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リゾットにジャコと,お醤油を掛ける自失しそうなお昼に

白菜の中華スープが残っていたので,オリーブ油とミルクと,
あと,明太のソースを加えて,リゾットを調理してゆくのだった。
そうして,ジャコに醤油を振り掛けて,頂く昼には,春のノドカさ,
茫然自失してしまいそうな,春のノドカさ,意識を失ってしまえば
例えば,良いモノでもないのだけれど。この不可思議な茫然さには,
何故かコメディ調にバッハ:クラヴィーア曲集の響く,やっぱり念願の
グールドによる演奏を集めて,ストリーミングさせて頂いております。

意識を失ってしまえば,とゆうのも,ここでは何と言うか,あの脱落と
禅では呼ばれる感覚によって,例えば世界のガラリと換わる瞬間のあれば,
それらはことごとく,この自失する感覚なのでは?など,諧謔を込めて語る
禅語とゆうのは,それは茫然自失も這入るのでは?など,発想を詰めて喋る

明太の中華リゾットは,そんな昼にも,もってこいの中和した幻想誘発体で,
それは,それでいて。お茶をぐいっと食後に飲んだら,あとは,日暮れまで
あのヒバリの飛翔を待ちわびて耳を傾ける。自失する前に,低血糖だったのか?
リゾットを食べればガゼン目の覚めてきて,さっぱり意識は頑強に戻って行く。

リゾットにジャコと,お醤油を掛ける自失しそうなお昼に,魔境とは常識的に
ストイックさそのものであり,自失しそうな低血糖を,苦行そのもので解決する,
克己感性の賜物。上昇志向の,また,禁欲主義によって,意識を転換しよう,と
試みる,一種の茫然自失関連の何語かを,禅林句集の中に検索してみよう,と思う。

緑のハンガー(衣文掛け)が好きで,ふと,食後の緑のエコボトルの傾いて倒れる。
この瞬間に,エゴは折れたのだ。折れたエゴは葦の一本で,知性的には人間と化した。
そうやって,克己する自らのストイシズムと,グルメ志向によって,闘って行く。
孤独な,あるいは一人でゆく,食事に関するデトックスと整腸問題の闘いは,誰よりも
自己自身の解決法によって,解除して行く,トラウマと歴史と浄化作用のテーマである。

アセンションとゆう言い方の流行状態にあって,実はディセンジョンの方にこそ
秘密の鍵は隠されていると気付いた人は,きっと,ご飯が好きで,油揚げのお気に入りな
稲荷神のような方だったと推測する。意識の転換は,望めば誰にでも可能でそれは剽窃を
飄々と行うような,シンプルで簡略する道である,とをば,気が付くのである。それは,
ジャージャー麺を眺めるのみで,食わずして喰らうような心地。きっと,それは,白湯を
呑まずして,手を洗い,顔をすすぐことに用いるような,そんな感じに親く思われる。

身体の洗浄,いわんやオーラのクリーニングとゆうやつは,リンパの流れをよくすること
そうして,内臓の位置付けを元に戻すようなそんな手段と良く似て,ナポリタンよりも,
もっと挽き肉の入ったミートソースなどを,喫茶に求める心地のようでいて,きっとあと
紅茶を決まって食後に所望したいのだけれど,ここは我慢。と,無論のことそれら朝食に
試みてのこと,珈琲は胃腸にまだ早いとばかり,梅醤番茶などを頂いて,一服するのだ。
なべて,それらは実現されなくてもいいと,身体洗浄もスルーされる日もあるのだった。

ぬぐいきれない感情めいたモノに,執着また愛着まで感じてしまう,美学の柔軟な所を
受けとれるそんな瞬間に出逢える。日常は,このエゴの保たれていれば,物腰の柔らかに
頓着しない形ですすんでゆく木舟の川下りのようなのだった。古建築にオシャレの入るが
好いとして,そういった地味さにフルーツのカット盛りなどが供されるのが,何よりもの
日常性なのである。仏壇にお茶を汲んで置く。すると,翌日には酵素の含まれる供養態。
こんな現実の質実さに,町屋共同体などの本筋は含まれていて,ナポレオンを表すのに,
ナポリタンフィッシュなど言いもし,芥川先生を示すのにAKUTAYAMA BOWLなどとは
サラダのメニューのように語ってしまう。

意識の転換の計られれば,きっと僕の生命もまた自己も周囲の環境さえもないのだろう。
ならば手洗いで用を済ますのと同様,自我を自我同様に,このまま保持してゆくのが,
世界に活きるロゴスであり,言語としての情熱なのだろう。罪業とゆうモノ一切の一度に
ごっそり抜け落ちたとする,そうしたらばもう,それは言語の終焉であって,むしろもう
この世にない精神態の発露であるはずなのだから。むしろこの業の泉作者のうちは,その
あいだのうちは,意思と言う意思を放棄して,意図と呼ばれる意図めいた計らいを捨てて
捨てられるエゴを隠して存在しないように生きてゆこう,それは春の陽気さに似合う。










こちらは如何?

解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを

足元のゴキブリをきちんと処理できてからでないと、ものごとの全体的な オーガナイズなど、できたモノではない。かと、言って大きく自然は常に 世界にあるのだから、とりもなおせば、オーガナイズすなわち全体性とは 自然相手に行う人間の営為と言っていい。これは、自然相手の常識を壊す と称しても良いことで、その人間の中の自然、知性や、また、昆虫類の 自然と呼ぶにふさわしい集合意識的な流麗なエナジーに対しての、技術。 意志と呼べば、意志である。かと、言ってワガママには振る舞えない、 無意思の意志である。最近、穀物の喉元を通らないのは、こういった 自然への意志が挫かれている。むしろ、そういった意図を失うべきな 自然バランスの崩れを食欲不振や、情動麻痺に親い感情に観て取れる。 なので、その解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを起こして どうやったら貧血にならず、穀物も避けてよければ避けて通りもして この栄養失調との闘い、いや付き合い。にしても、快く自然のなかを 通り過ぎてゆけるか。酒でもない、薬でもない。とりあえず、イカの つまみでも摘んで、その勢いで、お豆腐、納豆。そうめんをすすいで 二束ほど掻き込んだ。これが精一杯だ。拒食の強い癖はないだろうが 温かい調理など食べられたモノではない。ましてやこれは過覚醒代謝 でもあるだろうが、意識を上向いていられる分、夏の大気は天国へと 持って行かれそうな暑い上昇気流をたずさえているのだから、すこし グラウンディングするように、穀物の製品も頂くべきだろう。夏の夜 昼間はラマダン期間のように食を細めていた自分の夜食に祈りの姿を みせて冷たい食品ばかり頂くのだから、自然の乱れとゆうよりそれは 自分の乱れである。そうして、呆然と朝を迎えて、鳥の声は盛んだ。

生命システムを収束させているようにも感じるのは、真夏の景色だ。 乱れは美しくもあるが、それは整えられた収束するシステムの過程を まざまざとミクロに見ているのだから、そう乱調の美を感受するのか とも思うのだった。いわずも全体性のオーガナイズは自然への技術的 意志の欠如のうちでは成立せず、そこには知恵の要る知的作業の求む らく、あの野草の薬壷へ手を突っ込むような感じで、よもぎ餅を摘む 大きな頬っぺたで味わう春の蠢きを再現させる作業を必要とするのだ。 夜食の後でアイスバーをたべた。空になったバーの木の匂いは象徴的に その感慨を現している。きっと、自然の芳香を実際…

珈琲プレグナンスとゆうは、地球号温室にて培う

さもなくば、右側頭部の情欲野ともとれる情緒的ヒステリクスは肝要。 男性性が這入りこむので、情念はヨコシマなアーリマン的要素をあらわすので、 いたって自然理にあれば、そのヒステリクスは肝要。アーリマンは赤鬼。 ともすれば、男性性を太宰など、イザナギ神話にあてはめまた、 女性性のイザナミ陣営を、アナトールと芥川氏のフレンチな文学に例えて、 大谷崎=イザナミ女神の文学性へ返すように、そうすれば、 自然体の情緒的ヒステリクスは肝要なのだった。能面が、般若に変るのは 黄泉比良坂において、三島文学=菊理媛の仲介役によって、その岩によって 光り輝く太宰のイザナギ男神的精悍さを、情緒の乱れによって見送る時に。 怒り狂えるイザナミ女神の発端は、男神の一枚岩の正義がわがままに響く その呆然とする知性に対しての怒りであって、それは何か裏腹への怒り。 表裏一体こその静けさであるのに、表面的な反射によって判断する誤りに。 この般若の相貌には、ひとかたならぬ静かな暮らしへの想いがあってこそ。
正しく、情念には破壊を浄化してゆく知恵のコントロール技術の含まれる。 そうして裏の循環摂理はなりたっているので、光りによってすべて消す といったようなのは、戦争経済と何も変わらない志向であって、情緒的な 日常の天然湿度の中で解決する身体由来の経過のあるとするなら、それは 情緒の情念的ないわゆる情欲循環コントロールによってしか、その常温は 保たれないのだった。般若は常に嫗である。いや、そうあるべきなのだ。 そうやって、いつも怒りに枯れている茫々と寂寥とした感慨を現すのが、 情念にはふさわしい。計らずも男性性は遠く彼方に押しやってしまえと、 巌に蓋をされた、彼らの国は、もう鉱物的なスピリチュアリティにしか、 含まれず囲われ、だき入れられてはいないようだが、そこに、男性性の 隔絶とした、中和され赤青に別れた大地と空との、水と風との調和は 有りえないのだった。珈琲プレグナンスとゆう造語を嗜好しだすのは、
そこに、情緒ヒステリクスの地球温室においてはぐくまれる暖かさの中で 結果的に正しさとは受容するのによって見出されるモノの多分に大きい、 そうして、正しさとは、ストレートさ素直さ一面性のたぐいにはなく、 多面性を受け容れること。情念コントロールは情欲循環的な何かでは、 そうして破壊を調整してゆく暮らしの技術におきながら、戦争経済とは 一線を画す技術の生活意欲として、裏側の…

業の泉へと向かう身体の、ラッセルと太宰に寄せて

ラッセルは、聖パウロのようで、太宰はイスキリのようで。
だんだん、平和への祈り道が、業の泉に到着しそうな予感がして、 潔癖症なくらいの綺麗好きなのが、人間臭さとゆうか、仏の道などと 融和して行きそうな気のする、不可思議な強靭さを呈している例え頓挫しても 身体は、もっとマジカルなパラレルトリックの物質ベースで核融合する、 そんなカルマベースで行ける世代的にも壮年期である、現代生活ではある。 その業の泉に予め潜ってゆけば、クリームチーズのしっとりパンを食べて 抹茶の豆乳ラテを片手に吸いこんでいるこの孤独なポルターガイストに、 あるいは、怖いは好きの裏返しと言うのは、殺意さえも愛情ではあるが それに対して、業の泉に融けこんでゆくのが、ひとつの世相ではある。 こうして美女と野獣をみながら、眠りに親づいてたまの孤高にある夜中。 ロマンチックにあればまたも安心するが、しかしながらも文学にあっても まだ安堵の嘆息ついてはいられもするのに、ソファに横たわりながら、 空調を点けて念じることのあるならば、やっぱり安寧はここかしこの 瞑目してみえてくる、あるいは知性はラッセルにも、太宰にもある。
鋭意において、横になり手に余るほどの情報を世界は2つか3つあるのか、 この希望ともとれる情報存在は世界を意識すれば動じて溢れ出てくるのだった。 ロバは、四肢によって人間と同じように体幹を感じているのか?とは言えば、 幸福論を読むラッセル的知性は、太宰のアフォリズムによってもまた違う感じ を抱かせている。この感じは綺麗なのと、情熱的な愛のカルマとまた似ている 希薄で軽やかな明度の高さと、低部にありながら、渾々と湧く泉の如く、 頂上と伏流水の部分には地点的に密度は違えど、空間も時間速度も違えど、 知識として共有している何かの輝きのあるのだから、例え山頂と麓にでも 星はみえるのだから。この星とゆう知性の知悉するファンタジーを大切に してゆこう。これは、いつも知識はこの魂にあるゆえの共通地点。なので その叡智によって、wisdomを捨てるとこまで行かなければならないのだ。 Let it beも、風に吹かれて、にゆかなければ、その先は普通の生活なので その繰り返しながら発生する風の地点。送風の生起される場所が好きで、 それでも同じく普通の生活の繰り返しながら、叡智を捨てる所にいれば 叡智を捨てて風の起こ…