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集合魂=集合意識を繋げるモノは『愛情+知性=theVoice』の定式で,

全体主観によって,街を包括してしまいたい衝動に,殊に,あの
もちろんエネルギー体としては地球の方が高いかも知れないけれど
なぜか出来うることなら,とぐろを巻いた大蛇の車輪みたいなモノに
取り組みながら,地球へとまた一度消化してしまいたい。”地球”=『地球』へ。
集合魂=集合意識を繋げるモノは『愛情+知性=theVoice』の定式で,その
theVoiceとゆうものを,知性の働きとして,また愛情のオリジナルへの回帰として,
そこより逆行して,”地球”に『地球』のオブラートが,かぶさっているとゆうことの
証明する魂の叫びを,theVoiceと呼ぶのである,いやはや,砂風呂に這入っている,
自分は,生卵だったけれど,気持ちの表面上は,薄い茹で玉子に換わっているのだった。
西洋文化とゆう堅い呼び方をすれば,西洋建築みたく,響くモノだけれど,例えばあの,
パン食を,昼ごはんにも,フルーツと黒パンなどにする場合も含めて,どんな小麦を使う
とゆう素直な疑問を掲げるので,けれど,それは,きっと米食によれば,そういった気に
入った素材択びは,常に習慣にあるように。きっと,小麦の食材選択も,率直に,多分は
良いモノを使っているのだろう。それは,多分建築様式にもそうで,日本には日本の,
炬燵のあぐら模様や,椅子の風景に炬燵のない姿など想像できない,冬の景色には,もう
腹式にチカラを入れて,あぐらをかいて集中している,テレビや,Blogや,お茶の風景。
それらを,theVoiceと呼んで,なので,僕らは,集合魂=集合意識を繋げるモノは
『愛情+知性=theVoice』の定式で,といった,生活必須の魂の叫びを求めているのだ。

明日は,水を汲みに行こう。今日は,デカフェの珈琲豆や,豆乳などが揃った良い日で,
あとは,水を汲みに行こう。最初は40リットルだった水量も,次回は60リットルになり,
やがて終いには80リットルまでに増量されそうだ。お茶のパックが少ないので気になる
ところだけれど,そう考えると,水分補給にまとめられるのか,”お茶”のことばっかり,
気にしているようで。ウーロン茶ドリップで薄いデカフェを淹れて呑む気持ちは,ただ
お茶を啜るだけではない,水分補給の新しいカタチを教えてくれたし,そのウーロン茶を
沸かすための,水を汲みに行くのも,なんだか薄暮のあたり,水汲み場にはもうひとっこ
ひとりおられない時間帯に,ライトを点けて,ポチポチとリズムを刻みながら,自動車の
エンジン音の響きに混ざりながら,そのかけがえない,調和とは不協和音をも含むのだ,
生活において,その響きの調和するエネルギーは,リズムを刻む記憶の領域に,地球の
不協和音が含まれすすむ,惑星の運行に馴染むのは調和。記憶の領域に灯りの点もる時の
この炬燵の周りで不協和音は反射式ストーブの熱気より”お茶”の時間の安堵のひと時から
思わず横になる瞬間の気付いたら半袖で,のっぺり意識の地球自体になっていた。その,
調和の姿は,集合魂=集合意識を繋げるモノは『愛情+知性=theVoice』の定式で,多分
変容する瞬間とは,その変化の停まったところで起きる,変容の無い瞬間であり,愛とは
元来そこにあるもの,と気付いた瞬間にこそ,あの烏龍デカフェ珈琲豆乳のタンニンには
知性の働きを還元してくれる何かがあってそうして『魂の叫び=theVoice』の変容促進は
”地球”を『地球』に換える,これは,いわゆるの集合魂的働きを,集合意識的な要素へと
結んでいく何かの世界分解酵素のような気のしてくる。

塩竃とゆうのは,何でも,塩を煮炊きしたモノに用いられる言葉だ,と,そう思うのだ。
海水を毎回毎度のストーブで一日コトコトとも言わない程度に熱しておくと,二割ほどの
残りになると,火から上げて,中鍋ほどの手鍋で,コトコト言うくらいに熱しておく。
そうやって,こんどはコンロに移ってそんな過程をへていると,まるでプランクトン状の
沈殿物が現われて来るので,それはカルシウムの類だとゆうのだけれど,漉してからまた
火に掛け,最期の最後に塩化カルシウム(も,カルシウム化合物だけれども)の,食塩の
サラサラと現われて来るのだった。けれども,これは体験談として,音楽が必要になる程
必須要素として,ほんとうに塩分の抽出には,リズム感が必要大切な部分にBGMがある。
退屈とは違って,地球の濃縮する際には,きっと音楽を必要とすることの証左としての,
むしろ,こう言えば良かった。塩竃には,実に音楽が,ほんとうによく似合うのだった。
それで,抽出とゆうか,煮炊きだした,とゆうのか,焚き出したお塩の中からは,始終の
熱源に晒されて,一日中の身体の熱が明らかに寒風に露呈されてくる。この一日中の熱は
塩竃熱源の耐熱地熱茹で卵のような,この熱を帯びる部分をハートと言い,そんなさなか
集合魂=集合意識を繋げるモノは『愛情+知性=theVoice』の定式で,結局のところは,
体脂肪のどうであろうと,それがハートであるとゆうのは否めない,変容する所は,無い
のであって,常にそこに滞在するのは,熱であり,その脂肪であり,それはハートである
ので,そうやって,そんななかで変容しない感情とゆうのを証明してゆこう,とゆうのが
とっても強い知性と根底の愛とを証左とし,そうやって感情の変容しない情緒とゆうモノ
theVoice=魂の叫びに”地球”=『地球』は”集合魂”より『集合意識』に換えてゆきながら
その感情を叫びながら,例えば,一度,あぐらを解いて,逆立ちしてみるのはどうだろう
など,天地が逆さまになるさまと,ブレイクダンスで回転しだす頭頂の風景などを想像を
してみては,ふ,と思うのである。





こちらは如何?

解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを

足元のゴキブリをきちんと処理できてからでないと、ものごとの全体的な オーガナイズなど、できたモノではない。かと、言って大きく自然は常に 世界にあるのだから、とりもなおせば、オーガナイズすなわち全体性とは 自然相手に行う人間の営為と言っていい。これは、自然相手の常識を壊す と称しても良いことで、その人間の中の自然、知性や、また、昆虫類の 自然と呼ぶにふさわしい集合意識的な流麗なエナジーに対しての、技術。 意志と呼べば、意志である。かと、言ってワガママには振る舞えない、 無意思の意志である。最近、穀物の喉元を通らないのは、こういった 自然への意志が挫かれている。むしろ、そういった意図を失うべきな 自然バランスの崩れを食欲不振や、情動麻痺に親い感情に観て取れる。 なので、その解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを起こして どうやったら貧血にならず、穀物も避けてよければ避けて通りもして この栄養失調との闘い、いや付き合い。にしても、快く自然のなかを 通り過ぎてゆけるか。酒でもない、薬でもない。とりあえず、イカの つまみでも摘んで、その勢いで、お豆腐、納豆。そうめんをすすいで 二束ほど掻き込んだ。これが精一杯だ。拒食の強い癖はないだろうが 温かい調理など食べられたモノではない。ましてやこれは過覚醒代謝 でもあるだろうが、意識を上向いていられる分、夏の大気は天国へと 持って行かれそうな暑い上昇気流をたずさえているのだから、すこし グラウンディングするように、穀物の製品も頂くべきだろう。夏の夜 昼間はラマダン期間のように食を細めていた自分の夜食に祈りの姿を みせて冷たい食品ばかり頂くのだから、自然の乱れとゆうよりそれは 自分の乱れである。そうして、呆然と朝を迎えて、鳥の声は盛んだ。

生命システムを収束させているようにも感じるのは、真夏の景色だ。 乱れは美しくもあるが、それは整えられた収束するシステムの過程を まざまざとミクロに見ているのだから、そう乱調の美を感受するのか とも思うのだった。いわずも全体性のオーガナイズは自然への技術的 意志の欠如のうちでは成立せず、そこには知恵の要る知的作業の求む らく、あの野草の薬壷へ手を突っ込むような感じで、よもぎ餅を摘む 大きな頬っぺたで味わう春の蠢きを再現させる作業を必要とするのだ。 夜食の後でアイスバーをたべた。空になったバーの木の匂いは象徴的に その感慨を現している。きっと、自然の芳香を実際…

珈琲プレグナンスとゆうは、地球号温室にて培う

さもなくば、右側頭部の情欲野ともとれる情緒的ヒステリクスは肝要。 男性性が這入りこむので、情念はヨコシマなアーリマン的要素をあらわすので、 いたって自然理にあれば、そのヒステリクスは肝要。アーリマンは赤鬼。 ともすれば、男性性を太宰など、イザナギ神話にあてはめまた、 女性性のイザナミ陣営を、アナトールと芥川氏のフレンチな文学に例えて、 大谷崎=イザナミ女神の文学性へ返すように、そうすれば、 自然体の情緒的ヒステリクスは肝要なのだった。能面が、般若に変るのは 黄泉比良坂において、三島文学=菊理媛の仲介役によって、その岩によって 光り輝く太宰のイザナギ男神的精悍さを、情緒の乱れによって見送る時に。 怒り狂えるイザナミ女神の発端は、男神の一枚岩の正義がわがままに響く その呆然とする知性に対しての怒りであって、それは何か裏腹への怒り。 表裏一体こその静けさであるのに、表面的な反射によって判断する誤りに。 この般若の相貌には、ひとかたならぬ静かな暮らしへの想いがあってこそ。
正しく、情念には破壊を浄化してゆく知恵のコントロール技術の含まれる。 そうして裏の循環摂理はなりたっているので、光りによってすべて消す といったようなのは、戦争経済と何も変わらない志向であって、情緒的な 日常の天然湿度の中で解決する身体由来の経過のあるとするなら、それは 情緒の情念的ないわゆる情欲循環コントロールによってしか、その常温は 保たれないのだった。般若は常に嫗である。いや、そうあるべきなのだ。 そうやって、いつも怒りに枯れている茫々と寂寥とした感慨を現すのが、 情念にはふさわしい。計らずも男性性は遠く彼方に押しやってしまえと、 巌に蓋をされた、彼らの国は、もう鉱物的なスピリチュアリティにしか、 含まれず囲われ、だき入れられてはいないようだが、そこに、男性性の 隔絶とした、中和され赤青に別れた大地と空との、水と風との調和は 有りえないのだった。珈琲プレグナンスとゆう造語を嗜好しだすのは、
そこに、情緒ヒステリクスの地球温室においてはぐくまれる暖かさの中で 結果的に正しさとは受容するのによって見出されるモノの多分に大きい、 そうして、正しさとは、ストレートさ素直さ一面性のたぐいにはなく、 多面性を受け容れること。情念コントロールは情欲循環的な何かでは、 そうして破壊を調整してゆく暮らしの技術におきながら、戦争経済とは 一線を画す技術の生活意欲として、裏側の…

業の泉へと向かう身体の、ラッセルと太宰に寄せて

ラッセルは、聖パウロのようで、太宰はイスキリのようで。
だんだん、平和への祈り道が、業の泉に到着しそうな予感がして、 潔癖症なくらいの綺麗好きなのが、人間臭さとゆうか、仏の道などと 融和して行きそうな気のする、不可思議な強靭さを呈している例え頓挫しても 身体は、もっとマジカルなパラレルトリックの物質ベースで核融合する、 そんなカルマベースで行ける世代的にも壮年期である、現代生活ではある。 その業の泉に予め潜ってゆけば、クリームチーズのしっとりパンを食べて 抹茶の豆乳ラテを片手に吸いこんでいるこの孤独なポルターガイストに、 あるいは、怖いは好きの裏返しと言うのは、殺意さえも愛情ではあるが それに対して、業の泉に融けこんでゆくのが、ひとつの世相ではある。 こうして美女と野獣をみながら、眠りに親づいてたまの孤高にある夜中。 ロマンチックにあればまたも安心するが、しかしながらも文学にあっても まだ安堵の嘆息ついてはいられもするのに、ソファに横たわりながら、 空調を点けて念じることのあるならば、やっぱり安寧はここかしこの 瞑目してみえてくる、あるいは知性はラッセルにも、太宰にもある。
鋭意において、横になり手に余るほどの情報を世界は2つか3つあるのか、 この希望ともとれる情報存在は世界を意識すれば動じて溢れ出てくるのだった。 ロバは、四肢によって人間と同じように体幹を感じているのか?とは言えば、 幸福論を読むラッセル的知性は、太宰のアフォリズムによってもまた違う感じ を抱かせている。この感じは綺麗なのと、情熱的な愛のカルマとまた似ている 希薄で軽やかな明度の高さと、低部にありながら、渾々と湧く泉の如く、 頂上と伏流水の部分には地点的に密度は違えど、空間も時間速度も違えど、 知識として共有している何かの輝きのあるのだから、例え山頂と麓にでも 星はみえるのだから。この星とゆう知性の知悉するファンタジーを大切に してゆこう。これは、いつも知識はこの魂にあるゆえの共通地点。なので その叡智によって、wisdomを捨てるとこまで行かなければならないのだ。 Let it beも、風に吹かれて、にゆかなければ、その先は普通の生活なので その繰り返しながら発生する風の地点。送風の生起される場所が好きで、 それでも同じく普通の生活の繰り返しながら、叡智を捨てる所にいれば 叡智を捨てて風の起こ…