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A・フランスと、T・マンの関係に、超感覚的思惟は必要ない?

抒情や、センチメンタリズムも必要ない?とは、
ここで、アイスティーに氷はいかが?ほどのことでは
あるにして、もちろん、耳つぼ灸などの功を奏して
エンパスの吹き去ってしまえれば、氷は要らないのだった。
太宰=イスキリによる、視点のあやういのだった。
トーマスマン=ヨゼフに、アナトールフランス=ヘロディヤの
このたくましい二者による宣告ならば、それはきっと、
このエンパス指向を吹き荒ぶ知性やロゴスによって、
掻き消してしまう何か。抒情やセンチメンタリズム?ほう、
あの耳つぼの扉を開けば、もう肝臓の炎は猛り狂って、
この人間性とやらを、一度灰燼化してしまう。なので、
もうイヤとゆうほどの蜂蜜をお茶に混ぜて、その結果は
モルトのような遺香を与えて去って行く、これらのファウスト氏の
煤けた研究所へ、ようこそとばかり、僕はヴァグナー氏。
ローリエの葉に蜂蜜漬けで,一瞬のカッパドキアへ旅をすれば,
世のSF作品は科学至上主義で,そうしてノートPCの音連れは,
またもミニチュアなSFで,それで,僕はアナトールハポンなどと
言っては賢く,SFより脱け出して来ようっと,もう,あんな灰燼の
種まきの際に和えればすぐに芽吹くだろうって,スモークドチーズと
ウィンナーを一本。もうすぐ,切なさに筍ご飯のお握り,ひとつ。

さすがに世の女性陣の手料理とやら,近所の奥さん,実家の母親の
すぐに切分け,鉄板のレシピなどの精悍に豊かなたくましいこと,
みごとたくましいこと。奥が深い,と手料理全般に唸ることに対して
良し,として。何か欠乏している,何をか欠乏してる,と感じる僕の
感性にして,これは恋慕でもなく,また,情熱でもなく,やっぱり何か
中心性とは,A・フランスと、T・マンの関係に、超感覚的思惟は必要ない?
ない,とは言っても,やっぱりロマネスクや酔い加減の嬉しい心地は,以て
多分の”必要”,ではあるらしかった,氷も盛り付けに”必要”,なのだった。
氷めいて冷えた心持には情熱も恋慕も満たすことのない何かのロマネスクをこそ
求めてて,それは手料理の慣例的で奇跡的な熟練によって見出された”ON”になる
この螺旋は哀切によって廻る。この”切ないなあ”って,結局太宰衛門に戻ってる。
知性vs.エンパスのこの構図。何でもないのだけれど,この構図は,多分知性によれば
切ない。エンパスに寄り添ってゆけばロマンチックではあるのだ。氷をいかが?そう。
もともと,冷えていたかったのだけれど,クールと言えば良いとして,性格の冷たさに
行くのなら,それは切なさを誘い出してくる。そうやって,感情体験に重きを置いて
猛り狂う肝臓にエンパス燃えれば,それは,ロマンチックだけれども,”疲れる”のだ。

運筆と常に太宰は呼んでいたこのエクリチュール(書きモノ)といったことに関して
それらは確かにロゴスの扱い方によって自由で規格を持って,さらに手堅い何かである。
”重さ”は,深夜半にもなれば覆いかぶさって来て,そんなに課してある訳でもないのに,
なぜかしら共有するとゆうこの人体ホログラム感傷は,何かしら請負っているのだった。
そうして,それらを楽しんでいる自分とゆうのがあるのだった。”ファウスト”悲劇?あの
時代は過ぎて行ったはずのこの深夜半,僕はまたも弟子のヴァグナー氏になり塞がって,
ファウスト氏の研究を邪魔する。けれどもヴァグナー氏のそれこそ黒犬や,悪魔の化身で
ある,そうゆう予感は常にあの第一章のなかばより着いてくる感想ではある。なのだから
もう,そこまでで良かった自分の悲劇ホログラムは,そうだ,もう登場されるまで参入し
それで,登場人物まで成立してロマネスクと呼ばれる感傷に這入ってしまえば,それで,
あとは楽しんでゆこう。いいや,ゆこうと言うより,それはリアリティと,臨場感である
それで,ロマネスク=臨場感とは,ヨゼフ=ヘロディヤを結ぶ,強靭な知的耐性である。
悪を知悉して,悪になる。エンパスを自称してエンパスと化す。けれども,それら嫌って
自分の立ち位置に困った時には,多分臨場感を以て『私自身は,ワタシである』といった
ような,そんな臨在感にいたるはずなのだ。放心していると言っても良いだろうし,また
とぼけた回想をしていると言っても良い。のだけれども,諦めの中には,何か宝石の如く
きらめくチラチラと砂金のように,懐石料理に湯葉と三つ葉のあるだけで輝いて見える,
その植物性のスピリチュアリティに,とどろきと情熱は頭を垂れて,挨拶をして消えては
行くのだろう,それは懐石だけあって禅寺に詣でる際に,頭の丸める必要をさえ感じる,
さあ,ここで必要なのは,綺麗であることは,原因か結果?最後に,綺麗である循環だ。

こちらは如何?

とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。

白黒の隈を着けて,いつもよりも浅煎りの珈琲豆を一杯のお代わりを 受けて,淹れなおす。家の台所は,さながらカレー屋さん気取りの, とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。 とにかくもゴッコ気取りで楽しみながら遣りすごす,台所での一時。 ダサいと言っては,何だけれど,バランスの好いのはそうゆうことだ。 そうして,そうゆうダサさをこそ,落ち着いているとして好む,そんな 白と黒を半分ずつ割って入れるようにして,豆乳オーレにして頂く珈琲は, 真皮に黒を抱きながら,表面きっての自分自身は,笑顔で白を通す,その 面白さは微笑みより訪れるので,にっこり気持ちは構えて,ダサさを通す。 それでしか淹れられない,なかなか浅煎りは,カフェオーレでしか入らない。
追及しては,戻ってくるのは番犬や番猫で,何だよとゆうばかり,番猫なら 招き猫みたいにスレンダーな物腰で,いいやスレンダーではないか,でも。 多分,何にもいないのだから,彼らにとって,虫の知らせは,いわゆる枯れ尾花 であって,そのざわめきや囁きのようにして聴こえる,彼らにとっては雑貨店。 トフィーのような濃厚な滑り出しで,カフェオレに合わせながら眺める,こんな 洋菓子店をめぐるように猫などの物腰の豊かさを側に置いて,ぼくは先日のあの ロイヤルウェディングの様子を想いだす。白馬のリードしている子の,ちょっと 荒れているのには,繁華街に急に放り込まれた武士のようなイメージで,そりゃあ 興奮し,混乱もなさるでしょう?とは,そればかり心配してはいなくても,やっぱり パレードの壮大さは計り知れない。ダイナミックであり,本当に生命力学的にもっとも ハラハラもし,手に汗握る。この悠長にはPCの前に座りながら,安堵して,折り畳む。

基本的にはまた紅茶とキャラメルを合わせる感じで良いと思うのだった。ちょっとした
あの渋味と,焦げているような甘味のあいだで,切なさと勇気を半分ずつにおおげさに
振る舞っている。週末を終えて,家族サービスとゆう毎度のほどでもないのだけれど,
毎日に平日のスタートを切る僕にとっては火曜日。風邪を引いてると体力よりも果敢に
すすめないのでこうゆう話題になっているけれど,それも治った後の話として,本当に
スタートを切られることに,爽やかな活発さをさえ抱いている,早速まだ沸かしたてで
すこし温湯のお茶を頂い…

憑依するとゆう言葉には,入り神級と創作ウォークイン。トリップなど様々

前世ゲームとは言え,嵌入しきって書物の渉猟をすることは,最も
アクティブな瞬間で,それはインナーに居て,集中度の高まる体験。
憑依するとゆう言葉には,入り神級と創作ウォークイン。トリップなど
様々あるけれど,それは研究意欲としてそうなのであって,きっと以て
どれでも良いはずの日常と,外側の経験則のなかでは処世術としては
仲介されえない範囲の事柄ではある。なので,運筆とゆう詩性に向かって
コンスタントに埋没しきることのなかにも夕暮れ時に適うような,そんな
”前世”=書物文化のあって良いはずだ。転生とゆうことは,それほどまでに
コンセントレーションの中に含まれていて,一種の隠喩のようにそこにある。
それで,いま没我した自分は転生している,うん。それで良いじゃないのか?
例えば,自意識のうちで,第一に身体を漱石山人より,次に生命力を太宰さんに
三番目には意識的に明るさを芥川氏より頂き,個我みたいなモノは三島文学より。
僕の竜退治のミカエルは彫刻家のロダン=文学にF.ラブレー=透視にスウェーデンボリと
言った大家より受け賜って,ジヨットのイコンにおける精神性において開花する。など
ここまで自意識的に説明したところで,それらは”前世”とは関連のないことではある。
集中力に謎解きの扉を開く鍵のあることを知悉して,ようやく,眠りに就けそうである。
渾然一体となってファンタジーは,一度死に,二度目に産まれる魂に対して,何らかの
ギフトを与える。集中力によって,ソウルは再び現れた記念として,”前世”の贈り物を
授かるのだった。そうやってゆこう。黄昏に,贈り物としての言葉を貰うようにして,
やっぱり夕餉の匂いは良いモノである。そこかしこに湯気の上がって,昔はさながらの
薪のくべられた薫りなど漂っていたろう。こうやって,時代は溯られれば,魂のうちに
何らかの,記憶=ファンタジーを得ることのできるはず。

急に,突然の報せのように,白い聖母信仰のほうへ寄りかかって行きそうな気さえして。
夕餉の匂いにのせられて,それらは,ふわりふわり声明を携えて近づいてくる。夕暮れに
不可思議な想いを感じ取らせながら。この白い芳香は何処から遣って来て,今さらながら
ついにこの辺りまで,ついの最近までは,いったい何処に居られたのでしょうくらいの,
何だか不可思議にふわりふわりと感じられる香りなのであった。良い…

季節を描写するのみで良い,そんな甘露の雨粒と,上がった後の煙。

人文的な要素のないと言葉の発想も浮かんではこないもので,なおさら まだまだメモしておきたいことのありそうで,けれども,もうこんなにも 季節を描写するのみで良い,そんな甘露の雨粒と,上がった後の煙。雨煙に 合わせて,ヒーリングのアロマ・ミュージックなる分厚い音楽を掛けながら そのブランケットにくるまれて温かい心持ちをして,人文的より,また素描。 ああいう荒野にそっくり掘り込まれた教会遺跡群などは,もうイニシエートの それら現代のクラブシーンだったのだろうか?僕はその際,家で,お茶を啜る あのインナースタイルの静かなもんだったろう。なんて,基本的に動くとゆうか 家の中を満たすひとつの酵素で生きていたい。生活の匂いは,家の樹々の香り。 肉食には,昔の突っかかりを感じて,なかなか馴染めないけれど,元気は出る。 美味しさに賦活されて,文化的に色々楽しめることを良しとしては,けれども 今となっては,雨に巻かれてウッディな温もりに浸透されることの,浄福なので。

咳や熱風邪も,一度肺炎になった?と感じ始めたところで,一気にスノーマンの 夢を見て瓦解するように退けて行った。その余韻に燻製チップのような薫香の, ハートあたりに漂って,それはまた幸せな健全さの回復を予想させるので,納得。 燻製や北国のイメージは,やがてその厚くなった肺や気管の様子を想像させて, それでロマネスクなのだった。北国は,やがて魔の山も克服して,こうして篤く 人のこころを暖めてくれる。けれど,だからといって,こうゆう時に何かお肉食を 試みたくなる。本当に,篤い人生を効果的に造りだしたいのだ。むしろ,厚く強く。 豚肉の小間切れを,醤油麹とみりんで,お酒を加えながら,すこし甘味噌など足して 玉ねぎ,白ネギと共に炒めてみたのだった。奥さんは仮眠中なので,起こして頂ける ような料理だとは思えないので,ソファの近く,炊き込みご飯を解凍したのと,側で 摘んでいた。明日は英国のロイヤルウェディングだと,ニュースでしていて,思わず 感涙してしまい,僕も不可思議ながら,少しく傷付いた思春期に,感情移入しては, いかばかりか砕けた心持で経過を感じていたので,何だか,ホッとして,うるっと。

すべてお肉食で感情までも呑み込んで,取込んでしまえたらそれで良いのだけれど,
切なさや,哀しさ。鎮魂の想いまでは,そんなに簡単に解消していったり…