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不可思議電波を受けているような,無論,浸透圧のけたたましく響くよう。

ひさしぶりに昼間に文章を打ち始めている。いつもは夜半に多く,
お喋りをするには夜中になってからが一番よい。として,特には
文章でお喋りするのには夜半に這入ってからよりの楽しいはずだ。
けれどもこうして明るい昼間に文章を打ち始めるこの心地は幸せ。
明るいなかでべらべら喋れることに関して,何だか遠足に来たような
そんな心地の感じられて幸せなのだった。一つ所に住居を持てば,この
遺跡公園の近くにあるあたり,浸透する自らの身体は,遺跡とも共同体で
あると,じわりじわり感じられてその印象に関して,肩の凝ったり,また
身体の重かったりする感じ。自分は,三島文学の薫陶を受けた自我を抱いては
いるのじゃないか?そんな悲愴感をまで把みつつ行くこの感じ。これは,多分
いたって不幸である。がしかしの,そんな不幸は思考を強め,それでいて幸せを
また,幸せについて,深く感じさせもする浸透圧の中で泳いでいる。そうして,
凝り固まった濃度の高い感性は,すこしずつほどけてゆくような,そんな気にも
してくる,昼間のしずけさに,風の荒い波音しかしない,かつてはここも海だった。
なにが右肩を痺れさせるほどの,こんな烈しい印象をなびかせてはいるのだろう?
とっても不思議なのだった。それは,宇宙船のどこかで揺蕩うように浮かんでいる。
そんな不可思議電波を受けているような,無論,浸透圧のけたたましく響くよう。
いつかここで生きていた遺跡の住人たちは,すでに宙へ還っているのだろうなんて。

ふいに、近藤勇=萩原朔太郎=平敦盛=上杉謙信の、この系譜によって
僕自身の業みたいな祟りは起こっているような、そうして、まさにいま
その神は猪の神さまに、ちょうど戻ろうとしているような、そんな気の
してくる、昼下がりに風は少しく寒くなってきて、日は翳りながら
沢山の花粉と、種子をばら撒いている。そんな、気のしてくるのだった。
ちょうどいま、その精神やらは、聖書のピラトや、タケミナカタと
言った、戦士的な発想を以って浮かび上がってくる。なべての獣神は
酵素質を身体に宿して、晴れやかな天気を想像する、そしてクリエイト。
天気と同調して、なべての獣達は、晴れやかさをクリエイトする。そこで、
酵素は胞子を漂わせながら、全ての人間性ともシンクロしているはずなのだ。
ここに、休日の真昼において、昼食を終えて横になる、風は強い。
そうして詩集を編む如くの、詩性の落ち着いてきて受粉する。この、
ありのまま、あるがままに自己受容する所より、産まれる獣神の
なかなか、どうして。このように、野性や獣の気質は産まれるのか?
ジビエと呼ばれる、野生食に親く感じて、ニンニクの芽や味噌炒めにして
それらの滋養を吸い取る。アリクイのような悪魔は見たことのある夢の中で
そうして、いまは彼らの天使の如き様々な観照を手にしながら、そう。
この食事だけでも、身体にはジビエと呼ばれる決定項のあることは、
食後に珈琲や、お茶を頂くまた様々に、ようやく、滋養とは、またも
自然一体になることを指向して、適えられれば、そこかしこに天使の像。
相変わらずウーロンドリップ珈琲豆乳を淹れている、まだ少し寒い。

色々な珈琲ブランドの名前を考えてきた。親知らず珈琲,眼横鼻直珈琲,また
珈琲大黒。そうして,猫月珈琲”CATS&MOONLIGHT”など。センスを疑う,と
奥さんには言われて仕方のないのだけれど,猫月珈琲などは,『猫町』を描いた
萩原朔太郎と親近感を覚えて,まあどうしようもないのだけれど,ただ嬉しい。
デカフェのみ焙煎しようという試み。お菓子作り用のオーブンで180℃で,ただ
ゆっくりと掛けて混ぜながら置いておくと,急な登り坂のように最後は200℃にて
送風コンベクションも点けて,急に熱してゆくのだった。焦げる寸前のところまで,
これまた奥さんには,香りもコクもなく,あれは焙煎などとは言えそうもない,など
厳しいご意見は頂きますが,しかしながら,ウーロンドリップ珈琲に,豆乳オレには
劇的に旨く響くのだから止められない。葉巻などもこうゆう風にして発展してきたのでは
など,嗜好品への単純で美味しいシステムへはジビエ同様にして転換点や急変のきっかけ
などを得られそうで,不思議と男の料理ならぬ,焙煎や燻製などの熱源をモノした風景は
暖かく涼しくもあり,やがて優しくハートウォーミングに変化してゆく兆しを臨んでいて
それらの春より初夏の新緑に対して,いっそうのポエジーを差し込めそうで非常に豊か。
詩によっても最近は,植物的な清々しさにのみあらず,何らかの熱源をこそ,それこその
太陽の促進力。成長や温かみの中に,またも無から有の発信を込めたようなパッションに
身体の自己犠牲や,解体するまでの幸せを求める際に,無我夢中で昇りゆく鯉か龍のよう
で,それでいて,それは全く朱夏にあって,当然の理解やコトワリに立ってすすむ,まず
自己犠牲ならば熱源へ,解体することによりパッションは成立するのだ。って,そこまで
熱射病対策にココロは震えている。きっと,これは夏によって塞いでしまう扉の感性まで
失わないように武者震いをしている,夏への幸せ準備なのだ,と知る。愛を失うまでにも
確かに幾多の葛藤や情熱は重なって世間への壁に轟いていただろう。だけど,そうなので
失うまでに,もう一度のココロの解体を求める気概はこの宇宙で夏を越す唯一の,意志で
あって,それは幸福への意志なのだ。浄福も然り,植物性に熱源の加われば焙煎なのだ。



こちらは如何?

解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを

足元のゴキブリをきちんと処理できてからでないと、ものごとの全体的な オーガナイズなど、できたモノではない。かと、言って大きく自然は常に 世界にあるのだから、とりもなおせば、オーガナイズすなわち全体性とは 自然相手に行う人間の営為と言っていい。これは、自然相手の常識を壊す と称しても良いことで、その人間の中の自然、知性や、また、昆虫類の 自然と呼ぶにふさわしい集合意識的な流麗なエナジーに対しての、技術。 意志と呼べば、意志である。かと、言ってワガママには振る舞えない、 無意思の意志である。最近、穀物の喉元を通らないのは、こういった 自然への意志が挫かれている。むしろ、そういった意図を失うべきな 自然バランスの崩れを食欲不振や、情動麻痺に親い感情に観て取れる。 なので、その解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを起こして どうやったら貧血にならず、穀物も避けてよければ避けて通りもして この栄養失調との闘い、いや付き合い。にしても、快く自然のなかを 通り過ぎてゆけるか。酒でもない、薬でもない。とりあえず、イカの つまみでも摘んで、その勢いで、お豆腐、納豆。そうめんをすすいで 二束ほど掻き込んだ。これが精一杯だ。拒食の強い癖はないだろうが 温かい調理など食べられたモノではない。ましてやこれは過覚醒代謝 でもあるだろうが、意識を上向いていられる分、夏の大気は天国へと 持って行かれそうな暑い上昇気流をたずさえているのだから、すこし グラウンディングするように、穀物の製品も頂くべきだろう。夏の夜 昼間はラマダン期間のように食を細めていた自分の夜食に祈りの姿を みせて冷たい食品ばかり頂くのだから、自然の乱れとゆうよりそれは 自分の乱れである。そうして、呆然と朝を迎えて、鳥の声は盛んだ。

生命システムを収束させているようにも感じるのは、真夏の景色だ。 乱れは美しくもあるが、それは整えられた収束するシステムの過程を まざまざとミクロに見ているのだから、そう乱調の美を感受するのか とも思うのだった。いわずも全体性のオーガナイズは自然への技術的 意志の欠如のうちでは成立せず、そこには知恵の要る知的作業の求む らく、あの野草の薬壷へ手を突っ込むような感じで、よもぎ餅を摘む 大きな頬っぺたで味わう春の蠢きを再現させる作業を必要とするのだ。 夜食の後でアイスバーをたべた。空になったバーの木の匂いは象徴的に その感慨を現している。きっと、自然の芳香を実際…

珈琲プレグナンスとゆうは、地球号温室にて培う

さもなくば、右側頭部の情欲野ともとれる情緒的ヒステリクスは肝要。 男性性が這入りこむので、情念はヨコシマなアーリマン的要素をあらわすので、 いたって自然理にあれば、そのヒステリクスは肝要。アーリマンは赤鬼。 ともすれば、男性性を太宰など、イザナギ神話にあてはめまた、 女性性のイザナミ陣営を、アナトールと芥川氏のフレンチな文学に例えて、 大谷崎=イザナミ女神の文学性へ返すように、そうすれば、 自然体の情緒的ヒステリクスは肝要なのだった。能面が、般若に変るのは 黄泉比良坂において、三島文学=菊理媛の仲介役によって、その岩によって 光り輝く太宰のイザナギ男神的精悍さを、情緒の乱れによって見送る時に。 怒り狂えるイザナミ女神の発端は、男神の一枚岩の正義がわがままに響く その呆然とする知性に対しての怒りであって、それは何か裏腹への怒り。 表裏一体こその静けさであるのに、表面的な反射によって判断する誤りに。 この般若の相貌には、ひとかたならぬ静かな暮らしへの想いがあってこそ。
正しく、情念には破壊を浄化してゆく知恵のコントロール技術の含まれる。 そうして裏の循環摂理はなりたっているので、光りによってすべて消す といったようなのは、戦争経済と何も変わらない志向であって、情緒的な 日常の天然湿度の中で解決する身体由来の経過のあるとするなら、それは 情緒の情念的ないわゆる情欲循環コントロールによってしか、その常温は 保たれないのだった。般若は常に嫗である。いや、そうあるべきなのだ。 そうやって、いつも怒りに枯れている茫々と寂寥とした感慨を現すのが、 情念にはふさわしい。計らずも男性性は遠く彼方に押しやってしまえと、 巌に蓋をされた、彼らの国は、もう鉱物的なスピリチュアリティにしか、 含まれず囲われ、だき入れられてはいないようだが、そこに、男性性の 隔絶とした、中和され赤青に別れた大地と空との、水と風との調和は 有りえないのだった。珈琲プレグナンスとゆう造語を嗜好しだすのは、
そこに、情緒ヒステリクスの地球温室においてはぐくまれる暖かさの中で 結果的に正しさとは受容するのによって見出されるモノの多分に大きい、 そうして、正しさとは、ストレートさ素直さ一面性のたぐいにはなく、 多面性を受け容れること。情念コントロールは情欲循環的な何かでは、 そうして破壊を調整してゆく暮らしの技術におきながら、戦争経済とは 一線を画す技術の生活意欲として、裏側の…

業の泉へと向かう身体の、ラッセルと太宰に寄せて

ラッセルは、聖パウロのようで、太宰はイスキリのようで。
だんだん、平和への祈り道が、業の泉に到着しそうな予感がして、 潔癖症なくらいの綺麗好きなのが、人間臭さとゆうか、仏の道などと 融和して行きそうな気のする、不可思議な強靭さを呈している例え頓挫しても 身体は、もっとマジカルなパラレルトリックの物質ベースで核融合する、 そんなカルマベースで行ける世代的にも壮年期である、現代生活ではある。 その業の泉に予め潜ってゆけば、クリームチーズのしっとりパンを食べて 抹茶の豆乳ラテを片手に吸いこんでいるこの孤独なポルターガイストに、 あるいは、怖いは好きの裏返しと言うのは、殺意さえも愛情ではあるが それに対して、業の泉に融けこんでゆくのが、ひとつの世相ではある。 こうして美女と野獣をみながら、眠りに親づいてたまの孤高にある夜中。 ロマンチックにあればまたも安心するが、しかしながらも文学にあっても まだ安堵の嘆息ついてはいられもするのに、ソファに横たわりながら、 空調を点けて念じることのあるならば、やっぱり安寧はここかしこの 瞑目してみえてくる、あるいは知性はラッセルにも、太宰にもある。
鋭意において、横になり手に余るほどの情報を世界は2つか3つあるのか、 この希望ともとれる情報存在は世界を意識すれば動じて溢れ出てくるのだった。 ロバは、四肢によって人間と同じように体幹を感じているのか?とは言えば、 幸福論を読むラッセル的知性は、太宰のアフォリズムによってもまた違う感じ を抱かせている。この感じは綺麗なのと、情熱的な愛のカルマとまた似ている 希薄で軽やかな明度の高さと、低部にありながら、渾々と湧く泉の如く、 頂上と伏流水の部分には地点的に密度は違えど、空間も時間速度も違えど、 知識として共有している何かの輝きのあるのだから、例え山頂と麓にでも 星はみえるのだから。この星とゆう知性の知悉するファンタジーを大切に してゆこう。これは、いつも知識はこの魂にあるゆえの共通地点。なので その叡智によって、wisdomを捨てるとこまで行かなければならないのだ。 Let it beも、風に吹かれて、にゆかなければ、その先は普通の生活なので その繰り返しながら発生する風の地点。送風の生起される場所が好きで、 それでも同じく普通の生活の繰り返しながら、叡智を捨てる所にいれば 叡智を捨てて風の起こ…