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芸術は烏龍珈琲の一滴より,調和は女性性に大地母神。

”千葉さな子=坂口安吾=稲荷巻”と言った,こうしたギャグを抱えては,
”坂本龍馬=太宰治=きな粉巻”と言って,大したことも言えず親知無二。
この,文豪二人に,三島文学の透徹されたワビサビを想うことに切なく,
まるで,雪の日に,椿を追うのか,火鉢を背負うのか,こんな妄想は,またの
機会に。芸術は烏龍珈琲の一滴より,調和は女性性に大地母神。BARルパンでの
あの『織田作~,織田作~。』と言ったような逸話を想うのに,安吾と太宰の
そんな知己としての親友度合いは強くつよかった。そして,調べるうちに,太宰の
死は,結局のところ,火鉢を背負いすぎて,背負い投げ出来ず,いかほどとゆううちに,
病に臥した,そんなきらいのある,文学に病んだ者の死であったのか?しかしながら,
その臥した病に打ち負かされず,無事に善哉をはんでいることも出来たろう,とゆう
お話しも想像できると後世はにらんだのか?あまりに勘違いをし過ぎてきた,この半生に
反省して,後悔先に立たずとも芸術は烏龍珈琲の一滴より,調和は女性性に大地母神。で
芸術に喜び勇んで,その調和する,女性性に愛を。愛を叫べば,自ずから調和なり,と。

雪の日に椿を追い,無頼には赤い椿の花びらに冬至柚子湯に浸かるこの心地。行方知れぬ
切なさ,切なさ。太宰は女性を好きとゆうより切なすぎたのか?ダサいけれど,本当に,
かの文豪は,女好きとゆうモノより,ただ切ないとゆうだけ。つまり,恋は切なさより。
節度は皆ある。道徳だってなければ生きていやしない。なので,色の産まれるところには
切なさしかありませぬ。雪の日に椿は,柚子湯に浸かって,雪も融けるのだから。その,
天台晩課の音源などをBGMに深夜更けて,なんだか考えます。切なさの恋煩い。この想い
とゆうのは,病より切なさ来りて,切なさより恋の産まれる,その行方は,冬至の風呂。
とりあえず,冬至は涙を誘うのです。稲荷巻に,きな粉巻,合わせて,きっと稲佐巻で。
カッパ巻きは何分,鉄火巻なども芥川先生を想起させるのだけれど,安吾と太宰などの
談話には,嫉妬からかキュウリやマグロのネタは昇らなかったはずだ。レコードは何か?
珈琲を淹れて,心血注ぐような雫を一滴一滴垂らしてくれる,このBARルパンのマスター
には,彼のドーナツ音の心臓のトクトクがよく聴こえる。波のせせらぎ,樹々の風そよぐ
この珈琲のドリップ音に,プツプツドーナツ音と,心臓のトクトクと落ちる音に,乾杯。

お調子よく,柚子を落す,小鳥のはばたきには,甘柿の実をもぎり取り,市場に出す女将
の,殊に『雪国』の朗読に,風情の足りないことなどないのだが,無頼派は生きることの
風情そのもので,それは病に切なさに恋には落ちるでしょう,何だかなんだか,知られぬ
それは情熱の執着の固執するエゴの総到達点であるごとくの,何だかなんだか,椿の花を
天ぷらにして,火鉢で調理する文豪の後ろ影を,そのついぞ先には,柚子湯と湯上りにも
善哉はふる,文豪の豊かな懐疑心を垣間見る冬至も夜更け,切なさの超えた所にはこんな
情緒もありましょう,とのこと。病は病。こんな呟きには敗けずとも,私は火鉢を背負う
のであって,放り投げることも,ままなりませぬ。なので,切なくゆきましょう。とて,
拷問のようなのです,声をあげず精進してゆく,この克己感性に,私はワタシならずとも
生きていることでしょうが,わたしの求める始点終着駅は,冬至ではない,また湯治でも
なくって,それは,祠で屹立する木像のような場所なのです。わかりますまい,わかりは
しません。私はワタシならずとも生きていることでしょうが,それが,全てであります。
忘我の告白,とは良く言ったモノでございましょう,これです,これなのです,恍惚と
光芒の吹きすさぶ嵐の中に垣間みられる蒙昧不二な曖昧無二なあの紅灯の一つ光りを求め
それは,快楽にはございませぬ,忘我のみなのです,エクスタシーとは,茫然自失のこと
なのでした。なので,緑酒とゆう言葉もあるでしょうが,青と白の薬剤に呑んで治療の故
のごとし。この,忘我の告白とゆう言葉に,切なさと火鉢を背負った無頼派の雪の日の情
を,ただ,彼に茫然自失を与えたまえ。など,それは冬至の日の感情ではありましょう。


こちらは如何?

解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを

足元のゴキブリをきちんと処理できてからでないと、ものごとの全体的な オーガナイズなど、できたモノではない。かと、言って大きく自然は常に 世界にあるのだから、とりもなおせば、オーガナイズすなわち全体性とは 自然相手に行う人間の営為と言っていい。これは、自然相手の常識を壊す と称しても良いことで、その人間の中の自然、知性や、また、昆虫類の 自然と呼ぶにふさわしい集合意識的な流麗なエナジーに対しての、技術。 意志と呼べば、意志である。かと、言ってワガママには振る舞えない、 無意思の意志である。最近、穀物の喉元を通らないのは、こういった 自然への意志が挫かれている。むしろ、そういった意図を失うべきな 自然バランスの崩れを食欲不振や、情動麻痺に親い感情に観て取れる。 なので、その解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを起こして どうやったら貧血にならず、穀物も避けてよければ避けて通りもして この栄養失調との闘い、いや付き合い。にしても、快く自然のなかを 通り過ぎてゆけるか。酒でもない、薬でもない。とりあえず、イカの つまみでも摘んで、その勢いで、お豆腐、納豆。そうめんをすすいで 二束ほど掻き込んだ。これが精一杯だ。拒食の強い癖はないだろうが 温かい調理など食べられたモノではない。ましてやこれは過覚醒代謝 でもあるだろうが、意識を上向いていられる分、夏の大気は天国へと 持って行かれそうな暑い上昇気流をたずさえているのだから、すこし グラウンディングするように、穀物の製品も頂くべきだろう。夏の夜 昼間はラマダン期間のように食を細めていた自分の夜食に祈りの姿を みせて冷たい食品ばかり頂くのだから、自然の乱れとゆうよりそれは 自分の乱れである。そうして、呆然と朝を迎えて、鳥の声は盛んだ。

生命システムを収束させているようにも感じるのは、真夏の景色だ。 乱れは美しくもあるが、それは整えられた収束するシステムの過程を まざまざとミクロに見ているのだから、そう乱調の美を感受するのか とも思うのだった。いわずも全体性のオーガナイズは自然への技術的 意志の欠如のうちでは成立せず、そこには知恵の要る知的作業の求む らく、あの野草の薬壷へ手を突っ込むような感じで、よもぎ餅を摘む 大きな頬っぺたで味わう春の蠢きを再現させる作業を必要とするのだ。 夜食の後でアイスバーをたべた。空になったバーの木の匂いは象徴的に その感慨を現している。きっと、自然の芳香を実際…

珈琲プレグナンスとゆうは、地球号温室にて培う

さもなくば、右側頭部の情欲野ともとれる情緒的ヒステリクスは肝要。 男性性が這入りこむので、情念はヨコシマなアーリマン的要素をあらわすので、 いたって自然理にあれば、そのヒステリクスは肝要。アーリマンは赤鬼。 ともすれば、男性性を太宰など、イザナギ神話にあてはめまた、 女性性のイザナミ陣営を、アナトールと芥川氏のフレンチな文学に例えて、 大谷崎=イザナミ女神の文学性へ返すように、そうすれば、 自然体の情緒的ヒステリクスは肝要なのだった。能面が、般若に変るのは 黄泉比良坂において、三島文学=菊理媛の仲介役によって、その岩によって 光り輝く太宰のイザナギ男神的精悍さを、情緒の乱れによって見送る時に。 怒り狂えるイザナミ女神の発端は、男神の一枚岩の正義がわがままに響く その呆然とする知性に対しての怒りであって、それは何か裏腹への怒り。 表裏一体こその静けさであるのに、表面的な反射によって判断する誤りに。 この般若の相貌には、ひとかたならぬ静かな暮らしへの想いがあってこそ。
正しく、情念には破壊を浄化してゆく知恵のコントロール技術の含まれる。 そうして裏の循環摂理はなりたっているので、光りによってすべて消す といったようなのは、戦争経済と何も変わらない志向であって、情緒的な 日常の天然湿度の中で解決する身体由来の経過のあるとするなら、それは 情緒の情念的ないわゆる情欲循環コントロールによってしか、その常温は 保たれないのだった。般若は常に嫗である。いや、そうあるべきなのだ。 そうやって、いつも怒りに枯れている茫々と寂寥とした感慨を現すのが、 情念にはふさわしい。計らずも男性性は遠く彼方に押しやってしまえと、 巌に蓋をされた、彼らの国は、もう鉱物的なスピリチュアリティにしか、 含まれず囲われ、だき入れられてはいないようだが、そこに、男性性の 隔絶とした、中和され赤青に別れた大地と空との、水と風との調和は 有りえないのだった。珈琲プレグナンスとゆう造語を嗜好しだすのは、
そこに、情緒ヒステリクスの地球温室においてはぐくまれる暖かさの中で 結果的に正しさとは受容するのによって見出されるモノの多分に大きい、 そうして、正しさとは、ストレートさ素直さ一面性のたぐいにはなく、 多面性を受け容れること。情念コントロールは情欲循環的な何かでは、 そうして破壊を調整してゆく暮らしの技術におきながら、戦争経済とは 一線を画す技術の生活意欲として、裏側の…

業の泉へと向かう身体の、ラッセルと太宰に寄せて

ラッセルは、聖パウロのようで、太宰はイスキリのようで。
だんだん、平和への祈り道が、業の泉に到着しそうな予感がして、 潔癖症なくらいの綺麗好きなのが、人間臭さとゆうか、仏の道などと 融和して行きそうな気のする、不可思議な強靭さを呈している例え頓挫しても 身体は、もっとマジカルなパラレルトリックの物質ベースで核融合する、 そんなカルマベースで行ける世代的にも壮年期である、現代生活ではある。 その業の泉に予め潜ってゆけば、クリームチーズのしっとりパンを食べて 抹茶の豆乳ラテを片手に吸いこんでいるこの孤独なポルターガイストに、 あるいは、怖いは好きの裏返しと言うのは、殺意さえも愛情ではあるが それに対して、業の泉に融けこんでゆくのが、ひとつの世相ではある。 こうして美女と野獣をみながら、眠りに親づいてたまの孤高にある夜中。 ロマンチックにあればまたも安心するが、しかしながらも文学にあっても まだ安堵の嘆息ついてはいられもするのに、ソファに横たわりながら、 空調を点けて念じることのあるならば、やっぱり安寧はここかしこの 瞑目してみえてくる、あるいは知性はラッセルにも、太宰にもある。
鋭意において、横になり手に余るほどの情報を世界は2つか3つあるのか、 この希望ともとれる情報存在は世界を意識すれば動じて溢れ出てくるのだった。 ロバは、四肢によって人間と同じように体幹を感じているのか?とは言えば、 幸福論を読むラッセル的知性は、太宰のアフォリズムによってもまた違う感じ を抱かせている。この感じは綺麗なのと、情熱的な愛のカルマとまた似ている 希薄で軽やかな明度の高さと、低部にありながら、渾々と湧く泉の如く、 頂上と伏流水の部分には地点的に密度は違えど、空間も時間速度も違えど、 知識として共有している何かの輝きのあるのだから、例え山頂と麓にでも 星はみえるのだから。この星とゆう知性の知悉するファンタジーを大切に してゆこう。これは、いつも知識はこの魂にあるゆえの共通地点。なので その叡智によって、wisdomを捨てるとこまで行かなければならないのだ。 Let it beも、風に吹かれて、にゆかなければ、その先は普通の生活なので その繰り返しながら発生する風の地点。送風の生起される場所が好きで、 それでも同じく普通の生活の繰り返しながら、叡智を捨てる所にいれば 叡智を捨てて風の起こ…