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5月, 2018の投稿を表示しています

神秘に木陰には住めないが,緑風をならば吸いながら,夏

神秘学とゆうのは,そこに行き着くまでは,死の国への道程。 で,死を辿って,戻ってきたならば,死の国=ポエジーへの 憧憬によって躍起に活動していられるから,神秘に木陰には 住めないが,緑風をならば吸いながら,夏であって,そこに 起居しながら。そうして,いつの間にか脂肪肝までなった, そのくらいの妄想癖を携えて,そこより記憶のスイッチを, 入れつつ消しつつしながらの両の穴より鼻呼吸をしている。
LONDON ONEとゆうのはツール・ド・脂肪肝のようなので T.マンや,シェイクスピア。ゲーテのミケランジェロらは, そこの鐘を司る,ドリーム・オブ・ローゼズといったところで, かたや,そこの筆頭に,B.ラッセル=I.ニュートン=ルイ16世, =ソロモン王の指輪=ニコラウス・クザーヌスといったところで, それら筆頭には彼らのLONDON ONEであったことに,気付くのだ。 それで,イチゴの酵素漬けシロップの出来上がって,即席ラッシーの 要領で呑み始めると美味いのだけど,そんな記憶倉庫には,まるで 彼らを独眼竜=今川義元公などのために働かせる何らかの慈悲めいた モノを感じさせる,かたや恵比寿天の住んでいた社の像の浮かんで来, そこに住まわれていた娘君には,スルメの大層お好きだった風情の 浮かび上がって,まるで,天の岩戸開きにスルメの効用。といった, 何だか訳のわからない伝聞を耳に挟む心地のする。
アマテラス=芥川氏は,東照宮や伝教大師と親く感じられ,また 藤原道長の平等院には,またも奈良の地に称徳天皇などの感情態, 源氏には頼朝氏と,また恵比寿天とは彼らの必須メタファーのように 感じられもする,岩戸開きのあるとすれば,揚げ春巻きをオーブンで 再加熱して,しばらくパリパリ食感の維持されるように,摘みながら。 それらは,夏の線香の匂いのうちに,テレビでスポーツ観戦するように あのブタの焼き物より煙のくゆる瞬間のフラッシュバックである,と そう願い,そうは感じるまでの,伸びやかにパリパリの揚げ春巻きを 頂くのだった。すべては記憶の解除されるうちにあって,そうやって, あの自己自身の謎よりは,むしろのもっと上方にある,世界各自身による 必須調和のあいだで,繰り広げられる屋形船の遊覧上で,花火観賞する。
お茶の沸く瞬間の嬉しく感じる。お水も近くの真名井より汲んで帰るので それも理由の1つ…

木星のユピテルは王者かオロチか。いままでの振り返りに三島文学

T.マンを聖ヨゼフのように置いてみて,またヘッセを聖母のように, アナトール・フランスはヘロディヤみたいだけれど,いつも伴侶として そうして,その木星のユピテルは王者かオロチか。いままでの振り返りに 三島文学を紐解いて,ユピテルはまたタウルスのように,虎獅子ドラゴン。 角をむいて,ひづめを鳴らしてる。平家はいまは民間のほうにあり,どちらか と言えば,源氏のほうが官になってる印象のあり,それはあくまでイメージ上の 捉え方だけれど,どちらが良いとゆうこともない。ぼくらは二分法のうちに, その掻き鳴らされたひずめの行方を案じて低頭に砂ぼこりへ咳込むばかりだ。 夜にはウーロン茶と豆乳を半々に割ってノンシュガーで少しずつ呑んでいる。 そんな頃合いに,どこまで行っても,この純粋な文学にあって,サド侯爵の 影をあたえて吹いている風のごとき三島さんのヨーロピアニズムと芸術指向に, はたまた,煤をいつも被って,ミサの毎に薫香の匂いを帯びて黄金にむしろ耀く。 この敗退の一途にしては,耀きをつづけるニーチェのゆうルサンチマンと呼ぶ辺り。 低頭に砂ぼこりを吸い続ける民衆のところどころに不毛の荒野に一輪のデイジー。 敗退の一途,か。攻撃性を否定すれば,いくら批准したところで世間体は常に彼の 後ろをついて,本来の王はあなたです,とは日常にあたえられる平和は文学に。 三島文学=マキャベリズム=武蔵坊弁慶=木戸孝允・桂小五郎=サド侯爵には, またフラ・アンジェリコの天使画の数々。この鈍いほどの重い香りを携えて,自宅には 芍薬を飾って,いまもまた鑑真香を焚いてすごす。彼の芳香には,恬淡と跪きながら。
三島さんは相当に筆のすすみの早かったように感じる。義務的にも遂行できる運筆の, そんなようなのを,良く感じる。葉隠入門などを読んでいると,まるで演算機のように すすんでいくタイプのリズムを感じる。むしろいつもそうだったかもしれず,無論のまた 抒情に浸ればひたるほど遅かったのではないか?とゆうには想像に難くないのだけれども 論調において,平和のために攻撃性を辞さなかった,その激しさに透徹した陽光の春めき などは,きっとこのあたり,彼の時間の調子と合わせられる特異性までゆかないまでも, 才能のごとき調和の一手のあったから。若きサムライのために,などは,僕自身のぱかっ と頭脳の開いた時にはことごとく濫読して…

意味深長に珈琲=胆汁と,虚空アカシャの転生色彩譚

自分の中より明白に,何かの意味とゆうのが抜けてから,もう ひさしく感じる。意味がないのは,基本的に穏やかな静かさ。 意味深長に珈琲=胆汁と,虚空アカシャの転生色彩譚を標榜して, このBlogを,ただ描き切っていた頃合いが懐かしく,今もまた デカフェの珈琲豆乳を呑んではいるが,その懐かしさは過去による モノだ。大抵は,すでに生豆の焙煎などの200℃にコンベクションで 送風して,ゴーゴーと30分やそこらで終えてしまうようになってから 浅煎りなのだか焦げているのやら解らないように感じるのだけれど, それはそれでコーヒーの味わいには届いているのやら?割ってしまえば 飲むことはできるので,有り難く美味しそうに頂いてはいるのだった。
西郷どんを堀辰雄氏に当て嵌めて,萩原朔太郎氏は近藤勇になって, 谷崎潤一郎氏は高杉晋作=イザナミ女神的な,太宰に龍馬伝説を, 立原に乾退助の影あれば,川端翁は松陰先生で,三島に桂小五郎の 余韻を曳いて,それは歴史の風韻の現す,ラッキョウの砂丘には彼の 風紋を遺す,風の報せ。むしろの虫の知らせなのだった。また戦国には 堀さんは信長公,萩原さんは上杉謙信。大谷崎は下って8代吉宗公に, 太宰の独眼竜を供えれば,立原=千利休=秀頼公の,川端翁の信玄=武蔵。 三島文学は遠くサド侯爵=マキャベリまで溯る。付随して,漱石山人には 太閤秀吉=一茶によって,東照宮には芥川氏とアマテラス=恵比須さんの この豊かな不老不死伝説までも含めて,さては,宮沢賢治=清正の井戸。 ここまでよくぞ堪えてくださった,とばかり。意味深長に珈琲=胆汁と, 虚空アカシャの転生色彩譚を,計らずも与えて下すった”歴史絵巻”に謝々。

フォーの麺のあって,それに合うスープを造って頂きましょう,とゆうことに 昨晩も今晩も量はあまり摂らずに,眠りやすい環境を整えてゆこうと言っては, 胡麻味噌や,コチュジャン。鳥ガラスープに醤油みりん。ヌクナムなどに塩胡椒で ネギとニラ,油揚げを加えて,胡麻味噌には八角など,山椒の粉も入ってるので 大事なのは麺がゆるゆるにも芯残りにもならずに好い茹で加減でできるとなとゆう ところで,食卓には何とか一緒に楽しめるほどの時間は過ごせたのだった。あと, お風呂も沸かして,コトコト響いてくるような背景音に合わせて,こうして夕暮れに タイプして行く心地。あまりに最近お喋りもすすま…

とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。

白黒の隈を着けて,いつもよりも浅煎りの珈琲豆を一杯のお代わりを 受けて,淹れなおす。家の台所は,さながらカレー屋さん気取りの, とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。 とにかくもゴッコ気取りで楽しみながら遣りすごす,台所での一時。 ダサいと言っては,何だけれど,バランスの好いのはそうゆうことだ。 そうして,そうゆうダサさをこそ,落ち着いているとして好む,そんな 白と黒を半分ずつ割って入れるようにして,豆乳オーレにして頂く珈琲は, 真皮に黒を抱きながら,表面きっての自分自身は,笑顔で白を通す,その 面白さは微笑みより訪れるので,にっこり気持ちは構えて,ダサさを通す。 それでしか淹れられない,なかなか浅煎りは,カフェオーレでしか入らない。
追及しては,戻ってくるのは番犬や番猫で,何だよとゆうばかり,番猫なら 招き猫みたいにスレンダーな物腰で,いいやスレンダーではないか,でも。 多分,何にもいないのだから,彼らにとって,虫の知らせは,いわゆる枯れ尾花 であって,そのざわめきや囁きのようにして聴こえる,彼らにとっては雑貨店。 トフィーのような濃厚な滑り出しで,カフェオレに合わせながら眺める,こんな 洋菓子店をめぐるように猫などの物腰の豊かさを側に置いて,ぼくは先日のあの ロイヤルウェディングの様子を想いだす。白馬のリードしている子の,ちょっと 荒れているのには,繁華街に急に放り込まれた武士のようなイメージで,そりゃあ 興奮し,混乱もなさるでしょう?とは,そればかり心配してはいなくても,やっぱり パレードの壮大さは計り知れない。ダイナミックであり,本当に生命力学的にもっとも ハラハラもし,手に汗握る。この悠長にはPCの前に座りながら,安堵して,折り畳む。

基本的にはまた紅茶とキャラメルを合わせる感じで良いと思うのだった。ちょっとした
あの渋味と,焦げているような甘味のあいだで,切なさと勇気を半分ずつにおおげさに
振る舞っている。週末を終えて,家族サービスとゆう毎度のほどでもないのだけれど,
毎日に平日のスタートを切る僕にとっては火曜日。風邪を引いてると体力よりも果敢に
すすめないのでこうゆう話題になっているけれど,それも治った後の話として,本当に
スタートを切られることに,爽やかな活発さをさえ抱いている,早速まだ沸かしたてで
すこし温湯のお茶を頂い…

季節を描写するのみで良い,そんな甘露の雨粒と,上がった後の煙。

人文的な要素のないと言葉の発想も浮かんではこないもので,なおさら まだまだメモしておきたいことのありそうで,けれども,もうこんなにも 季節を描写するのみで良い,そんな甘露の雨粒と,上がった後の煙。雨煙に 合わせて,ヒーリングのアロマ・ミュージックなる分厚い音楽を掛けながら そのブランケットにくるまれて温かい心持ちをして,人文的より,また素描。 ああいう荒野にそっくり掘り込まれた教会遺跡群などは,もうイニシエートの それら現代のクラブシーンだったのだろうか?僕はその際,家で,お茶を啜る あのインナースタイルの静かなもんだったろう。なんて,基本的に動くとゆうか 家の中を満たすひとつの酵素で生きていたい。生活の匂いは,家の樹々の香り。 肉食には,昔の突っかかりを感じて,なかなか馴染めないけれど,元気は出る。 美味しさに賦活されて,文化的に色々楽しめることを良しとしては,けれども 今となっては,雨に巻かれてウッディな温もりに浸透されることの,浄福なので。

咳や熱風邪も,一度肺炎になった?と感じ始めたところで,一気にスノーマンの 夢を見て瓦解するように退けて行った。その余韻に燻製チップのような薫香の, ハートあたりに漂って,それはまた幸せな健全さの回復を予想させるので,納得。 燻製や北国のイメージは,やがてその厚くなった肺や気管の様子を想像させて, それでロマネスクなのだった。北国は,やがて魔の山も克服して,こうして篤く 人のこころを暖めてくれる。けれど,だからといって,こうゆう時に何かお肉食を 試みたくなる。本当に,篤い人生を効果的に造りだしたいのだ。むしろ,厚く強く。 豚肉の小間切れを,醤油麹とみりんで,お酒を加えながら,すこし甘味噌など足して 玉ねぎ,白ネギと共に炒めてみたのだった。奥さんは仮眠中なので,起こして頂ける ような料理だとは思えないので,ソファの近く,炊き込みご飯を解凍したのと,側で 摘んでいた。明日は英国のロイヤルウェディングだと,ニュースでしていて,思わず 感涙してしまい,僕も不可思議ながら,少しく傷付いた思春期に,感情移入しては, いかばかりか砕けた心持で経過を感じていたので,何だか,ホッとして,うるっと。

すべてお肉食で感情までも呑み込んで,取込んでしまえたらそれで良いのだけれど,
切なさや,哀しさ。鎮魂の想いまでは,そんなに簡単に解消していったり…

万物爾来の,そんな時代に鉱物性の時代。その由来は初夏より

万物爾来の,慣性的に浸透する感性のあるとしたら,それは 業の泉そのまま,渦巻の底辺にあって,上面は乾いたお皿の そうして中間位に湧水のこんこんと現れているだろう,とは こうしてタイピングすることの平和は訪れて,ようやく気持ちは 情念のコントロールより塞ぎそうなこのココロを吹きほどいては くれそうな。真実は,この吹きほどく風と,渦巻く業の泉に巧妙に 隠されてはいるだろう。そこより頑強なひとつの岩を手に触れて, 風邪の悪化する夜中には涼しい部屋に独り逃げ込んで,タップする マグロのつみれをあれを何と言ったのか,そんなネギトロみたいな 軍艦巻きを食べたいのだ,こうして三段払いのように,モーツァルトも 41番の”ジュピター”など聴いてみると,調和はしているが,実に旨く, あまり脂味を隠さず調子を崩さずに酢で締めているような当にネギトロ。 斑の入っている。と植物園では苗の紹介に描いてあって,あれは”ふ”と 呼ぶのだとゆうことは,翌日実母より聴いた。僕は,声を大にして, 『まだら』と言い続けていたけれど,そんなことは解りっこない。けれど 表現の上では植物園でルビを入れることはないだろうし,僕も楽しめた。 ”ふ”と読むのかあ。だけで,”ジュピター”も脂の載ったように感じるのか。 と,そんな余韻で跡を曳く。では,真実とは一体?R.シュタイナーも エーテルの領域は二重の壁に阻まれているなど,確かに語り遺してはいる, エーテルとは生命力の元に,植物性と粘液的なイメージを混ぜ合わせた樹液の 海に沈んだ領域のようではある。ここに情念コントロールの鍵穴はあって, ファンタジーも真実に親付けないのは,この樹液の概念に阻まれるからだろう。 万物爾来の,そんな時代に鉱物性の時代。その由来は初夏より発生して,この 噴火の石灰質を吸い込んでいるごとき夏風邪にあって,いつにもまして妄想を つらつら喋りこんでしまう連続性に思考は働いて,確かに優しさは解体するうち, そのあいだに,何かに気付いては,真実によって見開かれてゆく。これは,多分 妄想性の嗜好より,きっと解除作用の思考である連続性の鉱物分解による思索。 きっとこの辺りで目を開いて,きちんとした形で語り始めたほうが良い,とゆう。
鉱物性の思考とは何だろうか?鉱物的に身体を指向させる,そのベクトルを見極める。 この,植物領域のファンタジーとロゴスを支…

産褥の危機感と、エロスとタナトスには、柔和なハーモニー。

初夏のあたり,六月くらいの冷房には,何だかセレブ感を感じる。 感じるだけで良くて,そうある必要のないところが,奥ゆかしい。 何かに打ちのめされるほど感情を揺さぶられ,それら嬉しいのと, その裏側に,攻撃性を伴うクリエイティブな心象の残される,この 少年のスピリチュアリティと呼ばれるモノのなかに,現在の初夏と 似た,何者かに代えがたくある,セレブ感の理由みたいなのを探る。 攻撃的でもあり、俗悪的ではあるけれども、よく言えばエネルギッシュで 奇跡的な行動もみせる、彼の男性性とゆうものと、少年に対して、あの 自然体で受容するのに長けているのは,攻撃的にあらず,ハーモニーな 彼女の女性性であって,あくまで人間性には両者の煩雑に組入られてる。 犯罪に対しても宥和的で,感情移入することによってしか,理解するのを 容赦しないそういった存在理解においては多分しっかりと,その点での, 都市圏の発展は垣間みられる論拠のあることだろう。女性性と,また他方の 文明は各時点で確実に前者をこそ優先してきたのであって,いいや,風邪を 引いてるためにそんな風潮を感じ始めるのかもしれないけれども,そうゆう 攻撃性には,あえて,涼風は毛虫の食んだ緑葉の死霊の起こした涼しさである と言った,論調を難しくも吹かせてゆきたい,犠牲とはかくゆう姿であるか?
産褥の危機感と、その柔和なハーモニーを思う時には、何も知らずに 男性的な直線的でストレートな、エロスとタナトスなどは、却って、 犠牲を体現しようとして、咳込み、清水を口にして孤独を表現する、 そうだな、感情的に、ハートで感受することの、どれほど大変で大事か? 都市圏は敢えて、それで保全されているのか、とゆうカフェオレの味わい それでいて、お腹で感じてしまう故のエンパス指向などは、既視感として 季節を感じ取ったり、オーガニックな近代的な有機運動には向いているが、 しかし、この下町感には向いていない。コミュニケーションは、ハートで 感受するので、きっと、そうゆう会話のほうが、カフェオレを共にするには 向いてる気のする、あまり考えすぎたのだ。宥和的なのは、きっとそれは、 一度忘れて、おいしい苺バニラパフェなどを、喉元あたりで呑みこんで、 一気に味わいきることなのだ。ミルクバランスだ。乳牛のあの、枯草より 酵素質の母乳を生成される、あの絶対母性とゆうのに、嵌入してしまうのだ。 なので、田舎のパスチャライズのミルクなどを、…

酩酊してるような夏風邪には氷枕のサインパス。

意識的に恬淡を装って、どこかの鎮痛剤のように
サイコパスとエンパスは足して、サインパス。 それで、関門を通過するので、ゲートを抜けると そこは業のあるなし、はどっち?多分、ないのだ けれども、業の泉に浴していたいのは、きっと、 それが唯一に親い、健全への道である、と一度は 確信したため。しかし、その道は、そう思っても 夏風邪などを引いて、解除したみずからの凝りに 対して、安直に水浴びなど許してはくれなかった。 むしろ、無意味に同じくらいの涼風をこの夜中に 氷枕の顔付きのあたりに吹かせてくれるのだから むしろの答えは、業とゆうより、風に吹かれて。
熱が上がっては消え、下がってはまた現れる、と その繰り返しなのだけれど、あるPoint of Viewからして、 座骨のあたりに重心を置いていたから、ある意味 風邪を引いたりしているのだ、と思い立つのだ。 もっと、上半身だけの、ハートに重きをもって、 ただ、ただ。感受するのみに、大分感情的にゆけば、 思わず、上手く行くのでは、と思い立ったのだ。 自然主義、懐疑主義的に、ただ夜風の吹いてる、 と、そう思っていた時の発想だった。咳や熱など 無理をしていたから。グラウンディングと銘打ち 合わない丹田重視などしていたからなのだ、って 感情で感受する生活も、あながち正解なのでは? など、ちょっと誇らしく自慢げに、でも現実味の 伴った行き方かは確認できずに、健康法について いまだ解決しない、この珍グラウンディング道中を、 駆け抜けてゆくのだろう。アイスクリームの食べたい、 わがままを言いながら、買って来ては貰えるかな?
夕方になって、ようやくアイスクリーメ。そんな アイスクリームの夕日の陽の目を浴びるような、 存外にも、冷房なしにはいられなかった、早い、 季節の早い気の少しする、熱は夕刻あたりには、 下がっていたけれど、その分には夢幻の意識には シュペルヴィエル=ミレー=モーツァルトのその 三者の行きつ戻りつ、ドルイドの司祭や、または 獣神ルシファーのように跳び交い、夢の意識より
冴え冴え,熱の下がると,あとは決まって,あの
水源の親くに座りながら,お茶を啜る心地で,また
業の泉とは,都市の中に呼吸するよりも,むしろの
湧水に頼りながら,頼りつつマイナスイオンを呼吸する
ことの意味に確かに強いのだ。業よりは逃げられまい?
けれども,お茶を啜りながらも想うのだった。あんな,
ベゴニアのハルシュタット。客船より見詰める碧い…

茫洋なる夢をみる。我慢づよい耳鳴りには諦めて遠音の汽笛。

右の首筋リンパ腺の凝りをほぐせたな,と思ってたら,最後には 左耳の詰まった感じで,水泳のあとに,あるいは山のくだりに耳を 通すような,地味な風景で,代謝系を治そうとしてる身体の,どこか, 茫洋なる夢をみる。我慢づよい耳鳴りには諦めて遠音の汽笛。とをば, 休みに雑貨店などを訪ねるように,窓を開けて完全に夏模様に換えてから 戸締りをして出発して行くのだった。夏風みたいで気持ちのいい,そして 気が付けば家を出る折,スリッパにはいつの間にか穴の開いていた,なので, 幅の広い足元を気にしながら,いつか良いスリッパにも出逢えるだろう。 なんて,靴もそんな感じでスリッパみたいに探して,そのほうがロマンチック。 水源を捜すのよりも,風の出どころ吹きはじめの場所を見つけるほうが, どっちにしても一緒なのだろうけど,神秘的で抒情の満ちた瞬間だろう。 ”前世ゲーム=書物の渉猟文化”は,エズラパウンドより,ヘミングウェイを 周回しては,またT.マンに到り,耳鳴りへと変ったのだけれども,それで, 果てしなく,ヘッセの聖母性を訪ねて行くのには,肖像を壁紙画像にして, そうしてそこにその庇護の移ってしまう変な気のして来れば,あとは鬼の影の 追ってくる,いいや,自ら嵌入してゆくその絶対父性に対して。シェイクスピア, また,パスカル。そうして,アッシジの聖フランシスコに,アウグスティヌス。 彼ら,文学性に必ず,聖母のまつわる必須事項のロマネスクな文学には,ただ。 その上で,杉の樹を通り抜けて届く夏風を,受けてはアクアの要素を差し込んで, 泡の耀き”ガラス玉演戯”,また,アッシジに”太陽の歌”を口ずさむ,”Moanin'”には アートブレイキーの呟き。あとはパンセに神の国を著した告白の主人は載っては いまいか?勉強しようこんなロマネスクなのには,意味の上でフェミニズムは加わる, 今度出逢った時は文学性を,夏風のごとく吹かせ始めてさしあげますので,と, をば。
豆腐も傷んでるモノを頂くとゆうのは落語みたいなことになる,なんて。いわば,
賞味期限のうちでも,新鮮な,とゆうか,美味しいうちに頂く所存で,夜食に,と。
あまり気付かなかったのだけれど,夜中の冷蔵庫を物色すると,中には外れの豆腐,
らしき変な味のするのもあるのだな,と分別しながら,食べきってしまいたい,とゆう
体で一丁まるごと贅沢なひ…

LOGOSは客体と主観の一致で産まれる,堅い種子の新緑まで。

エロスとタナトスは,ピエタに始まるらしい。聖母の指輪を外せそうな, こんな時だから,訣別の意味で,ピエタに対して,感謝を表したいような。 一人旅の苦手な性質で,何でもない旅程を大げさに映してしまう性格は, 東京を歩いていた時の,あの下町感を覚えたての頃合いで,闊歩したような 気になって,ある旅館で悪夢を見たのを発端に,実家に帰って”聖母の婚姻”。 こんな,例えば神性にウォークインされるような気になる程の大仰さで,旅を 彩る自分の体質には,この時よりの,ほどでもない感じに,とっても驚かされて 何だか疲れていたのか,妙なフェミニストに換わってしまった気のする間際の, この追憶は,何時まできりのないモノ,止めにしよう,など,こうして指輪を 還す時の来たのだ。寂しいとゆうより,少年に戻るスピリチュアルには,戻るあの, エンパスよりの帰還。こうして,庇護されつつも精神性は,じきに,とゆうのか? ようやくのこと,軽く,脱皮するような感じで庇護下より解除されつつ飛翔する。 本当に,蝉か,蛾のような気のする七年期のようだった。何が脱皮まで促すのか? それは,腸活やら。コーヒーの学びとか,再びファスティングの趣味などの感覚。 ミシェル・コルボの”ドイツ・レクイエム”を急に購入するべく捜しだしたり,あとは 有吉佐和子の”新女大学”とゆう古書を探りだしたり,いま全部あらかたのネットにて, 届いてしまう範囲の情報圏内にあって,楽しくもあり,また高値で取引されているのを すぐに確認してしまうと,以前は,近くの古本屋さんで見つけたとか,レンタル落ちで 手にしてた感じを思いだして,何だかつまらなくも思ったりする。けれども,掘りだして 見いだした貴重な過去だとか,そうゆう導きめいた誘発する出逢いみたいな,そんなこと を,大して考えもせず,プレミアムに後で把握できる辺り,すべてそんなことに感謝。
LOGOSは客体と主観の一致で産まれる,堅い種子の新緑まで。エズラパウンドは,また 多重婚のような生活をしていたのを聴いて,それらも,その情熱に比して,自然なことに 感じられたり,その生活と,ヘミングウェイの暮らしを比較してみては,やっぱり,この 情熱とやらは海に流してしまうべきなのか,など。つらつら,想ううちに,やがて流麗な 新緑に対して,あまり記憶を洗い流してしまわないでほしい,といった感傷めいた気…

自我へと嵌入するべきなのか,自我を放棄するのか?庭のカンパネラ咲く

死は存在している。生は確かに意味の上で実在してるようでは
あるけれども,実際はすでに解除されている状態の空想である。
実存である死に対して,攻撃性を抱くことは難しい。むしろ否定より
すすんで,その先の受容と愛による,包括によってすべては忘れられる。
自我へと嵌入するべきなのか,自我を放棄するのか?庭のカンパネラ咲く
ようにして,三島文学に女神の受容のみえる感じを,ことごとく,涼風に
まかせて,庭に生きるべきか?汗かきながら大地に屈するモノなのかとは,
理想を現実に換えるのは,それら純文学に甘い蜜を足してエンタメにする
あたり,もうすぐ世界は頭脳の中心にあるとゆう言説は,広く普及しそう。
なぜなら,この朝にあって,どこかの島国で核の脅威に今さらされている,
『苦しみを体験するのだ。』と呟きながら,その死の瞬間を待機していた,
さなかに目覚めたのは,夢の領域で,核の脅威のその地点は,頭脳の中心。
生命の中心で,ちょうど頭頂部のあたりでそんな夢をみていたことに,朝の
めざめで気づいたのだった。その地点で,ぼくの思想は換わった。むしろ,
この生命は夢においても経験されているがごとく,そうして,目覚めはその
死に対して,何の意味も持たなかったということを,夢の時点で,生命は,
もう失われていたはずだったのは,そうゆうところの,夢の消去ではなく,
記憶の逆流によって,世界をその実在の流入によって,ほとばしる構築に,
生の意味の状態を,はっきり実存へ向けようとゆう,諦念らしき決意に向けて,
むしろはっきりと,生きてゆこう,と。重すぎず,浮き立ち過ぎない,記憶により
生の意味の実存を,確立させてゆこう,として。

喉の痛みは,だるさよりの咳風邪に移って行って,咳によって,治りかけに移ることに
不思議な感じのしては,何だか治りそうなのか?この,夢みるような感慨は長引きそう
なのかは,よくわからない,そんな業の泉作者は,美しさを水面のうちに感じるよりも
そこより龍神の昇ってくることを周知のごとく,水源に向かって潜行してゆく,一匹の
蛙のようで。なので,喰われるよりも,むしろ,鯉ではなく,蛇でもない,何らかのあの
龍神の昇ってゆくその鱗に飛びついて,私も連れてってください!でも,どこへ?それは
知らないのだった。湿り気をおびて,居心地のいい苔の上などに永遠にいられることを,
随分願って蛙…

恋をする夢見の中で,冷ややかに更けてゆく夜の中にはチェリー。

傷痕とゆうモノには,お煎餅や,干し柿の,キャラメリゼのよく似合う。 また,ドライアプリコットやトルコ産のイチジク風味。プルーンなども, ほんとうによく似あうのだろう。乾いて忘れ去られた傷は,いずれ返って 熟した果肉に結実してゆくのだから,安心して良いのだった。傷ついたら 怖くなるものだ。岩戸開きは自然に身の熟すのを,ただ待てば良い時間薬。 恋をする夢見の中で,冷ややかに更けてゆく夜の中にはチェリー。あとは, 夜も更けて運筆をする僕の心持は,命を賭ければ,あとで抑うつ状態には なるのだから,飛び込んでいかなければ見えないサーヴィスなどはあるので その表現に向かって一生懸命なのはわかるけれども,そうやって身を護る術。 連呼して,いつも傷痕を擦れ擦れに露呈しながら,この中で熟すモノは何? 露呈して産まれるロゴス,ロゴス。言の葉の結実は,やがて,陽の目を見る?

皓 優弦とゆうのは,僕のペンネームだ。ギターの弦の陽にあたって優しく, それらのセロトニンを出すように,皓々と響いているさまを映してみたのだ。 そうして,洋名は,セロニアス・モンクに被せて,SerotoniousーKongとして, 港の初夏の風に潮も,溌剌と言葉を重ねてゆけるように,ミネラルな願い以て。 100円均一で一目惚れした青いマグカップと,スマホケースのマラソンブルーと ゆうのは,一緒の青さをみせてくれるので,いつか両者を一緒に撮りたいと思う, 映画の1シーンのように執着して心に残る閃きにも,ぼくはスマホでしか写真を うつさないので,あれま?いつもその一瞬を逃してしまう。シャッターチャンスと インスピレーションとは異なるモノだ。そうやって,言い訳しながら,パラレルの 預言めいた託宣を避けてしまっている。

例えば,風呂や,手洗いや,また水回りの,それにまつわる水の文化とは, 傷を以って更に,また真菌との闘いであるのは否めないのだった。 けれどもハンディの幾らあっても,その争いとの決着は, 同じくも時間薬であるのは間違いないのだった。 これらは,果実の芳香とゆうよりも,むしろ硬質な没香の匂いのような 変化に親いので,全世界的に妄想も現実化しそうなときは,常に線香を焚いて それらより逃れるようにして,やっぱり時間は,そのヴィールスなどを灰汁のように して,消してしまう。グレースケールの悪い訳じゃないので,もっとぼ…

人生スタイル自体の驚天動地ではある,道なき道の中庸に。

右耳当たりのリンパの凝りのほぐれて,それは性格の変化とゆう,
いたって人文的な側面をもってほどかれていった,凝りだったのが
すこし熱も出てきて,喉の腫れて一日ほど。何だか,その始まりは
奈良の唐招提寺に参じて,お香など購って帰る際に,その御影とゆう
年間みられる方の鑑真和上を拝んでよりの何だかチャネルになったようで
三回もその開山堂とゆうところで廻ってはめぐり,まわっては巡るうちに
不可思議にも目茶目茶な笑みのこぼれてくるとゆう不思議を体験して。
本当に楽しく返られた旅程のあれやこれや。すこしずつ喉の腫れてくる
のを感じながらも,一日やすめば治りそうな,ホントに滋養の摂られた
遅めのJourneyだった気のする奈良詣で。立派に,鑑真大和上和讃などを
持ち帰っては違い棚などに飾って,お香を焚く心地は,最澄上人=芥川氏,
=東照宮家康公=藤原道長=孝謙天皇など。チャネルになって,まずは,
私の映し鏡を,と不可思議なる質問をした僕にとっての鑑真和上よりの
答えは,お寺の孝謙天皇による揮毫とゆうのか,その題字による宝蔵館の
唐・招・提・寺の四字による返信の展示のようだった。女系の天皇の御代に
こんなまだ歴史的遺影の数々とゆうのか,展示に限らず本当に遺産としての
建築や芳香の残っていることにノスタルジックに感動してしまったのだった。
人生スタイル自体の驚天動地ではある,道なき道の中庸に。抹香の匂いらしき
例えばコパイバのど飴など,インディオに伝わる「聖木樹液」のキャンディーを
頂いて舐める心地。鑑真香の薫りに親く,喉の痛みもこういった庇護のもとに
訪れてくださるのならば,一命を取り止めたような何だか,むしろの有り難い。

主客同一とはゆうなれど,現象とは客体であって,主観性をも含むので,なので
むしろの有り難い。雑貨屋さんカフェのカフェオレブレンドを久しぶりにデカフェでは
なくって,普通に朝昼頂くためのお土産に購って帰ったのを,ウーロンドリップにて,
豆乳オーレにして呑むのだった。そこのは,何だかスパイシーでカフェオレブレンドとは
珍しくも感じられるくらいのホンデュラス産など混ぜてある面白い風味のモノで,それで
不思議な気持ちで,二つ目の飴を舐めながら,この先は何を待っているのだろう?自己の
願いとゆうのも忘我して解らなくなるような。風邪みたいな早く治って欲しいとも思えは
しな…

憑依するとゆう言葉には,入り神級と創作ウォークイン。トリップなど様々

前世ゲームとは言え,嵌入しきって書物の渉猟をすることは,最も
アクティブな瞬間で,それはインナーに居て,集中度の高まる体験。
憑依するとゆう言葉には,入り神級と創作ウォークイン。トリップなど
様々あるけれど,それは研究意欲としてそうなのであって,きっと以て
どれでも良いはずの日常と,外側の経験則のなかでは処世術としては
仲介されえない範囲の事柄ではある。なので,運筆とゆう詩性に向かって
コンスタントに埋没しきることのなかにも夕暮れ時に適うような,そんな
”前世”=書物文化のあって良いはずだ。転生とゆうことは,それほどまでに
コンセントレーションの中に含まれていて,一種の隠喩のようにそこにある。
それで,いま没我した自分は転生している,うん。それで良いじゃないのか?
例えば,自意識のうちで,第一に身体を漱石山人より,次に生命力を太宰さんに
三番目には意識的に明るさを芥川氏より頂き,個我みたいなモノは三島文学より。
僕の竜退治のミカエルは彫刻家のロダン=文学にF.ラブレー=透視にスウェーデンボリと
言った大家より受け賜って,ジヨットのイコンにおける精神性において開花する。など
ここまで自意識的に説明したところで,それらは”前世”とは関連のないことではある。
集中力に謎解きの扉を開く鍵のあることを知悉して,ようやく,眠りに就けそうである。
渾然一体となってファンタジーは,一度死に,二度目に産まれる魂に対して,何らかの
ギフトを与える。集中力によって,ソウルは再び現れた記念として,”前世”の贈り物を
授かるのだった。そうやってゆこう。黄昏に,贈り物としての言葉を貰うようにして,
やっぱり夕餉の匂いは良いモノである。そこかしこに湯気の上がって,昔はさながらの
薪のくべられた薫りなど漂っていたろう。こうやって,時代は溯られれば,魂のうちに
何らかの,記憶=ファンタジーを得ることのできるはず。

急に,突然の報せのように,白い聖母信仰のほうへ寄りかかって行きそうな気さえして。
夕餉の匂いにのせられて,それらは,ふわりふわり声明を携えて近づいてくる。夕暮れに
不可思議な想いを感じ取らせながら。この白い芳香は何処から遣って来て,今さらながら
ついにこの辺りまで,ついの最近までは,いったい何処に居られたのでしょうくらいの,
何だか不可思議にふわりふわりと感じられる香りなのであった。良い…

不可思議電波を受けているような,無論,浸透圧のけたたましく響くよう。

ひさしぶりに昼間に文章を打ち始めている。いつもは夜半に多く, お喋りをするには夜中になってからが一番よい。として,特には 文章でお喋りするのには夜半に這入ってからよりの楽しいはずだ。 けれどもこうして明るい昼間に文章を打ち始めるこの心地は幸せ。 明るいなかでべらべら喋れることに関して,何だか遠足に来たような そんな心地の感じられて幸せなのだった。一つ所に住居を持てば,この 遺跡公園の近くにあるあたり,浸透する自らの身体は,遺跡とも共同体で あると,じわりじわり感じられてその印象に関して,肩の凝ったり,また 身体の重かったりする感じ。自分は,三島文学の薫陶を受けた自我を抱いては いるのじゃないか?そんな悲愴感をまで把みつつ行くこの感じ。これは,多分 いたって不幸である。がしかしの,そんな不幸は思考を強め,それでいて幸せを また,幸せについて,深く感じさせもする浸透圧の中で泳いでいる。そうして, 凝り固まった濃度の高い感性は,すこしずつほどけてゆくような,そんな気にも してくる,昼間のしずけさに,風の荒い波音しかしない,かつてはここも海だった。 なにが右肩を痺れさせるほどの,こんな烈しい印象をなびかせてはいるのだろう? とっても不思議なのだった。それは,宇宙船のどこかで揺蕩うように浮かんでいる。 そんな不可思議電波を受けているような,無論,浸透圧のけたたましく響くよう。 いつかここで生きていた遺跡の住人たちは,すでに宙へ還っているのだろうなんて。
ふいに、近藤勇=萩原朔太郎=平敦盛=上杉謙信の、この系譜によって 僕自身の業みたいな祟りは起こっているような、そうして、まさにいま その神は猪の神さまに、ちょうど戻ろうとしているような、そんな気の してくる、昼下がりに風は少しく寒くなってきて、日は翳りながら 沢山の花粉と、種子をばら撒いている。そんな、気のしてくるのだった。 ちょうどいま、その精神やらは、聖書のピラトや、タケミナカタと 言った、戦士的な発想を以って浮かび上がってくる。なべての獣神は 酵素質を身体に宿して、晴れやかな天気を想像する、そしてクリエイト。 天気と同調して、なべての獣達は、晴れやかさをクリエイトする。そこで、 酵素は胞子を漂わせながら、全ての人間性ともシンクロしているはずなのだ。 ここに、休日の真昼において、昼食を終えて横になる、風は強い。 そうして詩集を編む如くの、詩性の落ち着いてきて受粉する。この、 あり…

こうやってドリップし 珈琲に何かを求めては,リラックスとゆうよりも

昔より祖母の使っていた,ボウルに透き格子のようなのが開いた
米とぎ用の調理器を使って,さらさらとお米を流し研げば,すぐに
炊飯器は予約セットされる。今にも雨模様でエアコンの室外機の上,
ばたばたと雨どいよりの漏れだして,室外機の壊れちゃいはしないか?
心配だけれど,雨の止むまで待つしかない。また,珈琲を手挽きミルに
がらがらと廻せば,雨上がりを臨んで,もうこんな季節は夏じゃないか。
ふ,とそんな渋味,酸味を豆乳で割って静かに想いをしたためる頃に。
段々,痩せてきた身体に,もうすぐエンパスも完全に解けて,いや,
完全には上手くゆかなくても,それを巧く活用すればいい,などとは
婉曲的にスムーズにゆくように願うからこそ,あのドリンクメニューの
スムージーなどあるのだろう。内科検診に通院して,なんだか薬もなあ,
とは言いつつ,そこで体調に関して灸を据えられたような,そんな感じは
まったく良かったとしか言えまいに。ゆっくりして,こうやってドリップし
珈琲に何かを求めては,リラックスとゆうよりもそれらは,安堵嘆息の願いで
あったものなのだ。少し前にハス畑を訪ねた折に,種を交ぜ込んだお香の
扱われていたのを玄関で焚くようにしていたものが,宣教師の方などの各家を
廻られているのに対応しては,例えば聖書に馴染みの薄いや濃いののあっても
お香などはペルシャを通じてシルクロードに万国共通,など実体験には薄い
観照を抱きつつ,僕自身の信仰とゆうより,人文的に思索に通うようになった
思考回路のこの習慣に関して。まあ,いいや?一緒なことなのだ。そうやって
想いもつうじて,昨夜に響いていた月夜の,あの夜の香りなどに,追憶を任し
最後のひと口珈琲を啜るのだった。

デカフェの珈琲をばかり呑んでいる。生豆を焦げる前の天使のみえそうな瞬間に 停めるのだけれど,それはお菓子作り用のオーブンで焙煎しながらの手筈なのだ。 天使のみえそうな,これはホントにそんな感じだ。明白に何もみえず,さらには 音のすべては跳びでてきそうなその感じ。すべて弾きだしそうなその寸前の時に 多分何も音のしない,天使のみえそうな瞬間。これを迎えるのだけれど,その間の 静けさと抑揚の始まる手前は幸せの絶頂でもある。意味というものを介在しないのだ。 それはいかなる場合にでも起こるから,常に天使のみえそうで,みえない辺りを廻る そんな旅程を思考空間に愉しんでいよう,とそう思うのだった。 例えば、性…