スキップしてメイン コンテンツに移動

脳細胞のひとつひとつが共同体鏡像姿態で,あの。

多分,鏡のように世界の映るのが心眼だとしたのならば、もう
他人の頭脳まで分け入って這入る必要はないのだろうなあ。
脳細胞のひとつひとつが共同体鏡像姿態で,あの。僕の世界は,
その幾億もの組織のワンオブひとつひとつなのだ。そうやって,
ヤル気と勇気は,火の意識として,業の最中にも,また漂泊する
そんな,ひと粒で一瞬に発火する,山椒のような”薬味”になって
クラフトの態度を熱っぽく煽動する。”神さま”は,きっとヒトの
普通の意識が業を抱え込んで,世界はそのもので,宇宙大な何か,
自分は傷つき世界精神まで膨れ上がった,そんなチーズ発酵のあの
革袋,ワイン袋,貯水袋になった,乾燥した灼熱の荒野を進むには
そんなショートスリーパーの珈琲通の現す,オアシス好天気の気候,
気象条件を必要に,晴れ男,雨男の何でもいいので,きっと世界大。
喉風邪を引いてから,咳が付いて離れない。けれども,これは正直に
我慢していることがあると,発生する咳込みなので,むしろ感情の
パラメーターとして,有効に働いている。そんな金木犀より寒椿。
随分と,底冷えする季節には,このピリピリとした寒さの中に,あの
あかぎれやささくれが自動発生するこの気候の何らかの神秘を感じる。
正直でいられるのだ。そう,正直にいられるのは何よりの神秘作用。
特に,寝不足で,珈琲のウーロン割など呑んでしまう。

基本的に,中毒は順応に帰してしまう。そんな信念を,深淵に隣接する
議事堂の,コミュニティ・プラザみたいな公共の神の境域関門のような
気分で,喫茶風情の咳込む灯油ストーブに安心の嘆息する夕暮れ珈琲。
社会的な視点は,元来日本には馴染まず,縄文の気持ちの残る喫茶の
噂話と,そのコミュニティには,きっとほんとうの暮らしの在り方の
垣間見える。なので,空気のような順応性と,揺蕩う流動性の風体で。
むしろ,その諧謔と剽窃の,イロニーのつるつるした円滑なスタイル。
中毒は,珈琲においても,その飄々とした所の美しさは,人間性の最もな
美学を堪能させる,漂泊する,そう,上滑りに微風に揺蕩うスタイルで,
もう,そのままその美しさは,軽妙で,爽やかで,ふんわりと無頓着な
そう,なので,そのままで行こう。この旅路は,社会的な外への通り道を
ふさいでしまう回路はしていない,その通路は,内側を過ぎ去りつつ,また
いつか,すべての執着の離れてゆく,回心への通路なのだ。
ぶどう酒のような珈琲。シードルのようなもの,と。つまみは,するめの
下足でもあれば濃口の醤油で頂いてしまおうっと。

例えば,漂泊の道筋を通り抜けて,あらゆる執着の乖離してゆく,何かの
そういった,逆説的な社会的な通路のあるとして,きっと現実は,重たいエナジーに
よるのではない,決して,エーテルの立場ではない,視点にはむしろ硬質な冷たさを
住み家は重たい生命感のエネルギー場を居座っていたとして,スベるような結晶の
閉塞的視野で,この温かい磁場を超えて行こう,それは,無論の執着をはなれる道。
石膏を舐める,ミケランジェロや,大英博物館近くの漱石の姿を想像することがある。
芸術家は,石板を吟味するだろうか?文人は留学先で,西洋の毒見を遣るのだろう?
すべてに石膏の味見のような喩えには,もうこれは,思考の結晶的視野を外すことない
彼の視野には,差し置いてなべてのほかの世間の執着は入ってこない。そうしていつか
牢獄や,塔の史跡に聖なるイコンを浮かべる時には,彼の眼には,罪の道を通り抜けると
そこは,春の野だ。業の路を抜けてゆけば,泉は晴れて,沃野のひろがる,日中の暮れ。
こうして,KARMA SPRINGは,業のエーテル野を過ぎて,明るさのユーモアにいたる。
何も必要のない世の中があったらどうだろう?それは,ユーモアしかない世界だろう。
諧謔と哀切=ユーモアとペーソス。これは,そのままイロニー=皮肉へと結ばれる道だ。
口をムの字にむすんで彼は,潜って地中に掘削したイモ掘りサンクスギビングデイを過ぎ
たらふくお腹一杯だ。そうやって上がってきた時には,しっかりと滋養を持った思考で,
執着を解除してその春は干しイモのようなゴールデンドリームを,塩田に忙しく珈琲の
時間を欠かさないイモ掘りサラリービジネスを更に続けて行き,そうしてそれは健全だ。
コーヒータイムには,寒風も沢庵づくりに役立つピリピリとした,そうゆう冬が必要だ。


こちらは如何?

解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを

足元のゴキブリをきちんと処理できてからでないと、ものごとの全体的な オーガナイズなど、できたモノではない。かと、言って大きく自然は常に 世界にあるのだから、とりもなおせば、オーガナイズすなわち全体性とは 自然相手に行う人間の営為と言っていい。これは、自然相手の常識を壊す と称しても良いことで、その人間の中の自然、知性や、また、昆虫類の 自然と呼ぶにふさわしい集合意識的な流麗なエナジーに対しての、技術。 意志と呼べば、意志である。かと、言ってワガママには振る舞えない、 無意思の意志である。最近、穀物の喉元を通らないのは、こういった 自然への意志が挫かれている。むしろ、そういった意図を失うべきな 自然バランスの崩れを食欲不振や、情動麻痺に親い感情に観て取れる。 なので、その解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを起こして どうやったら貧血にならず、穀物も避けてよければ避けて通りもして この栄養失調との闘い、いや付き合い。にしても、快く自然のなかを 通り過ぎてゆけるか。酒でもない、薬でもない。とりあえず、イカの つまみでも摘んで、その勢いで、お豆腐、納豆。そうめんをすすいで 二束ほど掻き込んだ。これが精一杯だ。拒食の強い癖はないだろうが 温かい調理など食べられたモノではない。ましてやこれは過覚醒代謝 でもあるだろうが、意識を上向いていられる分、夏の大気は天国へと 持って行かれそうな暑い上昇気流をたずさえているのだから、すこし グラウンディングするように、穀物の製品も頂くべきだろう。夏の夜 昼間はラマダン期間のように食を細めていた自分の夜食に祈りの姿を みせて冷たい食品ばかり頂くのだから、自然の乱れとゆうよりそれは 自分の乱れである。そうして、呆然と朝を迎えて、鳥の声は盛んだ。

生命システムを収束させているようにも感じるのは、真夏の景色だ。 乱れは美しくもあるが、それは整えられた収束するシステムの過程を まざまざとミクロに見ているのだから、そう乱調の美を感受するのか とも思うのだった。いわずも全体性のオーガナイズは自然への技術的 意志の欠如のうちでは成立せず、そこには知恵の要る知的作業の求む らく、あの野草の薬壷へ手を突っ込むような感じで、よもぎ餅を摘む 大きな頬っぺたで味わう春の蠢きを再現させる作業を必要とするのだ。 夜食の後でアイスバーをたべた。空になったバーの木の匂いは象徴的に その感慨を現している。きっと、自然の芳香を実際…

珈琲プレグナンスとゆうは、地球号温室にて培う

さもなくば、右側頭部の情欲野ともとれる情緒的ヒステリクスは肝要。 男性性が這入りこむので、情念はヨコシマなアーリマン的要素をあらわすので、 いたって自然理にあれば、そのヒステリクスは肝要。アーリマンは赤鬼。 ともすれば、男性性を太宰など、イザナギ神話にあてはめまた、 女性性のイザナミ陣営を、アナトールと芥川氏のフレンチな文学に例えて、 大谷崎=イザナミ女神の文学性へ返すように、そうすれば、 自然体の情緒的ヒステリクスは肝要なのだった。能面が、般若に変るのは 黄泉比良坂において、三島文学=菊理媛の仲介役によって、その岩によって 光り輝く太宰のイザナギ男神的精悍さを、情緒の乱れによって見送る時に。 怒り狂えるイザナミ女神の発端は、男神の一枚岩の正義がわがままに響く その呆然とする知性に対しての怒りであって、それは何か裏腹への怒り。 表裏一体こその静けさであるのに、表面的な反射によって判断する誤りに。 この般若の相貌には、ひとかたならぬ静かな暮らしへの想いがあってこそ。
正しく、情念には破壊を浄化してゆく知恵のコントロール技術の含まれる。 そうして裏の循環摂理はなりたっているので、光りによってすべて消す といったようなのは、戦争経済と何も変わらない志向であって、情緒的な 日常の天然湿度の中で解決する身体由来の経過のあるとするなら、それは 情緒の情念的ないわゆる情欲循環コントロールによってしか、その常温は 保たれないのだった。般若は常に嫗である。いや、そうあるべきなのだ。 そうやって、いつも怒りに枯れている茫々と寂寥とした感慨を現すのが、 情念にはふさわしい。計らずも男性性は遠く彼方に押しやってしまえと、 巌に蓋をされた、彼らの国は、もう鉱物的なスピリチュアリティにしか、 含まれず囲われ、だき入れられてはいないようだが、そこに、男性性の 隔絶とした、中和され赤青に別れた大地と空との、水と風との調和は 有りえないのだった。珈琲プレグナンスとゆう造語を嗜好しだすのは、
そこに、情緒ヒステリクスの地球温室においてはぐくまれる暖かさの中で 結果的に正しさとは受容するのによって見出されるモノの多分に大きい、 そうして、正しさとは、ストレートさ素直さ一面性のたぐいにはなく、 多面性を受け容れること。情念コントロールは情欲循環的な何かでは、 そうして破壊を調整してゆく暮らしの技術におきながら、戦争経済とは 一線を画す技術の生活意欲として、裏側の…

業の泉へと向かう身体の、ラッセルと太宰に寄せて

ラッセルは、聖パウロのようで、太宰はイスキリのようで。
だんだん、平和への祈り道が、業の泉に到着しそうな予感がして、 潔癖症なくらいの綺麗好きなのが、人間臭さとゆうか、仏の道などと 融和して行きそうな気のする、不可思議な強靭さを呈している例え頓挫しても 身体は、もっとマジカルなパラレルトリックの物質ベースで核融合する、 そんなカルマベースで行ける世代的にも壮年期である、現代生活ではある。 その業の泉に予め潜ってゆけば、クリームチーズのしっとりパンを食べて 抹茶の豆乳ラテを片手に吸いこんでいるこの孤独なポルターガイストに、 あるいは、怖いは好きの裏返しと言うのは、殺意さえも愛情ではあるが それに対して、業の泉に融けこんでゆくのが、ひとつの世相ではある。 こうして美女と野獣をみながら、眠りに親づいてたまの孤高にある夜中。 ロマンチックにあればまたも安心するが、しかしながらも文学にあっても まだ安堵の嘆息ついてはいられもするのに、ソファに横たわりながら、 空調を点けて念じることのあるならば、やっぱり安寧はここかしこの 瞑目してみえてくる、あるいは知性はラッセルにも、太宰にもある。
鋭意において、横になり手に余るほどの情報を世界は2つか3つあるのか、 この希望ともとれる情報存在は世界を意識すれば動じて溢れ出てくるのだった。 ロバは、四肢によって人間と同じように体幹を感じているのか?とは言えば、 幸福論を読むラッセル的知性は、太宰のアフォリズムによってもまた違う感じ を抱かせている。この感じは綺麗なのと、情熱的な愛のカルマとまた似ている 希薄で軽やかな明度の高さと、低部にありながら、渾々と湧く泉の如く、 頂上と伏流水の部分には地点的に密度は違えど、空間も時間速度も違えど、 知識として共有している何かの輝きのあるのだから、例え山頂と麓にでも 星はみえるのだから。この星とゆう知性の知悉するファンタジーを大切に してゆこう。これは、いつも知識はこの魂にあるゆえの共通地点。なので その叡智によって、wisdomを捨てるとこまで行かなければならないのだ。 Let it beも、風に吹かれて、にゆかなければ、その先は普通の生活なので その繰り返しながら発生する風の地点。送風の生起される場所が好きで、 それでも同じく普通の生活の繰り返しながら、叡智を捨てる所にいれば 叡智を捨てて風の起こ…