スキップしてメイン コンテンツに移動

社会構成自体の生命ブロックチェーンだったと気付く

生命のあるから、業のある。生命のために、業が廻す感情輪転機は、
まるで、スルメを造る回転機のことかと見違わせるほどに、
お腹の空いても、さほど食べずに、生命自体の目減りを計ろうとする。
やっぱり、枯れた水墨画の景色からは、やる気の現れだとか、
そういったのを、情緒の発端としての、やる気の現れとしての、
その、生命ブロックチェーンとゆう言葉を使うのならば、
カーマローカの世間体は、エネルギーなくしては、廻らないのだった。
お腹空いたなあ、久しぶりに、ベーコンエッグの材料を拝借して、
そんな、阿呆らしい、恬淡な自我自身の諦めに、諧謔的ツッコミを申上げる。
珈琲も沸かそうか?蕎麦公司など、造語できるのならば、この
深夜に、いくら珈琲を煽っても朦朧としてしまう、馬並みの眠気に
釜揚げ蕎麦の夢でも見させてほしい。まず、生蕎麦を買って帰る
習慣を持たないウチの冷蔵庫には、そんな夢は転がってない、
けれど、本当の釜揚げは、実に粉っぽく、粗い蕎麦湯のような、
そんなモノだ、と。出雲國の霊場遺伝子は、そう言って、あの
荒武者のような、静物画家の姿もしながら、啜りだす、彼の不思議な
感情を、ありのまま映しだすのだった。それは、無論の眠気の台頭。

結局のところのありていに説明したのなら,冷蔵庫より古びたアップルタイザーを,
湯のみと共に採りだしてきて,まずは,お客様に供したのこりのバタークッキーを,
ひとかけ摘んでは,まるで,さも当たり前のように,パンケーキのランチのつもりか,
地元の有名な饅頭を白あんにて,乾塩ベーコンに,くるっと巻いて,ひと口で頬張る。
そうして,湯のみにアップルタイザーをゴクリとする。まいった,バタークッキーまで
ベーコン巻にしそうになるのを,押しとどめて,ふいっとひと息つく心地は,そんな
真冬の籠り越冬振りを,まざまざ想起斟酌させる御様子で,侘しいとゆうよりも,愉快
である。最後に片付ける所存で開けた冷蔵庫の中には、また古びた、
ザワークラウトの発酵瓶のあって、ローレルの葉と共にガジガジ、
いつまで経っても、美味い。香味を維持する食品とゆうのは、
実に、いや、まさに造り手の清浄さ=信頼の高さを彷彿させて、
タイザーも、抜けているかと思いきや、芳醇さの増して、本当に
豊かな、怪獣になった晩の、越冬雪ゾリ浪漫夜食譚であったのだった。

かじかむ手に、一対の片手を添えて、もうひとつの物語を
終えようとしている。それは、もう物語ではなくって、
つまりは、エネルギー交換のうちに培われた、感情のエポック
だったのだけれど、それでも白あんにベーコンを巻いて、
昔は、そんな怪獣化した夜食習慣には痛い目を遭わされた、
そんなはずの、自分の酩酊=祝賀の感じは、脱皮=諦めの情に、
あえて久しく出逢った、この夜食習慣。ひとつの物語に諦めの、
着いては、そうして、祝いの気持ちの以って、わたしは眠りますよ
物語からも、眠りますよ。遁走とゆうより、遁遊、それよりも
穴があったら、入りたい。アナグマは、ダックスフンドによって
覚えられた品種だけれど、アナグマ認知の上には、僕のこの、
穴があったら、入りたい。余裕を、両裕などと置き換えては
ベーシックに、そういった、祝いの気分=モグラのような、
アナグマと言っては、言葉の上でしか知らないし、実に旨いのだ
そうなのだけれど、僕の頭脳を通り過ぎる、蕎麦公司といったネームは
あえて、もう暖簾の掛かった蕎麦屋さんの建築居佇まいばかり、
相談に乗ってくれませんか? -良いですよ、蕎麦屋でも?などと、
返す夢をみながら、ああ、白あんにベーコンを巻いた、あの夜は
忘れられない、ひとつの終わりを見付けた、物語のハッピーエンド。
さては、普通に感性を戻しながら、目立つコースは押さえておこう、
このメッセージは、効率=娯楽のあいだを縫うものとしての
普通の美しさを、ありのままに感じさせる、ひとつのステップだったのだ。
身体を暖めて、癒しを瞑目に求めれば、すべては忘れられるので、
社会構成自体の生命ブロックチェーンだったと気付く夜なのだった。

こちらは如何?

解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを

足元のゴキブリをきちんと処理できてからでないと、ものごとの全体的な オーガナイズなど、できたモノではない。かと、言って大きく自然は常に 世界にあるのだから、とりもなおせば、オーガナイズすなわち全体性とは 自然相手に行う人間の営為と言っていい。これは、自然相手の常識を壊す と称しても良いことで、その人間の中の自然、知性や、また、昆虫類の 自然と呼ぶにふさわしい集合意識的な流麗なエナジーに対しての、技術。 意志と呼べば、意志である。かと、言ってワガママには振る舞えない、 無意思の意志である。最近、穀物の喉元を通らないのは、こういった 自然への意志が挫かれている。むしろ、そういった意図を失うべきな 自然バランスの崩れを食欲不振や、情動麻痺に親い感情に観て取れる。 なので、その解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを起こして どうやったら貧血にならず、穀物も避けてよければ避けて通りもして この栄養失調との闘い、いや付き合い。にしても、快く自然のなかを 通り過ぎてゆけるか。酒でもない、薬でもない。とりあえず、イカの つまみでも摘んで、その勢いで、お豆腐、納豆。そうめんをすすいで 二束ほど掻き込んだ。これが精一杯だ。拒食の強い癖はないだろうが 温かい調理など食べられたモノではない。ましてやこれは過覚醒代謝 でもあるだろうが、意識を上向いていられる分、夏の大気は天国へと 持って行かれそうな暑い上昇気流をたずさえているのだから、すこし グラウンディングするように、穀物の製品も頂くべきだろう。夏の夜 昼間はラマダン期間のように食を細めていた自分の夜食に祈りの姿を みせて冷たい食品ばかり頂くのだから、自然の乱れとゆうよりそれは 自分の乱れである。そうして、呆然と朝を迎えて、鳥の声は盛んだ。

生命システムを収束させているようにも感じるのは、真夏の景色だ。 乱れは美しくもあるが、それは整えられた収束するシステムの過程を まざまざとミクロに見ているのだから、そう乱調の美を感受するのか とも思うのだった。いわずも全体性のオーガナイズは自然への技術的 意志の欠如のうちでは成立せず、そこには知恵の要る知的作業の求む らく、あの野草の薬壷へ手を突っ込むような感じで、よもぎ餅を摘む 大きな頬っぺたで味わう春の蠢きを再現させる作業を必要とするのだ。 夜食の後でアイスバーをたべた。空になったバーの木の匂いは象徴的に その感慨を現している。きっと、自然の芳香を実際…

珈琲プレグナンスとゆうは、地球号温室にて培う

さもなくば、右側頭部の情欲野ともとれる情緒的ヒステリクスは肝要。 男性性が這入りこむので、情念はヨコシマなアーリマン的要素をあらわすので、 いたって自然理にあれば、そのヒステリクスは肝要。アーリマンは赤鬼。 ともすれば、男性性を太宰など、イザナギ神話にあてはめまた、 女性性のイザナミ陣営を、アナトールと芥川氏のフレンチな文学に例えて、 大谷崎=イザナミ女神の文学性へ返すように、そうすれば、 自然体の情緒的ヒステリクスは肝要なのだった。能面が、般若に変るのは 黄泉比良坂において、三島文学=菊理媛の仲介役によって、その岩によって 光り輝く太宰のイザナギ男神的精悍さを、情緒の乱れによって見送る時に。 怒り狂えるイザナミ女神の発端は、男神の一枚岩の正義がわがままに響く その呆然とする知性に対しての怒りであって、それは何か裏腹への怒り。 表裏一体こその静けさであるのに、表面的な反射によって判断する誤りに。 この般若の相貌には、ひとかたならぬ静かな暮らしへの想いがあってこそ。
正しく、情念には破壊を浄化してゆく知恵のコントロール技術の含まれる。 そうして裏の循環摂理はなりたっているので、光りによってすべて消す といったようなのは、戦争経済と何も変わらない志向であって、情緒的な 日常の天然湿度の中で解決する身体由来の経過のあるとするなら、それは 情緒の情念的ないわゆる情欲循環コントロールによってしか、その常温は 保たれないのだった。般若は常に嫗である。いや、そうあるべきなのだ。 そうやって、いつも怒りに枯れている茫々と寂寥とした感慨を現すのが、 情念にはふさわしい。計らずも男性性は遠く彼方に押しやってしまえと、 巌に蓋をされた、彼らの国は、もう鉱物的なスピリチュアリティにしか、 含まれず囲われ、だき入れられてはいないようだが、そこに、男性性の 隔絶とした、中和され赤青に別れた大地と空との、水と風との調和は 有りえないのだった。珈琲プレグナンスとゆう造語を嗜好しだすのは、
そこに、情緒ヒステリクスの地球温室においてはぐくまれる暖かさの中で 結果的に正しさとは受容するのによって見出されるモノの多分に大きい、 そうして、正しさとは、ストレートさ素直さ一面性のたぐいにはなく、 多面性を受け容れること。情念コントロールは情欲循環的な何かでは、 そうして破壊を調整してゆく暮らしの技術におきながら、戦争経済とは 一線を画す技術の生活意欲として、裏側の…

業の泉へと向かう身体の、ラッセルと太宰に寄せて

ラッセルは、聖パウロのようで、太宰はイスキリのようで。
だんだん、平和への祈り道が、業の泉に到着しそうな予感がして、 潔癖症なくらいの綺麗好きなのが、人間臭さとゆうか、仏の道などと 融和して行きそうな気のする、不可思議な強靭さを呈している例え頓挫しても 身体は、もっとマジカルなパラレルトリックの物質ベースで核融合する、 そんなカルマベースで行ける世代的にも壮年期である、現代生活ではある。 その業の泉に予め潜ってゆけば、クリームチーズのしっとりパンを食べて 抹茶の豆乳ラテを片手に吸いこんでいるこの孤独なポルターガイストに、 あるいは、怖いは好きの裏返しと言うのは、殺意さえも愛情ではあるが それに対して、業の泉に融けこんでゆくのが、ひとつの世相ではある。 こうして美女と野獣をみながら、眠りに親づいてたまの孤高にある夜中。 ロマンチックにあればまたも安心するが、しかしながらも文学にあっても まだ安堵の嘆息ついてはいられもするのに、ソファに横たわりながら、 空調を点けて念じることのあるならば、やっぱり安寧はここかしこの 瞑目してみえてくる、あるいは知性はラッセルにも、太宰にもある。
鋭意において、横になり手に余るほどの情報を世界は2つか3つあるのか、 この希望ともとれる情報存在は世界を意識すれば動じて溢れ出てくるのだった。 ロバは、四肢によって人間と同じように体幹を感じているのか?とは言えば、 幸福論を読むラッセル的知性は、太宰のアフォリズムによってもまた違う感じ を抱かせている。この感じは綺麗なのと、情熱的な愛のカルマとまた似ている 希薄で軽やかな明度の高さと、低部にありながら、渾々と湧く泉の如く、 頂上と伏流水の部分には地点的に密度は違えど、空間も時間速度も違えど、 知識として共有している何かの輝きのあるのだから、例え山頂と麓にでも 星はみえるのだから。この星とゆう知性の知悉するファンタジーを大切に してゆこう。これは、いつも知識はこの魂にあるゆえの共通地点。なので その叡智によって、wisdomを捨てるとこまで行かなければならないのだ。 Let it beも、風に吹かれて、にゆかなければ、その先は普通の生活なので その繰り返しながら発生する風の地点。送風の生起される場所が好きで、 それでも同じく普通の生活の繰り返しながら、叡智を捨てる所にいれば 叡智を捨てて風の起こ…