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ロマン地図えがく,記憶の地平にみぞおちの安心するあたり

パインを食べて,ホッとするひと時。フルーツは実際松ぼっくりと どれだけの点で似ているかはさておき,リスやムササビが綺麗に 掃除して食事後のエビフライと言われる松ぼっくりの遺物構群は, はてさて海老の味のするのだろうかなんて,実際はものすごい松の ヤニや樹液針葉みたいな芳しい匂いに照らされて,針葉樹林の朝は いかほど気持ちよいのでしょう。と,こんな話で北海道の湖畔に, あとそんな優雅な心地でパインを食べているのだった。奥さんはまた 朝方生活を始めると言って,たまたま明け方たてつづけに地震のあって 目が覚めたのだけれど,どうにかしてしまって,大地の揺れると安心する ような,奇態な心情を抱いてしまっている昨今の情況であるため,そのまま 寝ていたら,ちょっと早いが,と早すぎる三時代に起き上がってキッチンに 立つ羽目になってしまった。八時にもなって,彼女はもう一時間も寝ずっぱり, 休日の朝を満喫してる夏の扇風ファンを浴びて。朝食は唐揚げを揚げ始めて, ウチの朝方生活の食事は,ブレックファーストとディナーの逆転していて, 音楽なども,NYファッションなジャズやインストピアノな演奏会をスマホに, 食事会の終われば好き勝手に掃除などを始めて,もっぱら興味関心はこの夏日に どうやってエコを体現して過ごす健康志向の実現可能かを,僕は水風呂にしっか,と 身を埋めて早々にカルマティックな瞑想的夏日陽光被射体より逃れる心情的な準備を とっさの猛暑対策に始めてる。

もう気付けば,二十年近くも安定剤をのまされ続け,とゆうのは被害妄想っぽいけれども その副作用に,離職率や,血糖値との付き合いを苛まれし続けていた僕だったけれども, 最近,つとに経験上の記憶の上では,ハーバルティーや,その烏龍茶ドリップ珈琲豆乳の 実践など,腸活にメインの対策を置いて,元来のファスティング傾向も手伝ってか,この 数年は体調も安定していた気の感じられた所ではあったのだけれど,ずっとこのブログで 綴っていたように,全体主観的な瞑眩作用は強く生活に現れていたのだった。CBDとゆう 聴き慣れないワードと出逢ったのは,そうゆう安定剤などにあって,ウィキペディアなど 副作用や有職率の試験的検証についてCBD成分とゆうのに,非常な効果の期待できる旨の 記してあったからなのだった。オイルなどで売られているようなのだけれど,副作用,…

肩凝りは,全体性より個人へ戻る道のり

ガネーシャ=エレファントマンと,阿弥陀信仰を結び付けて, その芥川龍之介=東照宮=源頼朝など,堀辰雄=織田信長=平清盛の 堀たっちゃんこに庇護される正当性の覆いに,芥川氏は阿弥陀ガネーシャの 楔形紋様まで嵌り込めずにいる。嵌り込むとゆうより,その道程に向かえず, 更には,そこに護られていた堀辰雄氏の正当性に,かつての信長公の庇護を 想いだすのだった。正当性?何故かしらサナトリウム文学の著者は,その姿に 比して,非常な整合性を持ち合わせている,けれども,ここからは庇護者の 蒼穹を打ち破るように,天蓋を越えて,あの宇宙の真空大海へと飛翔して行く, むしろ賢治の銀河鉄道みたいなオリオンへと漕ぎ出してゆくべき時ではないか? アンドロメダと呼んでも良いのだけれど,この陰陽によって成立する,決して ダークネスを否定せず融合してゆく時節に,肩凝りは,全体性より個人へ戻る道のり だけれども,それは個に戻る過程で,むしろ強張り半分の,緩み解放半分半分の そういった道程なのである。ガネーシャのマントラなどをスマホで奏でながら, あの牛頭大王など浮かんでくる,半獣神の姿は,たぶんもう存在しない本能とゆう モノのリアリティを,神性の宿している根拠は,低次の性質と思われていた情念の 浄化されて記憶に留めておくにあたって,具現化する物理的精神法則を指してるように 思われるのだった。そうやって兜などを被る,象徴としての立物(たてもの)としての 三日月や愛の字などを顕して,それは歴史の中に置き去りにされずに,遺物としてでも 確実に存在し記憶されている。物質にまで降りた形姿などと相見えるのはすべて象徴で そこに変化を加えるのは甚だ難しく,そうして,あえて願うのなら,一度天頂の神性まで 申告などしながら遠く待ちのぞんでその時を迎えるのを忍んでゆくしか願いの成就は 適わないものだとも感じるのである。そうして天頂の神性とゆうのも,そうした遺物を 象徴として掲げた半獣神ではあるまいか,など,むしろ創造性をそうゆう風に想像して そうあってほしいと望むまでキャラクター願望を生活や暮しの情緒まで求むる者である。

半分半分までいって,開放されるのだから人間性の双璧は意外と寛容で軽快なのである。
芥川氏のそういったすがたを沸々と感じさせてくれたのだから,あえて真のフェミニンな
もうひとつの宇宙をガネーシャのマクロ…

一歩も外出したくない心地を持って想像する夏

どこかから太鼓を叩くような音がしている。多分お掃除の関連だろうが、 酷暑にも月並みな蝉の声を、こうして月並みと言える程にも醒めてない、 内側に落ち着かない日々を抱えながら、内側における垢抜け感もそうは あっても、興味関心は淀みのなければ産まれてはこない。悪との邂逅の あるとするなら、面白さを追求するうちに訪れる、脱力感と、冴え冴え とした、何処かしら意味を持つこの有意義さは悪との邂逅より訪れる。 けれどもこれに気付いたのは、思い出になりそうゆうのよりも垢抜けを した後になってからの、追憶の悪なのだが、詰まりはエンタメを興すに 内実の豊かな意味想像は欠かせず、しかしながら意味の時代は去った。 面白い表現の確かな根拠を意味には求められず、従ってのブギウギに、 その由縁を求められた、細野晴臣氏の音楽など、研究したい心持ちの、 次第に生まれてくる、これは、むしろ意味への邂逅であって、それより ひと回りして戻ってくる、一周した追憶の地球観光のような気のする、 これはプラムの酵素などを啜っては感慨に耽る心地に、それであって それでもない、地球を廻っても地球ではないとゆう感想を、アイスを 欲しくてもこの心得に一歩も外出したくない心地を持って想像する夏

デカフェにこだわってより家には普通の豆のないのだから、それでも アイス珈琲を淹れてのんでた一年前に比べて、もうカフェインなども 要らなくなっているのだった。これは、太宰と別れて芥川氏に出逢う、 ヒグラシのカナカナと啼く朝方の十数分のあいだに、彼はおしとやかに 衣を纏って遣って来た。それで、ヨーロッパ美術のような巧みな文章に 段々と集中しだして舌鼓し注目するようになる、東照宮の陰を、そこに 宿している絢爛豪奢な夕暮れの茜色には、また、そうゆう紅の酵素など 注いで夢にみる、当時は世間的に肉体の純化と成熟の早かったようにも 錯覚する、醒めている、醒めている?この老化よりも純化を優先する、 世代性には一介の文学青年として献花を捧げたい。むろんの、反抗する 意思を携えながら、意味を反故にし、信念において、推している意味の ここに意味における筋と、真実に合わせた響きあいの、統合されたモノ そういった、意思しない意志みたいな、意図されない結果のもたらす、 あの自然天然の豊穣をみることになる。いいや、決して相違ないのだ。 この鉄のカーテンみたいな不可思議な冷たさの醸しだす錯覚と混乱は、 今頃の時節にあって、…

骨格構成と生命コアを、またいですすむ珈琲焙煎の朝。

珈琲焙煎する前に、ひとつは、生命酵素とでも言えるような存在の意味を。 また、ひとつは、骨格構造を支える軸となる、弧を描いた本当の情緒を。 こうして、支軸や本質を考えて、ようやく朝方の焙煎に、向かうのだった。 意味や情緒を嗜好してゆくと、あるいはまた、骨格とは沈殿物質になり、 生命とは水源の業のような酵素である、と気付くのだった。そうして悪の 問題に突き当ると、それは、淀みであり、次元の相違であり、灰汁と同じ ヒューマニスティックに感情を揺さぶる異形のドラマを産む性質なのだと 思い当たる節。あるいはまた、虚弱体質に全粒粉パンやチョコを頂く心地 そうゆう『一房の葡萄』を、掻い摘んで子供に与える、栄養の甘い感じを 喉元は真に受けて前進する。この、瓦解して全身の塵芥の抜けて行く時に 全体性は何かつじつまの合うひとかどの物語を用意しては提案している、 東照宮=芥川先生=アマテラスのような、そうゆうストーリーを提起する このシナリオは、また牛頭大王や、阿弥陀如来の陰影をあらわしてきては その、なぜかシナリオライターは、エロティックにも清浄な登場人物を、 また、それではひとかどの人物として、発案する、それは、水の旅人か?

この、水害に地軸の持っている磁気の昇天して震災などを防ぐ降雨なのか など、天に結び付く磁気のようなモノが、好転してこののち防災に繋がる ように、いわゆる何とも言いようのない呆然と呟きを持ってみて、または この意識の解除されていく自分自身の身体性を思うにあたって、そうゆう 好転意思も忘れてしまう最中の朝食などはトーストを齧られれば幸せだと 甘いバターと苺の匂いを想い描いてしまう。けれども、いまから白ご飯を セットして、昼に間に合うように調理などを準備していって、ようやくの 食卓を拓ければ、それがよいことだろうと、焙煎した珈琲は、まだ呑める ほどでもないようで、すこし時間を置いて挽いたほうがいいそうなので。 スーパーを訪ねて、豚テキの出来るように試してみる。最近の調理器具に グリル機能へそのまま蓋付きオーブンみたいに使える鉄製の函状器具など あるのだから、それへと夏野菜やお肉を全部入れ込めて、塩コショウのみ 振り掛けて10分ほど調理すれば、直火なのでそれは悠長に出来上がる。 お腹は空いている。すこし虚弱なせいもあるので、食べたほうがいいはず だけれど、何か痩せたいとゆう痩身の拒食願望も身体の中にはあるようで それでもこの雨…

解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを

足元のゴキブリをきちんと処理できてからでないと、ものごとの全体的な オーガナイズなど、できたモノではない。かと、言って大きく自然は常に 世界にあるのだから、とりもなおせば、オーガナイズすなわち全体性とは 自然相手に行う人間の営為と言っていい。これは、自然相手の常識を壊す と称しても良いことで、その人間の中の自然、知性や、また、昆虫類の 自然と呼ぶにふさわしい集合意識的な流麗なエナジーに対しての、技術。 意志と呼べば、意志である。かと、言ってワガママには振る舞えない、 無意思の意志である。最近、穀物の喉元を通らないのは、こういった 自然への意志が挫かれている。むしろ、そういった意図を失うべきな 自然バランスの崩れを食欲不振や、情動麻痺に親い感情に観て取れる。 なので、その解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを起こして どうやったら貧血にならず、穀物も避けてよければ避けて通りもして この栄養失調との闘い、いや付き合い。にしても、快く自然のなかを 通り過ぎてゆけるか。酒でもない、薬でもない。とりあえず、イカの つまみでも摘んで、その勢いで、お豆腐、納豆。そうめんをすすいで 二束ほど掻き込んだ。これが精一杯だ。拒食の強い癖はないだろうが 温かい調理など食べられたモノではない。ましてやこれは過覚醒代謝 でもあるだろうが、意識を上向いていられる分、夏の大気は天国へと 持って行かれそうな暑い上昇気流をたずさえているのだから、すこし グラウンディングするように、穀物の製品も頂くべきだろう。夏の夜 昼間はラマダン期間のように食を細めていた自分の夜食に祈りの姿を みせて冷たい食品ばかり頂くのだから、自然の乱れとゆうよりそれは 自分の乱れである。そうして、呆然と朝を迎えて、鳥の声は盛んだ。

生命システムを収束させているようにも感じるのは、真夏の景色だ。 乱れは美しくもあるが、それは整えられた収束するシステムの過程を まざまざとミクロに見ているのだから、そう乱調の美を感受するのか とも思うのだった。いわずも全体性のオーガナイズは自然への技術的 意志の欠如のうちでは成立せず、そこには知恵の要る知的作業の求む らく、あの野草の薬壷へ手を突っ込むような感じで、よもぎ餅を摘む 大きな頬っぺたで味わう春の蠢きを再現させる作業を必要とするのだ。 夜食の後でアイスバーをたべた。空になったバーの木の匂いは象徴的に その感慨を現している。きっと、自然の芳香を実際…

意味の降ってくるこの蝉しぐれのしそうな夜更けに

意味に介抱され,意味を内包しながら,すべての情緒的な問題は エナジーの流れをコントロールすることなのだ,と手を組んでは 念じる想いのあれやこれや,卑屈さも悔恨も哀惜も合わさっては 落ち葉の絨毯。家のカーペット。夕日差すのは,その厚みのある。 なので,座禅などは語意に照らして露知れずの,しかしながらの あのあぐらをかいて腕を組むのは,くやしさを解消するマジック。 エナジーのコントロールはあぐらに腕組み。積年の愁いはまるで またストレートに熱意へと燃え立ってゆくのだから,その解消は 哲学の眉間にしわ寄せあながち解を導けば,身体性のフォームは 一段レベルアップした様相を現しながら見詰める夕焼けに果物を ナイフによって切り別けるのならば,桃が一番やりやすいのでは それによって,私の涼をとれる日頃の暑さに惜別の夏祭りの後。 落ち葉,落ち葉とゆうけれど,年中その絨毯は敷かれているので この体表当たりの細胞角質ひとつひとっつは,温かくいられる。 腐葉土は栗のような匂いだろう,あながち想像に難くないのだ。 そうして,夏に喉を潤すこの湧水ひとつひとっつが,またしても 腐葉土の栗の匂いと兄弟だ。僕はこの腐葉土のミネラルが何より 大好きなのだった。マロングラッセや,栗きんとんなどと等しく あのおなじ酵素を持っていて,それらはやがて陽の光に祝福され 堅い殻を破って出てくる地の精グノームの知性そのものなのだ。
業の泉は,この地の精の酵素知が一滴一滴詰った沢山の海洋へと 拡がって行く純粋知性の旅程のよう。それを経て,個から多へと 移されてゆく情緒もまたひとつはかけがえのない酵素知なのだ。 エナジー循環していれば酵素知の個としての存在も消えることは なくあぐらをかいて腕組み。ひとつの内包される”意味”としての 個体スペースを座禅は意図しているのでは?そうゆう過程であの 禅問答などの殊に『臨済録』などにおける豪胆さは現われるのか そうゆう,地に根を降ろす酵素ひとつひとっつを大事にしている 気概を感じるので,座禅は栗の上に座し,湧水カーテンを巡らす そんなフィールドで行われているような気のするグノームの知は なのでフレンチポップスを聴きたくなる夜更け前に徐々に情熱の 湧いてくるそんな感じのしてくるのは,すこしショックを憶えた 昼間の感情の追憶にむしろグラウンディングした様子までみえる それは根の…

珈琲プレグナンスとゆうは、地球号温室にて培う

さもなくば、右側頭部の情欲野ともとれる情緒的ヒステリクスは肝要。 男性性が這入りこむので、情念はヨコシマなアーリマン的要素をあらわすので、 いたって自然理にあれば、そのヒステリクスは肝要。アーリマンは赤鬼。 ともすれば、男性性を太宰など、イザナギ神話にあてはめまた、 女性性のイザナミ陣営を、アナトールと芥川氏のフレンチな文学に例えて、 大谷崎=イザナミ女神の文学性へ返すように、そうすれば、 自然体の情緒的ヒステリクスは肝要なのだった。能面が、般若に変るのは 黄泉比良坂において、三島文学=菊理媛の仲介役によって、その岩によって 光り輝く太宰のイザナギ男神的精悍さを、情緒の乱れによって見送る時に。 怒り狂えるイザナミ女神の発端は、男神の一枚岩の正義がわがままに響く その呆然とする知性に対しての怒りであって、それは何か裏腹への怒り。 表裏一体こその静けさであるのに、表面的な反射によって判断する誤りに。 この般若の相貌には、ひとかたならぬ静かな暮らしへの想いがあってこそ。
正しく、情念には破壊を浄化してゆく知恵のコントロール技術の含まれる。 そうして裏の循環摂理はなりたっているので、光りによってすべて消す といったようなのは、戦争経済と何も変わらない志向であって、情緒的な 日常の天然湿度の中で解決する身体由来の経過のあるとするなら、それは 情緒の情念的ないわゆる情欲循環コントロールによってしか、その常温は 保たれないのだった。般若は常に嫗である。いや、そうあるべきなのだ。 そうやって、いつも怒りに枯れている茫々と寂寥とした感慨を現すのが、 情念にはふさわしい。計らずも男性性は遠く彼方に押しやってしまえと、 巌に蓋をされた、彼らの国は、もう鉱物的なスピリチュアリティにしか、 含まれず囲われ、だき入れられてはいないようだが、そこに、男性性の 隔絶とした、中和され赤青に別れた大地と空との、水と風との調和は 有りえないのだった。珈琲プレグナンスとゆう造語を嗜好しだすのは、
そこに、情緒ヒステリクスの地球温室においてはぐくまれる暖かさの中で 結果的に正しさとは受容するのによって見出されるモノの多分に大きい、 そうして、正しさとは、ストレートさ素直さ一面性のたぐいにはなく、 多面性を受け容れること。情念コントロールは情欲循環的な何かでは、 そうして破壊を調整してゆく暮らしの技術におきながら、戦争経済とは 一線を画す技術の生活意欲として、裏側の…

オリジナルに湧出する無意味な情熱の,さながらの脱脂粉乳

障壁はオリジナリティに溢れ,さながら無意味。有意義で無意味な そんなあわいに居るのだから,意味とゆうモノの定義は,まるであの オリジナルに湧出する無意味な情熱の,さながらの脱脂粉乳の後味で。 無意味な怒りのエナジーも,何かの原動力になるとはナンセンスながら ある意味の活用できるエナジーには変わりない点で,それは真である。 そうゆう夜には,イザナミの大谷崎と,イザナギの太宰文学の対比に, 自然と受容さるイザナミへの傾向へ頷いていってしまうのだから,その ながれに任せる自然体の遊戯は,あながち渓流の水の源へ辿る旅のよう。
つまりは,怒りは必然的にイザナミに連れて行ってくれる水先案内人で,
水色のヴェールに包まれた丘の上には,そうやって霧のかかって,あるいは
イスキリでもある太宰の弔いに,イザナミの大谷崎,ヘロディヤのA.フランスの
2人は手を取り合って巡礼の路を開いている。西のアナトールは歌い続けて
東の大谷崎はカタコトと,炊事の手を休めない。こうやって,一冊に含まれた
イスキリの物語をめぐって,若い女神の精神は,ひたすらつづけて弔いを行う。
なので,ヘロディヤのスピリチュアリティは,ただただエスニックな歌の響きを
奏でながら,それらを周囲に耳にし傾けながら,その懐かしさにようやく瞑目する。
弔いには,それぞれの想いのあって,アートとはクリエイティヴィティながら,
それは,切ない舟唄である必要のある。それは,東西においても女神の共通項である。

女性性と男性性と言っても,それらは性別に関わりなく混在してテーマとされる性質で 基本的に創世記の話などに溯れば,女性と男性の,受容と単純の2性質に,別けられる そういった静と動の対比。また,そうして,植物の生態上と変わりなくも,その仕組は, 遺伝子上特質の変質なく継承され続けるとゆうシステマチックな発明の歴史をかんがみて それらはもう,革新的な不朽の自然そのもの。こうして,それら陰陽の混ざり合う時に, 夕暮に茜の浮かぶよう,また東雲の色の発光はもう,すでに曙光とは言え誕生している。 こうして夜半にも,デカフェの珈琲豆を挽きドリップできる心地は,苦い一滴を啜って, 歴史の上では奇跡をみているとしか言いえない気概を抱く,一瞬のロマン歴史トリップ。 過去に高尚な感じでバルサムなど好きな珈琲と楽しむ詩人の夜更けに,眠れなくて苦悶し 過…

冷静さと情熱の間を昇る、辿り着くのは?

トレンドなるモノは、思考と手先の順序を揃えた流動的なるのと親戚だ。 あまり変な言い方をすると可笑しく取られるのだから、あえて流行流動。 ひとつ前の記事に、スマホで更新することの楽しみを秘めて、落書きを するような趣味の嬉しくて、ダダダ、ゾゾゾッと書き連ねたのが、一気に 消えて痛手を感じてしまいながら、もう一度スマホ更新を試す思考態。 アプリですると、消えてしまうのがアイテテだから、もうメモ機能に 貯め込んで、それからアプリに貼り付ける方法を試みよう、と算段する。
こうゆう手先の思考が最もクリアになるのは、いつも趣味は手先なので。 情熱は芸術とヒステリクスに結びつく要素であって、僕はそれが苦手だった。 思春期より、そんな情熱と戦ってきて、あるいは敗北がみえていた。とゆうか もう敗戦に取り囲まれていた。取り巻かれて、自分はヒステリーなのだ。と そこまで、侵食されていたかもしれない。そうして、ある免疫代謝みたいな、 思考する嗜好の傾向みたいな、何だかエロティックな情熱みたいな雰囲気の だんだん剥がれて離れていった頃には、僕の中の喧噪の聴こえ方がちょっと 変わった気のしたのだった。それは、静かさの平凡が訪れた、間際の夏の夜。
こうやって、思考する指先のタップによる動きに、運筆などを任せて、 思考する冷静さによって、不安の情熱を追い返してしまおう、とゆう 遊びをいつもしていたいのだった。虚栄心はかくもシンプルに満足する。 あえて、思考は情熱だろう。とも言えるはず、だが。上澄みの珈琲は こうしたところには居ない、冷たいコクさえも含んで、画面にタッチする 嗜好性の高いフェザーな指先なのだ。ヒステリクスより乖離した静けさ。 こうして、珈琲によりリラックスし、そうして運筆によって心を満たす。
エロスと呼ばれる、純粋な愛と対置される、その肉感的な愛とは、ある 純粋さも含み、それは、情熱と冷静さの、ちょうど中間地点にある、あの 異次元へのワープホールのようなのである。そのワープによって、人は きっと純粋思考にいたる。まるで、雲間に大理石の冷たい空気を感じる、 それは、ヴィーナスの灯火を持って、耀くばかりの明るさには、ただの 思考の横たわっている。これこそ抽象的な生命の誕生であり、神秘的な オリジナリティに根ざしてる、このアガペーと対置された、ギリシアの 肉感的な生命は、そこにいるだけで、世界はそのままある、とゆうのを 許してくれる。ならば、夏の…

虚栄心で物書き、コーヒーでリラックス。抽象性生誕祭。

物書きレベルのどれほどスマホ更新にて、黙々と集中できる程度か、 コーヒードリップもまた影響を受けない昨今の喧噪次第にも、静かに 珈琲豆と、湧き水と。暑熱の上にはアオコとゆうのが繁殖するので、 それは頭脳にも灼熱暑熱のどれだけか、あたまにアオコを生やす夏。 湧き水のタンク管理とゆうのが、結構大変で、その緑の藻のような あれはアオコと呼ぶらしい。いいや、きっとコーチング皮膜と言った それらは、山里の酵素養分であるだろう。もう気にせずに生やしたい。 そうやって、頭脳にも皮膜に暑熱喧噪の煩わしさも消えて行けば、あとは 虚栄心によってブログを更新し、リラックスには豆を択んで、挽きながら ドリップもして、利きの良い薄くて呑みやすいコーヒーを淹れるばかり。
絶望は、希望に対してショッキングな顛末の後に、やがて静けさを 求めさせて出来上がる、不思議な大人じみた表情に違いないのだった。 豆乳で割って、焦げ付いた豆を淹れて呑むウーロンドリップ珈琲豆乳。 薄いのだけど、そうゆうのがショックを癒すのに、丁度良い心地よさ。 心地よさは、概して希薄さの上で成立するリラックスもそれ故にあって 何か良く分からないけれど、線虫のようなモノが、右側頭葉の英語で Domestic Property野とでも呼ばれる所には棲まう夢をずっとみていた。 この線虫をYEAH虫とでも名付けて,最近になって楽観視できるように なったのは,この虫は,芸術や情熱の源泉にもなり,喜びを産みだすとゆう 厄介な両面性を備えているがために,そちら寄りに行っていいのか,を この頭脳に棲まう同居人と常に駆け引きしていたせいでもあって,ここには やはり訣別して,何にも淡味な薄い珈琲に自分を準拠させられる所まで, 遣ってこれたとゆうことに尽きるはず。薄い珈琲に,生物と画する,まるで 鉱石精神とでも言えるような,アロマティック・タンニンポッドのような, そうゆう抽象的な陽だまりの陰翳を啜る心地を,そこにみる気のするのだった。
さらにはその抽象性において,話しをすすめていきたいところなのだけれど, あまりに,十代の頃より三十年選手くらいの感じで,この人間性の熱い所と 潔癖に付き合ってきた分,当然に感じる情熱を,YEAH虫のせいにしてきた感じ, これはあまりに辛いモノがあって,精神的にはちょっとヤバいのかもしれない。 現に,やっぱり中性的で,フェミニストに偏る所と,ヒステ…

ランドスケープ、青空。お茶をのむ

暗黙よりも発言の優先される昨今。ロゴスにおいては、行為するより、我慢してじっとしてるほうが影響力の強い場合がままあるのだった。 呪いを解いてくランドスケープ時代。たぶん、夜明けはそんな感じ。 精神性の目覚めは、丘に現れる朝日のかんばせ。時代は時間そのもの。 お茶を啜って何をか、口ずさむMoanin'の、夜明けは邂逅する時代性。 Shakeするより、さらにアイシングして溶かして行く、自然乳化作用。 発語されたモノと、ロゴスの関連は裏腹であるとゆう表現のイロニー。 夏の始まる印象のさなかには、ダンゴムシの転がり始め、蚊は掌中に わざわざ飛び込んで行けば、燃料を盛んに費やす祝祭なのか?夏は、 生命の祝祭で、その生々流転より、輪廻転生。いいや、絶対矛盾の 起承転結のない清濁併呑渾然一体。玉石混淆の生命とは憚りながら この、祝祭は、わざわざ開く必要のあるならば、それはエナジー循環を 生成してはながれてゆく月の満干にも合わせて、ただ花鳥風月山紫水明。 では、それらエッセンスは石油にあるのか、と言えば、そうなのだろう。 現に世界を支えるこの唯一の情報エッセンスを石油にみれば、植物精製の アルコールを摂るように、ながら自認する恍惚の夜明けに、酩酊由縁の虚空に あるのか、忘我し帰化するイーゴの宇宙変遷。またの名を幸せの旅程など、と。 ランドスケープ、青空。お茶をのむのは、そんな感じでゆこう、呼声するので。


ファスティング傾向は、誰の精神性にも隠れてる指向だろうが、また芸術グルメの 果てしなく情緒の融け出すあのグラウンディング地下ベクトルも存在する感情では、 その上下閉口する、清浄さ、堪能あまりある交互の昼夜一転には、まるで、あの、 それら感情的には放下してしまいたい欲求低次元の諸々暑熱に対して、蚊を回避する そんな他愛のない目的によって閉め切る空調屋内によって。まだまだ、事足りない 情報賛歌事情によっては、ロゴスを産みたいのだ。情報のロゴスイロニーを、ただ 生製したゆきたいのだった。こうゆうことに関しては、科学に恣意的に関する気持の マイナスイオンとか腸活とか、ハーブティなどの豆乳オーガニックなどなどの、 基本的に多いに役立つので、呪いが解けるのは基本的にその回復傾向の空腹の、 二重にかさなったこの世界で、裏腹に作用出現するイロニーとリアルの開閉を さながら、リキュールをロックでのんでいるあの姿にあわせながら、やっぱり 氷による…

業の泉へと向かう身体の、ラッセルと太宰に寄せて

ラッセルは、聖パウロのようで、太宰はイスキリのようで。
だんだん、平和への祈り道が、業の泉に到着しそうな予感がして、 潔癖症なくらいの綺麗好きなのが、人間臭さとゆうか、仏の道などと 融和して行きそうな気のする、不可思議な強靭さを呈している例え頓挫しても 身体は、もっとマジカルなパラレルトリックの物質ベースで核融合する、 そんなカルマベースで行ける世代的にも壮年期である、現代生活ではある。 その業の泉に予め潜ってゆけば、クリームチーズのしっとりパンを食べて 抹茶の豆乳ラテを片手に吸いこんでいるこの孤独なポルターガイストに、 あるいは、怖いは好きの裏返しと言うのは、殺意さえも愛情ではあるが それに対して、業の泉に融けこんでゆくのが、ひとつの世相ではある。 こうして美女と野獣をみながら、眠りに親づいてたまの孤高にある夜中。 ロマンチックにあればまたも安心するが、しかしながらも文学にあっても まだ安堵の嘆息ついてはいられもするのに、ソファに横たわりながら、 空調を点けて念じることのあるならば、やっぱり安寧はここかしこの 瞑目してみえてくる、あるいは知性はラッセルにも、太宰にもある。
鋭意において、横になり手に余るほどの情報を世界は2つか3つあるのか、 この希望ともとれる情報存在は世界を意識すれば動じて溢れ出てくるのだった。 ロバは、四肢によって人間と同じように体幹を感じているのか?とは言えば、 幸福論を読むラッセル的知性は、太宰のアフォリズムによってもまた違う感じ を抱かせている。この感じは綺麗なのと、情熱的な愛のカルマとまた似ている 希薄で軽やかな明度の高さと、低部にありながら、渾々と湧く泉の如く、 頂上と伏流水の部分には地点的に密度は違えど、空間も時間速度も違えど、 知識として共有している何かの輝きのあるのだから、例え山頂と麓にでも 星はみえるのだから。この星とゆう知性の知悉するファンタジーを大切に してゆこう。これは、いつも知識はこの魂にあるゆえの共通地点。なので その叡智によって、wisdomを捨てるとこまで行かなければならないのだ。 Let it beも、風に吹かれて、にゆかなければ、その先は普通の生活なので その繰り返しながら発生する風の地点。送風の生起される場所が好きで、 それでも同じく普通の生活の繰り返しながら、叡智を捨てる所にいれば 叡智を捨てて風の起こ…

僕の中の三重の太宰と、野草酵素を呑みながらみる三日月と

イザナミと、イザナギ。それらは、太宰と大谷崎。赤鬼青鬼と役行者。そうして、芥川氏と、三島文学の影に、いつも佇まう太宰のイロニー。 それは、ヒューマニズムといった姿でもあり、またの名をイス・キリ。 聖母マリアのヘッセに、聖ヨゼフのトーマス・マンの裏には必ず、 イスキリの太宰のいる、そんな三重苦にある恩寵の姿は、三輪明神なのか? 野草酵素を呑みながら、有機農家さんの教えで摘んだ春の酵素を、ちまちま した感じでしたためながら、新月の影までみえる、三日月に謝々と言う。 物語はあまりにストーリー化すると、写真にならなくなるのだし、例えば UFOをみたときなんて、物語とゆうより、あっけにとられてむしろの 平然としている自分のいるのは、そうゆう物なんだ、と然々然々。そう、 永続するデニム生地や、帆布などに魅力を感じて、綾織りらしいと 気付く夜辺には、藍染もそうだけれど、すこし脆い部分に強さを宿すのを そうやって、自然共生のうちに培ったメソッドのある。永続する、その 鎮静と、国境を超えるまでの足の痛みに身体の解体してゆく感じのあれは 静寂だろう。月の灯りに月の影までみえる夜更けに、今度の週末は、あの ヒューマニズムにより、もっと擦り切れた遊びを求めて、ドライブに専念。 どの道が好き?確かにそうだ。その土地の酵素を吸うとゆうのは、何よりも 永続するとゆうので良いのだった。とにかくも、静かな三日月に感謝して。
机の横には、取り寄せられたバナナの箱が、ワイルドに置かれて、 段々と深くなってゆく暗さのなかには、すこしの知恵と、ファンの廻るリズム あとは虫の音もそんな風の感じのお気に入りのようだった。すべて月のお陰で そうゆう、不可思議な恩寵に、このひと時を有意義にすごさせる静謐のさなか 狂気は半分、正気をまた残り半分持っているのだから、魅惑的であって、その 蠱惑するほどの、正気の侵食された姿に、怖ろしさよりも美しさを想い出す、 梅雨の間の静けさなのだった。アーティストは、そんな蠱惑する所を持って、 よき意思と、よきスタイル選択をすすめて、さらにカレースパイスの、あの 渾然一体と求むる所を、完遂する何とも酩酊とは狂気となかば友だちなのだ。 しずかな瞬間のつづくこの夜更けには、ひとことの意味をさがすのだろう。 意味、生活。暮らしの手段。なりわいのうちに、継続してた、時間の連続は こういった静けさのうちに姿を浮かばせて、それは僕にとっては本当の狂気 …

敗退しては芽吹く麦の種は、それらが産み出すカオスなので。

精神構造をつくりだしてくれる、サディズムの黄昏やそのエクスカリバーの宝剣みたいな鋭さの訪れには それをやはり恩寵として受け取ろう。フィルタリングは 精神の待受には要らないのだった。ポエジーは善意の表れ、 けれど、サディズムの訪れに、もう詩性より抜け出して 乱文調には、むしろのつくりだす創作の継続性に、成長の 現れ方を見てとる、それの非常に大事なのだった。それは フィルタリングしない精神姿態の、あの自然体で充分な、 神性を宿していたのだ、と。構えないのと、力まないことに 神は宿る、以前にそこより爾来居たのだ、と気付く所存に、 フィルタリングしなければ、サディズムの黄昏ですよ。と、 わかっています、光る刃のように居ることが、この世間で。

霊能者、とか。シャーマニズムにおける虹の橋を渡って、 これが、精神姿態に待受を設けない、全体主観よりも、さらに すすんで、世間の一般に対して身に覚えのない所見まで辿り着いては けれども、詩性感情の情緒情感より入り込んでゆけば、 そこには朝方に、サディズムの訪れた思春期の黄昏には、きっと 真実の含まれていた。そう気付いて、もう遅い。十余年の巫病みたいな 時期をすぎて、やっと詩情を感じ取って満足いくような感覚には まだ、乱文調の創作意欲に黄昏への憧憬をくすぐる何かの酵素霊の 自然一帯のなかに含まれる、情景に根源性を深めるのなら、 それは酵素霊と名付けられもするクリエイティブとゆう前進する 車輪の轍をみるようにガラガラゴトゴト、水牛の曳くあの音色に 一度は興じてみたい。あの、牛の角に突かれてすすむ、如来の行進には ユーモアとペーソス、すべて含まれて悟る心地に諧謔とは、またの その名を哀切と言い、合わさったものをイロニーとゆう皮肉には、 結び付けられないものか、日輪の水没すれば赤く焼けるのは、それは 酵素霊の紅潮する、彼の意識には皮肉をみた所に、またあの 崩壊のなかに学びをみるといった、叡智の先触れを察知するのだから。

珈琲の生豆を発注しては、今朝の一服には間に合いそうもない、 そんな時にも、こうして感想をしたためる心地。フィルターの なくていいのだ、と思えるうちには、僕らは朝の酵素に浴して、 心のガードを抜かして、攻撃性も厚い盾も、または不安な準備に 気持ちの安らぎを守らなければ、といった必死なヒューマニズムの 囲いも、すべて廃して僕の酵素霊をさがしに、キッチンへと向かい ただ、朝方の口寂しさの一手を、豆乳…

すんなりと快く、イメージは秋の日の香りのように

湧水を汲んできて ひと安心する
焙煎するデカフェの珈琲豆のホッとする
炬燵をしまってしまっても まだ暖かいいつものように ウーロンドリップ珈琲豆乳を
汲んできた 湧水によって淹れる夜には
もう寒くもないので 一枚板のお爺ちゃんの机の
スースー通る 足元の風の心地よく生活を成り立たせるひとつひとっつの
優しさは そのまま豊かさ意識へと結び、
切なさより以上の 強い 安定へのステップを
ひと刻みずつ 記憶させる
豊かさとは 優しさのことなのだこうやって日記はポエジーを含んできて
大事なことは少しずつ練り上げなければ造られず
拘泥して 舞い上がるのにも飽きてようやく出来上がる
切なさは悲惨さの産む副作用のようなカサブタみたい
それはやはり必要なモノでもあるし
それでこそ クリエイトされる犠牲と朝焼けの意味とビスケットを摘まんで カステラを買って帰って
仮眠の前などは食べない方が 胃のもたれるのは必至
それでも 珈琲は欲しい すこし氷を足して一気にのむ眠気の晴れた辺り空腹の時間は快癒の知らせ
深く暗い海よりあがってきて吸い込む地上の空気は
新しく鮮やかに彩られた空模様の 天候だけでなく 空模様の
ビスケットはどこだろう? 摘まもうにもまだうつろクジラのようには食べ続けられないので
空模様には 雲のような あの大食いのかたちをして
希薄な体積をあらわしてるので 希薄とゆうか 息の切れる
そんな夢のなかでは呼吸をしながら潜水できるのだ
こうゆうふうにして 珈琲をのもう救いは喫茶で 自然採取の何らかの 足元を通る風の
スースーとしているイオン系の感触なので それから通る
感傷にひたって やっぱりここを通りすぎるのは 風とイオン
風とイオンは 趣味と思考 風とイオンは サイダーと飴のこと思考するとき 四股を踏む 眠る前には 歯磨きする趣味
雨のなかには佇まえず しかしながら家のなかの 雨のごとく
雨模様 雨模様 そうなのだ 傷の癒えるそんな頃合いには
心模様 空模様 雨模様 思考様々 趣味様々 飴様々
ビスケット カステラ デカフェ珈琲 歯磨きの前に珈琲のんで 雨のなか 歯磨きをする

透湿する思考の由縁も夜風緑風。梅雨間も香る

天日塩を振り掛けたビスケットをお土産に頂いて,同時に
釜揚げシラスも頂戴したのだけれど,何だか切ない梅雨空。
美味しいモノを食べすぎるのは自然に胃もたれをするのか,
それの切なさと言ってもいいのかも知れないのだけれども。
早く暖衣飽食習慣よりも薄着で笑っちゃういつもの清貧思想へ
貧乏性や器用貧乏とは言っても,そういった”切なさより淋しさへ”
果敢に”切なさより淋しさへ”向かってゆきたい。それは夏の準備。

祖父母の家へ引っ越してから,屋根を渡る猫や猿のあいだに混じり ポルターガイストや,また宇宙系の印象までも相まって,そこは 自分の気が振れたとゆうより事実みたく現象のリアルさの強いため なぜかしら呆然と眺めている感の強いこの五年間くらいだけれど, 最近,夜のあいだに勝手口の扉の開いたりした気のして,気のせいか とも思うし,その感じで後を追って開いた棚の天井に屋根裏入口の あったりして,これが”肉体のある物質次元のリアルなのか,または 妖怪みたいな自然現象の延長線上にあるエネルギーの役割なのか?”は ハッキリしないで解らない。僕の太宰=龍馬=九郎義経であったのなら それらを三島文学=木戸孝允=武蔵坊弁慶のガイストなどの守護してる などの,そんな妄想の浮かんでくる文学青年じみて本当に自分は幸せ者。
クリエイトするのは,ある意味の役割論としての生活気質や,傍楽と書いて はたらく。の事実上対極をなす自由としてのクリエイト趣味であるだろう。 そういった芸術家精神は,自由とゆうより,もっと楽観的絶対主観によって 形づくられたクリエイター形姿ではあるのだった。自由vs.役割とは,この 対置をすれば,自由をしながら役割を持てばいいのでは?とゆう簡単な答えに 達してくるのだけれど,昨今の”切なさより淋しさへ”向かいながら,そこで 美学を構築している人間性とゆう,自由をより神秘性へ高める風潮に感じて 堅くなった肩凝りみたいな身体のコリを抱きながら,そうゆう人は国土自体を 想いに背負っているのだ,とそう思う。国土を背負う?そうだな,背負い投げ して,本当に投げきったら反転する自由と役割。本当にそう想うのは,役割とは 喜びによって活かされる生命エナジーであり,決して外部環境に縛られる窮屈な 不自由ではないのだった。反転しても良いから,背負ったなら投げ入れてしまえよ, と。
成功するなら 投…

珈琲をすする,いまや目前の枯木立には碧

珈琲のカフェインレス生豆を送風オーブンであぶって頂く心地は
スーパーなどで購うよりも良い豆を択べるので,何ら普通の豆と,
変らず,いやむしろそんなことより更に燦然と美味しく頂ける。
コンセプトで生きてきた。ずっと,ファンタジーの中に浸かって,
生きてゆく事を,美しさのうちにみるのだ,と暮らしてきたのだ。
コンセプトのある雑貨店は素敵。だとか,料理もまずはコンセプトを
優先して,一致するはずのない夢を抱いて,生活を試みてきた。きっと,
このうちには成功のした料理。コンセプティブな例もいくつもある,いや
むしろ二つしかない。珈琲はまずひとつ。最近は,もうひとっつ。ジャムを
酵素シロップとして作製してみた。減農薬の苺を1.1倍の砂糖で漬けて
非加熱で苺酵素を作製。地元の小規模農家さんのヨーグルトを,一緒に
付け合わせに頂いたら,ミルク&ストロベリーは夢のようでも,本当に
初めて500パックを一度に平らげてしまった。これは,夢とリアルの一致
している。コンセプトは概念ともゆうらしいが,概念は美しくなければならぬ
はず,で。しかしながら一般化して現象になりえぬ耽美な美化をされるのだが,
懐妊の意味を併せ持つコンセプトの語義に対して,夢とリアルの一致する料理。
ないし体験など,基本的に具象として持つのならば,それはコンセプト。

夢をみて生きているのは,哀しくもあって切ない。中也や朔太郎氏のポエジーは
いつもそんなとこより来ている。立原さんのような感じになるとちょっとどこか
活動家のようにみえてきて,男らしく何故か哀しさより悲愴めいて感じられる。

いきているよで どこかうつろ
ヨオロッパ風に吹かれていきてゆこう と
いきているよで どこかうつろ
珈琲すすれば 異国情緒な庭もちかく
いきているよで どこかうつろ
ツツジのジャムをなめてれば 熊にもなるさ
いきているよで どこかうつろ
情熱には 悲愴の陰と器 ベエトオヴェンのゆめ
いきているよで どこかうつろ
青空抱えて 旅に出るのは ステッキ一本
いきているよで どこかうつろ
(そうゆう加減で いきてゆこうよ)

駄作だ,とはいぶかしく,試作は始めて結構たのしいのだった。
ソナタは熱情だったし,熊にもあう(逢う)さ,のほうが
良いかもしれない。当たり前に,最後のカッコ内はきっと,まず
添削対象にあたるだろう。

珈琲をすする,いまや目…

神秘に木陰には住めないが,緑風をならば吸いながら,夏

神秘学とゆうのは,そこに行き着くまでは,死の国への道程。 で,死を辿って,戻ってきたならば,死の国=ポエジーへの 憧憬によって躍起に活動していられるから,神秘に木陰には 住めないが,緑風をならば吸いながら,夏であって,そこに 起居しながら。そうして,いつの間にか脂肪肝までなった, そのくらいの妄想癖を携えて,そこより記憶のスイッチを, 入れつつ消しつつしながらの両の穴より鼻呼吸をしている。
LONDON ONEとゆうのはツール・ド・脂肪肝のようなので T.マンや,シェイクスピア。ゲーテのミケランジェロらは, そこの鐘を司る,ドリーム・オブ・ローゼズといったところで, かたや,そこの筆頭に,B.ラッセル=I.ニュートン=ルイ16世, =ソロモン王の指輪=ニコラウス・クザーヌスといったところで, それら筆頭には彼らのLONDON ONEであったことに,気付くのだ。 それで,イチゴの酵素漬けシロップの出来上がって,即席ラッシーの 要領で呑み始めると美味いのだけど,そんな記憶倉庫には,まるで 彼らを独眼竜=今川義元公などのために働かせる何らかの慈悲めいた モノを感じさせる,かたや恵比寿天の住んでいた社の像の浮かんで来, そこに住まわれていた娘君には,スルメの大層お好きだった風情の 浮かび上がって,まるで,天の岩戸開きにスルメの効用。といった, 何だか訳のわからない伝聞を耳に挟む心地のする。
アマテラス=芥川氏は,東照宮や伝教大師と親く感じられ,また 藤原道長の平等院には,またも奈良の地に称徳天皇などの感情態, 源氏には頼朝氏と,また恵比寿天とは彼らの必須メタファーのように 感じられもする,岩戸開きのあるとすれば,揚げ春巻きをオーブンで 再加熱して,しばらくパリパリ食感の維持されるように,摘みながら。 それらは,夏の線香の匂いのうちに,テレビでスポーツ観戦するように あのブタの焼き物より煙のくゆる瞬間のフラッシュバックである,と そう願い,そうは感じるまでの,伸びやかにパリパリの揚げ春巻きを 頂くのだった。すべては記憶の解除されるうちにあって,そうやって, あの自己自身の謎よりは,むしろのもっと上方にある,世界各自身による 必須調和のあいだで,繰り広げられる屋形船の遊覧上で,花火観賞する。
お茶の沸く瞬間の嬉しく感じる。お水も近くの真名井より汲んで帰るので それも理由の1つ…

木星のユピテルは王者かオロチか。いままでの振り返りに三島文学

T.マンを聖ヨゼフのように置いてみて,またヘッセを聖母のように, アナトール・フランスはヘロディヤみたいだけれど,いつも伴侶として そうして,その木星のユピテルは王者かオロチか。いままでの振り返りに 三島文学を紐解いて,ユピテルはまたタウルスのように,虎獅子ドラゴン。 角をむいて,ひづめを鳴らしてる。平家はいまは民間のほうにあり,どちらか と言えば,源氏のほうが官になってる印象のあり,それはあくまでイメージ上の 捉え方だけれど,どちらが良いとゆうこともない。ぼくらは二分法のうちに, その掻き鳴らされたひずめの行方を案じて低頭に砂ぼこりへ咳込むばかりだ。 夜にはウーロン茶と豆乳を半々に割ってノンシュガーで少しずつ呑んでいる。 そんな頃合いに,どこまで行っても,この純粋な文学にあって,サド侯爵の 影をあたえて吹いている風のごとき三島さんのヨーロピアニズムと芸術指向に, はたまた,煤をいつも被って,ミサの毎に薫香の匂いを帯びて黄金にむしろ耀く。 この敗退の一途にしては,耀きをつづけるニーチェのゆうルサンチマンと呼ぶ辺り。 低頭に砂ぼこりを吸い続ける民衆のところどころに不毛の荒野に一輪のデイジー。 敗退の一途,か。攻撃性を否定すれば,いくら批准したところで世間体は常に彼の 後ろをついて,本来の王はあなたです,とは日常にあたえられる平和は文学に。 三島文学=マキャベリズム=武蔵坊弁慶=木戸孝允・桂小五郎=サド侯爵には, またフラ・アンジェリコの天使画の数々。この鈍いほどの重い香りを携えて,自宅には 芍薬を飾って,いまもまた鑑真香を焚いてすごす。彼の芳香には,恬淡と跪きながら。
三島さんは相当に筆のすすみの早かったように感じる。義務的にも遂行できる運筆の, そんなようなのを,良く感じる。葉隠入門などを読んでいると,まるで演算機のように すすんでいくタイプのリズムを感じる。むしろいつもそうだったかもしれず,無論のまた 抒情に浸ればひたるほど遅かったのではないか?とゆうには想像に難くないのだけれども 論調において,平和のために攻撃性を辞さなかった,その激しさに透徹した陽光の春めき などは,きっとこのあたり,彼の時間の調子と合わせられる特異性までゆかないまでも, 才能のごとき調和の一手のあったから。若きサムライのために,などは,僕自身のぱかっ と頭脳の開いた時にはことごとく濫読して…

意味深長に珈琲=胆汁と,虚空アカシャの転生色彩譚

自分の中より明白に,何かの意味とゆうのが抜けてから,もう ひさしく感じる。意味がないのは,基本的に穏やかな静かさ。 意味深長に珈琲=胆汁と,虚空アカシャの転生色彩譚を標榜して, このBlogを,ただ描き切っていた頃合いが懐かしく,今もまた デカフェの珈琲豆乳を呑んではいるが,その懐かしさは過去による モノだ。大抵は,すでに生豆の焙煎などの200℃にコンベクションで 送風して,ゴーゴーと30分やそこらで終えてしまうようになってから 浅煎りなのだか焦げているのやら解らないように感じるのだけれど, それはそれでコーヒーの味わいには届いているのやら?割ってしまえば 飲むことはできるので,有り難く美味しそうに頂いてはいるのだった。
西郷どんを堀辰雄氏に当て嵌めて,萩原朔太郎氏は近藤勇になって, 谷崎潤一郎氏は高杉晋作=イザナミ女神的な,太宰に龍馬伝説を, 立原に乾退助の影あれば,川端翁は松陰先生で,三島に桂小五郎の 余韻を曳いて,それは歴史の風韻の現す,ラッキョウの砂丘には彼の 風紋を遺す,風の報せ。むしろの虫の知らせなのだった。また戦国には 堀さんは信長公,萩原さんは上杉謙信。大谷崎は下って8代吉宗公に, 太宰の独眼竜を供えれば,立原=千利休=秀頼公の,川端翁の信玄=武蔵。 三島文学は遠くサド侯爵=マキャベリまで溯る。付随して,漱石山人には 太閤秀吉=一茶によって,東照宮には芥川氏とアマテラス=恵比須さんの この豊かな不老不死伝説までも含めて,さては,宮沢賢治=清正の井戸。 ここまでよくぞ堪えてくださった,とばかり。意味深長に珈琲=胆汁と, 虚空アカシャの転生色彩譚を,計らずも与えて下すった”歴史絵巻”に謝々。

フォーの麺のあって,それに合うスープを造って頂きましょう,とゆうことに 昨晩も今晩も量はあまり摂らずに,眠りやすい環境を整えてゆこうと言っては, 胡麻味噌や,コチュジャン。鳥ガラスープに醤油みりん。ヌクナムなどに塩胡椒で ネギとニラ,油揚げを加えて,胡麻味噌には八角など,山椒の粉も入ってるので 大事なのは麺がゆるゆるにも芯残りにもならずに好い茹で加減でできるとなとゆう ところで,食卓には何とか一緒に楽しめるほどの時間は過ごせたのだった。あと, お風呂も沸かして,コトコト響いてくるような背景音に合わせて,こうして夕暮れに タイプして行く心地。あまりに最近お喋りもすすま…

とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。

白黒の隈を着けて,いつもよりも浅煎りの珈琲豆を一杯のお代わりを 受けて,淹れなおす。家の台所は,さながらカレー屋さん気取りの, とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。 とにかくもゴッコ気取りで楽しみながら遣りすごす,台所での一時。 ダサいと言っては,何だけれど,バランスの好いのはそうゆうことだ。 そうして,そうゆうダサさをこそ,落ち着いているとして好む,そんな 白と黒を半分ずつ割って入れるようにして,豆乳オーレにして頂く珈琲は, 真皮に黒を抱きながら,表面きっての自分自身は,笑顔で白を通す,その 面白さは微笑みより訪れるので,にっこり気持ちは構えて,ダサさを通す。 それでしか淹れられない,なかなか浅煎りは,カフェオーレでしか入らない。
追及しては,戻ってくるのは番犬や番猫で,何だよとゆうばかり,番猫なら 招き猫みたいにスレンダーな物腰で,いいやスレンダーではないか,でも。 多分,何にもいないのだから,彼らにとって,虫の知らせは,いわゆる枯れ尾花 であって,そのざわめきや囁きのようにして聴こえる,彼らにとっては雑貨店。 トフィーのような濃厚な滑り出しで,カフェオレに合わせながら眺める,こんな 洋菓子店をめぐるように猫などの物腰の豊かさを側に置いて,ぼくは先日のあの ロイヤルウェディングの様子を想いだす。白馬のリードしている子の,ちょっと 荒れているのには,繁華街に急に放り込まれた武士のようなイメージで,そりゃあ 興奮し,混乱もなさるでしょう?とは,そればかり心配してはいなくても,やっぱり パレードの壮大さは計り知れない。ダイナミックであり,本当に生命力学的にもっとも ハラハラもし,手に汗握る。この悠長にはPCの前に座りながら,安堵して,折り畳む。

基本的にはまた紅茶とキャラメルを合わせる感じで良いと思うのだった。ちょっとした
あの渋味と,焦げているような甘味のあいだで,切なさと勇気を半分ずつにおおげさに
振る舞っている。週末を終えて,家族サービスとゆう毎度のほどでもないのだけれど,
毎日に平日のスタートを切る僕にとっては火曜日。風邪を引いてると体力よりも果敢に
すすめないのでこうゆう話題になっているけれど,それも治った後の話として,本当に
スタートを切られることに,爽やかな活発さをさえ抱いている,早速まだ沸かしたてで
すこし温湯のお茶を頂い…

季節を描写するのみで良い,そんな甘露の雨粒と,上がった後の煙。

人文的な要素のないと言葉の発想も浮かんではこないもので,なおさら まだまだメモしておきたいことのありそうで,けれども,もうこんなにも 季節を描写するのみで良い,そんな甘露の雨粒と,上がった後の煙。雨煙に 合わせて,ヒーリングのアロマ・ミュージックなる分厚い音楽を掛けながら そのブランケットにくるまれて温かい心持ちをして,人文的より,また素描。 ああいう荒野にそっくり掘り込まれた教会遺跡群などは,もうイニシエートの それら現代のクラブシーンだったのだろうか?僕はその際,家で,お茶を啜る あのインナースタイルの静かなもんだったろう。なんて,基本的に動くとゆうか 家の中を満たすひとつの酵素で生きていたい。生活の匂いは,家の樹々の香り。 肉食には,昔の突っかかりを感じて,なかなか馴染めないけれど,元気は出る。 美味しさに賦活されて,文化的に色々楽しめることを良しとしては,けれども 今となっては,雨に巻かれてウッディな温もりに浸透されることの,浄福なので。

咳や熱風邪も,一度肺炎になった?と感じ始めたところで,一気にスノーマンの 夢を見て瓦解するように退けて行った。その余韻に燻製チップのような薫香の, ハートあたりに漂って,それはまた幸せな健全さの回復を予想させるので,納得。 燻製や北国のイメージは,やがてその厚くなった肺や気管の様子を想像させて, それでロマネスクなのだった。北国は,やがて魔の山も克服して,こうして篤く 人のこころを暖めてくれる。けれど,だからといって,こうゆう時に何かお肉食を 試みたくなる。本当に,篤い人生を効果的に造りだしたいのだ。むしろ,厚く強く。 豚肉の小間切れを,醤油麹とみりんで,お酒を加えながら,すこし甘味噌など足して 玉ねぎ,白ネギと共に炒めてみたのだった。奥さんは仮眠中なので,起こして頂ける ような料理だとは思えないので,ソファの近く,炊き込みご飯を解凍したのと,側で 摘んでいた。明日は英国のロイヤルウェディングだと,ニュースでしていて,思わず 感涙してしまい,僕も不可思議ながら,少しく傷付いた思春期に,感情移入しては, いかばかりか砕けた心持で経過を感じていたので,何だか,ホッとして,うるっと。

すべてお肉食で感情までも呑み込んで,取込んでしまえたらそれで良いのだけれど,
切なさや,哀しさ。鎮魂の想いまでは,そんなに簡単に解消していったり…

万物爾来の,そんな時代に鉱物性の時代。その由来は初夏より

万物爾来の,慣性的に浸透する感性のあるとしたら,それは 業の泉そのまま,渦巻の底辺にあって,上面は乾いたお皿の そうして中間位に湧水のこんこんと現れているだろう,とは こうしてタイピングすることの平和は訪れて,ようやく気持ちは 情念のコントロールより塞ぎそうなこのココロを吹きほどいては くれそうな。真実は,この吹きほどく風と,渦巻く業の泉に巧妙に 隠されてはいるだろう。そこより頑強なひとつの岩を手に触れて, 風邪の悪化する夜中には涼しい部屋に独り逃げ込んで,タップする マグロのつみれをあれを何と言ったのか,そんなネギトロみたいな 軍艦巻きを食べたいのだ,こうして三段払いのように,モーツァルトも 41番の”ジュピター”など聴いてみると,調和はしているが,実に旨く, あまり脂味を隠さず調子を崩さずに酢で締めているような当にネギトロ。 斑の入っている。と植物園では苗の紹介に描いてあって,あれは”ふ”と 呼ぶのだとゆうことは,翌日実母より聴いた。僕は,声を大にして, 『まだら』と言い続けていたけれど,そんなことは解りっこない。けれど 表現の上では植物園でルビを入れることはないだろうし,僕も楽しめた。 ”ふ”と読むのかあ。だけで,”ジュピター”も脂の載ったように感じるのか。 と,そんな余韻で跡を曳く。では,真実とは一体?R.シュタイナーも エーテルの領域は二重の壁に阻まれているなど,確かに語り遺してはいる, エーテルとは生命力の元に,植物性と粘液的なイメージを混ぜ合わせた樹液の 海に沈んだ領域のようではある。ここに情念コントロールの鍵穴はあって, ファンタジーも真実に親付けないのは,この樹液の概念に阻まれるからだろう。 万物爾来の,そんな時代に鉱物性の時代。その由来は初夏より発生して,この 噴火の石灰質を吸い込んでいるごとき夏風邪にあって,いつにもまして妄想を つらつら喋りこんでしまう連続性に思考は働いて,確かに優しさは解体するうち, そのあいだに,何かに気付いては,真実によって見開かれてゆく。これは,多分 妄想性の嗜好より,きっと解除作用の思考である連続性の鉱物分解による思索。 きっとこの辺りで目を開いて,きちんとした形で語り始めたほうが良い,とゆう。
鉱物性の思考とは何だろうか?鉱物的に身体を指向させる,そのベクトルを見極める。 この,植物領域のファンタジーとロゴスを支…

産褥の危機感と、エロスとタナトスには、柔和なハーモニー。

初夏のあたり,六月くらいの冷房には,何だかセレブ感を感じる。 感じるだけで良くて,そうある必要のないところが,奥ゆかしい。 何かに打ちのめされるほど感情を揺さぶられ,それら嬉しいのと, その裏側に,攻撃性を伴うクリエイティブな心象の残される,この 少年のスピリチュアリティと呼ばれるモノのなかに,現在の初夏と 似た,何者かに代えがたくある,セレブ感の理由みたいなのを探る。 攻撃的でもあり、俗悪的ではあるけれども、よく言えばエネルギッシュで 奇跡的な行動もみせる、彼の男性性とゆうものと、少年に対して、あの 自然体で受容するのに長けているのは,攻撃的にあらず,ハーモニーな 彼女の女性性であって,あくまで人間性には両者の煩雑に組入られてる。 犯罪に対しても宥和的で,感情移入することによってしか,理解するのを 容赦しないそういった存在理解においては多分しっかりと,その点での, 都市圏の発展は垣間みられる論拠のあることだろう。女性性と,また他方の 文明は各時点で確実に前者をこそ優先してきたのであって,いいや,風邪を 引いてるためにそんな風潮を感じ始めるのかもしれないけれども,そうゆう 攻撃性には,あえて,涼風は毛虫の食んだ緑葉の死霊の起こした涼しさである と言った,論調を難しくも吹かせてゆきたい,犠牲とはかくゆう姿であるか?
産褥の危機感と、その柔和なハーモニーを思う時には、何も知らずに 男性的な直線的でストレートな、エロスとタナトスなどは、却って、 犠牲を体現しようとして、咳込み、清水を口にして孤独を表現する、 そうだな、感情的に、ハートで感受することの、どれほど大変で大事か? 都市圏は敢えて、それで保全されているのか、とゆうカフェオレの味わい それでいて、お腹で感じてしまう故のエンパス指向などは、既視感として 季節を感じ取ったり、オーガニックな近代的な有機運動には向いているが、 しかし、この下町感には向いていない。コミュニケーションは、ハートで 感受するので、きっと、そうゆう会話のほうが、カフェオレを共にするには 向いてる気のする、あまり考えすぎたのだ。宥和的なのは、きっとそれは、 一度忘れて、おいしい苺バニラパフェなどを、喉元あたりで呑みこんで、 一気に味わいきることなのだ。ミルクバランスだ。乳牛のあの、枯草より 酵素質の母乳を生成される、あの絶対母性とゆうのに、嵌入してしまうのだ。 なので、田舎のパスチャライズのミルクなどを、…