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知性とゆうグリッドは器としてのドリップする地球態だ。

猫分けとゆう世界の不思議は,最後すこし残りをあげる事によって,
その先に食べるかどうかは別として,残りものの福としての,あの
世界の不思議。知性とゆうグリッドは器としてのドリップする地球態だ。
なので,業とゆうものを見分けた際の,猫分けのような,自身の透視は
『残っている福とゆうのは,”結局,赤の他人で,また自分自身である”』
と,そんな,”ギフト”であり,歴史の遺香のごとく自動的にデジタルな,
僕にとって,この一概に青豆の薄皮みたいな記憶の触感は,こんなまるで
記憶領域内のデジタルな贈り物なのだった。さては,分け入って,こんな
デジタルな自分史の扉を紐解いてみよう。

桜田門外の井伊直弼翁は,非常にてっちり鍋のような分厚い,重厚な,その
徳の篤さに,頭脳の厚さも幾重にも強い将軍様だったように感じるのだ。
薩摩藩士の1人含まれていた,と伝わる,水戸脱藩藩士による企てによって,
この,雪の夜の考察の時間には,あの事件の経過が,ふと想い起されるのだった。
雪景を,ながめて諦念する呼吸の,また一概に言えない景色の無常さに,
また僕は,異様なほどの太母の介入めいた精神を感じて,井伊公は,
本当に,諦念のかたまりだった。など、相槌をその高杉晋作や龍馬の
面々に打っているのだった。この,雪の降る太母の夜更けに,僕は
何だか,珈琲の抜けて行く真実味のある,しんしんと降雪音を感じ,
免疫とは,記憶の交錯に内側から語りかける,そんな物語りなのだ。
合点のゆくまま,ノートを閉じて,ふたたび,プーアールドミルクなど
傾けて,諦念。諦念,のこの二文字によく,時と情緒の十字架を
みるのだった。時間は横軸,縦軸に情緒の来て,ようやく切なさは晴れる。

晦渋の切なさが身に滲みて溜息に換わる,雪の夜の話しに,むしろ渋い珈琲豆乳を
組み合わせの悪い,ジャスミン珈琲などに替えて,センブリ茶のように啜るとき,
またこうして寒さも感じないほどに珈琲の抜けてゆく感じを物ともしないさらには
雪の夜の静けさよ。もう,渋味は諦念とゆう,性格のシブに換わって行くのだから,
さては,言葉通りのあきらめて,ふっと一息ついて,ダンディーな嘆息に更けよう。
究極の所は,記憶の残らないところに,過去とは隠れるのだ。

あきらめ,あきらめ。溜息,嘆息。珈琲の抜けて行く感じは,こんな風景を身体に
染み入れさせる。ヴィジュアルで言えば,真空をものともしない,枯草の虚空の,
その本当の真空態の中に,知性とゆうグリッドは器としてのドリップする地球態だ。
真空,真空。不空上人と,井伊直弼氏とは結びつく執着を,その真空態に対しては
感じるのだけれど,昨今でいう,ロカビリーな仙人のような情緒には時間も解けて,
やがて,てっちり鍋を囲む,いたいけな句読みつつすすむ会には,きっと発句にはまず
てっちりの,ときて。盆を囲むは,雪月花。となら,盆囲む,ほむら返すは,うどん屋の
絶望謳うの,梵描けば,微動だにせぬ,狐の尾かな。なら,絶望はいずこや,隅の天かす
返し,またの名を,うどんてっちり。うどん動かぬ,茶も沸いて,かざす扇に,また。
酷い筆かな。あはは,と嗤う。残酷な夜会。

晦渋の切なさが身に滲みて溜息に換わる,雪の夜の話しに,むしろ渋い珈琲豆乳を
組み合わせの悪い,ジャスミン珈琲などに替えて,センブリ茶のように啜るとき,
またこうして寒さも感じないほどに珈琲の抜けてゆく感じを物ともしないさらには
雪の夜の静けさよ。もう,渋味は諦念とゆう,性格のシブに換わって行くのだから,
さては,言葉通りのあきらめて,ふっと一息ついて,ダンディーな嘆息に更けよう。
究極の所は,記憶の残らないところに,過去とは隠れるのだ。

猫分けとゆう世界の不思議は,最後すこし残りをあげる事によって,
その先に食べるかどうかは別として,残りものの福としての,あの
世界の不思議。知性とゆうグリッドは器としてのドリップする地球態だ。
なので,業とゆうものを見分けた際の,猫分けのような,自身の透視は
『残っている福とゆうのは,”結局,赤の他人で,また自分自身である”』
と,そんな,”ギフト”であり,歴史の遺香のごとく自動的にデジタルな,
僕にとって,この一概に青豆の薄皮みたいな記憶の触感は,こんなまるで
記憶領域内のデジタルな贈り物なのだった。さては,分け入って,こんな
デジタルな自分史の扉を紐解いてみよう。







こちらは如何?

解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを

足元のゴキブリをきちんと処理できてからでないと、ものごとの全体的な オーガナイズなど、できたモノではない。かと、言って大きく自然は常に 世界にあるのだから、とりもなおせば、オーガナイズすなわち全体性とは 自然相手に行う人間の営為と言っていい。これは、自然相手の常識を壊す と称しても良いことで、その人間の中の自然、知性や、また、昆虫類の 自然と呼ぶにふさわしい集合意識的な流麗なエナジーに対しての、技術。 意志と呼べば、意志である。かと、言ってワガママには振る舞えない、 無意思の意志である。最近、穀物の喉元を通らないのは、こういった 自然への意志が挫かれている。むしろ、そういった意図を失うべきな 自然バランスの崩れを食欲不振や、情動麻痺に親い感情に観て取れる。 なので、その解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを起こして どうやったら貧血にならず、穀物も避けてよければ避けて通りもして この栄養失調との闘い、いや付き合い。にしても、快く自然のなかを 通り過ぎてゆけるか。酒でもない、薬でもない。とりあえず、イカの つまみでも摘んで、その勢いで、お豆腐、納豆。そうめんをすすいで 二束ほど掻き込んだ。これが精一杯だ。拒食の強い癖はないだろうが 温かい調理など食べられたモノではない。ましてやこれは過覚醒代謝 でもあるだろうが、意識を上向いていられる分、夏の大気は天国へと 持って行かれそうな暑い上昇気流をたずさえているのだから、すこし グラウンディングするように、穀物の製品も頂くべきだろう。夏の夜 昼間はラマダン期間のように食を細めていた自分の夜食に祈りの姿を みせて冷たい食品ばかり頂くのだから、自然の乱れとゆうよりそれは 自分の乱れである。そうして、呆然と朝を迎えて、鳥の声は盛んだ。

生命システムを収束させているようにも感じるのは、真夏の景色だ。 乱れは美しくもあるが、それは整えられた収束するシステムの過程を まざまざとミクロに見ているのだから、そう乱調の美を感受するのか とも思うのだった。いわずも全体性のオーガナイズは自然への技術的 意志の欠如のうちでは成立せず、そこには知恵の要る知的作業の求む らく、あの野草の薬壷へ手を突っ込むような感じで、よもぎ餅を摘む 大きな頬っぺたで味わう春の蠢きを再現させる作業を必要とするのだ。 夜食の後でアイスバーをたべた。空になったバーの木の匂いは象徴的に その感慨を現している。きっと、自然の芳香を実際…

珈琲プレグナンスとゆうは、地球号温室にて培う

さもなくば、右側頭部の情欲野ともとれる情緒的ヒステリクスは肝要。 男性性が這入りこむので、情念はヨコシマなアーリマン的要素をあらわすので、 いたって自然理にあれば、そのヒステリクスは肝要。アーリマンは赤鬼。 ともすれば、男性性を太宰など、イザナギ神話にあてはめまた、 女性性のイザナミ陣営を、アナトールと芥川氏のフレンチな文学に例えて、 大谷崎=イザナミ女神の文学性へ返すように、そうすれば、 自然体の情緒的ヒステリクスは肝要なのだった。能面が、般若に変るのは 黄泉比良坂において、三島文学=菊理媛の仲介役によって、その岩によって 光り輝く太宰のイザナギ男神的精悍さを、情緒の乱れによって見送る時に。 怒り狂えるイザナミ女神の発端は、男神の一枚岩の正義がわがままに響く その呆然とする知性に対しての怒りであって、それは何か裏腹への怒り。 表裏一体こその静けさであるのに、表面的な反射によって判断する誤りに。 この般若の相貌には、ひとかたならぬ静かな暮らしへの想いがあってこそ。
正しく、情念には破壊を浄化してゆく知恵のコントロール技術の含まれる。 そうして裏の循環摂理はなりたっているので、光りによってすべて消す といったようなのは、戦争経済と何も変わらない志向であって、情緒的な 日常の天然湿度の中で解決する身体由来の経過のあるとするなら、それは 情緒の情念的ないわゆる情欲循環コントロールによってしか、その常温は 保たれないのだった。般若は常に嫗である。いや、そうあるべきなのだ。 そうやって、いつも怒りに枯れている茫々と寂寥とした感慨を現すのが、 情念にはふさわしい。計らずも男性性は遠く彼方に押しやってしまえと、 巌に蓋をされた、彼らの国は、もう鉱物的なスピリチュアリティにしか、 含まれず囲われ、だき入れられてはいないようだが、そこに、男性性の 隔絶とした、中和され赤青に別れた大地と空との、水と風との調和は 有りえないのだった。珈琲プレグナンスとゆう造語を嗜好しだすのは、
そこに、情緒ヒステリクスの地球温室においてはぐくまれる暖かさの中で 結果的に正しさとは受容するのによって見出されるモノの多分に大きい、 そうして、正しさとは、ストレートさ素直さ一面性のたぐいにはなく、 多面性を受け容れること。情念コントロールは情欲循環的な何かでは、 そうして破壊を調整してゆく暮らしの技術におきながら、戦争経済とは 一線を画す技術の生活意欲として、裏側の…

業の泉へと向かう身体の、ラッセルと太宰に寄せて

ラッセルは、聖パウロのようで、太宰はイスキリのようで。
だんだん、平和への祈り道が、業の泉に到着しそうな予感がして、 潔癖症なくらいの綺麗好きなのが、人間臭さとゆうか、仏の道などと 融和して行きそうな気のする、不可思議な強靭さを呈している例え頓挫しても 身体は、もっとマジカルなパラレルトリックの物質ベースで核融合する、 そんなカルマベースで行ける世代的にも壮年期である、現代生活ではある。 その業の泉に予め潜ってゆけば、クリームチーズのしっとりパンを食べて 抹茶の豆乳ラテを片手に吸いこんでいるこの孤独なポルターガイストに、 あるいは、怖いは好きの裏返しと言うのは、殺意さえも愛情ではあるが それに対して、業の泉に融けこんでゆくのが、ひとつの世相ではある。 こうして美女と野獣をみながら、眠りに親づいてたまの孤高にある夜中。 ロマンチックにあればまたも安心するが、しかしながらも文学にあっても まだ安堵の嘆息ついてはいられもするのに、ソファに横たわりながら、 空調を点けて念じることのあるならば、やっぱり安寧はここかしこの 瞑目してみえてくる、あるいは知性はラッセルにも、太宰にもある。
鋭意において、横になり手に余るほどの情報を世界は2つか3つあるのか、 この希望ともとれる情報存在は世界を意識すれば動じて溢れ出てくるのだった。 ロバは、四肢によって人間と同じように体幹を感じているのか?とは言えば、 幸福論を読むラッセル的知性は、太宰のアフォリズムによってもまた違う感じ を抱かせている。この感じは綺麗なのと、情熱的な愛のカルマとまた似ている 希薄で軽やかな明度の高さと、低部にありながら、渾々と湧く泉の如く、 頂上と伏流水の部分には地点的に密度は違えど、空間も時間速度も違えど、 知識として共有している何かの輝きのあるのだから、例え山頂と麓にでも 星はみえるのだから。この星とゆう知性の知悉するファンタジーを大切に してゆこう。これは、いつも知識はこの魂にあるゆえの共通地点。なので その叡智によって、wisdomを捨てるとこまで行かなければならないのだ。 Let it beも、風に吹かれて、にゆかなければ、その先は普通の生活なので その繰り返しながら発生する風の地点。送風の生起される場所が好きで、 それでも同じく普通の生活の繰り返しながら、叡智を捨てる所にいれば 叡智を捨てて風の起こ…