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現実受容のなかで、春風の吹いて二分化は消えて

夢だった世界は、自分の願望を際立たせて、その
クオリティを維持して進めるなかで、結果オーライも
出せるとゆう不思議に。世界が夢だった、とゆう
ことは間違いない、とは夢より醒めて気が付くので、
醒めた夢からは、二分化していたのは勘違いで、
歴史は珈琲の春風の吹いて匂いの蝋梅の浄化して、
あえて表現するのなら、世界は勘違いとゆう夢を
みていた、そのすれ違っている同士の世界だった。
なので、類は友を呼ぶ、でもチョコにはアーモンドでも、
そのうち、現前するのは、何でもない喜びのみなのだ、と
知る。青空はまたたいて、世界の変わる。またたいたのは
我が眼でも、常にココロの協働して、世界も変わる。
オリーブ油でポテトを揚げたり、みたらし餅をこしらえて、
桜祭りに参加しようなど、さまざまな話題を浮かばせて、
やがて、世界は春になるので、やがて、ほんとうに変わるのだ。
基本的にはサトウキビとジンジャーとレモンのあれば、春を
迎えられるものなのだ、とはアメリカンな匂いはそうゆう
暖かなスパイスを想い起こさせて、懐かしさに晴れるのどかさ。

怒りのエナジーとゆうモノのあれば,それらのパワーストーンに
溜って,ブレスレットなどに感じるその強さを,エナジーとこそ,
呼べるのだ。そう思うキッカケなどは,やはり闘いや,暮らしにみる
この捻出してゆくような渦潮の創作意欲など,その快楽には,アートの
姿を見出すので,勘違いの世界と呼んで二分化して鏡の影像で映るユーモアを
多分のユーモアとして,諧謔性にはナルトの一枚デショウ?そんな,レモン汁を
とにかくどんなお茶にも注いでは,くいっと呑んで,ぷはーと嘆息を漏らして,
寝不足も朝の一杯のひと時に,過ぎてゆく感覚の余裕と,等間隔のリズム呼吸の,
いつの時も,欠かさずお茶を持ち歩いて,過ぎてゆく時間間隔の憤りこそ余裕へ
換えて行く。現実受容のなかで、春風の吹いて二分化は消えて,ただ嗅いでいる春の
匂いに,お茶のシブを拭うようにして,時代は換わってゆく,あまりに自然に,淘汰して
過ぎてゆく余裕のその表現としての運筆と代わりになる,偶然は必然と静かに重なり合って。

まるで、雲竜とはよく言ったもんだ、とそう思う。
あんなようにして、意志をうたかたの夢と結び合せて、
竜の意思と呼べるモノのあれば、それはただ、流動的なうごきのみ、
そうあるべくして、草枕などの峠越えは、菜の花と茶屋の隠喩に
落ち着いて行くのではなかろうか?夜は怖いもんである、しかし
夜の来た事で、夢のあるのだから、夢はスレ違いと寝息と交互に、
訪れては、また消えてゆく、この現実とゆう昼間の証左裏付けとなる。
昼寝とか仮眠との響きはまた不思議な喩えとして、例えば
これら白昼夢のリアリティを実際に論理立てている言葉自体を
疑う以前に消してしまう意図。こうして、言葉は、嘘を産み、
その嘘より現実は交錯し、また、映像化された視界には、もっと
別次元の影響を浮き彫りにした、抽象思考の具体例を求められる。
ここで、夢は醒め、仮眠を採る仮死状態の自己同一性自我には
もちろん、もう醒めているのだ、初めから。こうだよ、こう。
疑うより以前に消してしまうリアリティを漆黒の脳裏へと。そう、
大事なコトのあるならば、嘘をウソとして、楽しむツールによって、
その、諧謔性には渦潮の底に新世界へ辿り着く。一笑に腑す、自分の
立ち位置は、もう地底世界なのだから、そこが、深海であれ、
霊的世界であれ、そうゆうところに私は行き着いた。嘘は現実になる。


こちらは如何?

とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。

白黒の隈を着けて,いつもよりも浅煎りの珈琲豆を一杯のお代わりを 受けて,淹れなおす。家の台所は,さながらカレー屋さん気取りの, とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。 とにかくもゴッコ気取りで楽しみながら遣りすごす,台所での一時。 ダサいと言っては,何だけれど,バランスの好いのはそうゆうことだ。 そうして,そうゆうダサさをこそ,落ち着いているとして好む,そんな 白と黒を半分ずつ割って入れるようにして,豆乳オーレにして頂く珈琲は, 真皮に黒を抱きながら,表面きっての自分自身は,笑顔で白を通す,その 面白さは微笑みより訪れるので,にっこり気持ちは構えて,ダサさを通す。 それでしか淹れられない,なかなか浅煎りは,カフェオーレでしか入らない。
追及しては,戻ってくるのは番犬や番猫で,何だよとゆうばかり,番猫なら 招き猫みたいにスレンダーな物腰で,いいやスレンダーではないか,でも。 多分,何にもいないのだから,彼らにとって,虫の知らせは,いわゆる枯れ尾花 であって,そのざわめきや囁きのようにして聴こえる,彼らにとっては雑貨店。 トフィーのような濃厚な滑り出しで,カフェオレに合わせながら眺める,こんな 洋菓子店をめぐるように猫などの物腰の豊かさを側に置いて,ぼくは先日のあの ロイヤルウェディングの様子を想いだす。白馬のリードしている子の,ちょっと 荒れているのには,繁華街に急に放り込まれた武士のようなイメージで,そりゃあ 興奮し,混乱もなさるでしょう?とは,そればかり心配してはいなくても,やっぱり パレードの壮大さは計り知れない。ダイナミックであり,本当に生命力学的にもっとも ハラハラもし,手に汗握る。この悠長にはPCの前に座りながら,安堵して,折り畳む。

基本的にはまた紅茶とキャラメルを合わせる感じで良いと思うのだった。ちょっとした
あの渋味と,焦げているような甘味のあいだで,切なさと勇気を半分ずつにおおげさに
振る舞っている。週末を終えて,家族サービスとゆう毎度のほどでもないのだけれど,
毎日に平日のスタートを切る僕にとっては火曜日。風邪を引いてると体力よりも果敢に
すすめないのでこうゆう話題になっているけれど,それも治った後の話として,本当に
スタートを切られることに,爽やかな活発さをさえ抱いている,早速まだ沸かしたてで
すこし温湯のお茶を頂い…

憑依するとゆう言葉には,入り神級と創作ウォークイン。トリップなど様々

前世ゲームとは言え,嵌入しきって書物の渉猟をすることは,最も
アクティブな瞬間で,それはインナーに居て,集中度の高まる体験。
憑依するとゆう言葉には,入り神級と創作ウォークイン。トリップなど
様々あるけれど,それは研究意欲としてそうなのであって,きっと以て
どれでも良いはずの日常と,外側の経験則のなかでは処世術としては
仲介されえない範囲の事柄ではある。なので,運筆とゆう詩性に向かって
コンスタントに埋没しきることのなかにも夕暮れ時に適うような,そんな
”前世”=書物文化のあって良いはずだ。転生とゆうことは,それほどまでに
コンセントレーションの中に含まれていて,一種の隠喩のようにそこにある。
それで,いま没我した自分は転生している,うん。それで良いじゃないのか?
例えば,自意識のうちで,第一に身体を漱石山人より,次に生命力を太宰さんに
三番目には意識的に明るさを芥川氏より頂き,個我みたいなモノは三島文学より。
僕の竜退治のミカエルは彫刻家のロダン=文学にF.ラブレー=透視にスウェーデンボリと
言った大家より受け賜って,ジヨットのイコンにおける精神性において開花する。など
ここまで自意識的に説明したところで,それらは”前世”とは関連のないことではある。
集中力に謎解きの扉を開く鍵のあることを知悉して,ようやく,眠りに就けそうである。
渾然一体となってファンタジーは,一度死に,二度目に産まれる魂に対して,何らかの
ギフトを与える。集中力によって,ソウルは再び現れた記念として,”前世”の贈り物を
授かるのだった。そうやってゆこう。黄昏に,贈り物としての言葉を貰うようにして,
やっぱり夕餉の匂いは良いモノである。そこかしこに湯気の上がって,昔はさながらの
薪のくべられた薫りなど漂っていたろう。こうやって,時代は溯られれば,魂のうちに
何らかの,記憶=ファンタジーを得ることのできるはず。

急に,突然の報せのように,白い聖母信仰のほうへ寄りかかって行きそうな気さえして。
夕餉の匂いにのせられて,それらは,ふわりふわり声明を携えて近づいてくる。夕暮れに
不可思議な想いを感じ取らせながら。この白い芳香は何処から遣って来て,今さらながら
ついにこの辺りまで,ついの最近までは,いったい何処に居られたのでしょうくらいの,
何だか不可思議にふわりふわりと感じられる香りなのであった。良い…

季節を描写するのみで良い,そんな甘露の雨粒と,上がった後の煙。

人文的な要素のないと言葉の発想も浮かんではこないもので,なおさら まだまだメモしておきたいことのありそうで,けれども,もうこんなにも 季節を描写するのみで良い,そんな甘露の雨粒と,上がった後の煙。雨煙に 合わせて,ヒーリングのアロマ・ミュージックなる分厚い音楽を掛けながら そのブランケットにくるまれて温かい心持ちをして,人文的より,また素描。 ああいう荒野にそっくり掘り込まれた教会遺跡群などは,もうイニシエートの それら現代のクラブシーンだったのだろうか?僕はその際,家で,お茶を啜る あのインナースタイルの静かなもんだったろう。なんて,基本的に動くとゆうか 家の中を満たすひとつの酵素で生きていたい。生活の匂いは,家の樹々の香り。 肉食には,昔の突っかかりを感じて,なかなか馴染めないけれど,元気は出る。 美味しさに賦活されて,文化的に色々楽しめることを良しとしては,けれども 今となっては,雨に巻かれてウッディな温もりに浸透されることの,浄福なので。

咳や熱風邪も,一度肺炎になった?と感じ始めたところで,一気にスノーマンの 夢を見て瓦解するように退けて行った。その余韻に燻製チップのような薫香の, ハートあたりに漂って,それはまた幸せな健全さの回復を予想させるので,納得。 燻製や北国のイメージは,やがてその厚くなった肺や気管の様子を想像させて, それでロマネスクなのだった。北国は,やがて魔の山も克服して,こうして篤く 人のこころを暖めてくれる。けれど,だからといって,こうゆう時に何かお肉食を 試みたくなる。本当に,篤い人生を効果的に造りだしたいのだ。むしろ,厚く強く。 豚肉の小間切れを,醤油麹とみりんで,お酒を加えながら,すこし甘味噌など足して 玉ねぎ,白ネギと共に炒めてみたのだった。奥さんは仮眠中なので,起こして頂ける ような料理だとは思えないので,ソファの近く,炊き込みご飯を解凍したのと,側で 摘んでいた。明日は英国のロイヤルウェディングだと,ニュースでしていて,思わず 感涙してしまい,僕も不可思議ながら,少しく傷付いた思春期に,感情移入しては, いかばかりか砕けた心持で経過を感じていたので,何だか,ホッとして,うるっと。

すべてお肉食で感情までも呑み込んで,取込んでしまえたらそれで良いのだけれど,
切なさや,哀しさ。鎮魂の想いまでは,そんなに簡単に解消していったり…