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自我へと嵌入するべきなのか,自我を放棄するのか?庭のカンパネラ咲く

死は存在している。生は確かに意味の上で実在してるようでは
あるけれども,実際はすでに解除されている状態の空想である。
実存である死に対して,攻撃性を抱くことは難しい。むしろ否定より
すすんで,その先の受容と愛による,包括によってすべては忘れられる。
自我へと嵌入するべきなのか,自我を放棄するのか?庭のカンパネラ咲く
ようにして,三島文学に女神の受容のみえる感じを,ことごとく,涼風に
まかせて,庭に生きるべきか?汗かきながら大地に屈するモノなのかとは,
理想を現実に換えるのは,それら純文学に甘い蜜を足してエンタメにする
あたり,もうすぐ世界は頭脳の中心にあるとゆう言説は,広く普及しそう。
なぜなら,この朝にあって,どこかの島国で核の脅威に今さらされている,
『苦しみを体験するのだ。』と呟きながら,その死の瞬間を待機していた,
さなかに目覚めたのは,夢の領域で,核の脅威のその地点は,頭脳の中心。
生命の中心で,ちょうど頭頂部のあたりでそんな夢をみていたことに,朝の
めざめで気づいたのだった。その地点で,ぼくの思想は換わった。むしろ,
この生命は夢においても経験されているがごとく,そうして,目覚めはその
死に対して,何の意味も持たなかったということを,夢の時点で,生命は,
もう失われていたはずだったのは,そうゆうところの,夢の消去ではなく,
記憶の逆流によって,世界をその実在の流入によって,ほとばしる構築に,
生の意味の状態を,はっきり実存へ向けようとゆう,諦念らしき決意に向けて,
むしろはっきりと,生きてゆこう,と。重すぎず,浮き立ち過ぎない,記憶により
生の意味の実存を,確立させてゆこう,として。

喉の痛みは,だるさよりの咳風邪に移って行って,咳によって,治りかけに移ることに
不思議な感じのしては,何だか治りそうなのか?この,夢みるような感慨は長引きそう
なのかは,よくわからない,そんな業の泉作者は,美しさを水面のうちに感じるよりも
そこより龍神の昇ってくることを周知のごとく,水源に向かって潜行してゆく,一匹の
蛙のようで。なので,喰われるよりも,むしろ,鯉ではなく,蛇でもない,何らかのあの
龍神の昇ってゆくその鱗に飛びついて,私も連れてってください!でも,どこへ?それは
知らないのだった。湿り気をおびて,居心地のいい苔の上などに永遠にいられることを,
随分願って蛙になったはずなのに,路線バスはイノシシのよう。電車もオロチのごとき,
飛行機は,鳳凰のようで,人間の姿にもっとも良く似合うのは,あの鯉のぼりなんだ,と
ずっと思っていたその蛙さんは,やがて,沼の近くに龍の昇ると言う伝説を受け,そんな
ことは嘘だろう?近づいて,月の映った沼の先に,自ら黒い点のように影を落とす自身の
姿を見詰めて,ここ。と,合点のゆく想いをしたのだった。僕は唐招提寺の醍醐の井戸と
ゆうかつての名刹における水源を見詰めて,そうは思ったのはないにせよ,そんな名僧の
最期を執われに瞑想しながら,帰宅しつつ何だか不思議そうに香を嗅いでは,考えていた
ものだった。水源には神の宿る。けれども,その神々しさは死にもっとも親い。そして,
それは世界の秘密を解く,何か鍵に感じることの,水回りの関心とはゆうものの,それは
本当に,水源には業の湧いて,そのプロデュースは,死の司っている神の遺産ではないの
だろうか?など,死の匂いのする水のスピリチュアリティに,ウンディーネとゆう妖精の
名は付けてあるのだそう。けれど,そのウンディーネに世界を開く鍵のあるとしたのなら
早く僕は咳を止めて,お腹に力を込めて,潜水する居心地で,お布団にすっぽり包まれる
ようにしては?リアリティは内臓の賦活した時に,やがて認識する体内に含まれるのだ。

もうちょっと,身体に潜りこんでゆこう,とそう思ったのだけれども,胃の入り口には,
意志の出入り口とゆうか,判別するような形で,進路を見極めるようなセンサーを感じる
のだけれど。永遠の業を感じて,その胃のセンサーは,やがて腫れては,繊細さよりも,
鈍感さを示してくるような気のする。ここにしっかりと定点とゆう,位置の胃下垂などの
定位置への快癒の望まれれば,あとは,先ほどの水の神秘もはっきり掴めるようなそんな
気のしてくる。本来は,丹田とはゆう,お腹の力点も,胃のセンサーで言う水の判別感も
環境に水の美しさの保たれれば維持保存されるような,美しさの支えによるものではある
のだけれど。正直に確信的に,そんな環境は自らの意思如何によってしか,操作されない
種類のモノであるのは確かであって,実際は外部の環境の良い所でも,例えば,胃下垂は
起こるのだろう。すでに文化の白黒は,解除されて久しい。混沌の見まがうばかり,この
判別の付かない意識の争点は,後退してむしろの全世界的カオスである,それゆえ水源の
美しさもみえてくる不可思議ではあるのだった。意識の争点とは呼ぶなれど,実際はその
カオス?一点の光りとは言った,段階には『蜘蛛の糸』といった物語りしか現れないのは
カオスであるマクロコスモスと,語弊のなければ,無碍な存在である人間の空白な宇宙に
よって,そうして,小さな一点の光りの,無暗に闇の世界に覆われるべきヒトの姿を映す
そんなストーリーを想えばこその,そろそろ闇は,その意味においての生命の光りに逆に
包まれる瞬間にある,意味と言えば意味においてのあの,水源のプロデューサーである,
1つの酵素体の,死をこそ想えば,もう両面のうちに,生をこそ構築しだす,夢より奔流
の動き出す地点。もうすぐ意味は意味として動き出す。この静けさのうちに,死を以て,
死を愛せよ,と。


こちらは如何?

とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。

白黒の隈を着けて,いつもよりも浅煎りの珈琲豆を一杯のお代わりを 受けて,淹れなおす。家の台所は,さながらカレー屋さん気取りの, とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。 とにかくもゴッコ気取りで楽しみながら遣りすごす,台所での一時。 ダサいと言っては,何だけれど,バランスの好いのはそうゆうことだ。 そうして,そうゆうダサさをこそ,落ち着いているとして好む,そんな 白と黒を半分ずつ割って入れるようにして,豆乳オーレにして頂く珈琲は, 真皮に黒を抱きながら,表面きっての自分自身は,笑顔で白を通す,その 面白さは微笑みより訪れるので,にっこり気持ちは構えて,ダサさを通す。 それでしか淹れられない,なかなか浅煎りは,カフェオーレでしか入らない。
追及しては,戻ってくるのは番犬や番猫で,何だよとゆうばかり,番猫なら 招き猫みたいにスレンダーな物腰で,いいやスレンダーではないか,でも。 多分,何にもいないのだから,彼らにとって,虫の知らせは,いわゆる枯れ尾花 であって,そのざわめきや囁きのようにして聴こえる,彼らにとっては雑貨店。 トフィーのような濃厚な滑り出しで,カフェオレに合わせながら眺める,こんな 洋菓子店をめぐるように猫などの物腰の豊かさを側に置いて,ぼくは先日のあの ロイヤルウェディングの様子を想いだす。白馬のリードしている子の,ちょっと 荒れているのには,繁華街に急に放り込まれた武士のようなイメージで,そりゃあ 興奮し,混乱もなさるでしょう?とは,そればかり心配してはいなくても,やっぱり パレードの壮大さは計り知れない。ダイナミックであり,本当に生命力学的にもっとも ハラハラもし,手に汗握る。この悠長にはPCの前に座りながら,安堵して,折り畳む。

基本的にはまた紅茶とキャラメルを合わせる感じで良いと思うのだった。ちょっとした
あの渋味と,焦げているような甘味のあいだで,切なさと勇気を半分ずつにおおげさに
振る舞っている。週末を終えて,家族サービスとゆう毎度のほどでもないのだけれど,
毎日に平日のスタートを切る僕にとっては火曜日。風邪を引いてると体力よりも果敢に
すすめないのでこうゆう話題になっているけれど,それも治った後の話として,本当に
スタートを切られることに,爽やかな活発さをさえ抱いている,早速まだ沸かしたてで
すこし温湯のお茶を頂い…

憑依するとゆう言葉には,入り神級と創作ウォークイン。トリップなど様々

前世ゲームとは言え,嵌入しきって書物の渉猟をすることは,最も
アクティブな瞬間で,それはインナーに居て,集中度の高まる体験。
憑依するとゆう言葉には,入り神級と創作ウォークイン。トリップなど
様々あるけれど,それは研究意欲としてそうなのであって,きっと以て
どれでも良いはずの日常と,外側の経験則のなかでは処世術としては
仲介されえない範囲の事柄ではある。なので,運筆とゆう詩性に向かって
コンスタントに埋没しきることのなかにも夕暮れ時に適うような,そんな
”前世”=書物文化のあって良いはずだ。転生とゆうことは,それほどまでに
コンセントレーションの中に含まれていて,一種の隠喩のようにそこにある。
それで,いま没我した自分は転生している,うん。それで良いじゃないのか?
例えば,自意識のうちで,第一に身体を漱石山人より,次に生命力を太宰さんに
三番目には意識的に明るさを芥川氏より頂き,個我みたいなモノは三島文学より。
僕の竜退治のミカエルは彫刻家のロダン=文学にF.ラブレー=透視にスウェーデンボリと
言った大家より受け賜って,ジヨットのイコンにおける精神性において開花する。など
ここまで自意識的に説明したところで,それらは”前世”とは関連のないことではある。
集中力に謎解きの扉を開く鍵のあることを知悉して,ようやく,眠りに就けそうである。
渾然一体となってファンタジーは,一度死に,二度目に産まれる魂に対して,何らかの
ギフトを与える。集中力によって,ソウルは再び現れた記念として,”前世”の贈り物を
授かるのだった。そうやってゆこう。黄昏に,贈り物としての言葉を貰うようにして,
やっぱり夕餉の匂いは良いモノである。そこかしこに湯気の上がって,昔はさながらの
薪のくべられた薫りなど漂っていたろう。こうやって,時代は溯られれば,魂のうちに
何らかの,記憶=ファンタジーを得ることのできるはず。

急に,突然の報せのように,白い聖母信仰のほうへ寄りかかって行きそうな気さえして。
夕餉の匂いにのせられて,それらは,ふわりふわり声明を携えて近づいてくる。夕暮れに
不可思議な想いを感じ取らせながら。この白い芳香は何処から遣って来て,今さらながら
ついにこの辺りまで,ついの最近までは,いったい何処に居られたのでしょうくらいの,
何だか不可思議にふわりふわりと感じられる香りなのであった。良い…

季節を描写するのみで良い,そんな甘露の雨粒と,上がった後の煙。

人文的な要素のないと言葉の発想も浮かんではこないもので,なおさら まだまだメモしておきたいことのありそうで,けれども,もうこんなにも 季節を描写するのみで良い,そんな甘露の雨粒と,上がった後の煙。雨煙に 合わせて,ヒーリングのアロマ・ミュージックなる分厚い音楽を掛けながら そのブランケットにくるまれて温かい心持ちをして,人文的より,また素描。 ああいう荒野にそっくり掘り込まれた教会遺跡群などは,もうイニシエートの それら現代のクラブシーンだったのだろうか?僕はその際,家で,お茶を啜る あのインナースタイルの静かなもんだったろう。なんて,基本的に動くとゆうか 家の中を満たすひとつの酵素で生きていたい。生活の匂いは,家の樹々の香り。 肉食には,昔の突っかかりを感じて,なかなか馴染めないけれど,元気は出る。 美味しさに賦活されて,文化的に色々楽しめることを良しとしては,けれども 今となっては,雨に巻かれてウッディな温もりに浸透されることの,浄福なので。

咳や熱風邪も,一度肺炎になった?と感じ始めたところで,一気にスノーマンの 夢を見て瓦解するように退けて行った。その余韻に燻製チップのような薫香の, ハートあたりに漂って,それはまた幸せな健全さの回復を予想させるので,納得。 燻製や北国のイメージは,やがてその厚くなった肺や気管の様子を想像させて, それでロマネスクなのだった。北国は,やがて魔の山も克服して,こうして篤く 人のこころを暖めてくれる。けれど,だからといって,こうゆう時に何かお肉食を 試みたくなる。本当に,篤い人生を効果的に造りだしたいのだ。むしろ,厚く強く。 豚肉の小間切れを,醤油麹とみりんで,お酒を加えながら,すこし甘味噌など足して 玉ねぎ,白ネギと共に炒めてみたのだった。奥さんは仮眠中なので,起こして頂ける ような料理だとは思えないので,ソファの近く,炊き込みご飯を解凍したのと,側で 摘んでいた。明日は英国のロイヤルウェディングだと,ニュースでしていて,思わず 感涙してしまい,僕も不可思議ながら,少しく傷付いた思春期に,感情移入しては, いかばかりか砕けた心持で経過を感じていたので,何だか,ホッとして,うるっと。

すべてお肉食で感情までも呑み込んで,取込んでしまえたらそれで良いのだけれど,
切なさや,哀しさ。鎮魂の想いまでは,そんなに簡単に解消していったり…