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季節を描写するのみで良い,そんな甘露の雨粒と,上がった後の煙。

人文的な要素のないと言葉の発想も浮かんではこないもので,なおさら
まだまだメモしておきたいことのありそうで,けれども,もうこんなにも
季節を描写するのみで良い,そんな甘露の雨粒と,上がった後の煙。雨煙に
合わせて,ヒーリングのアロマ・ミュージックなる分厚い音楽を掛けながら
そのブランケットにくるまれて温かい心持ちをして,人文的より,また素描。
ああいう荒野にそっくり掘り込まれた教会遺跡群などは,もうイニシエートの
それら現代のクラブシーンだったのだろうか?僕はその際,家で,お茶を啜る
あのインナースタイルの静かなもんだったろう。なんて,基本的に動くとゆうか
家の中を満たすひとつの酵素で生きていたい。生活の匂いは,家の樹々の香り。
肉食には,昔の突っかかりを感じて,なかなか馴染めないけれど,元気は出る。
美味しさに賦活されて,文化的に色々楽しめることを良しとしては,けれども
今となっては,雨に巻かれてウッディな温もりに浸透されることの,浄福なので。


咳や熱風邪も,一度肺炎になった?と感じ始めたところで,一気にスノーマンの
夢を見て瓦解するように退けて行った。その余韻に燻製チップのような薫香の,
ハートあたりに漂って,それはまた幸せな健全さの回復を予想させるので,納得。
燻製や北国のイメージは,やがてその厚くなった肺や気管の様子を想像させて,
それでロマネスクなのだった。北国は,やがて魔の山も克服して,こうして篤く
人のこころを暖めてくれる。けれど,だからといって,こうゆう時に何かお肉食を
試みたくなる。本当に,篤い人生を効果的に造りだしたいのだ。むしろ,厚く強く。
豚肉の小間切れを,醤油麹とみりんで,お酒を加えながら,すこし甘味噌など足して
玉ねぎ,白ネギと共に炒めてみたのだった。奥さんは仮眠中なので,起こして頂ける
ような料理だとは思えないので,ソファの近く,炊き込みご飯を解凍したのと,側で
摘んでいた。明日は英国のロイヤルウェディングだと,ニュースでしていて,思わず
感涙してしまい,僕も不可思議ながら,少しく傷付いた思春期に,感情移入しては,
いかばかりか砕けた心持で経過を感じていたので,何だか,ホッとして,うるっと。


すべてお肉食で感情までも呑み込んで,取込んでしまえたらそれで良いのだけれど,
切なさや,哀しさ。鎮魂の想いまでは,そんなに簡単に解消していったり受容できる
ような,そんな簡便な対応はできない。すべてそうだろうけれど,哀しさに関しては,
殊に別に要素を異にする。そうゆうことに対応して,ずっと哀しんでゆくのがこの時代。
我ながら,我ならず。それで良い。のだけれども,やっぱり共有しているのだから,その
我は,わたし=あなたの,我である。肉食によって,元気になれば解決する事ではない。
一度,灰塵に覆われて,傷をいやす消毒スプレーみたいに,白い煙の温かさに包まれて,
すべてのトラウマを治していきたい。傷をいやす,これは,ある意味,白昼夢みたいな。
不思議だ,不可思議。夏の近づいてきて,ムカデのいるかと思いきや,いなかったり。
そうして,一瞬間眠りに落ちたと思いきや,家じゅうの扉の鳴ったりする驚きの発生を
はっと目覚めて,起きているときは起きている際に,アイデアを思い付いたかと言えば,
それが無頓着にも奇想天外だったりするので,段々意識的にインスピレーションのほうへ
傾いて行ってるようである。心配はしてない,喜びと安堵に包まれて,叡智の癒しへと。


季節を描写するのみで良い,そんな甘露の雨粒と,上がった後の煙。すべてを呑み込んで
あらかたの自然描写は血と肉,精神と心理へ換わって行って,それで,決着してしまえば
それで良い,とはショパンの”雨だれ”などは,永遠不朽の雨降りを持続させているのだ。
G.グールドのショパン弾きでなかったことは不可解ではない。弾かなかったから,とは
言え,時に残っている音源を確かめてみれば,弾いてはいるが,哲学的な彼の精神性には
背負いこんだ質疑に応答する荷物によっては,ショパンはあまりにミニマリストだった。
ダイアナ妃の思い出には,Elton Johnによるマキシシングルを購入してよく聴いた,と。
そうゆうのは,いつまでも残る。丘の上にエクスカリバーのように彼女のお墓は眠り,
いつになってもまた抜けることに到らない,そんな思い出の剣を宿している。涙も出る。
哲学性は,思い出のくび木だ。そこに,くさびで打ち込まれた伝説をいつまでも宿して,
この輪廻して,魂はずっと,運ばれてゆくのだ。これは運命なのだった。なので,もう,
あまり考えないようにしよう,お祝いの日だろう。嬉し涙で構わないのだから,こんな
病み上がりにロイヤルウェディングの中継をゆっくりみられる余裕のあればそれが良い。
ファミリーはすべて幸せで,そして兄弟の名案も計られて,素晴らしいウェディングだ。
これ以上に良い思い出はない。明日までに夏風邪をおおかた済ませてしまって,厄介な
フェアリーのイタズラには,もう目もくれず祝祭に興じてみよう,それは,幸せなのだ。



こちらは如何?

解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを

足元のゴキブリをきちんと処理できてからでないと、ものごとの全体的な オーガナイズなど、できたモノではない。かと、言って大きく自然は常に 世界にあるのだから、とりもなおせば、オーガナイズすなわち全体性とは 自然相手に行う人間の営為と言っていい。これは、自然相手の常識を壊す と称しても良いことで、その人間の中の自然、知性や、また、昆虫類の 自然と呼ぶにふさわしい集合意識的な流麗なエナジーに対しての、技術。 意志と呼べば、意志である。かと、言ってワガママには振る舞えない、 無意思の意志である。最近、穀物の喉元を通らないのは、こういった 自然への意志が挫かれている。むしろ、そういった意図を失うべきな 自然バランスの崩れを食欲不振や、情動麻痺に親い感情に観て取れる。 なので、その解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを起こして どうやったら貧血にならず、穀物も避けてよければ避けて通りもして この栄養失調との闘い、いや付き合い。にしても、快く自然のなかを 通り過ぎてゆけるか。酒でもない、薬でもない。とりあえず、イカの つまみでも摘んで、その勢いで、お豆腐、納豆。そうめんをすすいで 二束ほど掻き込んだ。これが精一杯だ。拒食の強い癖はないだろうが 温かい調理など食べられたモノではない。ましてやこれは過覚醒代謝 でもあるだろうが、意識を上向いていられる分、夏の大気は天国へと 持って行かれそうな暑い上昇気流をたずさえているのだから、すこし グラウンディングするように、穀物の製品も頂くべきだろう。夏の夜 昼間はラマダン期間のように食を細めていた自分の夜食に祈りの姿を みせて冷たい食品ばかり頂くのだから、自然の乱れとゆうよりそれは 自分の乱れである。そうして、呆然と朝を迎えて、鳥の声は盛んだ。

生命システムを収束させているようにも感じるのは、真夏の景色だ。 乱れは美しくもあるが、それは整えられた収束するシステムの過程を まざまざとミクロに見ているのだから、そう乱調の美を感受するのか とも思うのだった。いわずも全体性のオーガナイズは自然への技術的 意志の欠如のうちでは成立せず、そこには知恵の要る知的作業の求む らく、あの野草の薬壷へ手を突っ込むような感じで、よもぎ餅を摘む 大きな頬っぺたで味わう春の蠢きを再現させる作業を必要とするのだ。 夜食の後でアイスバーをたべた。空になったバーの木の匂いは象徴的に その感慨を現している。きっと、自然の芳香を実際…

珈琲プレグナンスとゆうは、地球号温室にて培う

さもなくば、右側頭部の情欲野ともとれる情緒的ヒステリクスは肝要。 男性性が這入りこむので、情念はヨコシマなアーリマン的要素をあらわすので、 いたって自然理にあれば、そのヒステリクスは肝要。アーリマンは赤鬼。 ともすれば、男性性を太宰など、イザナギ神話にあてはめまた、 女性性のイザナミ陣営を、アナトールと芥川氏のフレンチな文学に例えて、 大谷崎=イザナミ女神の文学性へ返すように、そうすれば、 自然体の情緒的ヒステリクスは肝要なのだった。能面が、般若に変るのは 黄泉比良坂において、三島文学=菊理媛の仲介役によって、その岩によって 光り輝く太宰のイザナギ男神的精悍さを、情緒の乱れによって見送る時に。 怒り狂えるイザナミ女神の発端は、男神の一枚岩の正義がわがままに響く その呆然とする知性に対しての怒りであって、それは何か裏腹への怒り。 表裏一体こその静けさであるのに、表面的な反射によって判断する誤りに。 この般若の相貌には、ひとかたならぬ静かな暮らしへの想いがあってこそ。
正しく、情念には破壊を浄化してゆく知恵のコントロール技術の含まれる。 そうして裏の循環摂理はなりたっているので、光りによってすべて消す といったようなのは、戦争経済と何も変わらない志向であって、情緒的な 日常の天然湿度の中で解決する身体由来の経過のあるとするなら、それは 情緒の情念的ないわゆる情欲循環コントロールによってしか、その常温は 保たれないのだった。般若は常に嫗である。いや、そうあるべきなのだ。 そうやって、いつも怒りに枯れている茫々と寂寥とした感慨を現すのが、 情念にはふさわしい。計らずも男性性は遠く彼方に押しやってしまえと、 巌に蓋をされた、彼らの国は、もう鉱物的なスピリチュアリティにしか、 含まれず囲われ、だき入れられてはいないようだが、そこに、男性性の 隔絶とした、中和され赤青に別れた大地と空との、水と風との調和は 有りえないのだった。珈琲プレグナンスとゆう造語を嗜好しだすのは、
そこに、情緒ヒステリクスの地球温室においてはぐくまれる暖かさの中で 結果的に正しさとは受容するのによって見出されるモノの多分に大きい、 そうして、正しさとは、ストレートさ素直さ一面性のたぐいにはなく、 多面性を受け容れること。情念コントロールは情欲循環的な何かでは、 そうして破壊を調整してゆく暮らしの技術におきながら、戦争経済とは 一線を画す技術の生活意欲として、裏側の…

業の泉へと向かう身体の、ラッセルと太宰に寄せて

ラッセルは、聖パウロのようで、太宰はイスキリのようで。
だんだん、平和への祈り道が、業の泉に到着しそうな予感がして、 潔癖症なくらいの綺麗好きなのが、人間臭さとゆうか、仏の道などと 融和して行きそうな気のする、不可思議な強靭さを呈している例え頓挫しても 身体は、もっとマジカルなパラレルトリックの物質ベースで核融合する、 そんなカルマベースで行ける世代的にも壮年期である、現代生活ではある。 その業の泉に予め潜ってゆけば、クリームチーズのしっとりパンを食べて 抹茶の豆乳ラテを片手に吸いこんでいるこの孤独なポルターガイストに、 あるいは、怖いは好きの裏返しと言うのは、殺意さえも愛情ではあるが それに対して、業の泉に融けこんでゆくのが、ひとつの世相ではある。 こうして美女と野獣をみながら、眠りに親づいてたまの孤高にある夜中。 ロマンチックにあればまたも安心するが、しかしながらも文学にあっても まだ安堵の嘆息ついてはいられもするのに、ソファに横たわりながら、 空調を点けて念じることのあるならば、やっぱり安寧はここかしこの 瞑目してみえてくる、あるいは知性はラッセルにも、太宰にもある。
鋭意において、横になり手に余るほどの情報を世界は2つか3つあるのか、 この希望ともとれる情報存在は世界を意識すれば動じて溢れ出てくるのだった。 ロバは、四肢によって人間と同じように体幹を感じているのか?とは言えば、 幸福論を読むラッセル的知性は、太宰のアフォリズムによってもまた違う感じ を抱かせている。この感じは綺麗なのと、情熱的な愛のカルマとまた似ている 希薄で軽やかな明度の高さと、低部にありながら、渾々と湧く泉の如く、 頂上と伏流水の部分には地点的に密度は違えど、空間も時間速度も違えど、 知識として共有している何かの輝きのあるのだから、例え山頂と麓にでも 星はみえるのだから。この星とゆう知性の知悉するファンタジーを大切に してゆこう。これは、いつも知識はこの魂にあるゆえの共通地点。なので その叡智によって、wisdomを捨てるとこまで行かなければならないのだ。 Let it beも、風に吹かれて、にゆかなければ、その先は普通の生活なので その繰り返しながら発生する風の地点。送風の生起される場所が好きで、 それでも同じく普通の生活の繰り返しながら、叡智を捨てる所にいれば 叡智を捨てて風の起こ…