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物書きを証左する,情熱と悲壮にはソフトクリーム。

溶けやすいシャリシャリのアイスクリームのような,
そんな感じがベストと言えばベストだ。あんな感じは
潔癖症になっている感性に対して,何をか,諭してる。
環境問題とはゆうけれども,環境がヒトを造り,そして
ヒトの想いは,また固着させる環境造りを推し進めて。
もちろんのこと,先立っては環境の始めにある,として
歴史は何に先立つのかは置いておいて,まず身体性は
環境のまずもって用意されてて産まれてくるのだから。
環境によってヒトは造られ,環境をヒトの想いによって。
スタートしたスパイラルは止められないのだけれど,また
それらを換える異端もまた産まれてくるのはヒトの世の常。
この連鎖に対して,共感体質によって,何らかのONになった
スイッチにより地域性=環境を,体現しつつ無化するような
そんな器質で転換させる存在もまた,現在誕生しつつあろう。
どこかで,遠鳴りのようにサイレンの聴こえる,デトックス。

ケルトの文化や,ドルイドのストーンヘンジのように,結界によって
悪魔を妖精に安定させ,妖精を悪魔に帰還させないそんな受容もまた
必ずしも捨てられるべき嗜好ではないのだろう。一度,デトックスの
起こって,市街地の安定した一個の界隈では,そんな魔術的な会話も
発生してもあながち驚かれることではない。緑茶の葉を好きこのんで
噛みながら,あの碧の匂いに浸される初老の貴族紳士のように,この
一隅では鉱物精製の何か忘れさせてしまう何らかのマジカルな発想を,
こうした植物的なスピリチュアリティによって,初夏の陽差しに溢れた
ノスタルジック・ウッディな境涯へと飛翔させる,それは熱波の訪れ。
なので,お茶の研究に没頭する時間など,庭にプランターで育てながら
ハーブや薬膳の研究没頭して,熱波の訪問を探りながら日を浴びるあの
瞬間などは,とっても大事であるように思われるのだった。基本的には
細胞分裂の終わった,日本人としての体質には,終わったと言うなれど
成長時期を修めたと表しても良い,その食文化期を過ぎたのならば,あとは
お茶の嗜好研鑽に努めても好い気のする夕べ。これはグルメによって身体を
造る時期よりの夕べ。本来の嗜好や食事などはここより始まるといっていい。
これらを,お茶っ葉を胡麻油などで炒めて食べるあの調理などと比較する。

例えば,天之御中主=藤原清衡=法然和尚=北畠親房=武田信玄=宮本武蔵,
=吉田松陰=川端康成の系譜を辿って,その真髄をマルコ福音書に垣間見る,
こんな書物の渉猟文化=前世ゲームなどを通り過ぎて,思考癖を闊達に鍛える
そんな遊興な河畔での夕涼みのひと時は,あゆの佃煮を茶づけにする心地に,
この生姜は山椒も加えてる?などほろ酔いに訊ねる,早晩,気付けば枕元には
しじみ貝のヒモ飾りなど置いてあった,あの文化の黎明期に同時に終着点には
夕暮れの昏い暑さの秘められているとゆう,その終焉のみえる,そんな日に。
物書きを証左する,情熱と悲壮にはソフトクリーム。溶けやすいシャリシャリの
アイスクリームのような,そんな感じがベストと言えばベストだ。あんな感じは
潔癖症になっている感性に対して,何をか,諭してる。また、例えば、
自然の荒ぶる魂は、鉱石で。人間身体は、業の湯浴みにエーテルで。
動物は、温かい素朴なアストラルで。空に浮かんだ知性のUFOは自我で。
自我体で行けば良いのだな。と、そう思うのだった。自然に倣えば、
業も、パワーストーンも、ハートウォーミングな息遣いも、すべては
一緒にすすんでゆく、何かの意思のようには、感じるけれども
地上に生きる知性はあり得ない。なので、空をたゆたうUFOの、
そんな神さまみたいな浮雲にしてしまえば、合点のゆくのだった。

乳酸飲料も、アイスの冷たさも、ひんやり胃腸をたくましくしてくれる
例えて、人間なのだから本質的に業の湯浴みをテーマにすべきなのかとは
語られる話題は、お風呂あがりに蟹煎餅などを摘んでパリパリする、
その頃合いに口癖に、だってねえ、なんて言って語り合うのは、
やっぱり若い時分のグルメ趣味を永遠に持続させる心意気だったり。
お茶を啜って僕は、とある思い出を想起しているのだけど、それは
自然の種には、2つの類のあって、鉱物の冷たさと、また植物流動性の
そうして、同時にその2種類を内含するのは、あの野生動物の温かさ。
元来、動物性の人間身体はそのように構成されているのだけど、
いつかどこかより、自我と呼ばれる知性の訪れたのだった。それは
まるで、知的円盤のようで、僕は、それを蟹煎餅になぞらえて、あの
お風呂あがりに、青春の霊をして語り合う、あのパリパリの、
井戸端会議のようなモノだった、ソフトクリームも欲しいなあ、って。

こちらは如何?

解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを

足元のゴキブリをきちんと処理できてからでないと、ものごとの全体的な オーガナイズなど、できたモノではない。かと、言って大きく自然は常に 世界にあるのだから、とりもなおせば、オーガナイズすなわち全体性とは 自然相手に行う人間の営為と言っていい。これは、自然相手の常識を壊す と称しても良いことで、その人間の中の自然、知性や、また、昆虫類の 自然と呼ぶにふさわしい集合意識的な流麗なエナジーに対しての、技術。 意志と呼べば、意志である。かと、言ってワガママには振る舞えない、 無意思の意志である。最近、穀物の喉元を通らないのは、こういった 自然への意志が挫かれている。むしろ、そういった意図を失うべきな 自然バランスの崩れを食欲不振や、情動麻痺に親い感情に観て取れる。 なので、その解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを起こして どうやったら貧血にならず、穀物も避けてよければ避けて通りもして この栄養失調との闘い、いや付き合い。にしても、快く自然のなかを 通り過ぎてゆけるか。酒でもない、薬でもない。とりあえず、イカの つまみでも摘んで、その勢いで、お豆腐、納豆。そうめんをすすいで 二束ほど掻き込んだ。これが精一杯だ。拒食の強い癖はないだろうが 温かい調理など食べられたモノではない。ましてやこれは過覚醒代謝 でもあるだろうが、意識を上向いていられる分、夏の大気は天国へと 持って行かれそうな暑い上昇気流をたずさえているのだから、すこし グラウンディングするように、穀物の製品も頂くべきだろう。夏の夜 昼間はラマダン期間のように食を細めていた自分の夜食に祈りの姿を みせて冷たい食品ばかり頂くのだから、自然の乱れとゆうよりそれは 自分の乱れである。そうして、呆然と朝を迎えて、鳥の声は盛んだ。

生命システムを収束させているようにも感じるのは、真夏の景色だ。 乱れは美しくもあるが、それは整えられた収束するシステムの過程を まざまざとミクロに見ているのだから、そう乱調の美を感受するのか とも思うのだった。いわずも全体性のオーガナイズは自然への技術的 意志の欠如のうちでは成立せず、そこには知恵の要る知的作業の求む らく、あの野草の薬壷へ手を突っ込むような感じで、よもぎ餅を摘む 大きな頬っぺたで味わう春の蠢きを再現させる作業を必要とするのだ。 夜食の後でアイスバーをたべた。空になったバーの木の匂いは象徴的に その感慨を現している。きっと、自然の芳香を実際…

珈琲プレグナンスとゆうは、地球号温室にて培う

さもなくば、右側頭部の情欲野ともとれる情緒的ヒステリクスは肝要。 男性性が這入りこむので、情念はヨコシマなアーリマン的要素をあらわすので、 いたって自然理にあれば、そのヒステリクスは肝要。アーリマンは赤鬼。 ともすれば、男性性を太宰など、イザナギ神話にあてはめまた、 女性性のイザナミ陣営を、アナトールと芥川氏のフレンチな文学に例えて、 大谷崎=イザナミ女神の文学性へ返すように、そうすれば、 自然体の情緒的ヒステリクスは肝要なのだった。能面が、般若に変るのは 黄泉比良坂において、三島文学=菊理媛の仲介役によって、その岩によって 光り輝く太宰のイザナギ男神的精悍さを、情緒の乱れによって見送る時に。 怒り狂えるイザナミ女神の発端は、男神の一枚岩の正義がわがままに響く その呆然とする知性に対しての怒りであって、それは何か裏腹への怒り。 表裏一体こその静けさであるのに、表面的な反射によって判断する誤りに。 この般若の相貌には、ひとかたならぬ静かな暮らしへの想いがあってこそ。
正しく、情念には破壊を浄化してゆく知恵のコントロール技術の含まれる。 そうして裏の循環摂理はなりたっているので、光りによってすべて消す といったようなのは、戦争経済と何も変わらない志向であって、情緒的な 日常の天然湿度の中で解決する身体由来の経過のあるとするなら、それは 情緒の情念的ないわゆる情欲循環コントロールによってしか、その常温は 保たれないのだった。般若は常に嫗である。いや、そうあるべきなのだ。 そうやって、いつも怒りに枯れている茫々と寂寥とした感慨を現すのが、 情念にはふさわしい。計らずも男性性は遠く彼方に押しやってしまえと、 巌に蓋をされた、彼らの国は、もう鉱物的なスピリチュアリティにしか、 含まれず囲われ、だき入れられてはいないようだが、そこに、男性性の 隔絶とした、中和され赤青に別れた大地と空との、水と風との調和は 有りえないのだった。珈琲プレグナンスとゆう造語を嗜好しだすのは、
そこに、情緒ヒステリクスの地球温室においてはぐくまれる暖かさの中で 結果的に正しさとは受容するのによって見出されるモノの多分に大きい、 そうして、正しさとは、ストレートさ素直さ一面性のたぐいにはなく、 多面性を受け容れること。情念コントロールは情欲循環的な何かでは、 そうして破壊を調整してゆく暮らしの技術におきながら、戦争経済とは 一線を画す技術の生活意欲として、裏側の…

業の泉へと向かう身体の、ラッセルと太宰に寄せて

ラッセルは、聖パウロのようで、太宰はイスキリのようで。
だんだん、平和への祈り道が、業の泉に到着しそうな予感がして、 潔癖症なくらいの綺麗好きなのが、人間臭さとゆうか、仏の道などと 融和して行きそうな気のする、不可思議な強靭さを呈している例え頓挫しても 身体は、もっとマジカルなパラレルトリックの物質ベースで核融合する、 そんなカルマベースで行ける世代的にも壮年期である、現代生活ではある。 その業の泉に予め潜ってゆけば、クリームチーズのしっとりパンを食べて 抹茶の豆乳ラテを片手に吸いこんでいるこの孤独なポルターガイストに、 あるいは、怖いは好きの裏返しと言うのは、殺意さえも愛情ではあるが それに対して、業の泉に融けこんでゆくのが、ひとつの世相ではある。 こうして美女と野獣をみながら、眠りに親づいてたまの孤高にある夜中。 ロマンチックにあればまたも安心するが、しかしながらも文学にあっても まだ安堵の嘆息ついてはいられもするのに、ソファに横たわりながら、 空調を点けて念じることのあるならば、やっぱり安寧はここかしこの 瞑目してみえてくる、あるいは知性はラッセルにも、太宰にもある。
鋭意において、横になり手に余るほどの情報を世界は2つか3つあるのか、 この希望ともとれる情報存在は世界を意識すれば動じて溢れ出てくるのだった。 ロバは、四肢によって人間と同じように体幹を感じているのか?とは言えば、 幸福論を読むラッセル的知性は、太宰のアフォリズムによってもまた違う感じ を抱かせている。この感じは綺麗なのと、情熱的な愛のカルマとまた似ている 希薄で軽やかな明度の高さと、低部にありながら、渾々と湧く泉の如く、 頂上と伏流水の部分には地点的に密度は違えど、空間も時間速度も違えど、 知識として共有している何かの輝きのあるのだから、例え山頂と麓にでも 星はみえるのだから。この星とゆう知性の知悉するファンタジーを大切に してゆこう。これは、いつも知識はこの魂にあるゆえの共通地点。なので その叡智によって、wisdomを捨てるとこまで行かなければならないのだ。 Let it beも、風に吹かれて、にゆかなければ、その先は普通の生活なので その繰り返しながら発生する風の地点。送風の生起される場所が好きで、 それでも同じく普通の生活の繰り返しながら、叡智を捨てる所にいれば 叡智を捨てて風の起こ…