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Emotionalな知悉する太宰とマグダレーナ・マラルメは稲荷巻考案

何だか訳の解らない題名になってしまったけれど,例えば
三島文学に「雪国」の要素があったとしたら,それは情緒の
介入する隙間を見つけた時で,耽美耽美とはゆうけれど,その
情緒の雪解けの水のあるとすれば,”美”のなかには,飯盒を
炊くためだけの雪しか存在しないのだった。イエスの系譜には
Emotionalな知悉する太宰とマグダレーナ・マラルメは稲荷巻考案
とゆうダイナミックな全体主観あるいは包括的主観があって,けれど
”雪”をテーマとする文学には,ヒューマニストとしての感情態は以て
必要ないのだった。小豆をコトコトと煮る心地は,反射式ストーブの
上に置いて,火もそんなに大きくはしていないのだから,そのままの
堅い部分や,砕けた箇所をないまぜにして,感情は,そのまま知性へ,
理解するとゆうことに,嵌入する気持ちではなくって,巌の据わるように
その業を理解したいのだった。カルマクリーニングとひとはゆう。何か,
聴き慣れないようにも感じるのだけれど,その情緒の手前にある,感情態の
姿を見詰める際には,やっぱり取り込まれるのはヒューマニズムではないか,
Emotionalな知悉する太宰とマグダレーナ・マラルメは稲荷巻考案
とは言えども,マグダレーナ・マラルメとゆう比喩的な影像を借りて,言語の
捉え方には,稲荷巻って何だろう,思い付いたけれど造ることのできない変な
感じで,太宰はヒューマニズムの権化である,しかしながら,マグダレーナも
狐の神も,カルマクリーニングも,エモーションの始まる所に何故かしらの
全体主観を植え付けて帰ってゆくのだから,しばらく”もう,いいや”って気付いたら
このヒューマニスティックな感情態は,マントを”えいやっ!”と投げ飛ばしてしまおう。

不思議なもので,ほんとうに不可思議なくらいの,感情の隆々とした粒々の胞子は
色々なところへと伝播しては結びつけてこのwebとゆう蜘蛛の巣の喩えは感情態の
なかにも存在している。ひとつは個々の存在意義のなかにもwebの原因は内在していて
眠りのなかにその種子は隠されている,種子とか胞子とかの喩えは曖昧だけれども,あの
タンポポに白い綿毛を放つような,そんなヒューマニズムの風に乗って,この全世界的な
エーテルの海上旅行体はさまざまに地球大自然を航海していたのだった。感情態のwebの
こんな言葉の浮かんできて,しかし,ヒューマニズムはそういった嵌入する浸透性を以て
人間の身体には則らないモノ。眠りの開花には気を付けなければいけないのだけど,また
感情を超えて,エゴを諦めて呆然とできるその心地も良いものだ。シナモンシュガーの
レーズンブレッドにバターとハチミツを乗っけてトーストしてお客さんに供する心地は,
そんな,エゴに換わって何が這入ってくるのか,身体に証明してみせてくれているような
レーズンとは干しブドウで,ブドウより産まれてくるものならばこその,その果実の匂い
には,もっとほかにすることがあっただろうに果実の収穫を,待ち侘びてワインボトルを
洗って干しては並べているおばあちゃんの快さを想起させて,三島文学に「雪国」のある
としたら,それはそんな干しブドウとワインボトルの物語になったであろうなんて容易に
想像できる。死が眠りを彷彿とさせて,果実の匂いは眠りを最大限に開花させて,そんな
開花する眠りのうちより,ヒューマニズムは産まれるのだから「雪国」の根底にも,また
「潮騒」や「暗夜行路」や「夜明け前」の,そんな散文詩の気配の手前にあっても,あの
努力と悔恨のなかから放たれた,情緒以前の感情態である,エネルギッシュな狐の尻尾は
振りふりと,全世界へ文学を情趣として解き放つのであった。

何がなんでもカリカリになるまで干し続けるレーズン農家さんも居るだろうが,確かに
乾燥しきったドライフルーツには,甘納豆にしても,話しはずれて,善哉や黒豆でも,
あの噛みごたえのあるカリカリには,持続可能なとゆう用語の適いそうな,何か嬉しい
触感の含まれている。永続するモノの執着を密かに感じていた思春期にはゴワゴワでも
堅い生地の服を探して,伸びない服の着心地を,肌に感じて確かめていたものだった。
やがて,そういったモノは,文化のなかに隠されているものだ,と珈琲やデニムに,また
炬燵や,反射式ストーブなどにもガス調理やオーバーオールやレッグウォーマーのなかに
そんなサステイナブルな,地球と環境を繋げて,ロマンチックに纏めている伝統を,すぐ
垣間みられるのだった。ほんとうに善哉や薄いウーロン茶ドリップでデカフェ珈琲豆乳を
呑んでいて『世界の不思議は,やがて感情態の消滅を示し,そののちエゴもないのだ。』
とゆう感慨に到るのだ。そのエゴの消失の前に三島文学は”自我の殉教”を呈してすすみ,
ぼくはやがて今の三島文学に位置されるエゴの消滅する感情態の姿へと興味・変容を試み
心理的にTruthを語るのなら,その真実は,火の消える間近の灯りではなくって,消えても
薫りを芳醇に遺す,そのダイナミックな全体主観をより芳香に換えて揮発に託す,何かの
ポエジーなのだから。散文詩ではない文学も,感情的にはあり得る。のだけど,意味より
詩の諦念に移ることのできる筋の問題なのかもしれず,あの情緒を現す文章に現れたのは
きっとエゴを失った詩性なのだった。もし,エゴを放すことのできる,この黄昏に,あの
「トロッコ」の夕暮は”薄暮”といった言葉を憶える最初の出来事で,もしくは『諦念』を
想い出せる後々の彼の最初の刻印を『情緒への道程』に経験することなのだ。いま,2人の
肖像をあげるとするなら,芥川と三島の両スナップを並列するのだけれど,芥川は今昔に
三島文学の嚆矢を担って(順不同するようだけど)師を申し出て,彼の偉大な先達として
サマーランドより麦藁帽で見降ろしているだろう。眺めるとゆうより,蜘蛛の糸のような
如来の姿で”見降ろす”芥川先生の姿を,僕は想像している。とゆうより切望し待ち臨んで
現代の情緒を,希求する者なのです。


こちらは如何?

とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。

白黒の隈を着けて,いつもよりも浅煎りの珈琲豆を一杯のお代わりを 受けて,淹れなおす。家の台所は,さながらカレー屋さん気取りの, とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。 とにかくもゴッコ気取りで楽しみながら遣りすごす,台所での一時。 ダサいと言っては,何だけれど,バランスの好いのはそうゆうことだ。 そうして,そうゆうダサさをこそ,落ち着いているとして好む,そんな 白と黒を半分ずつ割って入れるようにして,豆乳オーレにして頂く珈琲は, 真皮に黒を抱きながら,表面きっての自分自身は,笑顔で白を通す,その 面白さは微笑みより訪れるので,にっこり気持ちは構えて,ダサさを通す。 それでしか淹れられない,なかなか浅煎りは,カフェオーレでしか入らない。
追及しては,戻ってくるのは番犬や番猫で,何だよとゆうばかり,番猫なら 招き猫みたいにスレンダーな物腰で,いいやスレンダーではないか,でも。 多分,何にもいないのだから,彼らにとって,虫の知らせは,いわゆる枯れ尾花 であって,そのざわめきや囁きのようにして聴こえる,彼らにとっては雑貨店。 トフィーのような濃厚な滑り出しで,カフェオレに合わせながら眺める,こんな 洋菓子店をめぐるように猫などの物腰の豊かさを側に置いて,ぼくは先日のあの ロイヤルウェディングの様子を想いだす。白馬のリードしている子の,ちょっと 荒れているのには,繁華街に急に放り込まれた武士のようなイメージで,そりゃあ 興奮し,混乱もなさるでしょう?とは,そればかり心配してはいなくても,やっぱり パレードの壮大さは計り知れない。ダイナミックであり,本当に生命力学的にもっとも ハラハラもし,手に汗握る。この悠長にはPCの前に座りながら,安堵して,折り畳む。

基本的にはまた紅茶とキャラメルを合わせる感じで良いと思うのだった。ちょっとした
あの渋味と,焦げているような甘味のあいだで,切なさと勇気を半分ずつにおおげさに
振る舞っている。週末を終えて,家族サービスとゆう毎度のほどでもないのだけれど,
毎日に平日のスタートを切る僕にとっては火曜日。風邪を引いてると体力よりも果敢に
すすめないのでこうゆう話題になっているけれど,それも治った後の話として,本当に
スタートを切られることに,爽やかな活発さをさえ抱いている,早速まだ沸かしたてで
すこし温湯のお茶を頂い…

憑依するとゆう言葉には,入り神級と創作ウォークイン。トリップなど様々

前世ゲームとは言え,嵌入しきって書物の渉猟をすることは,最も
アクティブな瞬間で,それはインナーに居て,集中度の高まる体験。
憑依するとゆう言葉には,入り神級と創作ウォークイン。トリップなど
様々あるけれど,それは研究意欲としてそうなのであって,きっと以て
どれでも良いはずの日常と,外側の経験則のなかでは処世術としては
仲介されえない範囲の事柄ではある。なので,運筆とゆう詩性に向かって
コンスタントに埋没しきることのなかにも夕暮れ時に適うような,そんな
”前世”=書物文化のあって良いはずだ。転生とゆうことは,それほどまでに
コンセントレーションの中に含まれていて,一種の隠喩のようにそこにある。
それで,いま没我した自分は転生している,うん。それで良いじゃないのか?
例えば,自意識のうちで,第一に身体を漱石山人より,次に生命力を太宰さんに
三番目には意識的に明るさを芥川氏より頂き,個我みたいなモノは三島文学より。
僕の竜退治のミカエルは彫刻家のロダン=文学にF.ラブレー=透視にスウェーデンボリと
言った大家より受け賜って,ジヨットのイコンにおける精神性において開花する。など
ここまで自意識的に説明したところで,それらは”前世”とは関連のないことではある。
集中力に謎解きの扉を開く鍵のあることを知悉して,ようやく,眠りに就けそうである。
渾然一体となってファンタジーは,一度死に,二度目に産まれる魂に対して,何らかの
ギフトを与える。集中力によって,ソウルは再び現れた記念として,”前世”の贈り物を
授かるのだった。そうやってゆこう。黄昏に,贈り物としての言葉を貰うようにして,
やっぱり夕餉の匂いは良いモノである。そこかしこに湯気の上がって,昔はさながらの
薪のくべられた薫りなど漂っていたろう。こうやって,時代は溯られれば,魂のうちに
何らかの,記憶=ファンタジーを得ることのできるはず。

急に,突然の報せのように,白い聖母信仰のほうへ寄りかかって行きそうな気さえして。
夕餉の匂いにのせられて,それらは,ふわりふわり声明を携えて近づいてくる。夕暮れに
不可思議な想いを感じ取らせながら。この白い芳香は何処から遣って来て,今さらながら
ついにこの辺りまで,ついの最近までは,いったい何処に居られたのでしょうくらいの,
何だか不可思議にふわりふわりと感じられる香りなのであった。良い…

季節を描写するのみで良い,そんな甘露の雨粒と,上がった後の煙。

人文的な要素のないと言葉の発想も浮かんではこないもので,なおさら まだまだメモしておきたいことのありそうで,けれども,もうこんなにも 季節を描写するのみで良い,そんな甘露の雨粒と,上がった後の煙。雨煙に 合わせて,ヒーリングのアロマ・ミュージックなる分厚い音楽を掛けながら そのブランケットにくるまれて温かい心持ちをして,人文的より,また素描。 ああいう荒野にそっくり掘り込まれた教会遺跡群などは,もうイニシエートの それら現代のクラブシーンだったのだろうか?僕はその際,家で,お茶を啜る あのインナースタイルの静かなもんだったろう。なんて,基本的に動くとゆうか 家の中を満たすひとつの酵素で生きていたい。生活の匂いは,家の樹々の香り。 肉食には,昔の突っかかりを感じて,なかなか馴染めないけれど,元気は出る。 美味しさに賦活されて,文化的に色々楽しめることを良しとしては,けれども 今となっては,雨に巻かれてウッディな温もりに浸透されることの,浄福なので。

咳や熱風邪も,一度肺炎になった?と感じ始めたところで,一気にスノーマンの 夢を見て瓦解するように退けて行った。その余韻に燻製チップのような薫香の, ハートあたりに漂って,それはまた幸せな健全さの回復を予想させるので,納得。 燻製や北国のイメージは,やがてその厚くなった肺や気管の様子を想像させて, それでロマネスクなのだった。北国は,やがて魔の山も克服して,こうして篤く 人のこころを暖めてくれる。けれど,だからといって,こうゆう時に何かお肉食を 試みたくなる。本当に,篤い人生を効果的に造りだしたいのだ。むしろ,厚く強く。 豚肉の小間切れを,醤油麹とみりんで,お酒を加えながら,すこし甘味噌など足して 玉ねぎ,白ネギと共に炒めてみたのだった。奥さんは仮眠中なので,起こして頂ける ような料理だとは思えないので,ソファの近く,炊き込みご飯を解凍したのと,側で 摘んでいた。明日は英国のロイヤルウェディングだと,ニュースでしていて,思わず 感涙してしまい,僕も不可思議ながら,少しく傷付いた思春期に,感情移入しては, いかばかりか砕けた心持で経過を感じていたので,何だか,ホッとして,うるっと。

すべてお肉食で感情までも呑み込んで,取込んでしまえたらそれで良いのだけれど,
切なさや,哀しさ。鎮魂の想いまでは,そんなに簡単に解消していったり…