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河童は道祖神なの?と聴かれキュウリを摘む。

ガンジー=ナポレオン=エリーザベト・クリスティーネ,
あるいは,また,アメノウズメと彼を称して,
河童は道祖神なの?と聴かれキュウリを摘む。
岩戸開きのアマテラスは,また国譲りされた大黒さんでも
あって,それで,イザナミにお遣いに出される,河童は道祖神なの?
と聴かれキュウリを摘む。キュウリを摘む東照宮,小説を描く芥川。
アマテラスは道祖神なのだ,そうしてまた,国譲りされた大黒さんでも
あって,僕は,ナポレオンのアメノウズメの気分で,女神を迎える。
岩戸開きはアメノウズメによって始まったとはあるけれど,開かれた
彼の女神さん,むしろアメノタヅクリ・アナトールフランスによって,
幸せは,実感することにはなく,それを感じられないところにあった,
時よ止まれ,と実感することに世界の静止はあって,私は感じられない,
私は正しかった。とは,むしろ自己受容の方にこそ,岩戸開きはあった。
陶酔することをこそ,アメノウズメは与えるだろう。けれども,本来の目的は
感じないこと,感じられないことこそ目的に適うとして受容したのだ。
ナポレオンはなぜウズメなのか?彼は,欲動の結果,開くことを使命に
感じないのを本来の目的に据えることへ賛同の意思を持って,輪舞した。
朝食に珈琲豆乳を頂いて,ああ,キュウリの漬け物とおにぎり飯を欲する,また
僕も,女神の友である証左で,ウズメのサルタヒコは,何処の島巡りより還る?

例えば、リルケ=ドナテッロ=ヒュパティア=ラムセス2世などの
系譜があれば、サルタヒコの姿のそんな感じなのだった。それで、
細うどんを釜揚げに茹でて、納豆のお出汁でネギを刻んで頂く、と
食後には、冷凍してた饅頭を解凍して、珈琲豆乳を淹れて、ホッコリ。
例えば、それで、ナポレオン=ガンジー=エリーザベトの、アメノウズメとの
邂逅が適えば、それでそんな会話で食事をされると思うのだった。
突進するようにして叶う願いのあれば、そんな先祖供養のように、
歴史に対しておこなう、循環を促進するための、輪廻巡業などだと思うのだ。
循環する、歴史の肝臓グリコーゲンのような、そんな強烈な
パッションめいた、冷めてもシャリシャリで、歯ごたえのある
唐揚げを、二枚着のインナーも裾より出して頂く夕べに、
意識も遠のくように灯油ストーブを点けて眠りに落ちる。
あれは、基本的に憑依とゆうか、霊媒と呼ぶのか、共感能力の
高い環境変化に影響受ける、カメレオン体色変化のごとき情感。
それでも、都市生活が好きだ、打ち放し建築大好きだ、抽象アートに
オシャレな数学式の音楽性のハマり凝り性なのです、どうしても。
なんて、いうように無機質な夕餉の匂いに惹かれる立場にあって
これらは、もうどうしようもない、やはり、この世界の平和を
願っている、としか思えないそんな自分の気持ちに気付くのだった。
床の間横に、違い棚と呼ばれるような一段高いところへ、
祖母はいつも、祖父の若くして亡くなってしまった当時の母の
モノクロ肖像の額を飾って、一杯のお水を置き換えながら、
1日に1回それを、手に取り口にして、なぜだか大事に祈ってた。
この習慣を、もう曽祖母の写真もないけれど、何か家運の溜まり場と
見ることによって、ポルターガイストの解決法とばかり、烏龍茶で
再開してみたところ、このお茶は何か湧き水みたいな酵素的発想を
思わせ、必死なので、祖母に倣ってこの習慣と、あとは音楽を流す
愛情表現を先祖返りに施行してみようと心掛ける春先の夕べ。
ひょんなことで、ご先祖を意識しようとは、ホントにこの世は不可思議。

良質なヴィジョンより追及されて,共有できる明澄な霊視意識などより,
僕は,業の湯浴みによって,芸術に志向して,情熱的に指向される妄想で,
この背水の陣に神の断崖へ突き落されるか否かの,所謂諧謔めいたモノを
楽しんでいる訳で,しかしながらのヒューマニズムはそういった,妄想=狂気,
そうして,=新緑の=人間性への芳香へ,向かってゆくはずの嗜好であるはず。
こういった初夏の入り口に立って,緑蔭に上澄みのように,揺蕩うモノの
この情緒観照のとっても無頭人的発想のすこぶる脳の開いたような感傷自体で
ひとは生きていける。生きて行けるのだった。これは緑茶を噛む心地,そのまた
G.グールドのゴルトベルク変奏曲をその夕暮れに聴く心地。G.グールド自身も
またエンパス体質だったようで安心させるきらいのある想いをして,そうだなあ
そうだよね,などと,芸術的体質であるのなら,それは一時間の面会で,その
数倍も独り自室の時間を過ごす。そうだなあ。そうだよね,など。思いながら
双子宇宙=地球の裏側に,目を瞑れば移行トリップしてしまう,その境涯には
奥さんの枕元に傾きもせず,何の不思議もなさそうに置いてある,カップを
みて,それは,布団の上のカップ&ソーサーで誰が淹れたのか解っていない
僕は,こぼれることの心配もない様子で”ふ~ん”,と言いながら,誰か他の人の
淹れたのではないか?嫉妬し不安がりながら,本当に理性もなく,心配している。
それが,夢で居て,反対の宇宙なのだった。しかしながら,この目覚めの時期には
理性のあることは変人であって自認している夢の感性にも,大事な,本当に可笑しい
くらいの大事なことで,夢のなかに陶酔できる情熱を抱えながら,真面目になる諧謔
これの,いたって,普通そうにして,ウーロン茶でドリップする僕の姿を横目で
通り過ぎる奥さんの視線もまた夢見心地に観察していないものか?確かに,夢は
美しく,美味しく,また甘美で,酔いに興じる業の泉の作者兼湯治客にとっては,
必須の条件でかつ魅惑のモノであるけれども,そこのあたりに,一点の真面目さが
ある,それは諧謔であり,笑顔であり可笑しみだ。







こちらは如何?

とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。

白黒の隈を着けて,いつもよりも浅煎りの珈琲豆を一杯のお代わりを 受けて,淹れなおす。家の台所は,さながらカレー屋さん気取りの, とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。 とにかくもゴッコ気取りで楽しみながら遣りすごす,台所での一時。 ダサいと言っては,何だけれど,バランスの好いのはそうゆうことだ。 そうして,そうゆうダサさをこそ,落ち着いているとして好む,そんな 白と黒を半分ずつ割って入れるようにして,豆乳オーレにして頂く珈琲は, 真皮に黒を抱きながら,表面きっての自分自身は,笑顔で白を通す,その 面白さは微笑みより訪れるので,にっこり気持ちは構えて,ダサさを通す。 それでしか淹れられない,なかなか浅煎りは,カフェオーレでしか入らない。
追及しては,戻ってくるのは番犬や番猫で,何だよとゆうばかり,番猫なら 招き猫みたいにスレンダーな物腰で,いいやスレンダーではないか,でも。 多分,何にもいないのだから,彼らにとって,虫の知らせは,いわゆる枯れ尾花 であって,そのざわめきや囁きのようにして聴こえる,彼らにとっては雑貨店。 トフィーのような濃厚な滑り出しで,カフェオレに合わせながら眺める,こんな 洋菓子店をめぐるように猫などの物腰の豊かさを側に置いて,ぼくは先日のあの ロイヤルウェディングの様子を想いだす。白馬のリードしている子の,ちょっと 荒れているのには,繁華街に急に放り込まれた武士のようなイメージで,そりゃあ 興奮し,混乱もなさるでしょう?とは,そればかり心配してはいなくても,やっぱり パレードの壮大さは計り知れない。ダイナミックであり,本当に生命力学的にもっとも ハラハラもし,手に汗握る。この悠長にはPCの前に座りながら,安堵して,折り畳む。

基本的にはまた紅茶とキャラメルを合わせる感じで良いと思うのだった。ちょっとした
あの渋味と,焦げているような甘味のあいだで,切なさと勇気を半分ずつにおおげさに
振る舞っている。週末を終えて,家族サービスとゆう毎度のほどでもないのだけれど,
毎日に平日のスタートを切る僕にとっては火曜日。風邪を引いてると体力よりも果敢に
すすめないのでこうゆう話題になっているけれど,それも治った後の話として,本当に
スタートを切られることに,爽やかな活発さをさえ抱いている,早速まだ沸かしたてで
すこし温湯のお茶を頂い…

憑依するとゆう言葉には,入り神級と創作ウォークイン。トリップなど様々

前世ゲームとは言え,嵌入しきって書物の渉猟をすることは,最も
アクティブな瞬間で,それはインナーに居て,集中度の高まる体験。
憑依するとゆう言葉には,入り神級と創作ウォークイン。トリップなど
様々あるけれど,それは研究意欲としてそうなのであって,きっと以て
どれでも良いはずの日常と,外側の経験則のなかでは処世術としては
仲介されえない範囲の事柄ではある。なので,運筆とゆう詩性に向かって
コンスタントに埋没しきることのなかにも夕暮れ時に適うような,そんな
”前世”=書物文化のあって良いはずだ。転生とゆうことは,それほどまでに
コンセントレーションの中に含まれていて,一種の隠喩のようにそこにある。
それで,いま没我した自分は転生している,うん。それで良いじゃないのか?
例えば,自意識のうちで,第一に身体を漱石山人より,次に生命力を太宰さんに
三番目には意識的に明るさを芥川氏より頂き,個我みたいなモノは三島文学より。
僕の竜退治のミカエルは彫刻家のロダン=文学にF.ラブレー=透視にスウェーデンボリと
言った大家より受け賜って,ジヨットのイコンにおける精神性において開花する。など
ここまで自意識的に説明したところで,それらは”前世”とは関連のないことではある。
集中力に謎解きの扉を開く鍵のあることを知悉して,ようやく,眠りに就けそうである。
渾然一体となってファンタジーは,一度死に,二度目に産まれる魂に対して,何らかの
ギフトを与える。集中力によって,ソウルは再び現れた記念として,”前世”の贈り物を
授かるのだった。そうやってゆこう。黄昏に,贈り物としての言葉を貰うようにして,
やっぱり夕餉の匂いは良いモノである。そこかしこに湯気の上がって,昔はさながらの
薪のくべられた薫りなど漂っていたろう。こうやって,時代は溯られれば,魂のうちに
何らかの,記憶=ファンタジーを得ることのできるはず。

急に,突然の報せのように,白い聖母信仰のほうへ寄りかかって行きそうな気さえして。
夕餉の匂いにのせられて,それらは,ふわりふわり声明を携えて近づいてくる。夕暮れに
不可思議な想いを感じ取らせながら。この白い芳香は何処から遣って来て,今さらながら
ついにこの辺りまで,ついの最近までは,いったい何処に居られたのでしょうくらいの,
何だか不可思議にふわりふわりと感じられる香りなのであった。良い…

季節を描写するのみで良い,そんな甘露の雨粒と,上がった後の煙。

人文的な要素のないと言葉の発想も浮かんではこないもので,なおさら まだまだメモしておきたいことのありそうで,けれども,もうこんなにも 季節を描写するのみで良い,そんな甘露の雨粒と,上がった後の煙。雨煙に 合わせて,ヒーリングのアロマ・ミュージックなる分厚い音楽を掛けながら そのブランケットにくるまれて温かい心持ちをして,人文的より,また素描。 ああいう荒野にそっくり掘り込まれた教会遺跡群などは,もうイニシエートの それら現代のクラブシーンだったのだろうか?僕はその際,家で,お茶を啜る あのインナースタイルの静かなもんだったろう。なんて,基本的に動くとゆうか 家の中を満たすひとつの酵素で生きていたい。生活の匂いは,家の樹々の香り。 肉食には,昔の突っかかりを感じて,なかなか馴染めないけれど,元気は出る。 美味しさに賦活されて,文化的に色々楽しめることを良しとしては,けれども 今となっては,雨に巻かれてウッディな温もりに浸透されることの,浄福なので。

咳や熱風邪も,一度肺炎になった?と感じ始めたところで,一気にスノーマンの 夢を見て瓦解するように退けて行った。その余韻に燻製チップのような薫香の, ハートあたりに漂って,それはまた幸せな健全さの回復を予想させるので,納得。 燻製や北国のイメージは,やがてその厚くなった肺や気管の様子を想像させて, それでロマネスクなのだった。北国は,やがて魔の山も克服して,こうして篤く 人のこころを暖めてくれる。けれど,だからといって,こうゆう時に何かお肉食を 試みたくなる。本当に,篤い人生を効果的に造りだしたいのだ。むしろ,厚く強く。 豚肉の小間切れを,醤油麹とみりんで,お酒を加えながら,すこし甘味噌など足して 玉ねぎ,白ネギと共に炒めてみたのだった。奥さんは仮眠中なので,起こして頂ける ような料理だとは思えないので,ソファの近く,炊き込みご飯を解凍したのと,側で 摘んでいた。明日は英国のロイヤルウェディングだと,ニュースでしていて,思わず 感涙してしまい,僕も不可思議ながら,少しく傷付いた思春期に,感情移入しては, いかばかりか砕けた心持で経過を感じていたので,何だか,ホッとして,うるっと。

すべてお肉食で感情までも呑み込んで,取込んでしまえたらそれで良いのだけれど,
切なさや,哀しさ。鎮魂の想いまでは,そんなに簡単に解消していったり…