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中挽きの、なめらかなスポンジを造って気持ちよく淹れるモカ豆

誰よりも先にお風呂に浸かって、上がれば
皆に先立って、赤ワインを注いで、沢庵や、
甘酒や、牛乳や、梅干しの、ごぼう巻きの欠片などで
一杯先立つのだった。そうやって、写真を撮って
画像加工していれば、いわしの煮付けや、地酒を
お豆腐の甘煮などと合わせて、ほうれん草などを
摘みながら、珈琲を淹れ出した。ミルはすり切り
カップスプーン2杯に、中挽きで、カリカリ、と。
しばらくして、放置していた準備を思い出して、
沸かした鉄瓶の白湯は実にスポンジケーキの如く
軽妙な泡立ちをみせて、すぐに透過する。まるで
臭みもない、すこしの苦味をのこした、何とゆう
ことのない普通の味。だけれど、その普通の味わい
の、抽出することの難儀なことなのだった。シナモンの
たっぷり含まれた人参ケーキを、母が友人よりの
頂き物でご相伴。むしろ、コーヒーには、ミルクを
入れて、静かな薄いカフェオレで、充分なのだった。
肝臓には沢山の甘味を含んでいることだろう。そして、
その業の集積こそコミュニティの発端であるはずだ。
また、隠棲し解脱を試みる修験者は、そこはかとなく
その肝臓より業の集積を抜いてゆく、これによって
往生するといった感覚が、清浄さを求めるアートなのだ。
僕は、健康指導である所まで、その甘味の業を抜いてみて
思ったことがある。それは、業の集積を抜くより、
むしろ、その甘味こそが、コミュニティを発生させるのだ、
としたのなら、私の肝臓を頂くような気持ちで、外部の
抽出状態は循環するように内面の治療効果を発揮するのだ
として、業を以って業を制す、とは、ホメオパティックに、
それら、業の効果を知悉して良質なファンタジーを産む
一助として、お酒も嗜んでは想う、酵素うごめく春の夜なのだった。


そうして、再び違う夜の遣って来て、僕はまた、
ひとっつの気づきを携えて同行しているスピリットと、

"意味は無意味のまわりを、回遊しているね?"
-うん、相変わらずだね?-

など、対話に違いない無言の知悉を繰り返す、

"真実は普通に演り過ごすしかない?"
-そのようだね、きっとそのようだよね?-

など、またも意義のない所へと辿り着くと、

"やっぱり、世界を変えたいよね?"
-って、想うよね?欲望と遊ぶしかない?-

など、いかにありのままで居るかに、ついては
両者スピリットも自我も気が付いてはいるようなのだった。


考えないで、触れて出逢ったことなどに、一度は
感電しながら進むことの大事さを、いかにして、
怪我をせずになのでない、いかに、怪我を浅くして、
そうやって、傷の心地よいと感じるまで、癒えて
湯治したのなら、もう、一足早く闘いを楽しむ、
あの土佐犬の散歩道中に、散歩は修行で訓練でも
あるので、歩き方に気をつけて、あとは、またも
ひとっつひとっつ筋肉の動きに変化を忘れずに、
怠らない、あの動作の観察のひとすじひとずじは
やっぱり、世界は変わらない、とゆうのではない
何らかの楽しむ欲望知悉と呼ばれる、遊興ファンタジーを
感受してみる。それは、珈琲であり、書店であり
ドライブに音楽であり、夜中に身中武者震いのように
身震いの起こる睡眠過程など、もっての楽しみな
予兆であるだろう、それは、普通を演じる身体性の
無意味は意味の回遊する周囲を呑み込むクジラで
ただ、出逢いに応じて、感情とゆう楽しみを、また
例えば、欲望や遊び心などに照らして受け取ること。
とにかく、ハートに甘受することなのだった。


一度、マドレーヌの夜食を考えて、あきらめた。
二度目は、肉巻きゴボウと、おにぎりが浮んだ。
三度目は、ベジタリアン大祭と、訳語を計って、
食べずに、考えることにしたのだった。やはり、
遊びを知悉すること、出逢いの逍遥とは、もう、
やはり、腸内フローラファンタジーと、をば、
置き換えては、良いのだった。例えば、無意味を
回遊する、意味の魚群を、探知して、それらは
オオクニヌシのスサノオの国より帰還するさまで
あったり、それらは、イザナギの、イザナミを
弔って回避するようにうぶすなを建てる物語や
あるいは、アマテラスを傷付けた、スサノオに
よって、回帰される、ヤマタノオロチの尻尾の剣
であったり、と。それらすべてが、ブルーミングと
ゆう岩戸の開花する所以になっているのだろう、
として、サナトリウム文学ロマネスクに囲われて
育ったような身の上を想えばこそ、普通が普通で
ある、とゆう強さや平坦な質実さの充溢性などに
頼ってこその、この常世である、とゆう風なことが、
言えるのだろう。すでにそうゆう強さ=常世とゆう、
もう、居場所を確保するのに、そういった強靭な
普通さを携行してゆかなければ、遣って行けない
そんなところまで、来ているのだから、人々は、
もろびとこぞりて鶏のせせりなどをタレに漬け込んでは
ジュージューとプルコギに勤しまれているのだろう。


例えば、酩酊して、我と汝の明確になる一瞬間に
物質次元と呼べる確たる世界の実在していることを、
確信めいて認識した時など、その直後には泥酔して
二、三時間は意識喪失しているのだろうけれど、
ワインと日本酒は交互に四杯までだ。五杯目は
迎え酒に、と、もう既に水素水を半リットルは
ごくりとして、眠ってしまった挙句、2013年物の
イタリアワインは、さすがに捌けられていて、もう
五杯目は義務感の如く煽っていただろう、極貧の
アルコール耐性には一番の挑発めいたそういった
時間は、ことごとく、欲望=出逢い=遊び、と呼ばれる
イマジネーションに対して、知悉=ファンタジー=逍遥
をすることに置き換えて、やがて、強靭な普通の感性を、
以て、この欲界を通り過ぎることの出来る夜更け。
すでに、夜食の想像は膨らんできてはいるのだが
もうすぐ、昇る月夜か、あるいは朝日に失礼だと
ウェザー・コンシダリングを怠らないようにして
僕らは、明日を遊行して生きるのが、良いのだ。
もちろん、真面目に思考嗜好品をたずさえては、
あの通過点の日中天頂を超えてゆきますなれば、
そろそろ、バターそうめんなど食べたいと、頭に
夢を浮かぶ心地は、まだいただいたことのない、
それらレシピに、マッシュポテトも盛ったら良い
だろう、と。そんなファッションを想っては、つゆは
ワインビネガーですよね?と、一服してから、彼に
伝えたいのだった。シェフも務める、ワタシの
SchreierHarmonicSpirit=黒い森を抜け出してきた、あの
精悍な、モンスター退治のスペシャリストさんに、
彼は、町内フローラ逍遥とゆう、事務所も抱えて
暇に、時には多忙な頃合いもありましょうけど。

こちらは如何?

とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。

白黒の隈を着けて,いつもよりも浅煎りの珈琲豆を一杯のお代わりを 受けて,淹れなおす。家の台所は,さながらカレー屋さん気取りの, とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。 とにかくもゴッコ気取りで楽しみながら遣りすごす,台所での一時。 ダサいと言っては,何だけれど,バランスの好いのはそうゆうことだ。 そうして,そうゆうダサさをこそ,落ち着いているとして好む,そんな 白と黒を半分ずつ割って入れるようにして,豆乳オーレにして頂く珈琲は, 真皮に黒を抱きながら,表面きっての自分自身は,笑顔で白を通す,その 面白さは微笑みより訪れるので,にっこり気持ちは構えて,ダサさを通す。 それでしか淹れられない,なかなか浅煎りは,カフェオーレでしか入らない。
追及しては,戻ってくるのは番犬や番猫で,何だよとゆうばかり,番猫なら 招き猫みたいにスレンダーな物腰で,いいやスレンダーではないか,でも。 多分,何にもいないのだから,彼らにとって,虫の知らせは,いわゆる枯れ尾花 であって,そのざわめきや囁きのようにして聴こえる,彼らにとっては雑貨店。 トフィーのような濃厚な滑り出しで,カフェオレに合わせながら眺める,こんな 洋菓子店をめぐるように猫などの物腰の豊かさを側に置いて,ぼくは先日のあの ロイヤルウェディングの様子を想いだす。白馬のリードしている子の,ちょっと 荒れているのには,繁華街に急に放り込まれた武士のようなイメージで,そりゃあ 興奮し,混乱もなさるでしょう?とは,そればかり心配してはいなくても,やっぱり パレードの壮大さは計り知れない。ダイナミックであり,本当に生命力学的にもっとも ハラハラもし,手に汗握る。この悠長にはPCの前に座りながら,安堵して,折り畳む。

基本的にはまた紅茶とキャラメルを合わせる感じで良いと思うのだった。ちょっとした
あの渋味と,焦げているような甘味のあいだで,切なさと勇気を半分ずつにおおげさに
振る舞っている。週末を終えて,家族サービスとゆう毎度のほどでもないのだけれど,
毎日に平日のスタートを切る僕にとっては火曜日。風邪を引いてると体力よりも果敢に
すすめないのでこうゆう話題になっているけれど,それも治った後の話として,本当に
スタートを切られることに,爽やかな活発さをさえ抱いている,早速まだ沸かしたてで
すこし温湯のお茶を頂い…

憑依するとゆう言葉には,入り神級と創作ウォークイン。トリップなど様々

前世ゲームとは言え,嵌入しきって書物の渉猟をすることは,最も
アクティブな瞬間で,それはインナーに居て,集中度の高まる体験。
憑依するとゆう言葉には,入り神級と創作ウォークイン。トリップなど
様々あるけれど,それは研究意欲としてそうなのであって,きっと以て
どれでも良いはずの日常と,外側の経験則のなかでは処世術としては
仲介されえない範囲の事柄ではある。なので,運筆とゆう詩性に向かって
コンスタントに埋没しきることのなかにも夕暮れ時に適うような,そんな
”前世”=書物文化のあって良いはずだ。転生とゆうことは,それほどまでに
コンセントレーションの中に含まれていて,一種の隠喩のようにそこにある。
それで,いま没我した自分は転生している,うん。それで良いじゃないのか?
例えば,自意識のうちで,第一に身体を漱石山人より,次に生命力を太宰さんに
三番目には意識的に明るさを芥川氏より頂き,個我みたいなモノは三島文学より。
僕の竜退治のミカエルは彫刻家のロダン=文学にF.ラブレー=透視にスウェーデンボリと
言った大家より受け賜って,ジヨットのイコンにおける精神性において開花する。など
ここまで自意識的に説明したところで,それらは”前世”とは関連のないことではある。
集中力に謎解きの扉を開く鍵のあることを知悉して,ようやく,眠りに就けそうである。
渾然一体となってファンタジーは,一度死に,二度目に産まれる魂に対して,何らかの
ギフトを与える。集中力によって,ソウルは再び現れた記念として,”前世”の贈り物を
授かるのだった。そうやってゆこう。黄昏に,贈り物としての言葉を貰うようにして,
やっぱり夕餉の匂いは良いモノである。そこかしこに湯気の上がって,昔はさながらの
薪のくべられた薫りなど漂っていたろう。こうやって,時代は溯られれば,魂のうちに
何らかの,記憶=ファンタジーを得ることのできるはず。

急に,突然の報せのように,白い聖母信仰のほうへ寄りかかって行きそうな気さえして。
夕餉の匂いにのせられて,それらは,ふわりふわり声明を携えて近づいてくる。夕暮れに
不可思議な想いを感じ取らせながら。この白い芳香は何処から遣って来て,今さらながら
ついにこの辺りまで,ついの最近までは,いったい何処に居られたのでしょうくらいの,
何だか不可思議にふわりふわりと感じられる香りなのであった。良い…

季節を描写するのみで良い,そんな甘露の雨粒と,上がった後の煙。

人文的な要素のないと言葉の発想も浮かんではこないもので,なおさら まだまだメモしておきたいことのありそうで,けれども,もうこんなにも 季節を描写するのみで良い,そんな甘露の雨粒と,上がった後の煙。雨煙に 合わせて,ヒーリングのアロマ・ミュージックなる分厚い音楽を掛けながら そのブランケットにくるまれて温かい心持ちをして,人文的より,また素描。 ああいう荒野にそっくり掘り込まれた教会遺跡群などは,もうイニシエートの それら現代のクラブシーンだったのだろうか?僕はその際,家で,お茶を啜る あのインナースタイルの静かなもんだったろう。なんて,基本的に動くとゆうか 家の中を満たすひとつの酵素で生きていたい。生活の匂いは,家の樹々の香り。 肉食には,昔の突っかかりを感じて,なかなか馴染めないけれど,元気は出る。 美味しさに賦活されて,文化的に色々楽しめることを良しとしては,けれども 今となっては,雨に巻かれてウッディな温もりに浸透されることの,浄福なので。

咳や熱風邪も,一度肺炎になった?と感じ始めたところで,一気にスノーマンの 夢を見て瓦解するように退けて行った。その余韻に燻製チップのような薫香の, ハートあたりに漂って,それはまた幸せな健全さの回復を予想させるので,納得。 燻製や北国のイメージは,やがてその厚くなった肺や気管の様子を想像させて, それでロマネスクなのだった。北国は,やがて魔の山も克服して,こうして篤く 人のこころを暖めてくれる。けれど,だからといって,こうゆう時に何かお肉食を 試みたくなる。本当に,篤い人生を効果的に造りだしたいのだ。むしろ,厚く強く。 豚肉の小間切れを,醤油麹とみりんで,お酒を加えながら,すこし甘味噌など足して 玉ねぎ,白ネギと共に炒めてみたのだった。奥さんは仮眠中なので,起こして頂ける ような料理だとは思えないので,ソファの近く,炊き込みご飯を解凍したのと,側で 摘んでいた。明日は英国のロイヤルウェディングだと,ニュースでしていて,思わず 感涙してしまい,僕も不可思議ながら,少しく傷付いた思春期に,感情移入しては, いかばかりか砕けた心持で経過を感じていたので,何だか,ホッとして,うるっと。

すべてお肉食で感情までも呑み込んで,取込んでしまえたらそれで良いのだけれど,
切なさや,哀しさ。鎮魂の想いまでは,そんなに簡単に解消していったり…