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思考=理想の,概念思考とは,運動する理念。

橋のたもとの衣料店。土手を渡った,パン屋さん。夢のエーテル界で,
結局,夢の住人の業=エーテル形姿を持った僕のダブルは,その本体で
あるらしく,いくらこの”現実”で追憶したとしても,エーテルと物質は,
融合することはない。攻撃と防御の,身体性に起因し帰結してゆく,その
影像神界とも言える,物質の界には,もう,影である”自分”を活きる外ない。

結果,思考は理想であり,業であり,エーテル的である。概念を理念が産む,
それは解るけれども,結局のところ,”概念思考とは,運動する理念のこと”で。
希望される理想の謳歌に臨戦してゆく事が,ポエジー溢れるクリエイティビティ。
影として活きる覚悟を持った,物質の姿した僕らは,意志とゆうより,表象の
むしろ深層よりも表層の,無意志の哲学をさえ捨て去る,”夢”の住人に帰るのだ。

そうやって,我執の強いエゴを”業=エーテル”に引き込み,いずれ表層化してゆく
自我の影自身に気づく,”夢”の法則は,諦めに僕らを引き連れてゆく,笛吹男で。
ハーメルンはそういった,エーテル色の強い街だったのだろう。エーテルの強い,
その本体性の強いエネルギーの中心地である”夢の市街地”には,オーガニックな
生命の眩惑の渦巻いて,もうそれは本当に,”妄想=夢の世界は,桃源郷である”。

夢について,ここで夢の世界の武器である,諸刃の”思考”によって,眩惑の都市を,
思考してみよう。もちろん,現実のイチ都市ではない,夢の未知な街を,嗜好品の
ように,たしなんでみよう。夢はとにかくも,無駄でなければ,夢とは呼べない。
そんな性質を有している。脂肪溜のような存在は,だからこそ,ベーコンや生ハムの
あの,アパタイズされる塩味の絶妙な調和によって,”夢=脂肪”は”思考=塩”によって
微妙な嗜好品文化へと摺り寄せられグルメに変化してゆくのだった。

結局,夢の都市は,アペタイザーのように扱われる軽味で,軽妙なテイストが売りで,
軽薄にさえ感じられる,記憶の片隅の都市であるからこそ,彼の居場所は確保される。
実態は,切り分ける思考態よりすれば,ジットリ重いものだけれど,それらを,軽味に
嗜好品に換える,その辺りの上手さは,絶対に,夢の特許シェフ・テクニークだろう。
夢は,軽い。そうして,思考は重い。こうやって,現実は,エーテルと逆転している。

消化する能力を蓄え,やがて現実を夢に昇華する,芸術のあの前菜を頂きながらなので,
時々,現実世界に,身体性を超えた新技術の這入りこんで,さらに消化能力を逞しくする
その,エッセンスを,スパイシーエキスによって,”夢”の住人は,摘みを置き土産する。
”バーンスタイン=ゴッホ=M.ロベスピエール=A.シレジウス=ユリウス・カエサル”の,
そういった”夢”のエーテル形姿の浮かぶ時には,まだ乾塩ベーコンをスライスして生ハム
のように,春菊の葉の部分に乗っけて,塩コショウだけで,いや何も掛けずに,ペロリ。

そういった『水菜には,オリーブ油と醤油だけで良いのよ。』と,教えてもらったり,
今の季節には,その食彩の何となぐさめに指向される事か?さらに,思考=嗜好品を
つなげるシェフの技術は,夢=重い脂肪,物質=軽い塩味を,絶妙に逆転させる,あの
夢高現低の,『夢たかきにありて,うつつ低し。』の誘引されるメソッドと,描いた。
思考は,夢を切り分ける。そうして,僕らは,その前菜にアパタイズ=誘われるのだ。

塩ベーコンをスライスして,ただそれらを,1対9くらいの割合で,たくさんの青菜で
ほお張りたい。ベジタリアンのようにみえるだろうが,いいや決して,夢の眩惑には,
思考のたっぷりあった方が良いのです。合法則性は,そういった,業や現実の陰翳にも
携わっているのです。思考は重いとゆうでしょう,いやいや,本来じつに軽妙なモノ。
物質は軽く,実際”神の影像”とも言われるもので,結局のところ,夢の重さには敵わぬ。

そうやって,もしかしたら,神さまのシェフが,本体の実体である”夢の業による形姿”
を,実体の調理とでも称して,こうやって,思考の影を落として,現実の物質へと皿に
盛り付けて,給仕させているのが”夢=現実”の関連する,あの”眠り=目醒め”の関係なの
かも知れない。春菊と塩ベーコン。水菜とオリーブ油。こんな感じで,旬菜を楽しんで,
その中に垣間見える,思考と夢のディッシングを愉しんでみたい,とも,思うのだった。
けれども塩の掛け過ぎには,気を付けてね。


こちらは如何?

解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを

足元のゴキブリをきちんと処理できてからでないと、ものごとの全体的な オーガナイズなど、できたモノではない。かと、言って大きく自然は常に 世界にあるのだから、とりもなおせば、オーガナイズすなわち全体性とは 自然相手に行う人間の営為と言っていい。これは、自然相手の常識を壊す と称しても良いことで、その人間の中の自然、知性や、また、昆虫類の 自然と呼ぶにふさわしい集合意識的な流麗なエナジーに対しての、技術。 意志と呼べば、意志である。かと、言ってワガママには振る舞えない、 無意思の意志である。最近、穀物の喉元を通らないのは、こういった 自然への意志が挫かれている。むしろ、そういった意図を失うべきな 自然バランスの崩れを食欲不振や、情動麻痺に親い感情に観て取れる。 なので、その解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを起こして どうやったら貧血にならず、穀物も避けてよければ避けて通りもして この栄養失調との闘い、いや付き合い。にしても、快く自然のなかを 通り過ぎてゆけるか。酒でもない、薬でもない。とりあえず、イカの つまみでも摘んで、その勢いで、お豆腐、納豆。そうめんをすすいで 二束ほど掻き込んだ。これが精一杯だ。拒食の強い癖はないだろうが 温かい調理など食べられたモノではない。ましてやこれは過覚醒代謝 でもあるだろうが、意識を上向いていられる分、夏の大気は天国へと 持って行かれそうな暑い上昇気流をたずさえているのだから、すこし グラウンディングするように、穀物の製品も頂くべきだろう。夏の夜 昼間はラマダン期間のように食を細めていた自分の夜食に祈りの姿を みせて冷たい食品ばかり頂くのだから、自然の乱れとゆうよりそれは 自分の乱れである。そうして、呆然と朝を迎えて、鳥の声は盛んだ。

生命システムを収束させているようにも感じるのは、真夏の景色だ。 乱れは美しくもあるが、それは整えられた収束するシステムの過程を まざまざとミクロに見ているのだから、そう乱調の美を感受するのか とも思うのだった。いわずも全体性のオーガナイズは自然への技術的 意志の欠如のうちでは成立せず、そこには知恵の要る知的作業の求む らく、あの野草の薬壷へ手を突っ込むような感じで、よもぎ餅を摘む 大きな頬っぺたで味わう春の蠢きを再現させる作業を必要とするのだ。 夜食の後でアイスバーをたべた。空になったバーの木の匂いは象徴的に その感慨を現している。きっと、自然の芳香を実際…

珈琲プレグナンスとゆうは、地球号温室にて培う

さもなくば、右側頭部の情欲野ともとれる情緒的ヒステリクスは肝要。 男性性が這入りこむので、情念はヨコシマなアーリマン的要素をあらわすので、 いたって自然理にあれば、そのヒステリクスは肝要。アーリマンは赤鬼。 ともすれば、男性性を太宰など、イザナギ神話にあてはめまた、 女性性のイザナミ陣営を、アナトールと芥川氏のフレンチな文学に例えて、 大谷崎=イザナミ女神の文学性へ返すように、そうすれば、 自然体の情緒的ヒステリクスは肝要なのだった。能面が、般若に変るのは 黄泉比良坂において、三島文学=菊理媛の仲介役によって、その岩によって 光り輝く太宰のイザナギ男神的精悍さを、情緒の乱れによって見送る時に。 怒り狂えるイザナミ女神の発端は、男神の一枚岩の正義がわがままに響く その呆然とする知性に対しての怒りであって、それは何か裏腹への怒り。 表裏一体こその静けさであるのに、表面的な反射によって判断する誤りに。 この般若の相貌には、ひとかたならぬ静かな暮らしへの想いがあってこそ。
正しく、情念には破壊を浄化してゆく知恵のコントロール技術の含まれる。 そうして裏の循環摂理はなりたっているので、光りによってすべて消す といったようなのは、戦争経済と何も変わらない志向であって、情緒的な 日常の天然湿度の中で解決する身体由来の経過のあるとするなら、それは 情緒の情念的ないわゆる情欲循環コントロールによってしか、その常温は 保たれないのだった。般若は常に嫗である。いや、そうあるべきなのだ。 そうやって、いつも怒りに枯れている茫々と寂寥とした感慨を現すのが、 情念にはふさわしい。計らずも男性性は遠く彼方に押しやってしまえと、 巌に蓋をされた、彼らの国は、もう鉱物的なスピリチュアリティにしか、 含まれず囲われ、だき入れられてはいないようだが、そこに、男性性の 隔絶とした、中和され赤青に別れた大地と空との、水と風との調和は 有りえないのだった。珈琲プレグナンスとゆう造語を嗜好しだすのは、
そこに、情緒ヒステリクスの地球温室においてはぐくまれる暖かさの中で 結果的に正しさとは受容するのによって見出されるモノの多分に大きい、 そうして、正しさとは、ストレートさ素直さ一面性のたぐいにはなく、 多面性を受け容れること。情念コントロールは情欲循環的な何かでは、 そうして破壊を調整してゆく暮らしの技術におきながら、戦争経済とは 一線を画す技術の生活意欲として、裏側の…

業の泉へと向かう身体の、ラッセルと太宰に寄せて

ラッセルは、聖パウロのようで、太宰はイスキリのようで。
だんだん、平和への祈り道が、業の泉に到着しそうな予感がして、 潔癖症なくらいの綺麗好きなのが、人間臭さとゆうか、仏の道などと 融和して行きそうな気のする、不可思議な強靭さを呈している例え頓挫しても 身体は、もっとマジカルなパラレルトリックの物質ベースで核融合する、 そんなカルマベースで行ける世代的にも壮年期である、現代生活ではある。 その業の泉に予め潜ってゆけば、クリームチーズのしっとりパンを食べて 抹茶の豆乳ラテを片手に吸いこんでいるこの孤独なポルターガイストに、 あるいは、怖いは好きの裏返しと言うのは、殺意さえも愛情ではあるが それに対して、業の泉に融けこんでゆくのが、ひとつの世相ではある。 こうして美女と野獣をみながら、眠りに親づいてたまの孤高にある夜中。 ロマンチックにあればまたも安心するが、しかしながらも文学にあっても まだ安堵の嘆息ついてはいられもするのに、ソファに横たわりながら、 空調を点けて念じることのあるならば、やっぱり安寧はここかしこの 瞑目してみえてくる、あるいは知性はラッセルにも、太宰にもある。
鋭意において、横になり手に余るほどの情報を世界は2つか3つあるのか、 この希望ともとれる情報存在は世界を意識すれば動じて溢れ出てくるのだった。 ロバは、四肢によって人間と同じように体幹を感じているのか?とは言えば、 幸福論を読むラッセル的知性は、太宰のアフォリズムによってもまた違う感じ を抱かせている。この感じは綺麗なのと、情熱的な愛のカルマとまた似ている 希薄で軽やかな明度の高さと、低部にありながら、渾々と湧く泉の如く、 頂上と伏流水の部分には地点的に密度は違えど、空間も時間速度も違えど、 知識として共有している何かの輝きのあるのだから、例え山頂と麓にでも 星はみえるのだから。この星とゆう知性の知悉するファンタジーを大切に してゆこう。これは、いつも知識はこの魂にあるゆえの共通地点。なので その叡智によって、wisdomを捨てるとこまで行かなければならないのだ。 Let it beも、風に吹かれて、にゆかなければ、その先は普通の生活なので その繰り返しながら発生する風の地点。送風の生起される場所が好きで、 それでも同じく普通の生活の繰り返しながら、叡智を捨てる所にいれば 叡智を捨てて風の起こ…