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簡単です、人間性よりも理智そのものを大事に。

一度,卒倒などすれば,訳もわからなくなるモノらしい。
イニシエートは卒倒を繰り越して,その秘儀とやらに嵌入する,
とやら,なんとやら。ですが,エクリチュール。そのほうが,
夜明け前に詩の描けるような。自由に,詩の描けるような,そんな
気のして来るので,訳のわからぬことは,いいのだそうな。そんな
簡単です、人間性よりも理智そのものを大事に。初めに,恋のあって
次に,ようやく保身の訪れて,そうして,きっと訳のわからない自分。
そんな,崩壊して終焉している自我に気づくのだった。確かにトラウマは
そういったモノであるらしい。しかしながら,保身だけでもないらしい。
珈琲豆を,オーブンでローストしてみる。意外と,焦げる前に取り出せば,
家で呑む分には良いらしい,そんな感じ。耳ツボなどと言った,身体の鍵に
お灸を差せば,カチッと扉の開いて,意外と保身だけではないらしいのだ,と
みずから鍵を開けて,エンパスも治って,そうしてまた,崩壊した自我は,その
自我の終焉,と哲人の言った,彼の無目的のもとにあつまる,それらは星辰の,
きらめき,あと涼風。吹き通る新緑もサワサワと,この珈琲の匂いに自分の中には
優柔不断と諦めと,あと少しの爽やかな嗜好と。これが感情の体験に対する嗜好だ,と
ふいに気づくのです。あとは,自我のよくわからない,結果論としては無目的である。
ひんやりとした夜風に当るので,それ位でちょうど良いらしいのです。

お茶を啜って,ホーリーホックの表紙の農業講座を眺めて。タチアオイとゆうらしいので
内モンゴルのほうへ植林ツアーへ参加した際。まだ高校生だった時分にその花をみていた
記憶は確かにあって,それ以来,実家のあたりでも次々咲いている様子を見かけるように
なったのだった。けれども,それは次元相互のまた,記憶の産みだすヴィジョンとやら,
なんとやら。僕には,気に掛ることは,とっても記憶とマッチして,そういった現実へ,
結びつくモノやら,など考える癖に,次第に段々と身に着いていった,このみずからの,
なくなれば世界も消えるのか?など,絵本仕立てに描いてみた思春期の,この雑想などに
大豆の粉を,例えばお湯に解いて利かせれば,それはひとつのドリンクメニューにもなる
など。そういった記憶相互の伝達の,はかばかしく懐かしく,なぜなら洗練されたことは
記憶の上では鮮やかであれば研ぎ澄まされている如く,非常にダサいモノなのである。と
この,グラウンディングとは洗練とゆうより鮮やか,研ぎ澄まされてダサいモノなのだ。
そういって,新緑の季節のその緑蔭によって,僕は岩戸開きされまいか?そう,期待して
生きるには働き続けるのだ,と,そういった期待と同一のモノとして,いいや,それら,
働き続けることは岩戸開きである,とは,一種の博打である,さらには,その一所懸命は
夜中に訪れる,猫や猿の群れに抗して,タップする,この指先の震えに対して,一種の,
何かしら。そうした,疑問や質問に似た,魅惑的な瞬きを投げ掛て,そうして,時は春。

一瞬で良いらしい。そうして疑問や質問の,指先に震えを感じて答えを出す時間は,ただ
一瞬で良いらしい。答えは,風に吹かれて,とはホントにそうゆうことらしいのだった。
あとは,サトウキビをかじって,甘さに融けてゆく。そんな感じで良いらしかったのだ。
働き続ける?そう。それは,答えとゆうより質疑のようでいて,結果的には風に吹かれて
そうやってゆく。無目的な何らかの終焉であるらしかった。きっと, 「自我=意味」と
呼ばれるモノに対する,崩壊を指向させもする,なんらかのあの風を起こすのは,または
あのお日様や大地であって。そう,外の何者でもなかったのだった。熱源と蓄熱の上で,
風は起こって風に吹かれてゆく僕らは水ではあるけれども,そのうち黄金にもなれます。
自我の終焉は,決して,世界の終焉ではないのだった。自我とゆうのは意味づけと答えを
捜す探知機のようなリモコン・メーターのような。”自我=世界”では,ない。とは言って
好いとこまで,随分いいとこまで来たのだった。お茶を啜って,一服をする。世界の終焉
など,そういったモノが『自分』であると思っていた時期は辛かったはず。それで,また
無意味であるのが『自分である』と気づいた時には,頭のヘンになる気のするのも,また
『自分のいいとこ』など,そう思えるのだから幸せである。段々と,夜の更けて,お家は
猿の惑星と化してゆきそうである。さらに寝室へ逃げ込んで,私はワタシの部屋を持って
ちゃんと睡眠に落着いてゆく。そうして,答えは風に吹かれてなのだから良いのであった
と,そうゆうことにして。焙煎は,デカフェの珈琲豆にしか扱わないことにしてるのだ。



こちらは如何?

解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを

足元のゴキブリをきちんと処理できてからでないと、ものごとの全体的な オーガナイズなど、できたモノではない。かと、言って大きく自然は常に 世界にあるのだから、とりもなおせば、オーガナイズすなわち全体性とは 自然相手に行う人間の営為と言っていい。これは、自然相手の常識を壊す と称しても良いことで、その人間の中の自然、知性や、また、昆虫類の 自然と呼ぶにふさわしい集合意識的な流麗なエナジーに対しての、技術。 意志と呼べば、意志である。かと、言ってワガママには振る舞えない、 無意思の意志である。最近、穀物の喉元を通らないのは、こういった 自然への意志が挫かれている。むしろ、そういった意図を失うべきな 自然バランスの崩れを食欲不振や、情動麻痺に親い感情に観て取れる。 なので、その解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを起こして どうやったら貧血にならず、穀物も避けてよければ避けて通りもして この栄養失調との闘い、いや付き合い。にしても、快く自然のなかを 通り過ぎてゆけるか。酒でもない、薬でもない。とりあえず、イカの つまみでも摘んで、その勢いで、お豆腐、納豆。そうめんをすすいで 二束ほど掻き込んだ。これが精一杯だ。拒食の強い癖はないだろうが 温かい調理など食べられたモノではない。ましてやこれは過覚醒代謝 でもあるだろうが、意識を上向いていられる分、夏の大気は天国へと 持って行かれそうな暑い上昇気流をたずさえているのだから、すこし グラウンディングするように、穀物の製品も頂くべきだろう。夏の夜 昼間はラマダン期間のように食を細めていた自分の夜食に祈りの姿を みせて冷たい食品ばかり頂くのだから、自然の乱れとゆうよりそれは 自分の乱れである。そうして、呆然と朝を迎えて、鳥の声は盛んだ。

生命システムを収束させているようにも感じるのは、真夏の景色だ。 乱れは美しくもあるが、それは整えられた収束するシステムの過程を まざまざとミクロに見ているのだから、そう乱調の美を感受するのか とも思うのだった。いわずも全体性のオーガナイズは自然への技術的 意志の欠如のうちでは成立せず、そこには知恵の要る知的作業の求む らく、あの野草の薬壷へ手を突っ込むような感じで、よもぎ餅を摘む 大きな頬っぺたで味わう春の蠢きを再現させる作業を必要とするのだ。 夜食の後でアイスバーをたべた。空になったバーの木の匂いは象徴的に その感慨を現している。きっと、自然の芳香を実際…

珈琲プレグナンスとゆうは、地球号温室にて培う

さもなくば、右側頭部の情欲野ともとれる情緒的ヒステリクスは肝要。 男性性が這入りこむので、情念はヨコシマなアーリマン的要素をあらわすので、 いたって自然理にあれば、そのヒステリクスは肝要。アーリマンは赤鬼。 ともすれば、男性性を太宰など、イザナギ神話にあてはめまた、 女性性のイザナミ陣営を、アナトールと芥川氏のフレンチな文学に例えて、 大谷崎=イザナミ女神の文学性へ返すように、そうすれば、 自然体の情緒的ヒステリクスは肝要なのだった。能面が、般若に変るのは 黄泉比良坂において、三島文学=菊理媛の仲介役によって、その岩によって 光り輝く太宰のイザナギ男神的精悍さを、情緒の乱れによって見送る時に。 怒り狂えるイザナミ女神の発端は、男神の一枚岩の正義がわがままに響く その呆然とする知性に対しての怒りであって、それは何か裏腹への怒り。 表裏一体こその静けさであるのに、表面的な反射によって判断する誤りに。 この般若の相貌には、ひとかたならぬ静かな暮らしへの想いがあってこそ。
正しく、情念には破壊を浄化してゆく知恵のコントロール技術の含まれる。 そうして裏の循環摂理はなりたっているので、光りによってすべて消す といったようなのは、戦争経済と何も変わらない志向であって、情緒的な 日常の天然湿度の中で解決する身体由来の経過のあるとするなら、それは 情緒の情念的ないわゆる情欲循環コントロールによってしか、その常温は 保たれないのだった。般若は常に嫗である。いや、そうあるべきなのだ。 そうやって、いつも怒りに枯れている茫々と寂寥とした感慨を現すのが、 情念にはふさわしい。計らずも男性性は遠く彼方に押しやってしまえと、 巌に蓋をされた、彼らの国は、もう鉱物的なスピリチュアリティにしか、 含まれず囲われ、だき入れられてはいないようだが、そこに、男性性の 隔絶とした、中和され赤青に別れた大地と空との、水と風との調和は 有りえないのだった。珈琲プレグナンスとゆう造語を嗜好しだすのは、
そこに、情緒ヒステリクスの地球温室においてはぐくまれる暖かさの中で 結果的に正しさとは受容するのによって見出されるモノの多分に大きい、 そうして、正しさとは、ストレートさ素直さ一面性のたぐいにはなく、 多面性を受け容れること。情念コントロールは情欲循環的な何かでは、 そうして破壊を調整してゆく暮らしの技術におきながら、戦争経済とは 一線を画す技術の生活意欲として、裏側の…

業の泉へと向かう身体の、ラッセルと太宰に寄せて

ラッセルは、聖パウロのようで、太宰はイスキリのようで。
だんだん、平和への祈り道が、業の泉に到着しそうな予感がして、 潔癖症なくらいの綺麗好きなのが、人間臭さとゆうか、仏の道などと 融和して行きそうな気のする、不可思議な強靭さを呈している例え頓挫しても 身体は、もっとマジカルなパラレルトリックの物質ベースで核融合する、 そんなカルマベースで行ける世代的にも壮年期である、現代生活ではある。 その業の泉に予め潜ってゆけば、クリームチーズのしっとりパンを食べて 抹茶の豆乳ラテを片手に吸いこんでいるこの孤独なポルターガイストに、 あるいは、怖いは好きの裏返しと言うのは、殺意さえも愛情ではあるが それに対して、業の泉に融けこんでゆくのが、ひとつの世相ではある。 こうして美女と野獣をみながら、眠りに親づいてたまの孤高にある夜中。 ロマンチックにあればまたも安心するが、しかしながらも文学にあっても まだ安堵の嘆息ついてはいられもするのに、ソファに横たわりながら、 空調を点けて念じることのあるならば、やっぱり安寧はここかしこの 瞑目してみえてくる、あるいは知性はラッセルにも、太宰にもある。
鋭意において、横になり手に余るほどの情報を世界は2つか3つあるのか、 この希望ともとれる情報存在は世界を意識すれば動じて溢れ出てくるのだった。 ロバは、四肢によって人間と同じように体幹を感じているのか?とは言えば、 幸福論を読むラッセル的知性は、太宰のアフォリズムによってもまた違う感じ を抱かせている。この感じは綺麗なのと、情熱的な愛のカルマとまた似ている 希薄で軽やかな明度の高さと、低部にありながら、渾々と湧く泉の如く、 頂上と伏流水の部分には地点的に密度は違えど、空間も時間速度も違えど、 知識として共有している何かの輝きのあるのだから、例え山頂と麓にでも 星はみえるのだから。この星とゆう知性の知悉するファンタジーを大切に してゆこう。これは、いつも知識はこの魂にあるゆえの共通地点。なので その叡智によって、wisdomを捨てるとこまで行かなければならないのだ。 Let it beも、風に吹かれて、にゆかなければ、その先は普通の生活なので その繰り返しながら発生する風の地点。送風の生起される場所が好きで、 それでも同じく普通の生活の繰り返しながら、叡智を捨てる所にいれば 叡智を捨てて風の起こ…