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看護する側に廻り、眠りに落ちる、共に眠りに。

岡本太郎=セザンヌ=バイロンの火星長老による招聘を受ければ、
義朝=石田三成=楠木正成=家茂の聖者の行進を垣間見る藪木の隙間。
セガンティーニ=ヨハネス・タウラー=ペスタロッチー=カラヤンの子羊は、
また、ミレー=シュペルヴィエル=モーツァルトとゆうルシファー獣神の、
〈飄々として哀切とした、剽窃されて漂泊した自我〉なる者かく言う、あの
モネ=カント=コロンブス=マルコポーロ=ディオゲネスの冷徹した眼光を、
ただ、火星長老とゆうのは、とつとつと、そう言って区別することにアートを
みるのだった。ただ、そうやって、みるだけなのだったとゆう。
野生酵素を摂るように、優しさが残酷じみてゆき、そうやって
グラウンディングとゆう呼び名のもとに、怒りや焦燥さえ含んで
我が心は我が身へと変わってゆくものなら、それは嬉しさのモノ。
そうやって、人間性は、ハートでは扱うのでなし、充分に丹念にして、
もっと、腹の底より、怒り、泣き苦しみ、笑おう。とは言う、
つまり、単純に、セクシュアリティによって、怒り、哀しみ、そうして
微笑みを浮かべるのであったら、頭脳ではない、完全に下方よりの
感情を体験できるのなら、それが、グラウンディングである。とは言うモノ、
根を降ろす、とゆう惑星に張ってゆく清濁併呑の心根は、そういった
太陽神経叢によって、考えて知悉し、また、情緒を宿すのだ、とゆう。

そう。例えて、喜びについて、語りたいのだった。それらは、
どんな茶葉でも、豆乳チャイに。そうして、それらは、どんな酵素シロップも
烏龍茶割りにして。眠りに落ちれば、人格は修復され、戻ってくる秀逸な。
ジンジャーハニーは上の空。いつも、どんなタンニンに合わせて行けば、
そう。考えているので、眠りに就いて戻ってくる感覚は、やはり三島文学よりも
太宰のヒューマニズムなのだった。檀香の匂う、龍馬祭壇の例えてあれば、
それは、トビナガスネに、イザナギの黄泉返りのようにして、それで
もうすでに、取り返しの付かない記憶錯誤も、錯綜した宮の水のように
桜の香りに、桜餅の夕べ。喜びについて、語りたいのだった。それらは
サルタヒコのリルケ=ヒュパティア=ドナテッロ=ラムセス2世とは、
また対置するのも良いことです、それは、よいことで、それでいて。
肝心なのは、眠りに戻っては我輩は太宰である。と、連呼自称しつつ、
この、ジャーニー旅路はいづこへ、明治の御世にあって、反射機能のみで
判断するその心地は、龍馬暗殺説のうちには魂の心得として、彼は
また、彼女らは魂の連結遍歴をさすがに繰り返してはいただろう、と。
推測するうちに、太宰の情死と言われるモノのなかには、思えばそれら、
〈スーパーマーケットにゆかなければ、チョコも買えない?では、コンビニ。〉
を、と言ったぐあいにして、気軽さフットワークの軽さは出来上がるのだ、
など、不毛に荒唐無稽を自失して謳いだすそのあいだに、これは、
出来上がる。この、歴史は出来上がる。出来上がってゆくのだった。

往来をゆくなら,歯を磨けばよい。ウーロンドリップ珈琲を呑めばよい。そうして
また,スーパーにチョコを買いに行って,こんなに夕暮れどきに湿った風の吹く,
北欧風の季節も長いものではない。夕食に,菜の花を飾っていたのをカットして,
お出汁と卵でとじて,一味で色づく一汁と。それで,お昼のオムライスにぎりとゆう
あのコンビニの名物はとても美味しくチキンライスより作り始めて,実に完食して
しまった簡易オムライス。簡易も何もないのだけれど,おいしいとゆう思いはまるで
なんでも簡易にしてしまう。歯ぐきはもう,まずもって,すべてのツボを内包している
そんな指圧区みたいな感じなので,ここがおいしいと感じている。とは,持論とゆうか
旧来の幸せ通りお風呂を沸かして,這入る心地は,なかなかミニマリズムや節食の方へ
向かうことのできず,往来闊歩する。夢だ夢なのだ。この高カロリーは夢なのだ。そうは
言っても,夢を造りだすために人類の知性はあるだろう。確かに,自然回帰のための頭脳
では,構成的になさそうな爾来構造はしているのだった。けれども質実剛健,これを何か
生誕以来モットー化している,何だか得体の知れないこの文明構造も先だってあるのは,
確かは確かである。のだけれど,と。ここまでは,何でもないのだった。ここまでには,
新しさは何もなかった。新しい幸せ?そうか,そうなのだ。やっぱりミニマリズム=自然
の内含されるこの発祥において,新しさは見出される。インドにはあったろう?いいや,
ここは現代日本。ミニマリズムは新しい。さては,薄着で笑うことに対しての違いは僕ら
悟り世代において,産まれる部分に,ミニマリズムは何もなかったから,何もない素養の
そんなうちにミニマリズムの出てきた感は,富裕な魚の眼に燈る,一点のフロントライト
の,この黄昏どきにフロントライト。都市化頽廃とした部分を知って,ここに明りを点じ
それは,日常機能性である。と,そういった都市被覆さる自然のこと。

こちらは如何?

意味深長に珈琲=胆汁と,虚空アカシャの転生色彩譚

自分の中より明白に,何かの意味とゆうのが抜けてから,もう ひさしく感じる。意味がないのは,基本的に穏やかな静かさ。 意味深長に珈琲=胆汁と,虚空アカシャの転生色彩譚を標榜して, このBlogを,ただ描き切っていた頃合いが懐かしく,今もまた デカフェの珈琲豆乳を呑んではいるが,その懐かしさは過去による モノだ。大抵は,すでに生豆の焙煎などの200℃にコンベクションで 送風して,ゴーゴーと30分やそこらで終えてしまうようになってから 浅煎りなのだか焦げているのやら解らないように感じるのだけれど, それはそれでコーヒーの味わいには届いているのやら?割ってしまえば 飲むことはできるので,有り難く美味しそうに頂いてはいるのだった。
西郷どんを堀辰雄氏に当て嵌めて,萩原朔太郎氏は近藤勇になって, 谷崎潤一郎氏は高杉晋作=イザナミ女神的な,太宰に龍馬伝説を, 立原に乾退助の影あれば,川端翁は松陰先生で,三島に桂小五郎の 余韻を曳いて,それは歴史の風韻の現す,ラッキョウの砂丘には彼の 風紋を遺す,風の報せ。むしろの虫の知らせなのだった。また戦国には 堀さんは信長公,萩原さんは上杉謙信。大谷崎は下って8代吉宗公に, 太宰の独眼竜を供えれば,立原=千利休=秀頼公の,川端翁の信玄=武蔵。 三島文学は遠くサド侯爵=マキャベリまで溯る。付随して,漱石山人には 太閤秀吉=一茶によって,東照宮には芥川氏とアマテラス=恵比須さんの この豊かな不老不死伝説までも含めて,さては,宮沢賢治=清正の井戸。 ここまでよくぞ堪えてくださった,とばかり。意味深長に珈琲=胆汁と, 虚空アカシャの転生色彩譚を,計らずも与えて下すった”歴史絵巻”に謝々。

フォーの麺のあって,それに合うスープを造って頂きましょう,とゆうことに 昨晩も今晩も量はあまり摂らずに,眠りやすい環境を整えてゆこうと言っては, 胡麻味噌や,コチュジャン。鳥ガラスープに醤油みりん。ヌクナムなどに塩胡椒で ネギとニラ,油揚げを加えて,胡麻味噌には八角など,山椒の粉も入ってるので 大事なのは麺がゆるゆるにも芯残りにもならずに好い茹で加減でできるとなとゆう ところで,食卓には何とか一緒に楽しめるほどの時間は過ごせたのだった。あと, お風呂も沸かして,コトコト響いてくるような背景音に合わせて,こうして夕暮れに タイプして行く心地。あまりに最近お喋りもすすま…

とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。

白黒の隈を着けて,いつもよりも浅煎りの珈琲豆を一杯のお代わりを 受けて,淹れなおす。家の台所は,さながらカレー屋さん気取りの, とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。 とにかくもゴッコ気取りで楽しみながら遣りすごす,台所での一時。 ダサいと言っては,何だけれど,バランスの好いのはそうゆうことだ。 そうして,そうゆうダサさをこそ,落ち着いているとして好む,そんな 白と黒を半分ずつ割って入れるようにして,豆乳オーレにして頂く珈琲は, 真皮に黒を抱きながら,表面きっての自分自身は,笑顔で白を通す,その 面白さは微笑みより訪れるので,にっこり気持ちは構えて,ダサさを通す。 それでしか淹れられない,なかなか浅煎りは,カフェオーレでしか入らない。
追及しては,戻ってくるのは番犬や番猫で,何だよとゆうばかり,番猫なら 招き猫みたいにスレンダーな物腰で,いいやスレンダーではないか,でも。 多分,何にもいないのだから,彼らにとって,虫の知らせは,いわゆる枯れ尾花 であって,そのざわめきや囁きのようにして聴こえる,彼らにとっては雑貨店。 トフィーのような濃厚な滑り出しで,カフェオレに合わせながら眺める,こんな 洋菓子店をめぐるように猫などの物腰の豊かさを側に置いて,ぼくは先日のあの ロイヤルウェディングの様子を想いだす。白馬のリードしている子の,ちょっと 荒れているのには,繁華街に急に放り込まれた武士のようなイメージで,そりゃあ 興奮し,混乱もなさるでしょう?とは,そればかり心配してはいなくても,やっぱり パレードの壮大さは計り知れない。ダイナミックであり,本当に生命力学的にもっとも ハラハラもし,手に汗握る。この悠長にはPCの前に座りながら,安堵して,折り畳む。

基本的にはまた紅茶とキャラメルを合わせる感じで良いと思うのだった。ちょっとした
あの渋味と,焦げているような甘味のあいだで,切なさと勇気を半分ずつにおおげさに
振る舞っている。週末を終えて,家族サービスとゆう毎度のほどでもないのだけれど,
毎日に平日のスタートを切る僕にとっては火曜日。風邪を引いてると体力よりも果敢に
すすめないのでこうゆう話題になっているけれど,それも治った後の話として,本当に
スタートを切られることに,爽やかな活発さをさえ抱いている,早速まだ沸かしたてで
すこし温湯のお茶を頂い…

木星のユピテルは王者かオロチか。いままでの振り返りに三島文学

T.マンを聖ヨゼフのように置いてみて,またヘッセを聖母のように, アナトール・フランスはヘロディヤみたいだけれど,いつも伴侶として そうして,その木星のユピテルは王者かオロチか。いままでの振り返りに 三島文学を紐解いて,ユピテルはまたタウルスのように,虎獅子ドラゴン。 角をむいて,ひづめを鳴らしてる。平家はいまは民間のほうにあり,どちらか と言えば,源氏のほうが官になってる印象のあり,それはあくまでイメージ上の 捉え方だけれど,どちらが良いとゆうこともない。ぼくらは二分法のうちに, その掻き鳴らされたひずめの行方を案じて低頭に砂ぼこりへ咳込むばかりだ。 夜にはウーロン茶と豆乳を半々に割ってノンシュガーで少しずつ呑んでいる。 そんな頃合いに,どこまで行っても,この純粋な文学にあって,サド侯爵の 影をあたえて吹いている風のごとき三島さんのヨーロピアニズムと芸術指向に, はたまた,煤をいつも被って,ミサの毎に薫香の匂いを帯びて黄金にむしろ耀く。 この敗退の一途にしては,耀きをつづけるニーチェのゆうルサンチマンと呼ぶ辺り。 低頭に砂ぼこりを吸い続ける民衆のところどころに不毛の荒野に一輪のデイジー。 敗退の一途,か。攻撃性を否定すれば,いくら批准したところで世間体は常に彼の 後ろをついて,本来の王はあなたです,とは日常にあたえられる平和は文学に。 三島文学=マキャベリズム=武蔵坊弁慶=木戸孝允・桂小五郎=サド侯爵には, またフラ・アンジェリコの天使画の数々。この鈍いほどの重い香りを携えて,自宅には 芍薬を飾って,いまもまた鑑真香を焚いてすごす。彼の芳香には,恬淡と跪きながら。
三島さんは相当に筆のすすみの早かったように感じる。義務的にも遂行できる運筆の, そんなようなのを,良く感じる。葉隠入門などを読んでいると,まるで演算機のように すすんでいくタイプのリズムを感じる。むしろいつもそうだったかもしれず,無論のまた 抒情に浸ればひたるほど遅かったのではないか?とゆうには想像に難くないのだけれども 論調において,平和のために攻撃性を辞さなかった,その激しさに透徹した陽光の春めき などは,きっとこのあたり,彼の時間の調子と合わせられる特異性までゆかないまでも, 才能のごとき調和の一手のあったから。若きサムライのために,などは,僕自身のぱかっ と頭脳の開いた時にはことごとく濫読して…