スキップしてメイン コンテンツに移動

ゆきずりの恋を活きる共同体形成の宵明け珈琲。

自己責任の発想は,やっぱりちょっと違う。海外のひとからは
ナンセンスと言われる,例えばコモン・センスには,合わないのかも
知れない『日本の”常識”=その噂話=逸脱した集合無意識など』は,
確実に,共同体形成や,防災意識,暮らしの成立,自由の体現などに
必須事項であるはず。ちょうど,ゆきずりの恋に,宵明けの珈琲を啜る
みたいに。極端な疲れには,珈琲を呑んで寝る,この発想が,なかなか
疲労自体の裏にある,自己解除作用に結び付いて,ダイエットする精神。
腸活や,リンパケア,遺伝子のONなども,こういった作用に関連して,
きっと痩せることが必要ではないかも知れないけれど,精神は痩せていた
ほうがずっと良い。なんて,最近は,そうゆう精神肥大について,半ばの
ダイエットを始められそうな次第である。大抵は,パートナーが寝ているとき
僕自身の目覚めてアートを楽しんでいる。僕が大いびきをかいて眠るときに
彼女は,その録音をコラージュなどして,ダンス・ミュージックなどに仕立て
起こしながら,朦朧の意識に意地悪など仕掛けてくる。今日は僕が起きてる番。
塩釜をコトコト煮詰めながら,灯油代も,その理由で気にならずに暖を取られる
心地は,冬景色の良い効果だ。半額で,豚ひれ肉のブロックが売り出してあって
醤油みりんで漬け込んでいたのを,じわじわ焼いていたら,簡単なチャーシューが
出来上がった。タイミングよく,父が”キタアカリができた”と届けてくれたので,
お礼にすぐにタッパーに入れて,持ち帰ってもらう。実際は,なぜだか自然体で
そんな一連の火の調理づきあいのできてるので,こんな精神のダイエット構想には
もってこいの火の調理週間であるはず,水回りはキレイにして,しっかりと使おう。

ちょうど,フグの湯引き調理のあとに,床底に暖気のたまるみたいに,業の観念は
どうしても内にも外にもただよっているものである。こんな,感情を知的に合わせる
もみじおろしみたいに,はっきりと業を認識することは大事である。認識できず,あの
ポイズンに当ってしまうこともあるだろう,瀕死の業中毒はよくあることなので,ただ
業が過ぎ去るのを待てば良い。ここで,自己責任にNO,を言うのは,業の付き合い方は
ちょうどの,ゆきずりの恋愛ドラマをみるような,そんなあえての”自由の発想”で良い。
中毒になっているときは結構大変なモノ。精神肥大=業中毒といったものは,集合的な
無意識に親い感性や,噂話をたのしめるようになるまで続いて行くのではなかろうか?
それが,共同体形成や,引き続いて”自由を体現”するようになるまでの,修業期間とでも
ゆうもので,チャーシューを焼いても,食べずに交換して頂くまえに渡してしまうような
そんな感じにもとっても親い。給仕することより,調理し供することのほうへシフトして
段々と,実効的視野でサーヴィスに昇ってゆく,そんな階段を登ってゆくのが,業飯店。
実際のところ,表現活動は,体的表現に結び付いていた方が強烈らしい。物質的ジャンル
の強みは,結局のところONになったスイッチは,食生活の変化や,食文化に好奇心を
そうして,結果,水へのこだわり,水質保全や,経済的にもドライブのエッジの良さなど
そんな業の観念とは真逆の安堵へと向かわす何かであるはず。物質は,非物質の方へ促す
効果的な影響を,実際,物質=幸せの安寧へと進んでゆく,非常に軽快なセーフティな
運転技術なので。テクニカルに行く非物質と,システムに活きる物質という比較。

奥さんの料理で,『ぶり大根の出汁で,炊き込みごはんを造った』と聴いていたので,
小腹の空いてキッチンに探りを入れてゴソゴソ。『蒸らしてあるから』と言っていたな。
あった,もうごはんは堅くなさそう。僕も夜食なので,おかしくなっていて,あれれ?
と思っていたのだけれど,すこしチャーシューを拝借とばかり,エスニックにごはんに
炊き込み焼豚飯みたいになっていたのでマヨネーズを掛けた。なぜだか,酩酊気分の
ウツラウツラお風呂上がりに眠たい胃心地には,執拗に旨くて。マヨネーズおそるべし。
全然関係のない話だけれど,生姜も効いていて,おかわりしたい。実際は,本音を言うと
チャーシューは,ジャガイモに代わって持っていかれたなど,すこしジダンダ気分でも,
僅かばかりの業の中毒にも気遣われずの落ち込んでいたので。マヨネーズおそるべし。の
裏側には,なので精神肥大もするでしょう,というアンチグルメな批評と,皮肉な現実の
不可思議に弄ばれる快楽のユーモアにも照らされてはいるのだった。また,不思議にも,
海水を煮込むコトコト塩釜からは,潮の匂いは,ほぼしなかった。むしろ上質の加湿器を
部屋に焚き込んでいるような,保湿や喉の潤いのすこぶる良いような感じで,塩釜よりも
そういった,冬の乾燥対策に,海水加湿器などあったら,どうでしょう?なんて,また,
おかわりをしよう,とゆうことばかり考えて,夜食の習慣は今に始まったことでもない。
けれども,ほんとうに,お昼には珈琲と干しイモの機会や,調理はするけど食べないなど
覚醒状態では,精神肥大を抑える何らかの衝動の”幸せな焦燥感のような”ストイシズムの
そんな克己めいた感性しかのぼらなくなっている。昨今の機運を受けて,サバイバルとは
社会生活の基底においても機能してきた,基本的な思想であったはずなので,そういった
”幸せな焦燥感のような”諦めの別世界への入り口の開いてきたような気のする。これが,
大人の階段。新世界が開通した門前でボンヤリと行燈生活をしていた時分の,われながら
”酵素とゆう,野性滋味”の使い道を間違っていたことに気づく初冬の佇まいなのだった。


こちらは如何?

解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを

足元のゴキブリをきちんと処理できてからでないと、ものごとの全体的な オーガナイズなど、できたモノではない。かと、言って大きく自然は常に 世界にあるのだから、とりもなおせば、オーガナイズすなわち全体性とは 自然相手に行う人間の営為と言っていい。これは、自然相手の常識を壊す と称しても良いことで、その人間の中の自然、知性や、また、昆虫類の 自然と呼ぶにふさわしい集合意識的な流麗なエナジーに対しての、技術。 意志と呼べば、意志である。かと、言ってワガママには振る舞えない、 無意思の意志である。最近、穀物の喉元を通らないのは、こういった 自然への意志が挫かれている。むしろ、そういった意図を失うべきな 自然バランスの崩れを食欲不振や、情動麻痺に親い感情に観て取れる。 なので、その解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを起こして どうやったら貧血にならず、穀物も避けてよければ避けて通りもして この栄養失調との闘い、いや付き合い。にしても、快く自然のなかを 通り過ぎてゆけるか。酒でもない、薬でもない。とりあえず、イカの つまみでも摘んで、その勢いで、お豆腐、納豆。そうめんをすすいで 二束ほど掻き込んだ。これが精一杯だ。拒食の強い癖はないだろうが 温かい調理など食べられたモノではない。ましてやこれは過覚醒代謝 でもあるだろうが、意識を上向いていられる分、夏の大気は天国へと 持って行かれそうな暑い上昇気流をたずさえているのだから、すこし グラウンディングするように、穀物の製品も頂くべきだろう。夏の夜 昼間はラマダン期間のように食を細めていた自分の夜食に祈りの姿を みせて冷たい食品ばかり頂くのだから、自然の乱れとゆうよりそれは 自分の乱れである。そうして、呆然と朝を迎えて、鳥の声は盛んだ。

生命システムを収束させているようにも感じるのは、真夏の景色だ。 乱れは美しくもあるが、それは整えられた収束するシステムの過程を まざまざとミクロに見ているのだから、そう乱調の美を感受するのか とも思うのだった。いわずも全体性のオーガナイズは自然への技術的 意志の欠如のうちでは成立せず、そこには知恵の要る知的作業の求む らく、あの野草の薬壷へ手を突っ込むような感じで、よもぎ餅を摘む 大きな頬っぺたで味わう春の蠢きを再現させる作業を必要とするのだ。 夜食の後でアイスバーをたべた。空になったバーの木の匂いは象徴的に その感慨を現している。きっと、自然の芳香を実際…

珈琲プレグナンスとゆうは、地球号温室にて培う

さもなくば、右側頭部の情欲野ともとれる情緒的ヒステリクスは肝要。 男性性が這入りこむので、情念はヨコシマなアーリマン的要素をあらわすので、 いたって自然理にあれば、そのヒステリクスは肝要。アーリマンは赤鬼。 ともすれば、男性性を太宰など、イザナギ神話にあてはめまた、 女性性のイザナミ陣営を、アナトールと芥川氏のフレンチな文学に例えて、 大谷崎=イザナミ女神の文学性へ返すように、そうすれば、 自然体の情緒的ヒステリクスは肝要なのだった。能面が、般若に変るのは 黄泉比良坂において、三島文学=菊理媛の仲介役によって、その岩によって 光り輝く太宰のイザナギ男神的精悍さを、情緒の乱れによって見送る時に。 怒り狂えるイザナミ女神の発端は、男神の一枚岩の正義がわがままに響く その呆然とする知性に対しての怒りであって、それは何か裏腹への怒り。 表裏一体こその静けさであるのに、表面的な反射によって判断する誤りに。 この般若の相貌には、ひとかたならぬ静かな暮らしへの想いがあってこそ。
正しく、情念には破壊を浄化してゆく知恵のコントロール技術の含まれる。 そうして裏の循環摂理はなりたっているので、光りによってすべて消す といったようなのは、戦争経済と何も変わらない志向であって、情緒的な 日常の天然湿度の中で解決する身体由来の経過のあるとするなら、それは 情緒の情念的ないわゆる情欲循環コントロールによってしか、その常温は 保たれないのだった。般若は常に嫗である。いや、そうあるべきなのだ。 そうやって、いつも怒りに枯れている茫々と寂寥とした感慨を現すのが、 情念にはふさわしい。計らずも男性性は遠く彼方に押しやってしまえと、 巌に蓋をされた、彼らの国は、もう鉱物的なスピリチュアリティにしか、 含まれず囲われ、だき入れられてはいないようだが、そこに、男性性の 隔絶とした、中和され赤青に別れた大地と空との、水と風との調和は 有りえないのだった。珈琲プレグナンスとゆう造語を嗜好しだすのは、
そこに、情緒ヒステリクスの地球温室においてはぐくまれる暖かさの中で 結果的に正しさとは受容するのによって見出されるモノの多分に大きい、 そうして、正しさとは、ストレートさ素直さ一面性のたぐいにはなく、 多面性を受け容れること。情念コントロールは情欲循環的な何かでは、 そうして破壊を調整してゆく暮らしの技術におきながら、戦争経済とは 一線を画す技術の生活意欲として、裏側の…

業の泉へと向かう身体の、ラッセルと太宰に寄せて

ラッセルは、聖パウロのようで、太宰はイスキリのようで。
だんだん、平和への祈り道が、業の泉に到着しそうな予感がして、 潔癖症なくらいの綺麗好きなのが、人間臭さとゆうか、仏の道などと 融和して行きそうな気のする、不可思議な強靭さを呈している例え頓挫しても 身体は、もっとマジカルなパラレルトリックの物質ベースで核融合する、 そんなカルマベースで行ける世代的にも壮年期である、現代生活ではある。 その業の泉に予め潜ってゆけば、クリームチーズのしっとりパンを食べて 抹茶の豆乳ラテを片手に吸いこんでいるこの孤独なポルターガイストに、 あるいは、怖いは好きの裏返しと言うのは、殺意さえも愛情ではあるが それに対して、業の泉に融けこんでゆくのが、ひとつの世相ではある。 こうして美女と野獣をみながら、眠りに親づいてたまの孤高にある夜中。 ロマンチックにあればまたも安心するが、しかしながらも文学にあっても まだ安堵の嘆息ついてはいられもするのに、ソファに横たわりながら、 空調を点けて念じることのあるならば、やっぱり安寧はここかしこの 瞑目してみえてくる、あるいは知性はラッセルにも、太宰にもある。
鋭意において、横になり手に余るほどの情報を世界は2つか3つあるのか、 この希望ともとれる情報存在は世界を意識すれば動じて溢れ出てくるのだった。 ロバは、四肢によって人間と同じように体幹を感じているのか?とは言えば、 幸福論を読むラッセル的知性は、太宰のアフォリズムによってもまた違う感じ を抱かせている。この感じは綺麗なのと、情熱的な愛のカルマとまた似ている 希薄で軽やかな明度の高さと、低部にありながら、渾々と湧く泉の如く、 頂上と伏流水の部分には地点的に密度は違えど、空間も時間速度も違えど、 知識として共有している何かの輝きのあるのだから、例え山頂と麓にでも 星はみえるのだから。この星とゆう知性の知悉するファンタジーを大切に してゆこう。これは、いつも知識はこの魂にあるゆえの共通地点。なので その叡智によって、wisdomを捨てるとこまで行かなければならないのだ。 Let it beも、風に吹かれて、にゆかなければ、その先は普通の生活なので その繰り返しながら発生する風の地点。送風の生起される場所が好きで、 それでも同じく普通の生活の繰り返しながら、叡智を捨てる所にいれば 叡智を捨てて風の起こ…