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酩酊してるような夏風邪には氷枕のサインパス。

意識的に恬淡を装って、どこかの鎮痛剤のように
サイコパスとエンパスは足して、サインパス。
それで、関門を通過するので、ゲートを抜けると
そこは業のあるなし、はどっち?多分、ないのだ
けれども、業の泉に浴していたいのは、きっと、
それが唯一に親い、健全への道である、と一度は
確信したため。しかし、その道は、そう思っても
夏風邪などを引いて、解除したみずからの凝りに
対して、安直に水浴びなど許してはくれなかった。
むしろ、無意味に同じくらいの涼風をこの夜中に
氷枕の顔付きのあたりに吹かせてくれるのだから
むしろの答えは、業とゆうより、風に吹かれて。

熱が上がっては消え、下がってはまた現れる、と
その繰り返しなのだけれど、あるPoint of Viewからして、
座骨のあたりに重心を置いていたから、ある意味
風邪を引いたりしているのだ、と思い立つのだ。
もっと、上半身だけの、ハートに重きをもって、
ただ、ただ。感受するのみに、大分感情的にゆけば、
思わず、上手く行くのでは、と思い立ったのだ。
自然主義、懐疑主義的に、ただ夜風の吹いてる、
と、そう思っていた時の発想だった。咳や熱など
無理をしていたから。グラウンディングと銘打ち
合わない丹田重視などしていたからなのだ、って
感情で感受する生活も、あながち正解なのでは?
など、ちょっと誇らしく自慢げに、でも現実味の
伴った行き方かは確認できずに、健康法について
いまだ解決しない、この珍グラウンディング道中を、
駆け抜けてゆくのだろう。アイスクリームの食べたい、
わがままを言いながら、買って来ては貰えるかな?

夕方になって、ようやくアイスクリーメ。そんな
アイスクリームの夕日の陽の目を浴びるような、
存外にも、冷房なしにはいられなかった、早い、
季節の早い気の少しする、熱は夕刻あたりには、
下がっていたけれど、その分には夢幻の意識には
シュペルヴィエル=ミレー=モーツァルトのその
三者の行きつ戻りつ、ドルイドの司祭や、または
獣神ルシファーのように跳び交い、夢の意識より
冴え冴え,熱の下がると,あとは決まって,あの
水源の親くに座りながら,お茶を啜る心地で,また
業の泉とは,都市の中に呼吸するよりも,むしろの
湧水に頼りながら,頼りつつマイナスイオンを呼吸する
ことの意味に確かに強いのだ。業よりは逃げられまい?
けれども,お茶を啜りながらも想うのだった。あんな,
ベゴニアのハルシュタット。客船より見詰める碧い潮風。
田舎じみて貧しかった頃合いは,なべての財産であった。

平和の訪れに,それに対置される業の水浴に似た夏日に,
それらを結ぶ,僕にとっての夢はモーツァルトであった,
シュペルヴィエル=ミレー=モーツァルトの三者は,ただ
淡々と,意識的恬淡によって,業の泉を渡り歩いて来た先人。
酩酊してるような夏風邪には氷枕のサインパス。そうだなあ
確かに,夏風邪とゆう業を,サイン1つ描いて,涼し気には
通過して来てるような,そんな伝説には,彼らの夏=熱渡りは,
確かな平和よりのアーティストである気概を感じさせて。その
アートとゆうモノを更に掘り下げれば,夜は恐怖で,昼は目醒め,
その楽しみの昼間に夏と涼風を享受すればそれで良いじゃない?
と,そういった意識的な割り切りの出来ていた,感性なのだった。
きっと夜には恐怖し。とゆう割り切る態度は,勉強にも参考にも
なるので,しっかり恐怖するべき感覚の適度なタイミングには,
もうそれはそれで涼しい夜を体験するようで,それで良いのだ。
恐怖すれば心が=世界が壊れる。と言ったようなエンパス指向も,
目醒めて楽しめば=世界の変わる。とゆうようにサイコパスじみた
感性も要らないのかも知れない。ただ不可思議にそう思うのだった。







こちらは如何?

解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを

足元のゴキブリをきちんと処理できてからでないと、ものごとの全体的な オーガナイズなど、できたモノではない。かと、言って大きく自然は常に 世界にあるのだから、とりもなおせば、オーガナイズすなわち全体性とは 自然相手に行う人間の営為と言っていい。これは、自然相手の常識を壊す と称しても良いことで、その人間の中の自然、知性や、また、昆虫類の 自然と呼ぶにふさわしい集合意識的な流麗なエナジーに対しての、技術。 意志と呼べば、意志である。かと、言ってワガママには振る舞えない、 無意思の意志である。最近、穀物の喉元を通らないのは、こういった 自然への意志が挫かれている。むしろ、そういった意図を失うべきな 自然バランスの崩れを食欲不振や、情動麻痺に親い感情に観て取れる。 なので、その解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを起こして どうやったら貧血にならず、穀物も避けてよければ避けて通りもして この栄養失調との闘い、いや付き合い。にしても、快く自然のなかを 通り過ぎてゆけるか。酒でもない、薬でもない。とりあえず、イカの つまみでも摘んで、その勢いで、お豆腐、納豆。そうめんをすすいで 二束ほど掻き込んだ。これが精一杯だ。拒食の強い癖はないだろうが 温かい調理など食べられたモノではない。ましてやこれは過覚醒代謝 でもあるだろうが、意識を上向いていられる分、夏の大気は天国へと 持って行かれそうな暑い上昇気流をたずさえているのだから、すこし グラウンディングするように、穀物の製品も頂くべきだろう。夏の夜 昼間はラマダン期間のように食を細めていた自分の夜食に祈りの姿を みせて冷たい食品ばかり頂くのだから、自然の乱れとゆうよりそれは 自分の乱れである。そうして、呆然と朝を迎えて、鳥の声は盛んだ。

生命システムを収束させているようにも感じるのは、真夏の景色だ。 乱れは美しくもあるが、それは整えられた収束するシステムの過程を まざまざとミクロに見ているのだから、そう乱調の美を感受するのか とも思うのだった。いわずも全体性のオーガナイズは自然への技術的 意志の欠如のうちでは成立せず、そこには知恵の要る知的作業の求む らく、あの野草の薬壷へ手を突っ込むような感じで、よもぎ餅を摘む 大きな頬っぺたで味わう春の蠢きを再現させる作業を必要とするのだ。 夜食の後でアイスバーをたべた。空になったバーの木の匂いは象徴的に その感慨を現している。きっと、自然の芳香を実際…

珈琲プレグナンスとゆうは、地球号温室にて培う

さもなくば、右側頭部の情欲野ともとれる情緒的ヒステリクスは肝要。 男性性が這入りこむので、情念はヨコシマなアーリマン的要素をあらわすので、 いたって自然理にあれば、そのヒステリクスは肝要。アーリマンは赤鬼。 ともすれば、男性性を太宰など、イザナギ神話にあてはめまた、 女性性のイザナミ陣営を、アナトールと芥川氏のフレンチな文学に例えて、 大谷崎=イザナミ女神の文学性へ返すように、そうすれば、 自然体の情緒的ヒステリクスは肝要なのだった。能面が、般若に変るのは 黄泉比良坂において、三島文学=菊理媛の仲介役によって、その岩によって 光り輝く太宰のイザナギ男神的精悍さを、情緒の乱れによって見送る時に。 怒り狂えるイザナミ女神の発端は、男神の一枚岩の正義がわがままに響く その呆然とする知性に対しての怒りであって、それは何か裏腹への怒り。 表裏一体こその静けさであるのに、表面的な反射によって判断する誤りに。 この般若の相貌には、ひとかたならぬ静かな暮らしへの想いがあってこそ。
正しく、情念には破壊を浄化してゆく知恵のコントロール技術の含まれる。 そうして裏の循環摂理はなりたっているので、光りによってすべて消す といったようなのは、戦争経済と何も変わらない志向であって、情緒的な 日常の天然湿度の中で解決する身体由来の経過のあるとするなら、それは 情緒の情念的ないわゆる情欲循環コントロールによってしか、その常温は 保たれないのだった。般若は常に嫗である。いや、そうあるべきなのだ。 そうやって、いつも怒りに枯れている茫々と寂寥とした感慨を現すのが、 情念にはふさわしい。計らずも男性性は遠く彼方に押しやってしまえと、 巌に蓋をされた、彼らの国は、もう鉱物的なスピリチュアリティにしか、 含まれず囲われ、だき入れられてはいないようだが、そこに、男性性の 隔絶とした、中和され赤青に別れた大地と空との、水と風との調和は 有りえないのだった。珈琲プレグナンスとゆう造語を嗜好しだすのは、
そこに、情緒ヒステリクスの地球温室においてはぐくまれる暖かさの中で 結果的に正しさとは受容するのによって見出されるモノの多分に大きい、 そうして、正しさとは、ストレートさ素直さ一面性のたぐいにはなく、 多面性を受け容れること。情念コントロールは情欲循環的な何かでは、 そうして破壊を調整してゆく暮らしの技術におきながら、戦争経済とは 一線を画す技術の生活意欲として、裏側の…

業の泉へと向かう身体の、ラッセルと太宰に寄せて

ラッセルは、聖パウロのようで、太宰はイスキリのようで。
だんだん、平和への祈り道が、業の泉に到着しそうな予感がして、 潔癖症なくらいの綺麗好きなのが、人間臭さとゆうか、仏の道などと 融和して行きそうな気のする、不可思議な強靭さを呈している例え頓挫しても 身体は、もっとマジカルなパラレルトリックの物質ベースで核融合する、 そんなカルマベースで行ける世代的にも壮年期である、現代生活ではある。 その業の泉に予め潜ってゆけば、クリームチーズのしっとりパンを食べて 抹茶の豆乳ラテを片手に吸いこんでいるこの孤独なポルターガイストに、 あるいは、怖いは好きの裏返しと言うのは、殺意さえも愛情ではあるが それに対して、業の泉に融けこんでゆくのが、ひとつの世相ではある。 こうして美女と野獣をみながら、眠りに親づいてたまの孤高にある夜中。 ロマンチックにあればまたも安心するが、しかしながらも文学にあっても まだ安堵の嘆息ついてはいられもするのに、ソファに横たわりながら、 空調を点けて念じることのあるならば、やっぱり安寧はここかしこの 瞑目してみえてくる、あるいは知性はラッセルにも、太宰にもある。
鋭意において、横になり手に余るほどの情報を世界は2つか3つあるのか、 この希望ともとれる情報存在は世界を意識すれば動じて溢れ出てくるのだった。 ロバは、四肢によって人間と同じように体幹を感じているのか?とは言えば、 幸福論を読むラッセル的知性は、太宰のアフォリズムによってもまた違う感じ を抱かせている。この感じは綺麗なのと、情熱的な愛のカルマとまた似ている 希薄で軽やかな明度の高さと、低部にありながら、渾々と湧く泉の如く、 頂上と伏流水の部分には地点的に密度は違えど、空間も時間速度も違えど、 知識として共有している何かの輝きのあるのだから、例え山頂と麓にでも 星はみえるのだから。この星とゆう知性の知悉するファンタジーを大切に してゆこう。これは、いつも知識はこの魂にあるゆえの共通地点。なので その叡智によって、wisdomを捨てるとこまで行かなければならないのだ。 Let it beも、風に吹かれて、にゆかなければ、その先は普通の生活なので その繰り返しながら発生する風の地点。送風の生起される場所が好きで、 それでも同じく普通の生活の繰り返しながら、叡智を捨てる所にいれば 叡智を捨てて風の起こ…