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木星のユピテルは王者かオロチか。いままでの振り返りに三島文学

T.マンを聖ヨゼフのように置いてみて,またヘッセを聖母のように,
アナトール・フランスはヘロディヤみたいだけれど,いつも伴侶として
そうして,その木星のユピテルは王者かオロチか。いままでの振り返りに
三島文学を紐解いて,ユピテルはまたタウルスのように,虎獅子ドラゴン。
角をむいて,ひづめを鳴らしてる。平家はいまは民間のほうにあり,どちらか
と言えば,源氏のほうが官になってる印象のあり,それはあくまでイメージ上の
捉え方だけれど,どちらが良いとゆうこともない。ぼくらは二分法のうちに,
その掻き鳴らされたひずめの行方を案じて低頭に砂ぼこりへ咳込むばかりだ。
夜にはウーロン茶と豆乳を半々に割ってノンシュガーで少しずつ呑んでいる。
そんな頃合いに,どこまで行っても,この純粋な文学にあって,サド侯爵の
影をあたえて吹いている風のごとき三島さんのヨーロピアニズムと芸術指向に,
はたまた,煤をいつも被って,ミサの毎に薫香の匂いを帯びて黄金にむしろ耀く。
この敗退の一途にしては,耀きをつづけるニーチェのゆうルサンチマンと呼ぶ辺り。
低頭に砂ぼこりを吸い続ける民衆のところどころに不毛の荒野に一輪のデイジー。
敗退の一途,か。攻撃性を否定すれば,いくら批准したところで世間体は常に彼の
後ろをついて,本来の王はあなたです,とは日常にあたえられる平和は文学に。
三島文学=マキャベリズム=武蔵坊弁慶=木戸孝允・桂小五郎=サド侯爵には,
またフラ・アンジェリコの天使画の数々。この鈍いほどの重い香りを携えて,自宅には
芍薬を飾って,いまもまた鑑真香を焚いてすごす。彼の芳香には,恬淡と跪きながら。

三島さんは相当に筆のすすみの早かったように感じる。義務的にも遂行できる運筆の,
そんなようなのを,良く感じる。葉隠入門などを読んでいると,まるで演算機のように
すすんでいくタイプのリズムを感じる。むしろいつもそうだったかもしれず,無論のまた
抒情に浸ればひたるほど遅かったのではないか?とゆうには想像に難くないのだけれども
論調において,平和のために攻撃性を辞さなかった,その激しさに透徹した陽光の春めき
などは,きっとこのあたり,彼の時間の調子と合わせられる特異性までゆかないまでも,
才能のごとき調和の一手のあったから。若きサムライのために,などは,僕自身のぱかっ
と頭脳の開いた時にはことごとく濫読してしまう一種のラム酒みたいな匂いにあたる,
勝手ながらフルーティーな爛熟さ加減のある,芳醇さは感じられるのだけれど,例えば
時代に酔っていないとあんなモノは読めたのではない,とは常識の言う,普通の平凡さの
詰まらないところをはっきり認識させ,日常の輪郭は,忘我し耽溺し埋没する自我の,彼
はきっと,このあたり,フラットにはゆかず,頂きを目指してすすむべきだ。と諭してる
心にぽっかり穴の開いたような瞬間。ここをスタートして,ようやく植物性の新緑や彼の
スピリチュアリティに探りを入れる。ドイツレクイエムには,パルジファルの,神剣の
エクスカリバー。ニーチェ=マザーテレサ=ヘーゲル=J.ミルトンには,ラファエルの
天王星の照り返しを見詰め,そのレクイエムに喚起される緑風に,むしろ現実の二重性。
そうして,さて,真実は?と言ったところで,木星の長老に出逢う。ハイデガー,そして
聖バルトロマイ=メンデルスゾーンの,木星のユピテルは王者かオロチか。いままでの
振り返りに三島文学を紐解いて,まさに,私は玉座にいます。とゆうのを認めたくもなる
のは,これらは,歴史であり,動かしているのは星の運行。では?その根源は?それは,
各人の意志へ還る。それしかないのである,なので,僕はぼくで,お茶を呑みおわる。

管理も官吏も,統轄しているのは,なにぶんひとの意志の行方をこそ,統括してるので
あんまり遣ることと言えば,極力事務作業であって,オリジナリティや,意志自体の創造
経過などは,介助皆無の無論のこと。星の運行は,なので悠長にも事務的に永続性を以て
感じられるのだった。そうゆう意味で,木星のユピテルは王者的でもある。のだが,また
自由に価値を置いていると,そのポリシーを失うので,人間性みたいな季節感の美しさや
盛者必衰のごとき花鳥風月のまた脆さをもその意志に任せて二分化している。これらは,
もう,精神と物質。非物質と精神。の三角関係を行きつ戻りつして,意味と意思と崩壊を
三テーゼに任しながら循環すれば,きっとそれらは,呼吸と食事と発語の3ターンをまた
繰り返して,コミュニケーションの基幹は成立しそうなモノで。ウーロン茶豆乳を,また
お代わりしよう。そう言って,キッチンに舞い降りたオジサン天使のような映画をいつか
観た覚えのあるけれど。明日の朝仕事には気合を入れるとゆうより,ただその事務的に,
機能を果たせればそれで良いので,床拭きや,テーブル拭きなど一生懸命出来るように,
さらに磨きをかけて,半分絶望的に見詰める人生のなりゆきや,また思考習慣のなりたち
あるいは,その絶望するのは自分自身に対してよりも半ば減少してゆくように感じている
脳細胞のひとつひとつに対して,エコロジーや節約家処世訓。また,攻撃性に対する,
クリスチャニティの薫陶などは,それの一助を加えたとはいえ,その一因にはあらず,
決して,一因にあらずとゆう。なのでむしろの食習慣を換えればそれで良い。とゆうのは
自論でもあり,明白な答えでもある。先人は食を細くして,夜行性の動物などに返っては
ゆくのだろう,ソローの野生に対する人間性の呼応などは,夜風を吸い,必要なモノを
揃え,そうして培われたアメリカ文学に謝々,これはフレッシュハーブティーなどの最も
美味しい季節である,などと考える。胃腸の不活性は必ず思考を絶望的にさせる。いつも
それは二律背反しながら緑の濃く生える時節に限って,そうなのである。



こちらは如何?

解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを

足元のゴキブリをきちんと処理できてからでないと、ものごとの全体的な オーガナイズなど、できたモノではない。かと、言って大きく自然は常に 世界にあるのだから、とりもなおせば、オーガナイズすなわち全体性とは 自然相手に行う人間の営為と言っていい。これは、自然相手の常識を壊す と称しても良いことで、その人間の中の自然、知性や、また、昆虫類の 自然と呼ぶにふさわしい集合意識的な流麗なエナジーに対しての、技術。 意志と呼べば、意志である。かと、言ってワガママには振る舞えない、 無意思の意志である。最近、穀物の喉元を通らないのは、こういった 自然への意志が挫かれている。むしろ、そういった意図を失うべきな 自然バランスの崩れを食欲不振や、情動麻痺に親い感情に観て取れる。 なので、その解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを起こして どうやったら貧血にならず、穀物も避けてよければ避けて通りもして この栄養失調との闘い、いや付き合い。にしても、快く自然のなかを 通り過ぎてゆけるか。酒でもない、薬でもない。とりあえず、イカの つまみでも摘んで、その勢いで、お豆腐、納豆。そうめんをすすいで 二束ほど掻き込んだ。これが精一杯だ。拒食の強い癖はないだろうが 温かい調理など食べられたモノではない。ましてやこれは過覚醒代謝 でもあるだろうが、意識を上向いていられる分、夏の大気は天国へと 持って行かれそうな暑い上昇気流をたずさえているのだから、すこし グラウンディングするように、穀物の製品も頂くべきだろう。夏の夜 昼間はラマダン期間のように食を細めていた自分の夜食に祈りの姿を みせて冷たい食品ばかり頂くのだから、自然の乱れとゆうよりそれは 自分の乱れである。そうして、呆然と朝を迎えて、鳥の声は盛んだ。

生命システムを収束させているようにも感じるのは、真夏の景色だ。 乱れは美しくもあるが、それは整えられた収束するシステムの過程を まざまざとミクロに見ているのだから、そう乱調の美を感受するのか とも思うのだった。いわずも全体性のオーガナイズは自然への技術的 意志の欠如のうちでは成立せず、そこには知恵の要る知的作業の求む らく、あの野草の薬壷へ手を突っ込むような感じで、よもぎ餅を摘む 大きな頬っぺたで味わう春の蠢きを再現させる作業を必要とするのだ。 夜食の後でアイスバーをたべた。空になったバーの木の匂いは象徴的に その感慨を現している。きっと、自然の芳香を実際…

珈琲プレグナンスとゆうは、地球号温室にて培う

さもなくば、右側頭部の情欲野ともとれる情緒的ヒステリクスは肝要。 男性性が這入りこむので、情念はヨコシマなアーリマン的要素をあらわすので、 いたって自然理にあれば、そのヒステリクスは肝要。アーリマンは赤鬼。 ともすれば、男性性を太宰など、イザナギ神話にあてはめまた、 女性性のイザナミ陣営を、アナトールと芥川氏のフレンチな文学に例えて、 大谷崎=イザナミ女神の文学性へ返すように、そうすれば、 自然体の情緒的ヒステリクスは肝要なのだった。能面が、般若に変るのは 黄泉比良坂において、三島文学=菊理媛の仲介役によって、その岩によって 光り輝く太宰のイザナギ男神的精悍さを、情緒の乱れによって見送る時に。 怒り狂えるイザナミ女神の発端は、男神の一枚岩の正義がわがままに響く その呆然とする知性に対しての怒りであって、それは何か裏腹への怒り。 表裏一体こその静けさであるのに、表面的な反射によって判断する誤りに。 この般若の相貌には、ひとかたならぬ静かな暮らしへの想いがあってこそ。
正しく、情念には破壊を浄化してゆく知恵のコントロール技術の含まれる。 そうして裏の循環摂理はなりたっているので、光りによってすべて消す といったようなのは、戦争経済と何も変わらない志向であって、情緒的な 日常の天然湿度の中で解決する身体由来の経過のあるとするなら、それは 情緒の情念的ないわゆる情欲循環コントロールによってしか、その常温は 保たれないのだった。般若は常に嫗である。いや、そうあるべきなのだ。 そうやって、いつも怒りに枯れている茫々と寂寥とした感慨を現すのが、 情念にはふさわしい。計らずも男性性は遠く彼方に押しやってしまえと、 巌に蓋をされた、彼らの国は、もう鉱物的なスピリチュアリティにしか、 含まれず囲われ、だき入れられてはいないようだが、そこに、男性性の 隔絶とした、中和され赤青に別れた大地と空との、水と風との調和は 有りえないのだった。珈琲プレグナンスとゆう造語を嗜好しだすのは、
そこに、情緒ヒステリクスの地球温室においてはぐくまれる暖かさの中で 結果的に正しさとは受容するのによって見出されるモノの多分に大きい、 そうして、正しさとは、ストレートさ素直さ一面性のたぐいにはなく、 多面性を受け容れること。情念コントロールは情欲循環的な何かでは、 そうして破壊を調整してゆく暮らしの技術におきながら、戦争経済とは 一線を画す技術の生活意欲として、裏側の…

業の泉へと向かう身体の、ラッセルと太宰に寄せて

ラッセルは、聖パウロのようで、太宰はイスキリのようで。
だんだん、平和への祈り道が、業の泉に到着しそうな予感がして、 潔癖症なくらいの綺麗好きなのが、人間臭さとゆうか、仏の道などと 融和して行きそうな気のする、不可思議な強靭さを呈している例え頓挫しても 身体は、もっとマジカルなパラレルトリックの物質ベースで核融合する、 そんなカルマベースで行ける世代的にも壮年期である、現代生活ではある。 その業の泉に予め潜ってゆけば、クリームチーズのしっとりパンを食べて 抹茶の豆乳ラテを片手に吸いこんでいるこの孤独なポルターガイストに、 あるいは、怖いは好きの裏返しと言うのは、殺意さえも愛情ではあるが それに対して、業の泉に融けこんでゆくのが、ひとつの世相ではある。 こうして美女と野獣をみながら、眠りに親づいてたまの孤高にある夜中。 ロマンチックにあればまたも安心するが、しかしながらも文学にあっても まだ安堵の嘆息ついてはいられもするのに、ソファに横たわりながら、 空調を点けて念じることのあるならば、やっぱり安寧はここかしこの 瞑目してみえてくる、あるいは知性はラッセルにも、太宰にもある。
鋭意において、横になり手に余るほどの情報を世界は2つか3つあるのか、 この希望ともとれる情報存在は世界を意識すれば動じて溢れ出てくるのだった。 ロバは、四肢によって人間と同じように体幹を感じているのか?とは言えば、 幸福論を読むラッセル的知性は、太宰のアフォリズムによってもまた違う感じ を抱かせている。この感じは綺麗なのと、情熱的な愛のカルマとまた似ている 希薄で軽やかな明度の高さと、低部にありながら、渾々と湧く泉の如く、 頂上と伏流水の部分には地点的に密度は違えど、空間も時間速度も違えど、 知識として共有している何かの輝きのあるのだから、例え山頂と麓にでも 星はみえるのだから。この星とゆう知性の知悉するファンタジーを大切に してゆこう。これは、いつも知識はこの魂にあるゆえの共通地点。なので その叡智によって、wisdomを捨てるとこまで行かなければならないのだ。 Let it beも、風に吹かれて、にゆかなければ、その先は普通の生活なので その繰り返しながら発生する風の地点。送風の生起される場所が好きで、 それでも同じく普通の生活の繰り返しながら、叡智を捨てる所にいれば 叡智を捨てて風の起こ…