで、太宰はイスキリのようで。
だんだん、平和への祈り道が、業の泉に到着しそうな予感がして、 潔癖症なくらいの綺麗好きなのが、人間臭さとゆうか、仏の道などと 融和して行きそうな気のする、不可思議な強靭さを呈している例え頓挫しても 身体は、もっとマジカルなパラレルトリックの物質ベースで核融合する、 そんなカルマベースで行ける世代的にも壮年期である、現代生活ではある。 その業の泉に予め潜ってゆけば、クリームチーズのしっとりパンを食べて 抹茶の豆乳ラテを片手に吸いこんでいるこの孤独なポルターガイストに、 あるいは、怖いは好きの裏返しと言うのは、殺意さえも愛情ではあるが それに対して、業の泉に融けこんでゆくのが、ひとつの世相ではある。 こうして美女と野獣をみながら、眠りに親づいてたまの孤高にある夜中。 ロマンチックにあればまたも安心するが、しかしながらも文学にあっても まだ安堵の嘆息ついてはいられもするのに、ソファに横たわりながら、 空調を点けて念じることのあるならば、やっぱり安寧はここかしこの 瞑目してみえてくる、あるいは知性はラッセルにも、太宰にもある。
鋭意において、横になり手に余るほどの情報を世界は2つか3つあるのか、 この希望ともとれる情報存在は世界を意識すれば動じて溢れ出てくるのだった。 ロバは、四肢によって人間と同じように体幹を感じているのか?とは言えば、 幸福論を読むラッセル的知性は、太宰のアフォリズムによってもまた違う感じ を抱かせている。この感じは綺麗なのと、情熱的な愛のカルマとまた似ている 希薄で軽やかな明度の高さと、低部にありながら、渾々と湧く泉の如く、 頂上と伏流水の部分には地点的に密度は違えど、空間も時間速度も違えど、 知識として共有している何かの輝きのあるのだから、例え山頂と麓にでも 星はみえるのだから。この星とゆう知性の知悉するファンタジーを大切に してゆこう。これは、いつも知識はこの魂にあるゆえの共通地点。なので その叡智によって、wisdomを捨てるとこまで行かなければならないのだ。 Let it beも、風に吹かれて、にゆかなければ、その先は普通の生活なので その繰り返しながら発生する風の地点。送風の生起される場所が好きで、 それでも同じく普通の生活の繰り返しながら、叡智を捨てる所にいれば 叡智を捨てて風の起こ…