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水との婚姻を促すサヴァイバル,婚姻後の時雨嵐

頂き物の瓶詰めアヒージョの牡蠣とやらに、
こんなにオリーブ油を、たっぷり摂取する食品は
今までペペロンチーノくらいにしか知るはずもなく、
実際にオリーブ油を啜ると、またお酒みたいに酵素質で
オシャレだなと思う。牡蠣を摘んで、落としてあった
デカフェを、ブラックで呑み込めば、手巻き寿司の
酢めしが堅めてあって、それを口直しにもらう。
マウイのきび砂糖とゆうのを、奥さんのお土産で
小分けにパッケージ造りして、ブラウンと精白の
2種類があるので、ハワイのサトウキビとは、また
オシャレだ、など。リトルクレイソルトと、説明の
してある、あちらでは健康に良いと言われるような
ケルト塩と呼ばれるアイルランドの海塩も、一緒に
小分けパッケージしているのだけど、これは半ば
しっとり、すこしグレイがかった色味のしていて
健康に良さそうと言えば、そうなのだった。食後には、
マカデミアナッツの、緑はガーリック、赤はハニー。
青色は、燻製の風味をした、おつまみみたいのを
いただいて、甘味香味とないまぜにミックス分け
する文化もまたオシャレだな。など、感心してる。

恐怖は、それと闘えば、サヴァイバルを産み出し
そこから、平和を祈る気概に、やがて時雨に嵐。
また、ぼくは、世間的にノイローゼの思春期を
通過した体験をふまえ、いまさら、青空に融けたい
などとか、それよりも泥土にパッキングして、
常に田んぼでボブスレーで、田んボブスレーなど
していたいのだった。なので、平和を祈れば、
俄然、嵐の始まり、時雨どきのスタートする夜半。
時々、キッチンに降りては牡蠣をアヒージョアヒージョ、
と、摘まみこみ、まるで、オリーブ油に愛された
春眠暁を覚えず、は確実な夜更かしをしている。
時雨どきの始まれば、安心したものである。もし、
この世界の青空に包まれたとして、周囲の静けさの
確保しておれなければ、ノイローゼの再発は、
核心的なのだ。僕は、思春期後、読書に耽り、
農場体験などして、機織りや綿造りをして、この
全体主観。何を知悉しているかは、わからない。
それなのだけれども、キープするボトルは地球で
あって、その酒は、まるで美酒とは呼べないので
非常に莫大な強い酒であったのだった。青空かあ、
はるか彼方に、みえるそんな明るさを眺めては、
僕は、嵐を呼ぶ方が、ふさわしいのだった。その
確信は、周囲は嵐でも、私が青空であれば、この
世界は安定している、とアンチテーゼを唱える、
そういった祈りでもあるのだった。

牡蠣のアヒージョ田んボブスレーに想う春眠とは
春の田んぼにレンゲ蜜の摂れるころ、蜜蜂は働き
春は働き、醇風は働き、また、せっせと、春眠の
その冥土の眠り自体の、せっせと働くのだった。
嵐は、怒りとゆうだろう。エナジーは輪舞して、
ポツポツと、地面に土の滴を弾かせるのだった。
一度、エナジーは愛されて、舞い上がってその後
荒ぶる怒りのような様態で、それは喜びの螺旋を
体現した天気の返事のようでもあるのだった。そう、
わんさか降ってほしい。降るがいい、とでも言いたい、
けれども、それは僕の喜びをあらわす発言とも映り、
また、失礼にも当たるから、大地の返答、土の滴に
愛して降ります、の一言を添えて、喜びを表すのだった。
ほんとうに、春の夜の嵐に、時雨どきの美しさは
落ち着かせて、愛するエナジーの下降グラウンディングを
意識させ、またまだ、もっともっと降ってほしい、
など、温かい季節に雨のふるスタートの感じは、
一向に喜び以外の何者でもない。慈雨だ。あの、
田園交響曲の雷雨の感じは、ベートーヴェンの
降らせた雨だ。そんな感じで、雷雨の根源は?と
訪ねれば、そのスカイには、何だか自分の差した
傘の拡がっている。そうだ、傘を差すから雨のふる、
そんな傘形のUFOなどいて、雨を降らす想像を
思い描きながら、世の傘とゆうカサに感謝‼︎!とをば、
声を掛ければ、傘を差せば雨がふる〜、思い描けば
傘を差す〜、と言ったような、漱石の夢十夜のような
翁の登場して、物語は一向に時雨どきに続いて行くのだった。

こちらは如何?

意味深長に珈琲=胆汁と,虚空アカシャの転生色彩譚

自分の中より明白に,何かの意味とゆうのが抜けてから,もう ひさしく感じる。意味がないのは,基本的に穏やかな静かさ。 意味深長に珈琲=胆汁と,虚空アカシャの転生色彩譚を標榜して, このBlogを,ただ描き切っていた頃合いが懐かしく,今もまた デカフェの珈琲豆乳を呑んではいるが,その懐かしさは過去による モノだ。大抵は,すでに生豆の焙煎などの200℃にコンベクションで 送風して,ゴーゴーと30分やそこらで終えてしまうようになってから 浅煎りなのだか焦げているのやら解らないように感じるのだけれど, それはそれでコーヒーの味わいには届いているのやら?割ってしまえば 飲むことはできるので,有り難く美味しそうに頂いてはいるのだった。
西郷どんを堀辰雄氏に当て嵌めて,萩原朔太郎氏は近藤勇になって, 谷崎潤一郎氏は高杉晋作=イザナミ女神的な,太宰に龍馬伝説を, 立原に乾退助の影あれば,川端翁は松陰先生で,三島に桂小五郎の 余韻を曳いて,それは歴史の風韻の現す,ラッキョウの砂丘には彼の 風紋を遺す,風の報せ。むしろの虫の知らせなのだった。また戦国には 堀さんは信長公,萩原さんは上杉謙信。大谷崎は下って8代吉宗公に, 太宰の独眼竜を供えれば,立原=千利休=秀頼公の,川端翁の信玄=武蔵。 三島文学は遠くサド侯爵=マキャベリまで溯る。付随して,漱石山人には 太閤秀吉=一茶によって,東照宮には芥川氏とアマテラス=恵比須さんの この豊かな不老不死伝説までも含めて,さては,宮沢賢治=清正の井戸。 ここまでよくぞ堪えてくださった,とばかり。意味深長に珈琲=胆汁と, 虚空アカシャの転生色彩譚を,計らずも与えて下すった”歴史絵巻”に謝々。

フォーの麺のあって,それに合うスープを造って頂きましょう,とゆうことに 昨晩も今晩も量はあまり摂らずに,眠りやすい環境を整えてゆこうと言っては, 胡麻味噌や,コチュジャン。鳥ガラスープに醤油みりん。ヌクナムなどに塩胡椒で ネギとニラ,油揚げを加えて,胡麻味噌には八角など,山椒の粉も入ってるので 大事なのは麺がゆるゆるにも芯残りにもならずに好い茹で加減でできるとなとゆう ところで,食卓には何とか一緒に楽しめるほどの時間は過ごせたのだった。あと, お風呂も沸かして,コトコト響いてくるような背景音に合わせて,こうして夕暮れに タイプして行く心地。あまりに最近お喋りもすすま…

とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。

白黒の隈を着けて,いつもよりも浅煎りの珈琲豆を一杯のお代わりを 受けて,淹れなおす。家の台所は,さながらカレー屋さん気取りの, とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。 とにかくもゴッコ気取りで楽しみながら遣りすごす,台所での一時。 ダサいと言っては,何だけれど,バランスの好いのはそうゆうことだ。 そうして,そうゆうダサさをこそ,落ち着いているとして好む,そんな 白と黒を半分ずつ割って入れるようにして,豆乳オーレにして頂く珈琲は, 真皮に黒を抱きながら,表面きっての自分自身は,笑顔で白を通す,その 面白さは微笑みより訪れるので,にっこり気持ちは構えて,ダサさを通す。 それでしか淹れられない,なかなか浅煎りは,カフェオーレでしか入らない。
追及しては,戻ってくるのは番犬や番猫で,何だよとゆうばかり,番猫なら 招き猫みたいにスレンダーな物腰で,いいやスレンダーではないか,でも。 多分,何にもいないのだから,彼らにとって,虫の知らせは,いわゆる枯れ尾花 であって,そのざわめきや囁きのようにして聴こえる,彼らにとっては雑貨店。 トフィーのような濃厚な滑り出しで,カフェオレに合わせながら眺める,こんな 洋菓子店をめぐるように猫などの物腰の豊かさを側に置いて,ぼくは先日のあの ロイヤルウェディングの様子を想いだす。白馬のリードしている子の,ちょっと 荒れているのには,繁華街に急に放り込まれた武士のようなイメージで,そりゃあ 興奮し,混乱もなさるでしょう?とは,そればかり心配してはいなくても,やっぱり パレードの壮大さは計り知れない。ダイナミックであり,本当に生命力学的にもっとも ハラハラもし,手に汗握る。この悠長にはPCの前に座りながら,安堵して,折り畳む。

基本的にはまた紅茶とキャラメルを合わせる感じで良いと思うのだった。ちょっとした
あの渋味と,焦げているような甘味のあいだで,切なさと勇気を半分ずつにおおげさに
振る舞っている。週末を終えて,家族サービスとゆう毎度のほどでもないのだけれど,
毎日に平日のスタートを切る僕にとっては火曜日。風邪を引いてると体力よりも果敢に
すすめないのでこうゆう話題になっているけれど,それも治った後の話として,本当に
スタートを切られることに,爽やかな活発さをさえ抱いている,早速まだ沸かしたてで
すこし温湯のお茶を頂い…

木星のユピテルは王者かオロチか。いままでの振り返りに三島文学

T.マンを聖ヨゼフのように置いてみて,またヘッセを聖母のように, アナトール・フランスはヘロディヤみたいだけれど,いつも伴侶として そうして,その木星のユピテルは王者かオロチか。いままでの振り返りに 三島文学を紐解いて,ユピテルはまたタウルスのように,虎獅子ドラゴン。 角をむいて,ひづめを鳴らしてる。平家はいまは民間のほうにあり,どちらか と言えば,源氏のほうが官になってる印象のあり,それはあくまでイメージ上の 捉え方だけれど,どちらが良いとゆうこともない。ぼくらは二分法のうちに, その掻き鳴らされたひずめの行方を案じて低頭に砂ぼこりへ咳込むばかりだ。 夜にはウーロン茶と豆乳を半々に割ってノンシュガーで少しずつ呑んでいる。 そんな頃合いに,どこまで行っても,この純粋な文学にあって,サド侯爵の 影をあたえて吹いている風のごとき三島さんのヨーロピアニズムと芸術指向に, はたまた,煤をいつも被って,ミサの毎に薫香の匂いを帯びて黄金にむしろ耀く。 この敗退の一途にしては,耀きをつづけるニーチェのゆうルサンチマンと呼ぶ辺り。 低頭に砂ぼこりを吸い続ける民衆のところどころに不毛の荒野に一輪のデイジー。 敗退の一途,か。攻撃性を否定すれば,いくら批准したところで世間体は常に彼の 後ろをついて,本来の王はあなたです,とは日常にあたえられる平和は文学に。 三島文学=マキャベリズム=武蔵坊弁慶=木戸孝允・桂小五郎=サド侯爵には, またフラ・アンジェリコの天使画の数々。この鈍いほどの重い香りを携えて,自宅には 芍薬を飾って,いまもまた鑑真香を焚いてすごす。彼の芳香には,恬淡と跪きながら。
三島さんは相当に筆のすすみの早かったように感じる。義務的にも遂行できる運筆の, そんなようなのを,良く感じる。葉隠入門などを読んでいると,まるで演算機のように すすんでいくタイプのリズムを感じる。むしろいつもそうだったかもしれず,無論のまた 抒情に浸ればひたるほど遅かったのではないか?とゆうには想像に難くないのだけれども 論調において,平和のために攻撃性を辞さなかった,その激しさに透徹した陽光の春めき などは,きっとこのあたり,彼の時間の調子と合わせられる特異性までゆかないまでも, 才能のごとき調和の一手のあったから。若きサムライのために,などは,僕自身のぱかっ と頭脳の開いた時にはことごとく濫読して…