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エーテル的観照とは何なのか?鉱石ラジオにとっての電波。

基本的には人類の頭脳が抱えられて、重心の上方知的に営まれてから、
人類には、ラジオ電波受信の行き方は要らなくなったのだった。例えば、
それら、エーテル的観照とでも置いて、それを鉱石ラジオのようなモノと
してみれば、知的把握な生き方からは、到底計り知れない闇の論理を、
受信形態には、覗き見ることになるのだった。そうして,また受信する生態心理にとって
人類一般の営みは、地獄のようなのである。それらは、クラゲにとって
知性とゆうロゴス体現みたいなことは、刺激の露骨にはげしい電熱線の
そんなのに、映るに違いないのだ。しかしながら,まさに人類にとっての
あの,軟体生物の南国刺激系パッションフルーツのような,冥暗の交響楽は
これがまたヤミツキになる,生命論理と呼べる秘密の鍵を隠している花園で。
それらは,事実としての”軟体生物=腸内環境=生命論理”に対して,例えての
”ロゴスナノPC=頭脳知性=エンタメ感情態”のようにして対比できるものなら,
あの出雲おおやしろの大鳥居を潜って,境内の馬鹿デカい情緒に触れるような,
そんな心地で観照に浸る。この,遊興にはエンタメ感情態とゆう参道詣でのあり,
そうして,全体性としては,一貫して神々しいエーテル的生命論理の被覆してる,
この,上空に近く僅かの脳髄に支配されているようでオプティミズム。そのまた,
地球の鉱石ラジオは,アースキーパーとして生命を支配してる,いや,保護する。
なので,人体は,楽観的にエンタメと,中央知性に与するべきではある,しかし,
知性には,根本的に,知性を支えるカオス理論のあることを然るべきモノとして。

また,傷を体得しようとする慣習は何かしらあるようである。それは,僕をして,
裏宇宙の住人のような気にもさせる何かで。恋するトキメキに疲れて,緊張不安に
苛まれる心配性に飽和されていつしか全体主観に煩う指向に,辟易もして翁みたく,
もう無我恬淡に落ち着く心持を呈してくるのも否めなくもない。キリスト教神秘主義に
どこかしら,カオス理論へ嵌り込ませて,挙げ句システム的モラルへ帰還させる向きと
変りなくどこかそれは,奥州平泉に藤原清衡の花咲かせ,法然の無念態へと跳躍させる
北畠親房の趣好は仏師めいていてまたその,信玄墓に菱形のモノあれど,それは栄華の
証拠として遺品とすれば良いのだと,五輪書には描かれているのごとくにして。松陰の
お社を詣でて想うのは彼はここに居ず,海洋に飛翔されているのだ。と,して川端翁の
美しい日本の私の,これだけで事足りるのだった。日本を守るのは,意思ではなく恬淡。
シルクロードを西に向かえば、入日は上方に沈んで、されども意思は、
ただ浮遊して繰り返す日の出を待つ暇もなく、いずれ旅立ってゆく。

幸せには川下りをするようにして、たどり着くほうが良いのだ。なんて、
燃え尽きながら、課題を超えて解放されることに関しては、もう終焉の
前に、しっかりと足場を踏み固めてから、その解放宣言を迎えるのだった。
新しい水汲み場の清水を汲んで、帰ってすぐに、珈琲ドリップしながら
山全体を保有している幸せを感じている人間性の解決方法に比べては
干物のおつまみを沢山頂いて、お腹を通るその密度の重く察するのに、
エンパス指向を取り除くには、干物をいっぱい食べることなのか?など、
それくらいのグラウンディングを甘受する始末。僕自身はある程度の
貧血性のエンパスであるとは予感しているのだった。けれど、太宰の
文学を随筆ざまに嗜好する情緒と、あとは川端翁を天御中主と見抜いて、
あの中心性は、重みを持った、干物の乾燥酵母へと還元してゆくのだ。と、
そうゆう目論見を重ねて、自己自身は、藍染めにヘアダイなど、そんな
セルフケアを試してみては、詰まり貧血の解釈をどこまで快癒に求めるのか、
赤い夕日に戻ってみて、疲れは旅の象徴である。それで、貧血は贈り物として。
エンパス指向は、そんな所で受け取る、ひとつのイマジンではある。
そう、あるのだけれど、干物を摂って、快癒を感じ取る我が境涯に対しては
きっと朝焼けで夕日を忘れて茜色には朝日を失う心地において、それで、
山水で珈琲を淹れるワタシの肝臓は、何処へ行く?とばかり。そして
取り敢えずは頭脳帯のリラックスを追及してすぐさま音楽鑑賞しながら、
ボレロのリフレインに、もうすぐ日が沈むことを、生レバーを
食べられる、食することの出来てた,あの時分の我に返って休憩してる夢。

こちらは如何?

解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを

足元のゴキブリをきちんと処理できてからでないと、ものごとの全体的な オーガナイズなど、できたモノではない。かと、言って大きく自然は常に 世界にあるのだから、とりもなおせば、オーガナイズすなわち全体性とは 自然相手に行う人間の営為と言っていい。これは、自然相手の常識を壊す と称しても良いことで、その人間の中の自然、知性や、また、昆虫類の 自然と呼ぶにふさわしい集合意識的な流麗なエナジーに対しての、技術。 意志と呼べば、意志である。かと、言ってワガママには振る舞えない、 無意思の意志である。最近、穀物の喉元を通らないのは、こういった 自然への意志が挫かれている。むしろ、そういった意図を失うべきな 自然バランスの崩れを食欲不振や、情動麻痺に親い感情に観て取れる。 なので、その解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを起こして どうやったら貧血にならず、穀物も避けてよければ避けて通りもして この栄養失調との闘い、いや付き合い。にしても、快く自然のなかを 通り過ぎてゆけるか。酒でもない、薬でもない。とりあえず、イカの つまみでも摘んで、その勢いで、お豆腐、納豆。そうめんをすすいで 二束ほど掻き込んだ。これが精一杯だ。拒食の強い癖はないだろうが 温かい調理など食べられたモノではない。ましてやこれは過覚醒代謝 でもあるだろうが、意識を上向いていられる分、夏の大気は天国へと 持って行かれそうな暑い上昇気流をたずさえているのだから、すこし グラウンディングするように、穀物の製品も頂くべきだろう。夏の夜 昼間はラマダン期間のように食を細めていた自分の夜食に祈りの姿を みせて冷たい食品ばかり頂くのだから、自然の乱れとゆうよりそれは 自分の乱れである。そうして、呆然と朝を迎えて、鳥の声は盛んだ。

生命システムを収束させているようにも感じるのは、真夏の景色だ。 乱れは美しくもあるが、それは整えられた収束するシステムの過程を まざまざとミクロに見ているのだから、そう乱調の美を感受するのか とも思うのだった。いわずも全体性のオーガナイズは自然への技術的 意志の欠如のうちでは成立せず、そこには知恵の要る知的作業の求む らく、あの野草の薬壷へ手を突っ込むような感じで、よもぎ餅を摘む 大きな頬っぺたで味わう春の蠢きを再現させる作業を必要とするのだ。 夜食の後でアイスバーをたべた。空になったバーの木の匂いは象徴的に その感慨を現している。きっと、自然の芳香を実際…

珈琲プレグナンスとゆうは、地球号温室にて培う

さもなくば、右側頭部の情欲野ともとれる情緒的ヒステリクスは肝要。 男性性が這入りこむので、情念はヨコシマなアーリマン的要素をあらわすので、 いたって自然理にあれば、そのヒステリクスは肝要。アーリマンは赤鬼。 ともすれば、男性性を太宰など、イザナギ神話にあてはめまた、 女性性のイザナミ陣営を、アナトールと芥川氏のフレンチな文学に例えて、 大谷崎=イザナミ女神の文学性へ返すように、そうすれば、 自然体の情緒的ヒステリクスは肝要なのだった。能面が、般若に変るのは 黄泉比良坂において、三島文学=菊理媛の仲介役によって、その岩によって 光り輝く太宰のイザナギ男神的精悍さを、情緒の乱れによって見送る時に。 怒り狂えるイザナミ女神の発端は、男神の一枚岩の正義がわがままに響く その呆然とする知性に対しての怒りであって、それは何か裏腹への怒り。 表裏一体こその静けさであるのに、表面的な反射によって判断する誤りに。 この般若の相貌には、ひとかたならぬ静かな暮らしへの想いがあってこそ。
正しく、情念には破壊を浄化してゆく知恵のコントロール技術の含まれる。 そうして裏の循環摂理はなりたっているので、光りによってすべて消す といったようなのは、戦争経済と何も変わらない志向であって、情緒的な 日常の天然湿度の中で解決する身体由来の経過のあるとするなら、それは 情緒の情念的ないわゆる情欲循環コントロールによってしか、その常温は 保たれないのだった。般若は常に嫗である。いや、そうあるべきなのだ。 そうやって、いつも怒りに枯れている茫々と寂寥とした感慨を現すのが、 情念にはふさわしい。計らずも男性性は遠く彼方に押しやってしまえと、 巌に蓋をされた、彼らの国は、もう鉱物的なスピリチュアリティにしか、 含まれず囲われ、だき入れられてはいないようだが、そこに、男性性の 隔絶とした、中和され赤青に別れた大地と空との、水と風との調和は 有りえないのだった。珈琲プレグナンスとゆう造語を嗜好しだすのは、
そこに、情緒ヒステリクスの地球温室においてはぐくまれる暖かさの中で 結果的に正しさとは受容するのによって見出されるモノの多分に大きい、 そうして、正しさとは、ストレートさ素直さ一面性のたぐいにはなく、 多面性を受け容れること。情念コントロールは情欲循環的な何かでは、 そうして破壊を調整してゆく暮らしの技術におきながら、戦争経済とは 一線を画す技術の生活意欲として、裏側の…

業の泉へと向かう身体の、ラッセルと太宰に寄せて

ラッセルは、聖パウロのようで、太宰はイスキリのようで。
だんだん、平和への祈り道が、業の泉に到着しそうな予感がして、 潔癖症なくらいの綺麗好きなのが、人間臭さとゆうか、仏の道などと 融和して行きそうな気のする、不可思議な強靭さを呈している例え頓挫しても 身体は、もっとマジカルなパラレルトリックの物質ベースで核融合する、 そんなカルマベースで行ける世代的にも壮年期である、現代生活ではある。 その業の泉に予め潜ってゆけば、クリームチーズのしっとりパンを食べて 抹茶の豆乳ラテを片手に吸いこんでいるこの孤独なポルターガイストに、 あるいは、怖いは好きの裏返しと言うのは、殺意さえも愛情ではあるが それに対して、業の泉に融けこんでゆくのが、ひとつの世相ではある。 こうして美女と野獣をみながら、眠りに親づいてたまの孤高にある夜中。 ロマンチックにあればまたも安心するが、しかしながらも文学にあっても まだ安堵の嘆息ついてはいられもするのに、ソファに横たわりながら、 空調を点けて念じることのあるならば、やっぱり安寧はここかしこの 瞑目してみえてくる、あるいは知性はラッセルにも、太宰にもある。
鋭意において、横になり手に余るほどの情報を世界は2つか3つあるのか、 この希望ともとれる情報存在は世界を意識すれば動じて溢れ出てくるのだった。 ロバは、四肢によって人間と同じように体幹を感じているのか?とは言えば、 幸福論を読むラッセル的知性は、太宰のアフォリズムによってもまた違う感じ を抱かせている。この感じは綺麗なのと、情熱的な愛のカルマとまた似ている 希薄で軽やかな明度の高さと、低部にありながら、渾々と湧く泉の如く、 頂上と伏流水の部分には地点的に密度は違えど、空間も時間速度も違えど、 知識として共有している何かの輝きのあるのだから、例え山頂と麓にでも 星はみえるのだから。この星とゆう知性の知悉するファンタジーを大切に してゆこう。これは、いつも知識はこの魂にあるゆえの共通地点。なので その叡智によって、wisdomを捨てるとこまで行かなければならないのだ。 Let it beも、風に吹かれて、にゆかなければ、その先は普通の生活なので その繰り返しながら発生する風の地点。送風の生起される場所が好きで、 それでも同じく普通の生活の繰り返しながら、叡智を捨てる所にいれば 叡智を捨てて風の起こ…