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人間性の羽虫の飛びかう,世界はそのまま浮遊感。

夢に同化せずに,影になることを択ぶ。また,そうして,薄っぺらい決意の,
そのままに,夢に同化するより,そうやってエゴイストの夢の住人よりも,
さらに,夢のインプラントを抜けるように促しながら,人間性の羽虫の飛びかう,
世界はそのまま浮遊感。草叢より翔び立つ羽虫の数々が,世界の夢そのままで
あることを教えてくれる。夢の姿の虫の知らせ=世界そのままの私の姿。それは
突如のこと身魂鳴動せり,羽虫のように宙を舞う,浮遊感を感じたあとに,
川端文学=菱形信玄墓=五輪書武蔵=放念する法然。ガイストを堀辰雄に任せて
魂を,ヘッセに据えて,身体は川端文学に預けて,宙を舞う。そして,古都には
ぼんぼり屋敷と,護摩焚き法要。入江に燻す,何かの匂いのして,水面に映る
幻燈の走馬燈の余りに,終に仕舞うことを思うのなら,川端文学に落着こう,と
室井コアラの『工房の宝石』などを読んでは川面に響く輝きの照り返しを思って
涙する羽虫の群れ「夢に拘泥する気はない。ないのだけれども,夢を楽しむもので。」
浮遊感に任せて,舞い散ることのできれば,夢も意味はなくし,ただ,水汲み場で
感じるような,その浮遊感のみに,想いを託すのだった。

夢みることを止めたら,それは,影になりきったことの証左であるのだ。なぜだか,
エゴとか,それに世界とか,人間性や人間自身まで,虫の姿で,夢の姿で抜けてゆく。
責任感は,責任遂行力には換わるはずもない,それは,感情は100%に近づくほど
身体的には宙を浮遊し,影に親づいて,段々と責任感も能力も消えてゆくのだった。
それは,自由である。好きなことを,能力や評価により曇らすエゴより”希薄化”され。
「夢に拘泥する気はない。ないのだけれども,夢を楽しむもので。」段々楽しみだす。
夢は消えていったとゆうより,希薄化して,考えずに気にならなくなって,責任感も
うすくなって気づくのは,ああ”好きなことやっているな。”と,影になった,感慨とは。
観照して,感傷的になる,スピリチュアル・センチメンタリズム。お茶も,煎じるとは
花の匂いのして来る凝集化であって,開花するとは濃密に,存在収縮して,ブルーム化。
あんまり収縮されると,お茶も水分を減らして,カオスな種のように少なくなってしまう
ので,さあ,ある程度で,また湧水など足していってもいいのかなあ,何だかわからない
けど,水分を摂るためのお茶ならば,夢も,茫漠と拡がっているときには”夢”であるので
”夢”でない,夢は要らない。言葉はそう発する意味の相矛盾解除の,では,また希薄化で
影となった,”私自身”は,夢を夢で居させる水分として足されて,ここで”世界”となる。
焦げる寸前の,濃縮されたお茶も旨いモノである。そうゆう意味で,身体=水分としての
希薄化を試みたいもの。

昔から,野菜は雨水の還元器であるのか,お茶を啜るのは,そんなに塩味や甘味を必要に
しなくなって,ある意味のグルメを野菜に奉還できるときに限ってそうゆう雨水の還元を
考える機会を頂ける。珈琲も焙煎するのは焦げる直前でもある訳で,苦みや灰汁の関連は
さておいて,焙煎も雨水の還元を試みてその一環にある行為なのでは?そう,思うのだ。
煎じて頂くお茶の類もそういったものだろう。だから,お茶は雨水を頂いていることに。
珈琲だって,雨水で淹れれば,いちばん理に適っているだろう。なので,タンザニアなど
気候の条件の綺麗な所では,雨水の珈琲などは,何だろう,雨水になった気分?そんな,
自然をめぐる,飲料水としての人間の姿は,珈琲の雨水ドリップによって,適うものだ。
大根などは,青菜などは,白菜などほんとうに甘いのだ。けれども,それは還元されて。
なぜだろう,人間には雨水還元機能は備わっていないのだ,すくなくとも誰かの,例えば
神さまなどのために,身を供するほどの,綺麗な甘さは備わっていないのだった。だから
野菜は,不思議だ。何のシステムを備えていることによってか,その甘味を造りだせる?
横光利一は,誰か彼かに似ている,川端氏の秀子さん(奥様)には,見憶えのある表情で
ご家族もそっくり感じられ,初恋の初代さんに至っては,何か,シンパシーを感じるのだ
けれども,けれど。川端先生は”僕”には似ておらず,どちらかとゆうと,友達のほうが,
どちらかとゆうとむしろ,そっくりだったとする。川端文学に身を預けるのも,良し,と
して。別に高望みしてはいないのだ。けれども,据え置いては,ここで,濃厚なお茶を,
啜って,すすって,空である器を覗いて放っては,あなたは三島文学を高望みすれば良い
でしょう,川端氏からそう言われて,どうでもいいや,けれども,エゴは,夢をみるので
夢をみることを楽しんで,夢をみながら希薄化して,影になっては,煎じるのであっては
お茶を啜りながら「楽しもう」と,そう感じるのだ。

こちらは如何?

とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。

白黒の隈を着けて,いつもよりも浅煎りの珈琲豆を一杯のお代わりを 受けて,淹れなおす。家の台所は,さながらカレー屋さん気取りの, とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。 とにかくもゴッコ気取りで楽しみながら遣りすごす,台所での一時。 ダサいと言っては,何だけれど,バランスの好いのはそうゆうことだ。 そうして,そうゆうダサさをこそ,落ち着いているとして好む,そんな 白と黒を半分ずつ割って入れるようにして,豆乳オーレにして頂く珈琲は, 真皮に黒を抱きながら,表面きっての自分自身は,笑顔で白を通す,その 面白さは微笑みより訪れるので,にっこり気持ちは構えて,ダサさを通す。 それでしか淹れられない,なかなか浅煎りは,カフェオーレでしか入らない。
追及しては,戻ってくるのは番犬や番猫で,何だよとゆうばかり,番猫なら 招き猫みたいにスレンダーな物腰で,いいやスレンダーではないか,でも。 多分,何にもいないのだから,彼らにとって,虫の知らせは,いわゆる枯れ尾花 であって,そのざわめきや囁きのようにして聴こえる,彼らにとっては雑貨店。 トフィーのような濃厚な滑り出しで,カフェオレに合わせながら眺める,こんな 洋菓子店をめぐるように猫などの物腰の豊かさを側に置いて,ぼくは先日のあの ロイヤルウェディングの様子を想いだす。白馬のリードしている子の,ちょっと 荒れているのには,繁華街に急に放り込まれた武士のようなイメージで,そりゃあ 興奮し,混乱もなさるでしょう?とは,そればかり心配してはいなくても,やっぱり パレードの壮大さは計り知れない。ダイナミックであり,本当に生命力学的にもっとも ハラハラもし,手に汗握る。この悠長にはPCの前に座りながら,安堵して,折り畳む。

基本的にはまた紅茶とキャラメルを合わせる感じで良いと思うのだった。ちょっとした
あの渋味と,焦げているような甘味のあいだで,切なさと勇気を半分ずつにおおげさに
振る舞っている。週末を終えて,家族サービスとゆう毎度のほどでもないのだけれど,
毎日に平日のスタートを切る僕にとっては火曜日。風邪を引いてると体力よりも果敢に
すすめないのでこうゆう話題になっているけれど,それも治った後の話として,本当に
スタートを切られることに,爽やかな活発さをさえ抱いている,早速まだ沸かしたてで
すこし温湯のお茶を頂い…

憑依するとゆう言葉には,入り神級と創作ウォークイン。トリップなど様々

前世ゲームとは言え,嵌入しきって書物の渉猟をすることは,最も
アクティブな瞬間で,それはインナーに居て,集中度の高まる体験。
憑依するとゆう言葉には,入り神級と創作ウォークイン。トリップなど
様々あるけれど,それは研究意欲としてそうなのであって,きっと以て
どれでも良いはずの日常と,外側の経験則のなかでは処世術としては
仲介されえない範囲の事柄ではある。なので,運筆とゆう詩性に向かって
コンスタントに埋没しきることのなかにも夕暮れ時に適うような,そんな
”前世”=書物文化のあって良いはずだ。転生とゆうことは,それほどまでに
コンセントレーションの中に含まれていて,一種の隠喩のようにそこにある。
それで,いま没我した自分は転生している,うん。それで良いじゃないのか?
例えば,自意識のうちで,第一に身体を漱石山人より,次に生命力を太宰さんに
三番目には意識的に明るさを芥川氏より頂き,個我みたいなモノは三島文学より。
僕の竜退治のミカエルは彫刻家のロダン=文学にF.ラブレー=透視にスウェーデンボリと
言った大家より受け賜って,ジヨットのイコンにおける精神性において開花する。など
ここまで自意識的に説明したところで,それらは”前世”とは関連のないことではある。
集中力に謎解きの扉を開く鍵のあることを知悉して,ようやく,眠りに就けそうである。
渾然一体となってファンタジーは,一度死に,二度目に産まれる魂に対して,何らかの
ギフトを与える。集中力によって,ソウルは再び現れた記念として,”前世”の贈り物を
授かるのだった。そうやってゆこう。黄昏に,贈り物としての言葉を貰うようにして,
やっぱり夕餉の匂いは良いモノである。そこかしこに湯気の上がって,昔はさながらの
薪のくべられた薫りなど漂っていたろう。こうやって,時代は溯られれば,魂のうちに
何らかの,記憶=ファンタジーを得ることのできるはず。

急に,突然の報せのように,白い聖母信仰のほうへ寄りかかって行きそうな気さえして。
夕餉の匂いにのせられて,それらは,ふわりふわり声明を携えて近づいてくる。夕暮れに
不可思議な想いを感じ取らせながら。この白い芳香は何処から遣って来て,今さらながら
ついにこの辺りまで,ついの最近までは,いったい何処に居られたのでしょうくらいの,
何だか不可思議にふわりふわりと感じられる香りなのであった。良い…

季節を描写するのみで良い,そんな甘露の雨粒と,上がった後の煙。

人文的な要素のないと言葉の発想も浮かんではこないもので,なおさら まだまだメモしておきたいことのありそうで,けれども,もうこんなにも 季節を描写するのみで良い,そんな甘露の雨粒と,上がった後の煙。雨煙に 合わせて,ヒーリングのアロマ・ミュージックなる分厚い音楽を掛けながら そのブランケットにくるまれて温かい心持ちをして,人文的より,また素描。 ああいう荒野にそっくり掘り込まれた教会遺跡群などは,もうイニシエートの それら現代のクラブシーンだったのだろうか?僕はその際,家で,お茶を啜る あのインナースタイルの静かなもんだったろう。なんて,基本的に動くとゆうか 家の中を満たすひとつの酵素で生きていたい。生活の匂いは,家の樹々の香り。 肉食には,昔の突っかかりを感じて,なかなか馴染めないけれど,元気は出る。 美味しさに賦活されて,文化的に色々楽しめることを良しとしては,けれども 今となっては,雨に巻かれてウッディな温もりに浸透されることの,浄福なので。

咳や熱風邪も,一度肺炎になった?と感じ始めたところで,一気にスノーマンの 夢を見て瓦解するように退けて行った。その余韻に燻製チップのような薫香の, ハートあたりに漂って,それはまた幸せな健全さの回復を予想させるので,納得。 燻製や北国のイメージは,やがてその厚くなった肺や気管の様子を想像させて, それでロマネスクなのだった。北国は,やがて魔の山も克服して,こうして篤く 人のこころを暖めてくれる。けれど,だからといって,こうゆう時に何かお肉食を 試みたくなる。本当に,篤い人生を効果的に造りだしたいのだ。むしろ,厚く強く。 豚肉の小間切れを,醤油麹とみりんで,お酒を加えながら,すこし甘味噌など足して 玉ねぎ,白ネギと共に炒めてみたのだった。奥さんは仮眠中なので,起こして頂ける ような料理だとは思えないので,ソファの近く,炊き込みご飯を解凍したのと,側で 摘んでいた。明日は英国のロイヤルウェディングだと,ニュースでしていて,思わず 感涙してしまい,僕も不可思議ながら,少しく傷付いた思春期に,感情移入しては, いかばかりか砕けた心持で経過を感じていたので,何だか,ホッとして,うるっと。

すべてお肉食で感情までも呑み込んで,取込んでしまえたらそれで良いのだけれど,
切なさや,哀しさ。鎮魂の想いまでは,そんなに簡単に解消していったり…