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愛する樹の葉が、光の子どもを宿す、木漏れ日の哀切こもごも

悪意は常に,攻撃的とゆうより,お節介で,なので善意は常に,
受け身でだから,攻勢にでるときなどは,その受け身のピークに
至った時である。とは確かならぬ,確信を不幸の裡に授かるモノ。
なので,逆に言えば,被虐の中にその”確かならぬ,確信”を得た
のならば,常にそれは,宇宙の引っくり返って,右脳が左脳に,
奴隷制が貴族社会に,また自由が絶望の内に失意より暗黒の幕を
引き,知性とそのグリッドに掛けて,耐えることを良とする法則。
零れ堕ちる目から鱗の数々。耐えることにより,知性をゲットし,
その逆説において,また,貴族社会が奴隷制に置換えられないよう。
ぽろぽろと,目から鱗に,絶望が諦念めいてあの,知性に換わるよう。

”自我の表明”は,他の区別なく『私』は,その世界であるとゆう宣言で。
カンディンスキーの抽象的な原色や,ロシアの知性にその源流を求める。
あれは,確かにドストエフスキー。『罪と罰』を借りて来て,朗読の
ファイルをスマホに移す。彼は,確実にキューバ革命の中にも,また,
サンクトペテルブルグの治世にも居たのだった。山師カリオストロとゆう
響きに,どれだけ震顫したことか?また,聖テレーズの宣言は”自我の表明”。
彼らに,うわさ話の集団魂の使命を聴いたのならば,一気に一括個的処理を,
その,知性に巌は打ち砕かれるので,転石苔を生ぜずとは,元来転ぶ石自体の
何処にもなかったのだった。

さては、女神のような上杉謙信公と、美少年の敦盛像に、あの
局長時代の近藤勇の肖像と、そうして、猫町の萩原朔太郎氏など、
自らの業は瑞々しく解けて行く、祟り神の因縁の想いに親くて、
まだまだ、身体の中には、そういった、フェミニズムの葉隠の、
蒼々と流れては行かない、堂々としながら、青くさい匂いの、
こんな、流動的な業の姿を見るに付け、眺めている山頂の景色に、
どれだけ、どれほどの、貯水源である雪原の積み重なるのかを、
椅子に座って、湧き水を啜りながら思い馳せるのだった。また、
大学の構内に、手すりの脂の載った木目調を見詰めることの、
また椅子に座りながら、おでんを啜り上げることの、薩摩揚げ。
あれが、一番いい。と。言って、とりもなおさず、雪原を
我が物顔に跳梁する、心地は、雪景情感の、事の由かな。と、

木目調の照り返す階段の手すりに触れてから、おでんの具に
ありったけの赤貝や、ゆで卵などを、加えて、味噌と練り胡麻で、
チョコマーブルのデニッシュみたいに、コトコトと煮込む気持ち。
小豆をこの間ぜんざいに仕立ててから、合間に摘まむ心地の、
この祝賀のウラには、沢山の奉仕のある、陰と陽のまざまざ、
培ってきた、努力の裡に祝宴は開かれて、その祝いゴコロとは
ひとつの慰めにしか、過ぎないとゆう、余韻のさまざまに、さあ。


胡麻味噌のおでんは、祝い事の裏手にある、お努めの勤勉さを伺わせ
今にも、ココロの輝きを映すパーティーは、感謝感激の面持ちしか
表さなくなったのだ。こうして、手すりは輝きを増して、マーブルに
照り返して行く。ここに、沼の底にしずんでゆく人の気持ちは、
その底にはお花畑の拡がっている。とゆう、逆説めいたメタファーを
感じさせて、祝賀祝宴の、さらには、到達点を、あの絶頂の
活火山の姿カタチに重ね合わせる、あの恍惚の第4段階へ、と。



こちらは如何?

解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを

足元のゴキブリをきちんと処理できてからでないと、ものごとの全体的な オーガナイズなど、できたモノではない。かと、言って大きく自然は常に 世界にあるのだから、とりもなおせば、オーガナイズすなわち全体性とは 自然相手に行う人間の営為と言っていい。これは、自然相手の常識を壊す と称しても良いことで、その人間の中の自然、知性や、また、昆虫類の 自然と呼ぶにふさわしい集合意識的な流麗なエナジーに対しての、技術。 意志と呼べば、意志である。かと、言ってワガママには振る舞えない、 無意思の意志である。最近、穀物の喉元を通らないのは、こういった 自然への意志が挫かれている。むしろ、そういった意図を失うべきな 自然バランスの崩れを食欲不振や、情動麻痺に親い感情に観て取れる。 なので、その解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを起こして どうやったら貧血にならず、穀物も避けてよければ避けて通りもして この栄養失調との闘い、いや付き合い。にしても、快く自然のなかを 通り過ぎてゆけるか。酒でもない、薬でもない。とりあえず、イカの つまみでも摘んで、その勢いで、お豆腐、納豆。そうめんをすすいで 二束ほど掻き込んだ。これが精一杯だ。拒食の強い癖はないだろうが 温かい調理など食べられたモノではない。ましてやこれは過覚醒代謝 でもあるだろうが、意識を上向いていられる分、夏の大気は天国へと 持って行かれそうな暑い上昇気流をたずさえているのだから、すこし グラウンディングするように、穀物の製品も頂くべきだろう。夏の夜 昼間はラマダン期間のように食を細めていた自分の夜食に祈りの姿を みせて冷たい食品ばかり頂くのだから、自然の乱れとゆうよりそれは 自分の乱れである。そうして、呆然と朝を迎えて、鳥の声は盛んだ。

生命システムを収束させているようにも感じるのは、真夏の景色だ。 乱れは美しくもあるが、それは整えられた収束するシステムの過程を まざまざとミクロに見ているのだから、そう乱調の美を感受するのか とも思うのだった。いわずも全体性のオーガナイズは自然への技術的 意志の欠如のうちでは成立せず、そこには知恵の要る知的作業の求む らく、あの野草の薬壷へ手を突っ込むような感じで、よもぎ餅を摘む 大きな頬っぺたで味わう春の蠢きを再現させる作業を必要とするのだ。 夜食の後でアイスバーをたべた。空になったバーの木の匂いは象徴的に その感慨を現している。きっと、自然の芳香を実際…

珈琲プレグナンスとゆうは、地球号温室にて培う

さもなくば、右側頭部の情欲野ともとれる情緒的ヒステリクスは肝要。 男性性が這入りこむので、情念はヨコシマなアーリマン的要素をあらわすので、 いたって自然理にあれば、そのヒステリクスは肝要。アーリマンは赤鬼。 ともすれば、男性性を太宰など、イザナギ神話にあてはめまた、 女性性のイザナミ陣営を、アナトールと芥川氏のフレンチな文学に例えて、 大谷崎=イザナミ女神の文学性へ返すように、そうすれば、 自然体の情緒的ヒステリクスは肝要なのだった。能面が、般若に変るのは 黄泉比良坂において、三島文学=菊理媛の仲介役によって、その岩によって 光り輝く太宰のイザナギ男神的精悍さを、情緒の乱れによって見送る時に。 怒り狂えるイザナミ女神の発端は、男神の一枚岩の正義がわがままに響く その呆然とする知性に対しての怒りであって、それは何か裏腹への怒り。 表裏一体こその静けさであるのに、表面的な反射によって判断する誤りに。 この般若の相貌には、ひとかたならぬ静かな暮らしへの想いがあってこそ。
正しく、情念には破壊を浄化してゆく知恵のコントロール技術の含まれる。 そうして裏の循環摂理はなりたっているので、光りによってすべて消す といったようなのは、戦争経済と何も変わらない志向であって、情緒的な 日常の天然湿度の中で解決する身体由来の経過のあるとするなら、それは 情緒の情念的ないわゆる情欲循環コントロールによってしか、その常温は 保たれないのだった。般若は常に嫗である。いや、そうあるべきなのだ。 そうやって、いつも怒りに枯れている茫々と寂寥とした感慨を現すのが、 情念にはふさわしい。計らずも男性性は遠く彼方に押しやってしまえと、 巌に蓋をされた、彼らの国は、もう鉱物的なスピリチュアリティにしか、 含まれず囲われ、だき入れられてはいないようだが、そこに、男性性の 隔絶とした、中和され赤青に別れた大地と空との、水と風との調和は 有りえないのだった。珈琲プレグナンスとゆう造語を嗜好しだすのは、
そこに、情緒ヒステリクスの地球温室においてはぐくまれる暖かさの中で 結果的に正しさとは受容するのによって見出されるモノの多分に大きい、 そうして、正しさとは、ストレートさ素直さ一面性のたぐいにはなく、 多面性を受け容れること。情念コントロールは情欲循環的な何かでは、 そうして破壊を調整してゆく暮らしの技術におきながら、戦争経済とは 一線を画す技術の生活意欲として、裏側の…

業の泉へと向かう身体の、ラッセルと太宰に寄せて

ラッセルは、聖パウロのようで、太宰はイスキリのようで。
だんだん、平和への祈り道が、業の泉に到着しそうな予感がして、 潔癖症なくらいの綺麗好きなのが、人間臭さとゆうか、仏の道などと 融和して行きそうな気のする、不可思議な強靭さを呈している例え頓挫しても 身体は、もっとマジカルなパラレルトリックの物質ベースで核融合する、 そんなカルマベースで行ける世代的にも壮年期である、現代生活ではある。 その業の泉に予め潜ってゆけば、クリームチーズのしっとりパンを食べて 抹茶の豆乳ラテを片手に吸いこんでいるこの孤独なポルターガイストに、 あるいは、怖いは好きの裏返しと言うのは、殺意さえも愛情ではあるが それに対して、業の泉に融けこんでゆくのが、ひとつの世相ではある。 こうして美女と野獣をみながら、眠りに親づいてたまの孤高にある夜中。 ロマンチックにあればまたも安心するが、しかしながらも文学にあっても まだ安堵の嘆息ついてはいられもするのに、ソファに横たわりながら、 空調を点けて念じることのあるならば、やっぱり安寧はここかしこの 瞑目してみえてくる、あるいは知性はラッセルにも、太宰にもある。
鋭意において、横になり手に余るほどの情報を世界は2つか3つあるのか、 この希望ともとれる情報存在は世界を意識すれば動じて溢れ出てくるのだった。 ロバは、四肢によって人間と同じように体幹を感じているのか?とは言えば、 幸福論を読むラッセル的知性は、太宰のアフォリズムによってもまた違う感じ を抱かせている。この感じは綺麗なのと、情熱的な愛のカルマとまた似ている 希薄で軽やかな明度の高さと、低部にありながら、渾々と湧く泉の如く、 頂上と伏流水の部分には地点的に密度は違えど、空間も時間速度も違えど、 知識として共有している何かの輝きのあるのだから、例え山頂と麓にでも 星はみえるのだから。この星とゆう知性の知悉するファンタジーを大切に してゆこう。これは、いつも知識はこの魂にあるゆえの共通地点。なので その叡智によって、wisdomを捨てるとこまで行かなければならないのだ。 Let it beも、風に吹かれて、にゆかなければ、その先は普通の生活なので その繰り返しながら発生する風の地点。送風の生起される場所が好きで、 それでも同じく普通の生活の繰り返しながら、叡智を捨てる所にいれば 叡智を捨てて風の起こ…