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茫洋なる夢をみる。我慢づよい耳鳴りには諦めて遠音の汽笛。

右の首筋リンパ腺の凝りをほぐせたな,と思ってたら,最後には
左耳の詰まった感じで,水泳のあとに,あるいは山のくだりに耳を
通すような,地味な風景で,代謝系を治そうとしてる身体の,どこか,
茫洋なる夢をみる。我慢づよい耳鳴りには諦めて遠音の汽笛。とをば,
休みに雑貨店などを訪ねるように,窓を開けて完全に夏模様に換えてから
戸締りをして出発して行くのだった。夏風みたいで気持ちのいい,そして
気が付けば家を出る折,スリッパにはいつの間にか穴の開いていた,なので,
幅の広い足元を気にしながら,いつか良いスリッパにも出逢えるだろう。
なんて,靴もそんな感じでスリッパみたいに探して,そのほうがロマンチック。
水源を捜すのよりも,風の出どころ吹きはじめの場所を見つけるほうが,
どっちにしても一緒なのだろうけど,神秘的で抒情の満ちた瞬間だろう。
”前世ゲーム=書物の渉猟文化”は,エズラパウンドより,ヘミングウェイを
周回しては,またT.マンに到り,耳鳴りへと変ったのだけれども,それで,
果てしなく,ヘッセの聖母性を訪ねて行くのには,肖像を壁紙画像にして,
そうしてそこにその庇護の移ってしまう変な気のして来れば,あとは鬼の影の
追ってくる,いいや,自ら嵌入してゆくその絶対父性に対して。シェイクスピア,
また,パスカル。そうして,アッシジの聖フランシスコに,アウグスティヌス。
彼ら,文学性に必ず,聖母のまつわる必須事項のロマネスクな文学には,ただ。
その上で,杉の樹を通り抜けて届く夏風を,受けてはアクアの要素を差し込んで,
泡の耀き”ガラス玉演戯”,また,アッシジに”太陽の歌”を口ずさむ,”Moanin'”には
アートブレイキーの呟き。あとはパンセに神の国を著した告白の主人は載っては
いまいか?勉強しようこんなロマネスクなのには,意味の上でフェミニズムは加わる,
今度出逢った時は文学性を,夏風のごとく吹かせ始めてさしあげますので,と,
をば。

豆腐も傷んでるモノを頂くとゆうのは落語みたいなことになる,なんて。いわば,
賞味期限のうちでも,新鮮な,とゆうか,美味しいうちに頂く所存で,夜食に,と。
あまり気付かなかったのだけれど,夜中の冷蔵庫を物色すると,中には外れの豆腐,
らしき変な味のするのもあるのだな,と分別しながら,食べきってしまいたい,とゆう
体で一丁まるごと贅沢なひきわり納豆と合わせて食べたのだった。けれども,ここで。
賞味期限チェックみたいなゲームの始まる,さなかには天然岩もずく,なる食材を見つけ
完全に赤線には上乗せされている,この岩もずくを食してしまいたい。その欲求に駆られ
レシピもみずに,匂いの大丈夫と心得れば,塩で揉んで,しっかり洗って,これでも,か
とばかりぬめりの適度な分まで落としポン酢を多めに加えて一気に喉元へ流し込んだのを
なぜか一夜に二十年来のリンパの詰まりなどを解いて祝う気もそぞろな酵素ゲームならぬ
野趣に富んだトライアルに這入ってゆく心地は,こうやって,地上化=グラウンディング
と名付けたうえで,苦労したいのか。自虐癖と冒険心は,勇気と精悍さで結ぶ,挑戦への
架け橋などと呼んでは,もちろん豆腐も然り,腐ったのを食すほどの無謀さとゆうか変な
野心はない訳で。もちろん無鉄砲と言うより夜食をしに来たわけで,台所を過ぎて,この
部屋に戻って,タイプしはじめる気持ちは,寝つきの非常に悪いのだった。それだけ,は
ひとを夜食へ誘い,台所へと勧め,野心とゆうより寝つきの良さを呈して胃もたれしない
のを慮りながら早く眠りたい。アルコールも睡眠薬も,アロマも,温活なども常に上手く
いった試しのなく,むしろ薄着で肌けている位の頃合いに,すーっと落ちて行く感じ。
朝は身体の冷えていることの多いのを,仕方ないことと合点を評しながら,着替えるのを
寝起きの常日頃にパターン化していた冬などは辛い。昨今は,半袖,ブランケット一枚で
十分に対応できるので,むしろ夜食なんて言う余裕も産まれたとのもんだ。なんだ?そう
だったのか,日進月歩,着実に歩んでいるんだ季節とともに。

堅い話にはなるけれど,ある時に絵画の制作とをば銘打って,五年に一度くらいペースで
家に飾る絵を描いている感じだけれど,話しは逸れるのですが,どれも同じテイストで,
変りなく書道のごとき勢いで絵の具を塗っている所存であるので。十年前には,アザミを
写生するとゆうので,黒いオイルペーパーに,パステル画の要領で,どしゃーっと重ねた
小品のお手洗いに飾っているので,それは今より話したい『地球』の絵に較べたら弱い。
十年のあいだのこのスパンには主だって写真にハマって詩画集みたいにしたい欲求でも,
そんなこんなをトマトクリームスパゲッティに合わせて恋の詩なんぞを添えていて,その
感じはまた食あたりしそうな熱い濃さではありました。そうして,『地球』の画を産んで
などは大袈裟に,万年筆のインクや墨汁,それと,小麦粉と油とアクリル絵の具で,その
サイズは画用紙全紙とゆう割と大きなサイズで,黒い肉球のような作品の出来上がった。
小麦粉と油も使って,この油とはサラダ油のこと,カビまでは生えないが,ずっと色調の
変化を楽しめる。村上春樹氏のエルサレム賞スピーチを,イメージしては,地球とゆう,
この受容の愛で知られる天然態の神性は大きな産業とゆう壁にぶつかって破裂している,
けれどもこの姿は一枚の画にはなるのだった。なぜならそうしなければ,スピーチならぬ
自然は発表する機会のなくなる業と言うのを,さらに言えば発表するステージの仮に表現
などとゆう発想のあるのならばそれは叫びでありデトックスであるのだった。カタルシス
とも,自己自然治癒とも言って,その『エロスとタナトスは”ピエタ”を発端とする』との
発想もまた,世界の不思議は定着する静止画の中に物質態として残るこの自分自身である
地球に居る『私とは一体?』の答えに応じようと描いた肉球のような黒い『地球』とは,
深夜帯には良く似合う。なので,朝方にはむしろ勇敢に映る。などは,何を僕は残したい
のか,問われれば『ミニトマトを写して”農作業は気持ちいい”』と言った自分の懐かしい
この気持ちをもとにして,ただ夜中にも早朝にも『平和』を願う。この睡眠導入の秘密。









こちらは如何?

意味深長に珈琲=胆汁と,虚空アカシャの転生色彩譚

自分の中より明白に,何かの意味とゆうのが抜けてから,もう ひさしく感じる。意味がないのは,基本的に穏やかな静かさ。 意味深長に珈琲=胆汁と,虚空アカシャの転生色彩譚を標榜して, このBlogを,ただ描き切っていた頃合いが懐かしく,今もまた デカフェの珈琲豆乳を呑んではいるが,その懐かしさは過去による モノだ。大抵は,すでに生豆の焙煎などの200℃にコンベクションで 送風して,ゴーゴーと30分やそこらで終えてしまうようになってから 浅煎りなのだか焦げているのやら解らないように感じるのだけれど, それはそれでコーヒーの味わいには届いているのやら?割ってしまえば 飲むことはできるので,有り難く美味しそうに頂いてはいるのだった。
西郷どんを堀辰雄氏に当て嵌めて,萩原朔太郎氏は近藤勇になって, 谷崎潤一郎氏は高杉晋作=イザナミ女神的な,太宰に龍馬伝説を, 立原に乾退助の影あれば,川端翁は松陰先生で,三島に桂小五郎の 余韻を曳いて,それは歴史の風韻の現す,ラッキョウの砂丘には彼の 風紋を遺す,風の報せ。むしろの虫の知らせなのだった。また戦国には 堀さんは信長公,萩原さんは上杉謙信。大谷崎は下って8代吉宗公に, 太宰の独眼竜を供えれば,立原=千利休=秀頼公の,川端翁の信玄=武蔵。 三島文学は遠くサド侯爵=マキャベリまで溯る。付随して,漱石山人には 太閤秀吉=一茶によって,東照宮には芥川氏とアマテラス=恵比須さんの この豊かな不老不死伝説までも含めて,さては,宮沢賢治=清正の井戸。 ここまでよくぞ堪えてくださった,とばかり。意味深長に珈琲=胆汁と, 虚空アカシャの転生色彩譚を,計らずも与えて下すった”歴史絵巻”に謝々。

フォーの麺のあって,それに合うスープを造って頂きましょう,とゆうことに 昨晩も今晩も量はあまり摂らずに,眠りやすい環境を整えてゆこうと言っては, 胡麻味噌や,コチュジャン。鳥ガラスープに醤油みりん。ヌクナムなどに塩胡椒で ネギとニラ,油揚げを加えて,胡麻味噌には八角など,山椒の粉も入ってるので 大事なのは麺がゆるゆるにも芯残りにもならずに好い茹で加減でできるとなとゆう ところで,食卓には何とか一緒に楽しめるほどの時間は過ごせたのだった。あと, お風呂も沸かして,コトコト響いてくるような背景音に合わせて,こうして夕暮れに タイプして行く心地。あまりに最近お喋りもすすま…

とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。

白黒の隈を着けて,いつもよりも浅煎りの珈琲豆を一杯のお代わりを 受けて,淹れなおす。家の台所は,さながらカレー屋さん気取りの, とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。 とにかくもゴッコ気取りで楽しみながら遣りすごす,台所での一時。 ダサいと言っては,何だけれど,バランスの好いのはそうゆうことだ。 そうして,そうゆうダサさをこそ,落ち着いているとして好む,そんな 白と黒を半分ずつ割って入れるようにして,豆乳オーレにして頂く珈琲は, 真皮に黒を抱きながら,表面きっての自分自身は,笑顔で白を通す,その 面白さは微笑みより訪れるので,にっこり気持ちは構えて,ダサさを通す。 それでしか淹れられない,なかなか浅煎りは,カフェオーレでしか入らない。
追及しては,戻ってくるのは番犬や番猫で,何だよとゆうばかり,番猫なら 招き猫みたいにスレンダーな物腰で,いいやスレンダーではないか,でも。 多分,何にもいないのだから,彼らにとって,虫の知らせは,いわゆる枯れ尾花 であって,そのざわめきや囁きのようにして聴こえる,彼らにとっては雑貨店。 トフィーのような濃厚な滑り出しで,カフェオレに合わせながら眺める,こんな 洋菓子店をめぐるように猫などの物腰の豊かさを側に置いて,ぼくは先日のあの ロイヤルウェディングの様子を想いだす。白馬のリードしている子の,ちょっと 荒れているのには,繁華街に急に放り込まれた武士のようなイメージで,そりゃあ 興奮し,混乱もなさるでしょう?とは,そればかり心配してはいなくても,やっぱり パレードの壮大さは計り知れない。ダイナミックであり,本当に生命力学的にもっとも ハラハラもし,手に汗握る。この悠長にはPCの前に座りながら,安堵して,折り畳む。

基本的にはまた紅茶とキャラメルを合わせる感じで良いと思うのだった。ちょっとした
あの渋味と,焦げているような甘味のあいだで,切なさと勇気を半分ずつにおおげさに
振る舞っている。週末を終えて,家族サービスとゆう毎度のほどでもないのだけれど,
毎日に平日のスタートを切る僕にとっては火曜日。風邪を引いてると体力よりも果敢に
すすめないのでこうゆう話題になっているけれど,それも治った後の話として,本当に
スタートを切られることに,爽やかな活発さをさえ抱いている,早速まだ沸かしたてで
すこし温湯のお茶を頂い…

木星のユピテルは王者かオロチか。いままでの振り返りに三島文学

T.マンを聖ヨゼフのように置いてみて,またヘッセを聖母のように, アナトール・フランスはヘロディヤみたいだけれど,いつも伴侶として そうして,その木星のユピテルは王者かオロチか。いままでの振り返りに 三島文学を紐解いて,ユピテルはまたタウルスのように,虎獅子ドラゴン。 角をむいて,ひづめを鳴らしてる。平家はいまは民間のほうにあり,どちらか と言えば,源氏のほうが官になってる印象のあり,それはあくまでイメージ上の 捉え方だけれど,どちらが良いとゆうこともない。ぼくらは二分法のうちに, その掻き鳴らされたひずめの行方を案じて低頭に砂ぼこりへ咳込むばかりだ。 夜にはウーロン茶と豆乳を半々に割ってノンシュガーで少しずつ呑んでいる。 そんな頃合いに,どこまで行っても,この純粋な文学にあって,サド侯爵の 影をあたえて吹いている風のごとき三島さんのヨーロピアニズムと芸術指向に, はたまた,煤をいつも被って,ミサの毎に薫香の匂いを帯びて黄金にむしろ耀く。 この敗退の一途にしては,耀きをつづけるニーチェのゆうルサンチマンと呼ぶ辺り。 低頭に砂ぼこりを吸い続ける民衆のところどころに不毛の荒野に一輪のデイジー。 敗退の一途,か。攻撃性を否定すれば,いくら批准したところで世間体は常に彼の 後ろをついて,本来の王はあなたです,とは日常にあたえられる平和は文学に。 三島文学=マキャベリズム=武蔵坊弁慶=木戸孝允・桂小五郎=サド侯爵には, またフラ・アンジェリコの天使画の数々。この鈍いほどの重い香りを携えて,自宅には 芍薬を飾って,いまもまた鑑真香を焚いてすごす。彼の芳香には,恬淡と跪きながら。
三島さんは相当に筆のすすみの早かったように感じる。義務的にも遂行できる運筆の, そんなようなのを,良く感じる。葉隠入門などを読んでいると,まるで演算機のように すすんでいくタイプのリズムを感じる。むしろいつもそうだったかもしれず,無論のまた 抒情に浸ればひたるほど遅かったのではないか?とゆうには想像に難くないのだけれども 論調において,平和のために攻撃性を辞さなかった,その激しさに透徹した陽光の春めき などは,きっとこのあたり,彼の時間の調子と合わせられる特異性までゆかないまでも, 才能のごとき調和の一手のあったから。若きサムライのために,などは,僕自身のぱかっ と頭脳の開いた時にはことごとく濫読して…