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6月, 2018の投稿を表示しています

オリジナルに湧出する無意味な情熱の,さながらの脱脂粉乳

障壁はオリジナリティに溢れ,さながら無意味。有意義で無意味な そんなあわいに居るのだから,意味とゆうモノの定義は,まるであの オリジナルに湧出する無意味な情熱の,さながらの脱脂粉乳の後味で。 無意味な怒りのエナジーも,何かの原動力になるとはナンセンスながら ある意味の活用できるエナジーには変わりない点で,それは真である。 そうゆう夜には,イザナミの大谷崎と,イザナギの太宰文学の対比に, 自然と受容さるイザナミへの傾向へ頷いていってしまうのだから,その ながれに任せる自然体の遊戯は,あながち渓流の水の源へ辿る旅のよう。
つまりは,怒りは必然的にイザナミに連れて行ってくれる水先案内人で,
水色のヴェールに包まれた丘の上には,そうやって霧のかかって,あるいは
イスキリでもある太宰の弔いに,イザナミの大谷崎,ヘロディヤのA.フランスの
2人は手を取り合って巡礼の路を開いている。西のアナトールは歌い続けて
東の大谷崎はカタコトと,炊事の手を休めない。こうやって,一冊に含まれた
イスキリの物語をめぐって,若い女神の精神は,ひたすらつづけて弔いを行う。
なので,ヘロディヤのスピリチュアリティは,ただただエスニックな歌の響きを
奏でながら,それらを周囲に耳にし傾けながら,その懐かしさにようやく瞑目する。
弔いには,それぞれの想いのあって,アートとはクリエイティヴィティながら,
それは,切ない舟唄である必要のある。それは,東西においても女神の共通項である。

女性性と男性性と言っても,それらは性別に関わりなく混在してテーマとされる性質で 基本的に創世記の話などに溯れば,女性と男性の,受容と単純の2性質に,別けられる そういった静と動の対比。また,そうして,植物の生態上と変わりなくも,その仕組は, 遺伝子上特質の変質なく継承され続けるとゆうシステマチックな発明の歴史をかんがみて それらはもう,革新的な不朽の自然そのもの。こうして,それら陰陽の混ざり合う時に, 夕暮に茜の浮かぶよう,また東雲の色の発光はもう,すでに曙光とは言え誕生している。 こうして夜半にも,デカフェの珈琲豆を挽きドリップできる心地は,苦い一滴を啜って, 歴史の上では奇跡をみているとしか言いえない気概を抱く,一瞬のロマン歴史トリップ。 過去に高尚な感じでバルサムなど好きな珈琲と楽しむ詩人の夜更けに,眠れなくて苦悶し 過…

冷静さと情熱の間を昇る、辿り着くのは?

トレンドなるモノは、思考と手先の順序を揃えた流動的なるのと親戚だ。 あまり変な言い方をすると可笑しく取られるのだから、あえて流行流動。 ひとつ前の記事に、スマホで更新することの楽しみを秘めて、落書きを するような趣味の嬉しくて、ダダダ、ゾゾゾッと書き連ねたのが、一気に 消えて痛手を感じてしまいながら、もう一度スマホ更新を試す思考態。 アプリですると、消えてしまうのがアイテテだから、もうメモ機能に 貯め込んで、それからアプリに貼り付ける方法を試みよう、と算段する。
こうゆう手先の思考が最もクリアになるのは、いつも趣味は手先なので。 情熱は芸術とヒステリクスに結びつく要素であって、僕はそれが苦手だった。 思春期より、そんな情熱と戦ってきて、あるいは敗北がみえていた。とゆうか もう敗戦に取り囲まれていた。取り巻かれて、自分はヒステリーなのだ。と そこまで、侵食されていたかもしれない。そうして、ある免疫代謝みたいな、 思考する嗜好の傾向みたいな、何だかエロティックな情熱みたいな雰囲気の だんだん剥がれて離れていった頃には、僕の中の喧噪の聴こえ方がちょっと 変わった気のしたのだった。それは、静かさの平凡が訪れた、間際の夏の夜。
こうやって、思考する指先のタップによる動きに、運筆などを任せて、 思考する冷静さによって、不安の情熱を追い返してしまおう、とゆう 遊びをいつもしていたいのだった。虚栄心はかくもシンプルに満足する。 あえて、思考は情熱だろう。とも言えるはず、だが。上澄みの珈琲は こうしたところには居ない、冷たいコクさえも含んで、画面にタッチする 嗜好性の高いフェザーな指先なのだ。ヒステリクスより乖離した静けさ。 こうして、珈琲によりリラックスし、そうして運筆によって心を満たす。
エロスと呼ばれる、純粋な愛と対置される、その肉感的な愛とは、ある 純粋さも含み、それは、情熱と冷静さの、ちょうど中間地点にある、あの 異次元へのワープホールのようなのである。そのワープによって、人は きっと純粋思考にいたる。まるで、雲間に大理石の冷たい空気を感じる、 それは、ヴィーナスの灯火を持って、耀くばかりの明るさには、ただの 思考の横たわっている。これこそ抽象的な生命の誕生であり、神秘的な オリジナリティに根ざしてる、このアガペーと対置された、ギリシアの 肉感的な生命は、そこにいるだけで、世界はそのままある、とゆうのを 許してくれる。ならば、夏の…

虚栄心で物書き、コーヒーでリラックス。抽象性生誕祭。

物書きレベルのどれほどスマホ更新にて、黙々と集中できる程度か、 コーヒードリップもまた影響を受けない昨今の喧噪次第にも、静かに 珈琲豆と、湧き水と。暑熱の上にはアオコとゆうのが繁殖するので、 それは頭脳にも灼熱暑熱のどれだけか、あたまにアオコを生やす夏。 湧き水のタンク管理とゆうのが、結構大変で、その緑の藻のような あれはアオコと呼ぶらしい。いいや、きっとコーチング皮膜と言った それらは、山里の酵素養分であるだろう。もう気にせずに生やしたい。 そうやって、頭脳にも皮膜に暑熱喧噪の煩わしさも消えて行けば、あとは 虚栄心によってブログを更新し、リラックスには豆を択んで、挽きながら ドリップもして、利きの良い薄くて呑みやすいコーヒーを淹れるばかり。
絶望は、希望に対してショッキングな顛末の後に、やがて静けさを 求めさせて出来上がる、不思議な大人じみた表情に違いないのだった。 豆乳で割って、焦げ付いた豆を淹れて呑むウーロンドリップ珈琲豆乳。 薄いのだけど、そうゆうのがショックを癒すのに、丁度良い心地よさ。 心地よさは、概して希薄さの上で成立するリラックスもそれ故にあって 何か良く分からないけれど、線虫のようなモノが、右側頭葉の英語で Domestic Property野とでも呼ばれる所には棲まう夢をずっとみていた。 この線虫をYEAH虫とでも名付けて,最近になって楽観視できるように なったのは,この虫は,芸術や情熱の源泉にもなり,喜びを産みだすとゆう 厄介な両面性を備えているがために,そちら寄りに行っていいのか,を この頭脳に棲まう同居人と常に駆け引きしていたせいでもあって,ここには やはり訣別して,何にも淡味な薄い珈琲に自分を準拠させられる所まで, 遣ってこれたとゆうことに尽きるはず。薄い珈琲に,生物と画する,まるで 鉱石精神とでも言えるような,アロマティック・タンニンポッドのような, そうゆう抽象的な陽だまりの陰翳を啜る心地を,そこにみる気のするのだった。
さらにはその抽象性において,話しをすすめていきたいところなのだけれど, あまりに,十代の頃より三十年選手くらいの感じで,この人間性の熱い所と 潔癖に付き合ってきた分,当然に感じる情熱を,YEAH虫のせいにしてきた感じ, これはあまりに辛いモノがあって,精神的にはちょっとヤバいのかもしれない。 現に,やっぱり中性的で,フェミニストに偏る所と,ヒステ…

ランドスケープ、青空。お茶をのむ

暗黙よりも発言の優先される昨今。ロゴスにおいては、行為するより、我慢してじっとしてるほうが影響力の強い場合がままあるのだった。 呪いを解いてくランドスケープ時代。たぶん、夜明けはそんな感じ。 精神性の目覚めは、丘に現れる朝日のかんばせ。時代は時間そのもの。 お茶を啜って何をか、口ずさむMoanin'の、夜明けは邂逅する時代性。 Shakeするより、さらにアイシングして溶かして行く、自然乳化作用。 発語されたモノと、ロゴスの関連は裏腹であるとゆう表現のイロニー。 夏の始まる印象のさなかには、ダンゴムシの転がり始め、蚊は掌中に わざわざ飛び込んで行けば、燃料を盛んに費やす祝祭なのか?夏は、 生命の祝祭で、その生々流転より、輪廻転生。いいや、絶対矛盾の 起承転結のない清濁併呑渾然一体。玉石混淆の生命とは憚りながら この、祝祭は、わざわざ開く必要のあるならば、それはエナジー循環を 生成してはながれてゆく月の満干にも合わせて、ただ花鳥風月山紫水明。 では、それらエッセンスは石油にあるのか、と言えば、そうなのだろう。 現に世界を支えるこの唯一の情報エッセンスを石油にみれば、植物精製の アルコールを摂るように、ながら自認する恍惚の夜明けに、酩酊由縁の虚空に あるのか、忘我し帰化するイーゴの宇宙変遷。またの名を幸せの旅程など、と。 ランドスケープ、青空。お茶をのむのは、そんな感じでゆこう、呼声するので。


ファスティング傾向は、誰の精神性にも隠れてる指向だろうが、また芸術グルメの 果てしなく情緒の融け出すあのグラウンディング地下ベクトルも存在する感情では、 その上下閉口する、清浄さ、堪能あまりある交互の昼夜一転には、まるで、あの、 それら感情的には放下してしまいたい欲求低次元の諸々暑熱に対して、蚊を回避する そんな他愛のない目的によって閉め切る空調屋内によって。まだまだ、事足りない 情報賛歌事情によっては、ロゴスを産みたいのだ。情報のロゴスイロニーを、ただ 生製したゆきたいのだった。こうゆうことに関しては、科学に恣意的に関する気持の マイナスイオンとか腸活とか、ハーブティなどの豆乳オーガニックなどなどの、 基本的に多いに役立つので、呪いが解けるのは基本的にその回復傾向の空腹の、 二重にかさなったこの世界で、裏腹に作用出現するイロニーとリアルの開閉を さながら、リキュールをロックでのんでいるあの姿にあわせながら、やっぱり 氷による…

業の泉へと向かう身体の、ラッセルと太宰に寄せて

ラッセルは、聖パウロのようで、太宰はイスキリのようで。
だんだん、平和への祈り道が、業の泉に到着しそうな予感がして、 潔癖症なくらいの綺麗好きなのが、人間臭さとゆうか、仏の道などと 融和して行きそうな気のする、不可思議な強靭さを呈している例え頓挫しても 身体は、もっとマジカルなパラレルトリックの物質ベースで核融合する、 そんなカルマベースで行ける世代的にも壮年期である、現代生活ではある。 その業の泉に予め潜ってゆけば、クリームチーズのしっとりパンを食べて 抹茶の豆乳ラテを片手に吸いこんでいるこの孤独なポルターガイストに、 あるいは、怖いは好きの裏返しと言うのは、殺意さえも愛情ではあるが それに対して、業の泉に融けこんでゆくのが、ひとつの世相ではある。 こうして美女と野獣をみながら、眠りに親づいてたまの孤高にある夜中。 ロマンチックにあればまたも安心するが、しかしながらも文学にあっても まだ安堵の嘆息ついてはいられもするのに、ソファに横たわりながら、 空調を点けて念じることのあるならば、やっぱり安寧はここかしこの 瞑目してみえてくる、あるいは知性はラッセルにも、太宰にもある。
鋭意において、横になり手に余るほどの情報を世界は2つか3つあるのか、 この希望ともとれる情報存在は世界を意識すれば動じて溢れ出てくるのだった。 ロバは、四肢によって人間と同じように体幹を感じているのか?とは言えば、 幸福論を読むラッセル的知性は、太宰のアフォリズムによってもまた違う感じ を抱かせている。この感じは綺麗なのと、情熱的な愛のカルマとまた似ている 希薄で軽やかな明度の高さと、低部にありながら、渾々と湧く泉の如く、 頂上と伏流水の部分には地点的に密度は違えど、空間も時間速度も違えど、 知識として共有している何かの輝きのあるのだから、例え山頂と麓にでも 星はみえるのだから。この星とゆう知性の知悉するファンタジーを大切に してゆこう。これは、いつも知識はこの魂にあるゆえの共通地点。なので その叡智によって、wisdomを捨てるとこまで行かなければならないのだ。 Let it beも、風に吹かれて、にゆかなければ、その先は普通の生活なので その繰り返しながら発生する風の地点。送風の生起される場所が好きで、 それでも同じく普通の生活の繰り返しながら、叡智を捨てる所にいれば 叡智を捨てて風の起こ…

僕の中の三重の太宰と、野草酵素を呑みながらみる三日月と

イザナミと、イザナギ。それらは、太宰と大谷崎。赤鬼青鬼と役行者。そうして、芥川氏と、三島文学の影に、いつも佇まう太宰のイロニー。 それは、ヒューマニズムといった姿でもあり、またの名をイス・キリ。 聖母マリアのヘッセに、聖ヨゼフのトーマス・マンの裏には必ず、 イスキリの太宰のいる、そんな三重苦にある恩寵の姿は、三輪明神なのか? 野草酵素を呑みながら、有機農家さんの教えで摘んだ春の酵素を、ちまちま した感じでしたためながら、新月の影までみえる、三日月に謝々と言う。 物語はあまりにストーリー化すると、写真にならなくなるのだし、例えば UFOをみたときなんて、物語とゆうより、あっけにとられてむしろの 平然としている自分のいるのは、そうゆう物なんだ、と然々然々。そう、 永続するデニム生地や、帆布などに魅力を感じて、綾織りらしいと 気付く夜辺には、藍染もそうだけれど、すこし脆い部分に強さを宿すのを そうやって、自然共生のうちに培ったメソッドのある。永続する、その 鎮静と、国境を超えるまでの足の痛みに身体の解体してゆく感じのあれは 静寂だろう。月の灯りに月の影までみえる夜更けに、今度の週末は、あの ヒューマニズムにより、もっと擦り切れた遊びを求めて、ドライブに専念。 どの道が好き?確かにそうだ。その土地の酵素を吸うとゆうのは、何よりも 永続するとゆうので良いのだった。とにかくも、静かな三日月に感謝して。
机の横には、取り寄せられたバナナの箱が、ワイルドに置かれて、 段々と深くなってゆく暗さのなかには、すこしの知恵と、ファンの廻るリズム あとは虫の音もそんな風の感じのお気に入りのようだった。すべて月のお陰で そうゆう、不可思議な恩寵に、このひと時を有意義にすごさせる静謐のさなか 狂気は半分、正気をまた残り半分持っているのだから、魅惑的であって、その 蠱惑するほどの、正気の侵食された姿に、怖ろしさよりも美しさを想い出す、 梅雨の間の静けさなのだった。アーティストは、そんな蠱惑する所を持って、 よき意思と、よきスタイル選択をすすめて、さらにカレースパイスの、あの 渾然一体と求むる所を、完遂する何とも酩酊とは狂気となかば友だちなのだ。 しずかな瞬間のつづくこの夜更けには、ひとことの意味をさがすのだろう。 意味、生活。暮らしの手段。なりわいのうちに、継続してた、時間の連続は こういった静けさのうちに姿を浮かばせて、それは僕にとっては本当の狂気 …

敗退しては芽吹く麦の種は、それらが産み出すカオスなので。

精神構造をつくりだしてくれる、サディズムの黄昏やそのエクスカリバーの宝剣みたいな鋭さの訪れには それをやはり恩寵として受け取ろう。フィルタリングは 精神の待受には要らないのだった。ポエジーは善意の表れ、 けれど、サディズムの訪れに、もう詩性より抜け出して 乱文調には、むしろのつくりだす創作の継続性に、成長の 現れ方を見てとる、それの非常に大事なのだった。それは フィルタリングしない精神姿態の、あの自然体で充分な、 神性を宿していたのだ、と。構えないのと、力まないことに 神は宿る、以前にそこより爾来居たのだ、と気付く所存に、 フィルタリングしなければ、サディズムの黄昏ですよ。と、 わかっています、光る刃のように居ることが、この世間で。

霊能者、とか。シャーマニズムにおける虹の橋を渡って、 これが、精神姿態に待受を設けない、全体主観よりも、さらに すすんで、世間の一般に対して身に覚えのない所見まで辿り着いては けれども、詩性感情の情緒情感より入り込んでゆけば、 そこには朝方に、サディズムの訪れた思春期の黄昏には、きっと 真実の含まれていた。そう気付いて、もう遅い。十余年の巫病みたいな 時期をすぎて、やっと詩情を感じ取って満足いくような感覚には まだ、乱文調の創作意欲に黄昏への憧憬をくすぐる何かの酵素霊の 自然一帯のなかに含まれる、情景に根源性を深めるのなら、 それは酵素霊と名付けられもするクリエイティブとゆう前進する 車輪の轍をみるようにガラガラゴトゴト、水牛の曳くあの音色に 一度は興じてみたい。あの、牛の角に突かれてすすむ、如来の行進には ユーモアとペーソス、すべて含まれて悟る心地に諧謔とは、またの その名を哀切と言い、合わさったものをイロニーとゆう皮肉には、 結び付けられないものか、日輪の水没すれば赤く焼けるのは、それは 酵素霊の紅潮する、彼の意識には皮肉をみた所に、またあの 崩壊のなかに学びをみるといった、叡智の先触れを察知するのだから。

珈琲の生豆を発注しては、今朝の一服には間に合いそうもない、 そんな時にも、こうして感想をしたためる心地。フィルターの なくていいのだ、と思えるうちには、僕らは朝の酵素に浴して、 心のガードを抜かして、攻撃性も厚い盾も、または不安な準備に 気持ちの安らぎを守らなければ、といった必死なヒューマニズムの 囲いも、すべて廃して僕の酵素霊をさがしに、キッチンへと向かい ただ、朝方の口寂しさの一手を、豆乳…

すんなりと快く、イメージは秋の日の香りのように

湧水を汲んできて ひと安心する
焙煎するデカフェの珈琲豆のホッとする
炬燵をしまってしまっても まだ暖かいいつものように ウーロンドリップ珈琲豆乳を
汲んできた 湧水によって淹れる夜には
もう寒くもないので 一枚板のお爺ちゃんの机の
スースー通る 足元の風の心地よく生活を成り立たせるひとつひとっつの
優しさは そのまま豊かさ意識へと結び、
切なさより以上の 強い 安定へのステップを
ひと刻みずつ 記憶させる
豊かさとは 優しさのことなのだこうやって日記はポエジーを含んできて
大事なことは少しずつ練り上げなければ造られず
拘泥して 舞い上がるのにも飽きてようやく出来上がる
切なさは悲惨さの産む副作用のようなカサブタみたい
それはやはり必要なモノでもあるし
それでこそ クリエイトされる犠牲と朝焼けの意味とビスケットを摘まんで カステラを買って帰って
仮眠の前などは食べない方が 胃のもたれるのは必至
それでも 珈琲は欲しい すこし氷を足して一気にのむ眠気の晴れた辺り空腹の時間は快癒の知らせ
深く暗い海よりあがってきて吸い込む地上の空気は
新しく鮮やかに彩られた空模様の 天候だけでなく 空模様の
ビスケットはどこだろう? 摘まもうにもまだうつろクジラのようには食べ続けられないので
空模様には 雲のような あの大食いのかたちをして
希薄な体積をあらわしてるので 希薄とゆうか 息の切れる
そんな夢のなかでは呼吸をしながら潜水できるのだ
こうゆうふうにして 珈琲をのもう救いは喫茶で 自然採取の何らかの 足元を通る風の
スースーとしているイオン系の感触なので それから通る
感傷にひたって やっぱりここを通りすぎるのは 風とイオン
風とイオンは 趣味と思考 風とイオンは サイダーと飴のこと思考するとき 四股を踏む 眠る前には 歯磨きする趣味
雨のなかには佇まえず しかしながら家のなかの 雨のごとく
雨模様 雨模様 そうなのだ 傷の癒えるそんな頃合いには
心模様 空模様 雨模様 思考様々 趣味様々 飴様々
ビスケット カステラ デカフェ珈琲 歯磨きの前に珈琲のんで 雨のなか 歯磨きをする

透湿する思考の由縁も夜風緑風。梅雨間も香る

天日塩を振り掛けたビスケットをお土産に頂いて,同時に
釜揚げシラスも頂戴したのだけれど,何だか切ない梅雨空。
美味しいモノを食べすぎるのは自然に胃もたれをするのか,
それの切なさと言ってもいいのかも知れないのだけれども。
早く暖衣飽食習慣よりも薄着で笑っちゃういつもの清貧思想へ
貧乏性や器用貧乏とは言っても,そういった”切なさより淋しさへ”
果敢に”切なさより淋しさへ”向かってゆきたい。それは夏の準備。

祖父母の家へ引っ越してから,屋根を渡る猫や猿のあいだに混じり ポルターガイストや,また宇宙系の印象までも相まって,そこは 自分の気が振れたとゆうより事実みたく現象のリアルさの強いため なぜかしら呆然と眺めている感の強いこの五年間くらいだけれど, 最近,夜のあいだに勝手口の扉の開いたりした気のして,気のせいか とも思うし,その感じで後を追って開いた棚の天井に屋根裏入口の あったりして,これが”肉体のある物質次元のリアルなのか,または 妖怪みたいな自然現象の延長線上にあるエネルギーの役割なのか?”は ハッキリしないで解らない。僕の太宰=龍馬=九郎義経であったのなら それらを三島文学=木戸孝允=武蔵坊弁慶のガイストなどの守護してる などの,そんな妄想の浮かんでくる文学青年じみて本当に自分は幸せ者。
クリエイトするのは,ある意味の役割論としての生活気質や,傍楽と書いて はたらく。の事実上対極をなす自由としてのクリエイト趣味であるだろう。 そういった芸術家精神は,自由とゆうより,もっと楽観的絶対主観によって 形づくられたクリエイター形姿ではあるのだった。自由vs.役割とは,この 対置をすれば,自由をしながら役割を持てばいいのでは?とゆう簡単な答えに 達してくるのだけれど,昨今の”切なさより淋しさへ”向かいながら,そこで 美学を構築している人間性とゆう,自由をより神秘性へ高める風潮に感じて 堅くなった肩凝りみたいな身体のコリを抱きながら,そうゆう人は国土自体を 想いに背負っているのだ,とそう思う。国土を背負う?そうだな,背負い投げ して,本当に投げきったら反転する自由と役割。本当にそう想うのは,役割とは 喜びによって活かされる生命エナジーであり,決して外部環境に縛られる窮屈な 不自由ではないのだった。反転しても良いから,背負ったなら投げ入れてしまえよ, と。
成功するなら 投…

珈琲をすする,いまや目前の枯木立には碧

珈琲のカフェインレス生豆を送風オーブンであぶって頂く心地は
スーパーなどで購うよりも良い豆を択べるので,何ら普通の豆と,
変らず,いやむしろそんなことより更に燦然と美味しく頂ける。
コンセプトで生きてきた。ずっと,ファンタジーの中に浸かって,
生きてゆく事を,美しさのうちにみるのだ,と暮らしてきたのだ。
コンセプトのある雑貨店は素敵。だとか,料理もまずはコンセプトを
優先して,一致するはずのない夢を抱いて,生活を試みてきた。きっと,
このうちには成功のした料理。コンセプティブな例もいくつもある,いや
むしろ二つしかない。珈琲はまずひとつ。最近は,もうひとっつ。ジャムを
酵素シロップとして作製してみた。減農薬の苺を1.1倍の砂糖で漬けて
非加熱で苺酵素を作製。地元の小規模農家さんのヨーグルトを,一緒に
付け合わせに頂いたら,ミルク&ストロベリーは夢のようでも,本当に
初めて500パックを一度に平らげてしまった。これは,夢とリアルの一致
している。コンセプトは概念ともゆうらしいが,概念は美しくなければならぬ
はず,で。しかしながら一般化して現象になりえぬ耽美な美化をされるのだが,
懐妊の意味を併せ持つコンセプトの語義に対して,夢とリアルの一致する料理。
ないし体験など,基本的に具象として持つのならば,それはコンセプト。

夢をみて生きているのは,哀しくもあって切ない。中也や朔太郎氏のポエジーは
いつもそんなとこより来ている。立原さんのような感じになるとちょっとどこか
活動家のようにみえてきて,男らしく何故か哀しさより悲愴めいて感じられる。

いきているよで どこかうつろ
ヨオロッパ風に吹かれていきてゆこう と
いきているよで どこかうつろ
珈琲すすれば 異国情緒な庭もちかく
いきているよで どこかうつろ
ツツジのジャムをなめてれば 熊にもなるさ
いきているよで どこかうつろ
情熱には 悲愴の陰と器 ベエトオヴェンのゆめ
いきているよで どこかうつろ
青空抱えて 旅に出るのは ステッキ一本
いきているよで どこかうつろ
(そうゆう加減で いきてゆこうよ)

駄作だ,とはいぶかしく,試作は始めて結構たのしいのだった。
ソナタは熱情だったし,熊にもあう(逢う)さ,のほうが
良いかもしれない。当たり前に,最後のカッコ内はきっと,まず
添削対象にあたるだろう。

珈琲をすする,いまや目…