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ロマンティシズムは,風林火山の宇宙開口,天地開通

エーテルな外殻を破らなければ,外の神界天国には行けない,と。
ラディカルな抒情はあるけれど,いわゆるそれは,耽美的ロマネスクで
堀辰雄文学は,それである,また,諧謔とは,本来ユーモア+ペーソスの
本来的に,哀切を含むものである,と。あの北斎の芭蕉同一論を想って,
何故だか知悉する。そういった,諧謔による,地球の全体性ロマネスクは
軽井沢の追分駅を降りた所の,記念館に眠る,馬酔木(あせび)の文字に
またたび,と。勘違いもして,読みながら帰る道すがらの,猫のアクビは
ロマンティシズムは,風林火山の宇宙開口,天地開通である,もう少しは,
ラディカルであっても良い,いいや,抒情であろう。そうやっては,もすこし
耽美的なロマネスクを,燃える椎の樹の雷鳴の夜に当て嵌めて,眠っていて。
茶柱が立っていたって,それは,緑茶煎茶でなくっても,例えばジャスミンの
何かの枝だって立っているだろう『無茶です,むちゃデスよ。ああそれなら。
番茶と緑茶煎茶とジャスミン花の全部を一緒の間に淹れたらいいんデス。なら,
絶妙なカテキンの中にフレイバラブルタンニンの混ざって良い感じデショウ。
なんなら,ご紹介をして差し上げマス,これは,罪と罰のラスコリニコフ茶と,
呼ばれる,ローズヒップ緑茶ブレンドなのですが,如何でしょう?』などとは,
飲茶茶房の御主人のベトナム人男性などとは,会話できないのだろうか?など。
うつらうつら,そんな霧中散歩にストーブ湯気沸いて,エーテルの壁。これは,
まさしく肝臓細胞の再誕生の瞬間を垣間みている最中の出来事なのだ。これで,
僕らは,ロマンティシズムは,風林火山の宇宙開口,天地開通の証左となる。

エーテルの出口が開いて、扉のひらくと、マクロなコスモスへと、
旅立つプランしか予想してなかった心が、不可思議と、自らへの
関心や、歴史への嵌入へ歩をすすめることに気づく。忘我の、あの
自己放棄へと旅立ってゆくような気のする、思考癖は、結果として
私を知りたい。それは、自己放棄の自由より先立って、システムを
択ぶとゆう、システムと幸せを択ぶのだとゆう、身体性への
回帰、無事戻った故郷へ帰還した私を待っている。わたしというEGO。
アイスを2個購ってかえる道すがら、こんなに寒いのに、そんな
ひとはいないよなあ、などとは想うのだけれど、返って頬張る、
その心地。少しの暖を取って、甘いものを摂る心地は、何にも
増して、冬のアイス人口たくさん居る。といった、深い感慨に
打って変わって、入れ換わる。EGOのテーマもそういったモノだろう、
寒い日の外より帰って来ると、豚と白菜のミルフィーユ鍋を拵えて
食後に一息ついたら、お風呂に浸かる。この一連の経過に自己活性化する
そのEGOそのもの。武蔵坊弁慶や、三島文学の事を紐解きながら
帰りを待っている、あなたというEGOの返りを待ち続けるのだった。

途中から滞っていた、罪と罰、朗読は江守徹さんの縮約版ということで
休日深夜にかけて、眠りに就寝し、床にはいりながら、映画より
真っ暗闇に瞑目し、さらに熱中してしまうその2時間強のあいだ、
例えば、最後は手段として、自己の解除されてゆく、諦念めいた、
そのダダやデカダンスの体験、体験というより消化器官で経験する感じ
このデカダンの裏返しに、コダワリの抜けていって、罪と罰は
わたしじしんにもふくまれる罪過、といったなにぶんこの、参った
デカダンスなロマネスク、そのプツプツとピザの焼けている光景に
徐々に、チーズも冷めていって、ようやく食す仕事帰りの、あの
忙しさのなぐさめは、堅いチーズのクリスピーな冷笑。またもや
宇宙の開通して、桜並木に青空の景色を想像しては、この辺り
行き着くところは自己解除の退屈日記。例えば、コダワリの無になる
この一瞬を感謝して過ごすのならば、アンナの父のような位置に
座っているドストエフスキーの、あの基督より一番遠いところに
居るような、クリスチャニティの描写において、むしろ人間性の
あの位置に、はたして神とは、一人なのか多集合なのか、彼の
文豪に答えていただきたい、そう申し問い合わせれば、その謎も
結局は、神しか居らず、人間はいないのだよ、こう言った返答を
期待して、出来うるならば、ああいった罪の隠喩の手前には
チーズの味わいより、むしろ一層の、白肌を潤す水分補給をこそ、
お勧めしたい、なかば混みいった、布団の中でアバンギャルドな
夢の思想を追憶したモノだ。この、世界文学とやらは、基督の
曽祖父のような座標において、繰り返し、繰り返し、罪の在り処を
ただ、ツリーてっぺんの星の辺りで示しているのだった。奇しくも
ひと通りループして、戻ってきたそのてっぺん星の帰還の暁には
もうすぐ、できたての氷を朝方湧き水にカランと、入れて。もう
戻ることない、消化器官の老人と海や、魔の山を爽やかに振り返りたい
そんな表情には、執着をうしなったはずの、微笑むヘッセのよう。






こちらは如何?

解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを

足元のゴキブリをきちんと処理できてからでないと、ものごとの全体的な オーガナイズなど、できたモノではない。かと、言って大きく自然は常に 世界にあるのだから、とりもなおせば、オーガナイズすなわち全体性とは 自然相手に行う人間の営為と言っていい。これは、自然相手の常識を壊す と称しても良いことで、その人間の中の自然、知性や、また、昆虫類の 自然と呼ぶにふさわしい集合意識的な流麗なエナジーに対しての、技術。 意志と呼べば、意志である。かと、言ってワガママには振る舞えない、 無意思の意志である。最近、穀物の喉元を通らないのは、こういった 自然への意志が挫かれている。むしろ、そういった意図を失うべきな 自然バランスの崩れを食欲不振や、情動麻痺に親い感情に観て取れる。 なので、その解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを起こして どうやったら貧血にならず、穀物も避けてよければ避けて通りもして この栄養失調との闘い、いや付き合い。にしても、快く自然のなかを 通り過ぎてゆけるか。酒でもない、薬でもない。とりあえず、イカの つまみでも摘んで、その勢いで、お豆腐、納豆。そうめんをすすいで 二束ほど掻き込んだ。これが精一杯だ。拒食の強い癖はないだろうが 温かい調理など食べられたモノではない。ましてやこれは過覚醒代謝 でもあるだろうが、意識を上向いていられる分、夏の大気は天国へと 持って行かれそうな暑い上昇気流をたずさえているのだから、すこし グラウンディングするように、穀物の製品も頂くべきだろう。夏の夜 昼間はラマダン期間のように食を細めていた自分の夜食に祈りの姿を みせて冷たい食品ばかり頂くのだから、自然の乱れとゆうよりそれは 自分の乱れである。そうして、呆然と朝を迎えて、鳥の声は盛んだ。

生命システムを収束させているようにも感じるのは、真夏の景色だ。 乱れは美しくもあるが、それは整えられた収束するシステムの過程を まざまざとミクロに見ているのだから、そう乱調の美を感受するのか とも思うのだった。いわずも全体性のオーガナイズは自然への技術的 意志の欠如のうちでは成立せず、そこには知恵の要る知的作業の求む らく、あの野草の薬壷へ手を突っ込むような感じで、よもぎ餅を摘む 大きな頬っぺたで味わう春の蠢きを再現させる作業を必要とするのだ。 夜食の後でアイスバーをたべた。空になったバーの木の匂いは象徴的に その感慨を現している。きっと、自然の芳香を実際…

珈琲プレグナンスとゆうは、地球号温室にて培う

さもなくば、右側頭部の情欲野ともとれる情緒的ヒステリクスは肝要。 男性性が這入りこむので、情念はヨコシマなアーリマン的要素をあらわすので、 いたって自然理にあれば、そのヒステリクスは肝要。アーリマンは赤鬼。 ともすれば、男性性を太宰など、イザナギ神話にあてはめまた、 女性性のイザナミ陣営を、アナトールと芥川氏のフレンチな文学に例えて、 大谷崎=イザナミ女神の文学性へ返すように、そうすれば、 自然体の情緒的ヒステリクスは肝要なのだった。能面が、般若に変るのは 黄泉比良坂において、三島文学=菊理媛の仲介役によって、その岩によって 光り輝く太宰のイザナギ男神的精悍さを、情緒の乱れによって見送る時に。 怒り狂えるイザナミ女神の発端は、男神の一枚岩の正義がわがままに響く その呆然とする知性に対しての怒りであって、それは何か裏腹への怒り。 表裏一体こその静けさであるのに、表面的な反射によって判断する誤りに。 この般若の相貌には、ひとかたならぬ静かな暮らしへの想いがあってこそ。
正しく、情念には破壊を浄化してゆく知恵のコントロール技術の含まれる。 そうして裏の循環摂理はなりたっているので、光りによってすべて消す といったようなのは、戦争経済と何も変わらない志向であって、情緒的な 日常の天然湿度の中で解決する身体由来の経過のあるとするなら、それは 情緒の情念的ないわゆる情欲循環コントロールによってしか、その常温は 保たれないのだった。般若は常に嫗である。いや、そうあるべきなのだ。 そうやって、いつも怒りに枯れている茫々と寂寥とした感慨を現すのが、 情念にはふさわしい。計らずも男性性は遠く彼方に押しやってしまえと、 巌に蓋をされた、彼らの国は、もう鉱物的なスピリチュアリティにしか、 含まれず囲われ、だき入れられてはいないようだが、そこに、男性性の 隔絶とした、中和され赤青に別れた大地と空との、水と風との調和は 有りえないのだった。珈琲プレグナンスとゆう造語を嗜好しだすのは、
そこに、情緒ヒステリクスの地球温室においてはぐくまれる暖かさの中で 結果的に正しさとは受容するのによって見出されるモノの多分に大きい、 そうして、正しさとは、ストレートさ素直さ一面性のたぐいにはなく、 多面性を受け容れること。情念コントロールは情欲循環的な何かでは、 そうして破壊を調整してゆく暮らしの技術におきながら、戦争経済とは 一線を画す技術の生活意欲として、裏側の…

業の泉へと向かう身体の、ラッセルと太宰に寄せて

ラッセルは、聖パウロのようで、太宰はイスキリのようで。
だんだん、平和への祈り道が、業の泉に到着しそうな予感がして、 潔癖症なくらいの綺麗好きなのが、人間臭さとゆうか、仏の道などと 融和して行きそうな気のする、不可思議な強靭さを呈している例え頓挫しても 身体は、もっとマジカルなパラレルトリックの物質ベースで核融合する、 そんなカルマベースで行ける世代的にも壮年期である、現代生活ではある。 その業の泉に予め潜ってゆけば、クリームチーズのしっとりパンを食べて 抹茶の豆乳ラテを片手に吸いこんでいるこの孤独なポルターガイストに、 あるいは、怖いは好きの裏返しと言うのは、殺意さえも愛情ではあるが それに対して、業の泉に融けこんでゆくのが、ひとつの世相ではある。 こうして美女と野獣をみながら、眠りに親づいてたまの孤高にある夜中。 ロマンチックにあればまたも安心するが、しかしながらも文学にあっても まだ安堵の嘆息ついてはいられもするのに、ソファに横たわりながら、 空調を点けて念じることのあるならば、やっぱり安寧はここかしこの 瞑目してみえてくる、あるいは知性はラッセルにも、太宰にもある。
鋭意において、横になり手に余るほどの情報を世界は2つか3つあるのか、 この希望ともとれる情報存在は世界を意識すれば動じて溢れ出てくるのだった。 ロバは、四肢によって人間と同じように体幹を感じているのか?とは言えば、 幸福論を読むラッセル的知性は、太宰のアフォリズムによってもまた違う感じ を抱かせている。この感じは綺麗なのと、情熱的な愛のカルマとまた似ている 希薄で軽やかな明度の高さと、低部にありながら、渾々と湧く泉の如く、 頂上と伏流水の部分には地点的に密度は違えど、空間も時間速度も違えど、 知識として共有している何かの輝きのあるのだから、例え山頂と麓にでも 星はみえるのだから。この星とゆう知性の知悉するファンタジーを大切に してゆこう。これは、いつも知識はこの魂にあるゆえの共通地点。なので その叡智によって、wisdomを捨てるとこまで行かなければならないのだ。 Let it beも、風に吹かれて、にゆかなければ、その先は普通の生活なので その繰り返しながら発生する風の地点。送風の生起される場所が好きで、 それでも同じく普通の生活の繰り返しながら、叡智を捨てる所にいれば 叡智を捨てて風の起こ…