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3月, 2018の投稿を表示しています

Experience of Humanism, プライベートな突然変異

きっと、外格みたいな自己自身、あの究極の虎の女神みたいな自分に、 戻れる日があったなら。と、ずっと思っていた。それは、何だか大きな山を 抱えて、壁をいだくように進み始めてからは、住人の棲家としての虎には、 その、内面の繊細さを、むしろ逆に輪郭線をくっきりとして、まざまざと 寂しく、細々く、僕はそんな道をアンニュイに辿ってきたのだった。 身体性の証左として、活動によって嗜好の砕ける瞬間には、この行動によっては 運筆さえも雲散霧消するところまで、僕の思考は身体になった。まるで、 ソフトクリームにパラソル型にポップなシュガーを掛けるみたい、 カフェラテに、ジンジャー加えるような、そんな心地においては、 もうすぐ、酵素にパラレルなスムージーを造る際には、何をか、 やはり豆乳がベスト。シャリシャリにするのが、良いね!など、多分に 色々と試してみたいのだった。パラレルとは言えども、それは 朝型か、夜型かの違いに他ならないので、どちらかの生活自体へと シフトすれば、それは1つの記憶に絞られるのだから、どちらかを 択ぶなどとゆう、そんな提案と、あるいは記憶領域について、その上で 夢の強さを活動自体に明るさで支配し、薄めれば良いのだった。
仏壇とゆうか、違い棚みたいなところに、古銭で造形された仏像のあって 仏舎利のようなモノまで入っているのでは?など、モノモノしくも 感じられる、その横には、セージ葉を日本酒に漬けたり、または 毎日のお茶などを供えているのだった。それは、曽祖母の若い遺影の 置いてあった、事実上かつての仏壇であったので、そうした 記憶の一端に、何かしら僕の記憶を仕事に換えるほどの転換ポイントを ONスイッチに押し掛けておいては、また、このラビリンスざまの自分に。 自分の人生にスタイルなどあったのなら、軸のないケイオスに対して。 もどかしい、情念の夜の世界に訣別してゆく、これは、眠りに入れば、 必ずも忘れられる類の記憶であるので、むしろの無論のことには、 決して忘れられることのなかったカーマローカを、もうすぐに。 眠りに就いて忘れてしまう。そう、そうなのだ。そうなのだった。
沢山のドリンクメニューを、考えていた。ホワイトカプチーノ、 クリームチーズオレ。デカフェ烏龍ドリップ珈琲豆乳のきな粉砂糖添え。 そろそろアイスドリンクに替える前には、デトックスざまのホットなのは …

エーテル的観照とは何なのか?鉱石ラジオにとっての電波。

基本的には人類の頭脳が抱えられて、重心の上方知的に営まれてから、
人類には、ラジオ電波受信の行き方は要らなくなったのだった。例えば、 それら、エーテル的観照とでも置いて、それを鉱石ラジオのようなモノと してみれば、知的把握な生き方からは、到底計り知れない闇の論理を、 受信形態には、覗き見ることになるのだった。そうして,また受信する生態心理にとって 人類一般の営みは、地獄のようなのである。それらは、クラゲにとって 知性とゆうロゴス体現みたいなことは、刺激の露骨にはげしい電熱線の そんなのに、映るに違いないのだ。しかしながら,まさに人類にとっての
あの,軟体生物の南国刺激系パッションフルーツのような,冥暗の交響楽は
これがまたヤミツキになる,生命論理と呼べる秘密の鍵を隠している花園で。
それらは,事実としての”軟体生物=腸内環境=生命論理”に対して,例えての
”ロゴスナノPC=頭脳知性=エンタメ感情態”のようにして対比できるものなら,
あの出雲おおやしろの大鳥居を潜って,境内の馬鹿デカい情緒に触れるような,
そんな心地で観照に浸る。この,遊興にはエンタメ感情態とゆう参道詣でのあり,
そうして,全体性としては,一貫して神々しいエーテル的生命論理の被覆してる,
この,上空に近く僅かの脳髄に支配されているようでオプティミズム。そのまた,
地球の鉱石ラジオは,アースキーパーとして生命を支配してる,いや,保護する。
なので,人体は,楽観的にエンタメと,中央知性に与するべきではある,しかし,
知性には,根本的に,知性を支えるカオス理論のあることを然るべきモノとして。

また,傷を体得しようとする慣習は何かしらあるようである。それは,僕をして,
裏宇宙の住人のような気にもさせる何かで。恋するトキメキに疲れて,緊張不安に
苛まれる心配性に飽和されていつしか全体主観に煩う指向に,辟易もして翁みたく,
もう無我恬淡に落ち着く心持を呈してくるのも否めなくもない。キリスト教神秘主義に
どこかしら,カオス理論へ嵌り込ませて,挙げ句システム的モラルへ帰還させる向きと
変りなくどこかそれは,奥州平泉に藤原清衡の花咲かせ,法然の無念態へと跳躍させる
北畠親房の趣好は仏師めいていてまたその,信玄墓に菱形のモノあれど,それは栄華の
証拠として遺品とすれば良いのだと,五輪書には描かれているのごとくにして。松…

ミシャグチ荒神ミナカヌシ、ドゥルガー女神のような虎とは?

トグロを巻いた蛇に芯のように、積極的でヤル気の神は、重心に位置する虎である。積極的に生きるのは、段々と解除されて、いまや、空間に呆然と融けている。 ソフトクリームを食べて、にんまり笑顔でいれば、そうやってにこやかに、 すこしずつ溶けているのは、私でなく、やはり、ソフトクリームなのだ。 なぜか、お店番をして相手にしていたお客さんにお礼を言っているあいだに 別のお客さんにカシャッと激写されたことに、料理の装い方に間違いが? など、疑問があったり、または、お茶の出し方の合格ラインだったのか? など、そんな妄想を繰り越して、段々と解除されては、1日は過ぎるのだった。 たまの休憩に、お茶をすすって、基本的にはお手洗いには一度くらいしか 通っていなかったことに、ふ、と夕暮れに気付いたりして、給仕する生業など、 きっとそれはクラフトに親いような、何のクラフトか、と言えば会話の記憶。
夕暮れすぎ、小麦のお菓子が欲しくなって、世界に融けてしまえば、 ミシャグチなども輪郭のみ、その姿は中心の虎の影を落として、まずは 炎の後背に、まず我が身を捧げる不死鳥らしいドゥルガー女神の 虎の像のあれば、それはやはり柔らかいコミュニケーションの その裏に、そのまま鏡の映す形姿はコンスタントを追究する 事務作業的継続精神で、義務感責任感のたぐいで、それでまた、 朝型の暮らしにして想う、あの神経症の快癒は早朝のお湯に浸かって、 ソフトクリームを食べんと欲す、そういやあ、もう忘れてしまって、 身体の温め方を、どうやってどこまで上げたら暖めたのか、そんな 大蛇の行き方は、居場所論の上では、きっともう中心点の虎の積極性に 還ってゆく、それらは温まった身体を保証して、多分またそれは、 懐かしの本来の居場所論に、接客のクラフトに還ってゆくのだった。
キッチンでは、炎の燃え立ち荒神さんは、やっぱり女神や虎のミナカヌシに 共通の下降線を描いて、大豆などはほぐれながら、たんぱく質の元へ、 戻ってゆくのだった。炎の性質などは、もうすぐに五穀豊穣を示現して、 その本質は、夕暮れの精神安定する放心めいた、安堵の脱力感へ納まる。 夜更けて、お笑いの番組をみながら、お喋りを始める心地は、もう 途中で就寝時間を迎えながら、週末は皆もう温浴状態の放心めいて、 リズム、テンポ、ライム、天ぷら、茶碗蒸し。テンペも納豆めいた、 大豆食品だったなあ。夜に渡って、無意識に会話する休息のカルマヨーガ…

物書きを証左する,情熱と悲壮にはソフトクリーム。

溶けやすいシャリシャリのアイスクリームのような,
そんな感じがベストと言えばベストだ。あんな感じは
潔癖症になっている感性に対して,何をか,諭してる。
環境問題とはゆうけれども,環境がヒトを造り,そして
ヒトの想いは,また固着させる環境造りを推し進めて。
もちろんのこと,先立っては環境の始めにある,として
歴史は何に先立つのかは置いておいて,まず身体性は
環境のまずもって用意されてて産まれてくるのだから。
環境によってヒトは造られ,環境をヒトの想いによって。
スタートしたスパイラルは止められないのだけれど,また
それらを換える異端もまた産まれてくるのはヒトの世の常。
この連鎖に対して,共感体質によって,何らかのONになった
スイッチにより地域性=環境を,体現しつつ無化するような
そんな器質で転換させる存在もまた,現在誕生しつつあろう。
どこかで,遠鳴りのようにサイレンの聴こえる,デトックス。

ケルトの文化や,ドルイドのストーンヘンジのように,結界によって
悪魔を妖精に安定させ,妖精を悪魔に帰還させないそんな受容もまた
必ずしも捨てられるべき嗜好ではないのだろう。一度,デトックスの
起こって,市街地の安定した一個の界隈では,そんな魔術的な会話も
発生してもあながち驚かれることではない。緑茶の葉を好きこのんで
噛みながら,あの碧の匂いに浸される初老の貴族紳士のように,この
一隅では鉱物精製の何か忘れさせてしまう何らかのマジカルな発想を,
こうした植物的なスピリチュアリティによって,初夏の陽差しに溢れた
ノスタルジック・ウッディな境涯へと飛翔させる,それは熱波の訪れ。
なので,お茶の研究に没頭する時間など,庭にプランターで育てながら
ハーブや薬膳の研究没頭して,熱波の訪問を探りながら日を浴びるあの
瞬間などは,とっても大事であるように思われるのだった。基本的には
細胞分裂の終わった,日本人としての体質には,終わったと言うなれど
成長時期を修めたと表しても良い,その食文化期を過ぎたのならば,あとは
お茶の嗜好研鑽に努めても好い気のする夕べ。これはグルメによって身体を
造る時期よりの夕べ。本来の嗜好や食事などはここより始まるといっていい。
これらを,お茶っ葉を胡麻油などで炒めて食べるあの調理などと比較する。

例えば,天之御中主=藤原清衡=法然和尚=北畠親房=武田信玄=宮本武…

鈍重とゆう言葉は,仔馬と鼻突合せ,白梅に嗅ぎ付ける心地

灯油缶を補充することも少なくなってきた日柄よりの,その
プッシュしなければ沢山の給油はできない空気圧のように,
アイデア=またイデアなども至って鈍重に貯め込んでいた方が
一瞬の閃きなどの瞬発力は,きっと,高いのに決まっている。
鈍重とゆう言葉は,仔馬と鼻突合せ,白梅に嗅ぎ付ける心地で,
そのゆっくりとした姿勢を保持しながら,至って穏やかに進む。
プラテーロとわたし,あのヒメネスの詩にあって,タンポポの
白い綿毛の隠喩や,そのホカホカとアマンドなメタファーは,
もう,そのゆったりとした知的な構え方を理想的に諭すのだ。
灯油を注いで,黄色いタンポポになった気持ちで,世界の中心に
座してみる。これは,春の陽気にわたしだけしかいない,あんな
位置する所の座席すべての,この我が地球となるのは,意外だ。
これは,自家製フェイジョア&キウイの酵素シロップを、納豆菌のリンゴ果汁酵母で合わせて、ウーロン茶で割る、 何かエリキシール・モクテルとでも呼べるような飲み物で、 週末のねぎらいに、呑んでから、9時までに眠る生活にて、 納豆と豆腐に、お味噌汁で、夜は済ませて、三十路半ばにもなれば 消化も、細胞分裂の終わった身体に必要ないものは摂らない、 けれども、誕生日の祝いに頂いた、お寿司のセットを、 明朝4時くらいにはたべようと、そうやって荷物をすこしずつ 降ろしてゆくのだった。
子供たちが、マザーテレサや、キング牧師の話をして、 ガンジーの話題で、不服従とゆう言葉を語るときの、 僕の安心と信頼感は、計り知れないのだが、 そういった話をすることの出来る年頃の姪っ子などに、まだ 先の誕生日には何を贈ろう、などと鑑みる心地は、例えば アナトール・フランスの少年少女は、三好達治・訳による、 素晴らしい本だし、R.シュタイナーの、泉の不思議とゆうメルヘンも 季節感を感じられて、実際には、この初夏をこれから感じるには もってこいのファンタジーである、と感じるのだった。
ひとつの世界のなくなる、とは、その記憶を忘れる。とゆうことに 等しいはずで、イザナミの国を出る男神の記憶はその時点で なくなっている。僕には、朝活によって、ひとつの世界の失われた 気のする、軽い心持ちの早晩もうすぐには、記憶を忘れる そんな瞬間の訪れる春の夜である。さざなみのごとく 梢はゆれて、しずかな新緑の匂いの渡ってくるときには、 僕らは、そうして培って来た、ひとつの青春を失…

リゾットにジャコと,お醤油を掛ける自失しそうなお昼に

白菜の中華スープが残っていたので,オリーブ油とミルクと,
あと,明太のソースを加えて,リゾットを調理してゆくのだった。 そうして,ジャコに醤油を振り掛けて,頂く昼には,春のノドカさ, 茫然自失してしまいそうな,春のノドカさ,意識を失ってしまえば 例えば,良いモノでもないのだけれど。この不可思議な茫然さには, 何故かコメディ調にバッハ:クラヴィーア曲集の響く,やっぱり念願の グールドによる演奏を集めて,ストリーミングさせて頂いております。
意識を失ってしまえば,とゆうのも,ここでは何と言うか,あの脱落と 禅では呼ばれる感覚によって,例えば世界のガラリと換わる瞬間のあれば, それらはことごとく,この自失する感覚なのでは?など,諧謔を込めて語る 禅語とゆうのは,それは茫然自失も這入るのでは?など,発想を詰めて喋る
明太の中華リゾットは,そんな昼にも,もってこいの中和した幻想誘発体で, それは,それでいて。お茶をぐいっと食後に飲んだら,あとは,日暮れまで あのヒバリの飛翔を待ちわびて耳を傾ける。自失する前に,低血糖だったのか? リゾットを食べればガゼン目の覚めてきて,さっぱり意識は頑強に戻って行く。
リゾットにジャコと,お醤油を掛ける自失しそうなお昼に,魔境とは常識的に ストイックさそのものであり,自失しそうな低血糖を,苦行そのもので解決する, 克己感性の賜物。上昇志向の,また,禁欲主義によって,意識を転換しよう,と 試みる,一種の茫然自失関連の何語かを,禅林句集の中に検索してみよう,と思う。
緑のハンガー(衣文掛け)が好きで,ふと,食後の緑のエコボトルの傾いて倒れる。 この瞬間に,エゴは折れたのだ。折れたエゴは葦の一本で,知性的には人間と化した。 そうやって,克己する自らのストイシズムと,グルメ志向によって,闘って行く。 孤独な,あるいは一人でゆく,食事に関するデトックスと整腸問題の闘いは,誰よりも 自己自身の解決法によって,解除して行く,トラウマと歴史と浄化作用のテーマである。

アセンションとゆう言い方の流行状態にあって,実はディセンジョンの方にこそ
秘密の鍵は隠されていると気付いた人は,きっと,ご飯が好きで,油揚げのお気に入りな
稲荷神のような方だったと推測する。意識の転換は,望めば誰にでも可能でそれは剽窃を
飄々と行うような,シンプルで簡略する道である,とをば,気…

寝ヨガなるモノを実践して寝グセを着けるシャーマンの

地球とゆうこの大きな泰山を抱えて眠るのは、 巫病と呼ばれるシャーマン気質に推されてすすむ まるで、身体を十字のはしるような、気分解除。 本来は、スピリットの付き合いも、友達同士の面と 向かって、お茶をする感じで、帰依などする必要は ないのかも知れない。手挽きミル挽きも,メモ書きも 画像編集など,写真を私家通貨に換える作業も,何故か 満腹の時にしか行えないのは不思議なのだけれど。また, その風邪を引かないために,防寒着を着こむことに関して 薄着に倣ってしまうボーイッシュな健康着もあるわけで, 一概に良いものは限定できないのだった。健康解除,或は 身体を十字の走った先には,三島文学の木戸孝允旧宅を訪れた 追憶との多重感覚,とは。マキャベリズムに,フィレンツェの 丸屋根サーモンピンク照り返る夕暮れ時の安宅関に勧進帳と, 天使画を描く修道士には,堅牢な文学お籠り。弁慶,サド。 また,点描するフラ・アンジェリコ。秘密の庭園でフローラ。
何故かしら,川端翁より,三島文学にいたるのは,不可思議な 道程ではないように感じるけれど,ネタを貯めこむことには, 一切に疑問の余地はないにせよ,訪れる春の陽気にのどかに, 脳のフィルターも融け込んでしまう,そんな湧水の汲み所の 周囲に散歩しながら感じる忘我の一瞬もあって良い気のする。 それは,気の付いた頃に目覚めの起きるために,天神さんの 用意してくれた,ギフト・オブ・プレゼンス。のどかさに, 我を忘れてしまいましょう。寒暖の差は,暖まるためにある。 そうやって,日の過ぎる頃に一日の振り返りをしてみると,また あの,芥川先生も仰っていた,折節に現れる女性の影像。彼女は 神功?また,イザナミ母神?そうして,アマテラスさん?など, 女性の原型は,その産褥などのシンボル形象に当って,必ず贖罪の モチーフにならざるえない人生訓のあって,そうして,こうして 神社やフラワーパークなどを歩いて,自分の罪業について考える。 アレクセイ・ミハイロヴィチとゆうモスクワ大公の肖像に我が映し鏡は 語ってくれたり,しかしながら,ベートーヴェンや,トルストイ,また ソクラテスなどの,貴族の源流は背負いきれない重荷から,すぐに想像を 止めてしまう。降ろした荷物からは,やはり,イザナミ母神のように, 細雪の谷崎,白化粧の高杉晋作。八代吉宗や,光明皇后などのまかないきれな…

カップ&ソーサーに木漏れ日の鏡に映る肖像

思い通りにいかない、ゆかないようにするのが
良いと言うより、不感症気味なのが仕合わせである。 とは、みごとに青春より朱夏への入り口に立つ人の 言い得て妙なる言説だったのだ、と。早晩、あの カップ&ソーサーに木漏れ日が落ちて、鏡面の自画像を みるに当たって、思う。ただ、思い通りに描いて、 表現することに、ただ自由と喜びを感じる分には 表現することに関しては、思い通りはベストなの かもしれなかった。
この世は、金星の三島=芥川の世界領域と、 あるいは火星の太宰=漱石山人の管理領域に、 分れて、それぞれ金星の知性とまた火星の感性情景による、 双子宇宙に両立されては存在する、知性への傾きにすすむ、 ロックとクラシカルに丁度、ジャズで中間領域をすすむ、 地球の架橋によって。そうして、その結び目の地球の番人には 大谷崎=萩原朔太郎式のイザナミ=大猪神などの山が そびえてるような、そんな景色を想起するのだった。
火星の冥界付近には、北斎=真田丸の、デモーニッシュな 鬼才も集まる、そういった熱い場所もあるだろうけど、 みたまやオロチなどの信実まっ直ぐな想いそのものも 存在してこその、知性や感情の在処である訳です。 また、垂直に、月の原型状態を示す、堀=立原の友情には 薔薇の咲くような棘と痛みを跨ぐ、ロマネスクのありて、 そうして、何処かに彗星の尾を曳いてしめすのは 核心のコアを秘める、何処かの星の、あの固着する、 物質的スピリットの、川端翁=坂口安吾らによる、 肝臓を、して臓腑に世界を宿らせる野性酵素の法則を 運んでいるような、世界の始まりを思い起こさせるのです。
僕はもう、ペシミストよりセンチメンタリスムスを 眺望する過ごし方に、少々食傷してしまっている 飽和し、手放している趣味を、こうして、神話は 振り返るキッカケを与えてくれるので、餡入りトーストを 頂きながら、ただ単純に、肝臓はミクロにマクロを 包括する、大宇宙はここに、閉塞し、そうして解除されれば もう、すぐには還らないまでも、僕の古里はこの 信州ならず、信州めいた風を吹かす、五輪書を法然院にて ながむる信玄墓とばかり、古都や、美しい日本の私など、 読み耽る追憶の彼方に、聖マルコや、ホムダワケの、ああ それで、いつも神功の影を追っていた心意気のあったのだ、と。
ついぞ、出雲神話に女性の影をひそめてどこかで、 追従する暮れの遥か、その産褥の元は、この応神悲誕の 今昔おもひ…

河童は道祖神なの?と聴かれキュウリを摘む。

ガンジー=ナポレオン=エリーザベト・クリスティーネ,
あるいは,また,アメノウズメと彼を称して,
河童は道祖神なの?と聴かれキュウリを摘む。
岩戸開きのアマテラスは,また国譲りされた大黒さんでも
あって,それで,イザナミにお遣いに出される,河童は道祖神なの?
と聴かれキュウリを摘む。キュウリを摘む東照宮,小説を描く芥川。
アマテラスは道祖神なのだ,そうしてまた,国譲りされた大黒さんでも
あって,僕は,ナポレオンのアメノウズメの気分で,女神を迎える。
岩戸開きはアメノウズメによって始まったとはあるけれど,開かれた
彼の女神さん,むしろアメノタヅクリ・アナトールフランスによって,
幸せは,実感することにはなく,それを感じられないところにあった,
時よ止まれ,と実感することに世界の静止はあって,私は感じられない,
私は正しかった。とは,むしろ自己受容の方にこそ,岩戸開きはあった。
陶酔することをこそ,アメノウズメは与えるだろう。けれども,本来の目的は
感じないこと,感じられないことこそ目的に適うとして受容したのだ。
ナポレオンはなぜウズメなのか?彼は,欲動の結果,開くことを使命に
感じないのを本来の目的に据えることへ賛同の意思を持って,輪舞した。
朝食に珈琲豆乳を頂いて,ああ,キュウリの漬け物とおにぎり飯を欲する,また
僕も,女神の友である証左で,ウズメのサルタヒコは,何処の島巡りより還る?

例えば、リルケ=ドナテッロ=ヒュパティア=ラムセス2世などの 系譜があれば、サルタヒコの姿のそんな感じなのだった。それで、 細うどんを釜揚げに茹でて、納豆のお出汁でネギを刻んで頂く、と 食後には、冷凍してた饅頭を解凍して、珈琲豆乳を淹れて、ホッコリ。 例えば、それで、ナポレオン=ガンジー=エリーザベトの、アメノウズメとの 邂逅が適えば、それでそんな会話で食事をされると思うのだった。 突進するようにして叶う願いのあれば、そんな先祖供養のように、 歴史に対しておこなう、循環を促進するための、輪廻巡業などだと思うのだ。 循環する、歴史の肝臓グリコーゲンのような、そんな強烈な パッションめいた、冷めてもシャリシャリで、歯ごたえのある 唐揚げを、二枚着のインナーも裾より出して頂く夕べに、 意識も遠のくように灯油ストーブを点けて眠りに落ちる。 あれは、基本的に憑依とゆうか、霊媒と呼ぶのか、共感…

いてもたってもいられず,寒い。寒い,と乾布摩擦精神にて

日記のようにして描く,拭いきれない気持ちのほうが,良い。
とは言え分別も付かずに自然体とか,流れに任せて,とゆうのも
永遠に自分の解らない納得いかずのようで,精神的ポルターガイストの
解決法にはならない,そう信じているので,かつて仏壇があったはずの
ところへ腰を掛けて,先祖供養など気分的に試みるそのうちに,何だか
腑に落ちるような気のして,けれども考える癖は良くない事には気付くのだ
けれどもそれはそれで良くないとは何事も言えないでしょう,と床几に向かう。

いまはもう科学的分析のほうが先行してしまうので,何だかそれはそれでいて
先祖返りなど起こしていては日本的とかそう呼ばれるモノは結局のところは,
身に着かない,いや。身に着かないとは言え,真実は日本的である,とゆうことは
どこかで知ってる。これは身体的な肉体的感覚に,ポルターガイストの働きかけて,
ぼくは何だか科学的分析のほうへ傾いていたのだ。そう,気付かされて帰国する。
先祖返りでも良いから,精神的に現実的な霊性まで,冷製パスタのように冷えて。

いてもたってもいられず,寒い。寒い,と乾布摩擦精神にてそれは起こる,諧謔の
鯉のぼり滝つぼより昇ります,月夜の龍神の昇龍の姿は,まるで人魚のお造りだ。
クラシック音楽を聴けば焦りも消えて,創作意欲もモーツァルトの40番&41番などの
思い出に聴き直せば,それに乗せて,いつも何かを自己表現していなくては?とかゆう
この昇華プロセスも消化されて行く,何気ない共感作用はいつも響いていて,その共感に
委せてしまって,不安やそんな焦りなども,表現欲求として現われている,元はと言えば
共感より合わさって来ているアート主事ならば,もうその源にあるクラシック音楽に訪ね
思い出に,消えてしまってくれたらいいのだった。寒いほどに灯油の減り方も早いようで
一日で一缶なくなる日はあまりなかったけれど,今日はここ最近一番の寒さだったなあ。

ほんとうに春めいて来て,段々に肩の凝りなどは良くなってきてる気のする,これなんか
ホントに不思議な神経性の凝りだとは思う。それは,冬だからとゆうのではなくって,もう
ずっと,五年くらいは抱えていた神経の詰まりなどであって,この春に薄れて来るのは,
自身の努力も相応しく活発に効果をあげているだろう実感を自信を隠して,それらは最近
ポルターガイスト現象か盗人の仕業な…

自己衛星化は精神衛生=精神衛星化=精神放出作用。

自失し,敗けない状態で,自己を取り戻すそんな様式を
自己衛星化は精神衛生=精神衛星化=精神放出作用。として,
回遊する外遊しながら,衛星のようにめぐっている我が精神を,
ただただ,眺めながら。そのためには,自己を失うようなモノを
前向きな感じで,ただ,考えられるから辛いのであって,豊かな感情は
苦しみをも受け取るのだから。そうやって,まず自己を手放してみよう。
剥ぎとられた自我は,世界に融け込んで,僕は,回遊魚のようにタップ。
もうすこし眠るまでに,タップし続けて,この回遊を楽しんでみよう,と
廻る衛星のような心地で,世界に融け込むのは,僕か,精神か?など,
不可思議なことを思うので,僕はどこにいようと,こうやって描いてられる,
自信のあるから,自己を放出さえも可能に感じられるのだろう。
赤い家具は、増えたとばかり、プリンタと、その横にあるTVと、 プリンタに置いて操作するノートPCの無線マウスでさえ、 レッド色をして、その一角はみごとに赤に支配されていた。 そうして、深紅に取り憑かれたような気概を持って、自己剥離すれば 手元に置いてあるマグカップとスマホケースは、青色をして ブルー配色のすぐに目元に飛び入ってくるのだった。
体的支配と、技術支配と、真空支配など、 さまざまに支配律はあるだろう、 精神肥大すれば、体的になり、 堅実に素朴実在をかざせば技術に。 なにもかも失えば、自己のない真空により、支配するより、される。 支配されて失うものを所有しない時に限って、支配されるのは それが、いちばん支配律に適っている方策なのだからだろう。 考える対象を持たない、不安は私自身の不安により現され、 惑星を求めて知悉するようで、そんなものは見当たらない。 充足目標を抱かずに生きられるのか、問われればその目的は 失いながら支配される事自体に向けられるように感じられ、 それらは、やはり、女流神秘家シモーヌ・ヴェーユの話した、 あの真空と実在の用語に親い気のまざまざしてくるのであった。
テンプレートのように自我のシートを持って行かれ、 そうして、後々の自己の行方をさぐるあてもなく、 私達は、私は、その区別のない、嵐の夜に思うのは、 もうすこし、体的感覚の抜けて行って、軽くなるのを、 多分一般的に普通なのだ、と言える状態で、何らの 普遍的価値観によって、他愛もない、存在の軽さにまで、 そうやって到達する道程は永くとも、一点の普通を巡…

キスの天ぷらの解体に想う,何でもバジルの合うなあ

バジルの掛け過ぎには要注意だけれど,何か春先には
キス天の掃除をしてバジルを振り掛ける。納豆菌にて,
リンゴ果汁酵素を試みていたは良いモノの,そんなに上手く
行くものでもない,そういった,味覚に訴える,この触覚性の
グルメにおいて,豆乳の補完にスーパーに出掛け,有機のキャベツと
餡ドーナツを見つけ,購ってはカウアイデカフェのドリップしながら
軽く温めて,奥さんに供してみる。ご自分で購入しているのを見たことの
無かったため,フォンダンショコラパンや,塩バタークロワッサンなどの
方が?とは惑わされつつも餡ドーナツに先行逃げ切りを仕掛けてみる。意外に
珈琲もお代わりをして,合う,合う,と僕の分も欲しがって,あげてしまうのが,
何かとお世話になっている手前,嬉しくて仕方のない自身のご様態なのだった。


フルニエの無伴奏チェロ組曲の録音に出逢うまでは,ずっとロストロポーヴィチの
教会録音とゆうのを聴き続けていたのだけれど,その前に興味を持って試聴を
していたのは,アンナ―ビルスマによるエコーの効いたような,パステルの演奏だった。
元来,パステル調のイメージを抱いて,思春期を送っていたのが,そこには,何かの
大地の貫入してきたような感じで,まさに,ウィトゲンシュタインの曰く,ひとりの
苦しみに比して,地球のそれの大きい訳ではない,とゆう感傷をひたすら感じていたのは
『私は失われれば,世界もなくなるのか?』この,大きな問いに岡本太郎を当たってみて
さらに,神の裁きと訣別されるとゆうA.アルトーの言説を地で行くような心地で,ようやく
そのどれよりも,離れているこんな心地は,ビルスマの演奏のふさわしく感じる,春の夜
なのだった。


それは,遺跡地帯の上に建っているこれらゴジラの背の住居群の厳しさは,妖怪の自然の
環境の自然の,また野獣の自然の,侵蝕されることのない厳しさなのだったけれども,
実家より五分程度のやはり,もっとも遺跡に親い家の窓からは公園の桜並木のみられる
この祖父母の旧宅へ引っ越して来て,毎夜毎夜,土地の地霊の少女の影を追われるように
不眠症で居た,この心地は,ひとつの平和的解決へと,パステル調の思春期へと,もっと
念じていたい平和を想起させて,桜並木のつぼみはいかほどか?そんなことを考えながら
開花期を早めんとする怒涛さで,時雨を降らし,バドパウエルのTea for T…

ナポリタンフィッシュのガウディ建築に地獄の王子とは?

夜更けに、道の駅や温泉宿などの長芋を、購って帰って来たのを擦りおろしている。片手間には 手鍋を転がして、にゅうめん釜揚げを1分弱と、 それらを、出汁と醤油とレモン汁で、ほんとうに うどんの釜揚げと見違えないほど、旨かったのだ。 長芋が、擦りおろしの残りですこし塊のあるのが 良い。キッチンの椅子の背もたれが確実に低頭で 小さくなった気がするから、帝政時代のナポレオンも 弔われたような気がするのは、夜食どきの妄想。 ベートーヴェンの英雄シンフォニーや、バッハに ブランデンブルク協奏曲とゆうのが、気になっては、 中学生の頃より聴いていた、あの貴族時代の僕の ナポレオン=ガンジー的な理想主義な頃には、今に なって、釜揚げにゅうめんなど欲しながら、顔の すこしかゆい気もしてくるなかに、追憶のスタート。 冗談で、ナポリタンフィッシュとガウディ建築など 銘打って、そうして、銘打ってみたものの感慨は、 得てして懊悩のプリンスオブヘルになって、まず 高尚なクラシックに導かれたのが、興味深くて、 懊悩し高尚なノイローゼちっくになるのも、無理は ないのだった。灯油を汲むのも最期かな、とはタカを くくりながら、そんな感じで、反射ストーブにセットして やがて、炬燵に潜りながら、奥様は眠ってしまわれたので、 起こす訳にいかないから、なので、残りのデカフェ豆乳などを ちびちびしながら、僕も眠られるはずが、ストーブが 暑いのだった。もうすこし、眠るのには、ひんやりしている派の 体質にいたって、終に、夜食を終えて、追憶には 潔癖よりは、皇帝の慈悲は、経済活動の専制さが あって、いかにも、その記憶にストイックな、この 克己する忍耐のどこか抜けている変な脂汗みたいな あのノイローゼは、いかほどにも、魅力的で興味深く思い出される。
ある程度の夜が更けては、朝の徴をみせる頃に、 ラフマニノフのピアノコンチェルト3番は、結構な 怖ろしさを以って世界に響いたようで、音楽の持つ インパルスとは、こういった美しさと幽かな闇を 併せもった、何だかそうゆう深緑の匂いのうちに 輝きだす秘跡を抱いてはこうして朝の予兆に時雨の 降りだして、もう炬燵も消して、半袖になって、 仮眠めいた深夜を過ぎていった。碧の匂いの立ち込めて いかにも、春らしい。春らしいと言えば、こんな 茶葉の香りのしそうな朝方に、まだ夜明け前だろうとは 口を挟むのは、常識とゆう透明さだけで、叡智は 存分に暖かな情熱を翳して、いや、振りか…

理論的には道理で理解に適ったほうが良い

のだけど、身体から沸々と溶岩口のように熱意の起こって来て、 例えば、水の太宰と、火の三島のあいだで身体性の天秤が ガタガタと往復するとき、やっぱり火の方へ傾いてしまうのが 我がココロの灯の方向性なのだった。たまたま,お下がりのTVと 中古のプリンタが,レッド色をしていて,家の家具は深紅のウェイトの 強くなってくると,僕はプリンタの上にノートPCを置いて,お喋りを 続けるようにパタパタとタップしてゆくのだった。三島文学には,あの トーマス・マンへの敬愛に秘されているらしい。けれども,実吉捷郎・訳の マンの作品集は,さすがに白眉としか言いようのない奇跡を現していて。 この,マンの作品ひいては,訳業に対する心酔めいた共感を感受してみては 『ヴェニスに死す』,『トニオ・クレエゲル』など,一気に読み進められてしまう あの,感慨。やっぱり忘れられないのだった。身体性のうちで,エーテル生命的な 存在を性格付けするのは太宰の言葉だろう。自我の強くなってきて,やがて主張させる 文学は三島による耽美だろう。源泉の感情とは良く言ったモノだ。けれども,あれは 太宰の系譜の水による源泉の発掘だろう。むしろ,三島文学における耽美とは,自我の 主張では?EGOによる文学の奔流。抑えがたき,強い主張の身体性を動かしたとき,あの ような渦巻の事態は産まれるのだろう。

自我が中心であれば,あの春の匂いに誘われて精霊の跋扈しイタズラに更ける瘴気の夜に 完全に,自我の誕生する驟雨の春に,自我を超えればロダンのようなミカエル彫塑に到って, それらはグラウンディングの皆目見当の付かないものであるので,なので,そこで菱形の 信玄墓のごとく,信州に川端翁の雪国のトンネル風景など興って来れば,彼の翁は水のようで 実際は,水蒸気爆発であった。そんな,三島文学の火口には,自我の噴出を抑えたり, 解除したりするさまざまな行方知れずの輪廻を見出せる。信玄=今川義元公が,川端=太宰に おける関連に見出されたり,牛若丸=弁慶には太宰=三島の関係性の,龍馬=桂小五郎の 系譜も読み取れなくはないのだった。川端翁=太宰さん=三島文学には, 聖マルコ=イスキリ=聖ヤコブのような聖人伝も含まれるようで、 それで、トーマス・マンは、聖ヨゼフパパなどの位置付けで、 この世界の金字塔を文学に打ち建てた、と言った想像をする。その際には,まる…

現実受容のなかで、春風の吹いて二分化は消えて

夢だった世界は、自分の願望を際立たせて、その
クオリティを維持して進めるなかで、結果オーライも 出せるとゆう不思議に。世界が夢だった、とゆう ことは間違いない、とは夢より醒めて気が付くので、 醒めた夢からは、二分化していたのは勘違いで、 歴史は珈琲の春風の吹いて匂いの蝋梅の浄化して、 あえて表現するのなら、世界は勘違いとゆう夢を みていた、そのすれ違っている同士の世界だった。 なので、類は友を呼ぶ、でもチョコにはアーモンドでも、 そのうち、現前するのは、何でもない喜びのみなのだ、と 知る。青空はまたたいて、世界の変わる。またたいたのは 我が眼でも、常にココロの協働して、世界も変わる。 オリーブ油でポテトを揚げたり、みたらし餅をこしらえて、 桜祭りに参加しようなど、さまざまな話題を浮かばせて、 やがて、世界は春になるので、やがて、ほんとうに変わるのだ。 基本的にはサトウキビとジンジャーとレモンのあれば、春を 迎えられるものなのだ、とはアメリカンな匂いはそうゆう 暖かなスパイスを想い起こさせて、懐かしさに晴れるのどかさ。

怒りのエナジーとゆうモノのあれば,それらのパワーストーンに
溜って,ブレスレットなどに感じるその強さを,エナジーとこそ,
呼べるのだ。そう思うキッカケなどは,やはり闘いや,暮らしにみる
この捻出してゆくような渦潮の創作意欲など,その快楽には,アートの
姿を見出すので,勘違いの世界と呼んで二分化して鏡の影像で映るユーモアを
多分のユーモアとして,諧謔性にはナルトの一枚デショウ?そんな,レモン汁を
とにかくどんなお茶にも注いでは,くいっと呑んで,ぷはーと嘆息を漏らして,
寝不足も朝の一杯のひと時に,過ぎてゆく感覚の余裕と,等間隔のリズム呼吸の,
いつの時も,欠かさずお茶を持ち歩いて,過ぎてゆく時間間隔の憤りこそ余裕へ
換えて行く。現実受容のなかで、春風の吹いて二分化は消えて,ただ嗅いでいる春の
匂いに,お茶のシブを拭うようにして,時代は換わってゆく,あまりに自然に,淘汰して
過ぎてゆく余裕のその表現としての運筆と代わりになる,偶然は必然と静かに重なり合って。
まるで、雲竜とはよく言ったもんだ、とそう思う。 あんなようにして、意志をうたかたの夢と結び合せて、 竜の意思と呼べるモノのあれば、それはただ、流動的なうごきのみ、 そうあるべくして、草枕などの峠越えは、菜の…

愛に目覚める頃、僕らは青玄黒曜石

美味しさも、創造性も、爽やかさとゆうのもまた、可愛さも、ヨーロピアニズムも、すべては 愛なのだった。僕の場合は、まず黒人霊歌にツイストする、 まずはブルースとゆうのが、端的にLOVEなのだった。 階下に降りて、ウィンナーを摘む。菜食に肉食に すべては愛によって犠牲を弔うことのできるか? 旨い肉とゆうのは、しいたげることのよってたつ 飼育の美学の何によってたつ、僕は再就職の機会を 持つのなら、酪農しかないなどとは気合いを入れて 答える気分さながらの、酪農における、愛とは? など、そんな事を考えるのだった。創作によって 美しさを愛情と結びつける、幸福における犠牲の 位置付けとは?などと。愛だ、愛だ。繰り返して 気絶してしまうような、そんな貧血のさなかには まるで、愛のなかには、犠牲は許されるのか?と 言ったような、逆説的なテーゼを提案されて、それで 僕は、いいや、元気を出して、動きだせるように お肉をイッパイ食べて、そうして、貧血性思考も 治したなら、また、イッパイ哲学をして、そうやって、 肉食に対する答えは、循環しつつ、戻ってくる。 冷や汗を涙のように掻いては、愛について語る、 貧血性の夜には、とにかく、自分のなかで、愛に 目覚める頃には、僕らは青玄黒曜石のような、あの 黒光りした眼光を携えて、早く寝なさい。と、この 自己愛に促される夜半。自愛することの肝要さには、 そこに解決の糸口を見つけられまいか?そうして 夜は更けてゆく。僕は僕の自己犠牲を抱きながら 前に進むことを良しとして、夜ながら、開眼して いるのだが。少々窮屈ではありません?考え癖は かように可愛く、情けないような可愛さで、多分 憐憫を誘って、流れる彗星の尾を曳くごとく、タップする スマホのフェザータッチとやらも、また、音のない 音を奏でて、いちばん可哀想なのは、自分の知悉だ、 など。自己憐憫はげしく、画面を暗くして、さあ。 再び、愛を念じよう。気も済んだだろうから。
もうすこし草食であれば、愛の性格をしずかなモノと 置き換えて、非常に耽美な、それでいてロマンティックに 飾られもするのだろうけど、僕は、まず、創造的で クリエイティブであることに、愛の性格の第一優先度を 置いている。そんなことは、抑圧されたセクシュアリティや、 サディスティックな昼夜のリズム逆転などの、若い時分に 感じていたストレスをないがしろにして、自らの異常と 見なしてしまう、狭量な自己愛の転換見直しに際しても 例え…

中立表現の自我とは、流し雛の里

土壌菌などの影響なのか露知らずとも、なぜか 全体的主観みたいなモノを、身に着けてしまって ひと言に妄想と片付けて、それでいいにはいいに しても、地獄の王子みたいな感想を持ちながら、 地元の城下町に温泉へ浸かって、何事かを想う。 桜の花魁は、美しくても、それ自体の自失しているから、 僕はボクで、ひとつの感情を抱かないと って、自我の強さみたいなものを求めるのだった。 流し雛の里には、感情さえも流動的に循環させる 停まらない前進のあるので、それは大海に融ける までの、放出表現にしても、そこには中立なまでの 自我を、みることのできる、存在の性格を現すと したら、それは山城の堀の役割をした、桜並木の 河原沿いに、何だかもう情緒にのせて、流してしまおう と言った、その中立表現の自我とは、流し雛の里にて。
業の泉の開山が計られることのあるとしたのならば, それは,肝臓に一度負担の掛ったモノのブルーミングする, といった,ごく煩雑な要素の履行された時点で,それらが 食べられる姿のパッションフルーツのように食卓に昇れば 満足極まりない,清澄な世界の垣間見られる瞬間の,そこに あるので。だいぶ開かれた山の噴火口の前に立ちはだかって, そこに,とある意味を見出せそうな,そんな頃合いにやってきては いるのだった。基本的には,肝臓の負担をブルーミングさせるモノに, オニキスのブレスレットは欠かせなかったのだけれど,色々な出逢いに 比しては,古刹のお土産に水晶のソレや,昔からインド雑貨屋さんで, 好きこのんで購っていたタイガーアイなども,なので計三種の大小様々な 腕輪を手首に嵌めている次第である。それらは,やっぱり何ら数珠の役割と 変わりはなく,土地の融和に際して,自らの磁場リングなる感じと,また その土地の記憶みたいな要素のリンクしてくるとビリビリと”数珠”は震えて そうやって,自分の業の泉は開山される。それらは,実に平和なモノだった, と気付くには,そう時間はかからないのだった。
そこで,縁起の良いものかとは迷いながらも,結婚式にカタログを頂いて 帰った折の,このギフトに男性用京念珠とゆうのがある,これをひとつ頼んでは いかがだろう?ちょっと酔っぱらいながら気の大きくなっているのもある, 沢山の白磁などの誘惑を超えて,結局ブレスレットを第二希望において, 京念珠を択んでしまった。素材…

水との婚姻を促すサヴァイバル,婚姻後の時雨嵐

頂き物の瓶詰めアヒージョの牡蠣とやらに、こんなにオリーブ油を、たっぷり摂取する食品は 今までペペロンチーノくらいにしか知るはずもなく、 実際にオリーブ油を啜ると、またお酒みたいに酵素質で オシャレだなと思う。牡蠣を摘んで、落としてあった デカフェを、ブラックで呑み込めば、手巻き寿司の 酢めしが堅めてあって、それを口直しにもらう。 マウイのきび砂糖とゆうのを、奥さんのお土産で 小分けにパッケージ造りして、ブラウンと精白の 2種類があるので、ハワイのサトウキビとは、また オシャレだ、など。リトルクレイソルトと、説明の してある、あちらでは健康に良いと言われるような ケルト塩と呼ばれるアイルランドの海塩も、一緒に 小分けパッケージしているのだけど、これは半ば しっとり、すこしグレイがかった色味のしていて 健康に良さそうと言えば、そうなのだった。食後には、 マカデミアナッツの、緑はガーリック、赤はハニー。 青色は、燻製の風味をした、おつまみみたいのを いただいて、甘味香味とないまぜにミックス分け する文化もまたオシャレだな。など、感心してる。
恐怖は、それと闘えば、サヴァイバルを産み出し そこから、平和を祈る気概に、やがて時雨に嵐。 また、ぼくは、世間的にノイローゼの思春期を 通過した体験をふまえ、いまさら、青空に融けたい などとか、それよりも泥土にパッキングして、 常に田んぼでボブスレーで、田んボブスレーなど していたいのだった。なので、平和を祈れば、 俄然、嵐の始まり、時雨どきのスタートする夜半。 時々、キッチンに降りては牡蠣をアヒージョアヒージョ、 と、摘まみこみ、まるで、オリーブ油に愛された 春眠暁を覚えず、は確実な夜更かしをしている。 時雨どきの始まれば、安心したものである。もし、 この世界の青空に包まれたとして、周囲の静けさの 確保しておれなければ、ノイローゼの再発は、 核心的なのだ。僕は、思春期後、読書に耽り、 農場体験などして、機織りや綿造りをして、この 全体主観。何を知悉しているかは、わからない。 それなのだけれども、キープするボトルは地球で あって、その酒は、まるで美酒とは呼べないので 非常に莫大な強い酒であったのだった。青空かあ、 はるか彼方に、みえるそんな明るさを眺めては、 僕は、嵐を呼ぶ方が、ふさわしいのだった。その 確信は、周囲は嵐でも、私が青空であれば、この 世界は安定している、とアンチテーゼを唱える、 そういった祈りでもある…