スキップしてメイン コンテンツに移動

長い旅だったけれども,やがては太宰に還る。

太宰氏は川端翁にモノ申す。『千葉さな子は,井伏鱒二氏のようで,
むしろ,乾退助の立原道造だろう。いいや,必ず,そうあってほしい』
稲荷神の稲田姫と被らせて,彼女は千葉さなであろうとゆう,異論には
達しない程ではあったのだが,稲荷ずしを摘みつつ珈琲豆乳は如何な
ものか,と首をかしげながらはかどらない運筆を,そうして雪景色に
色づくあの赤い実にリンゴパイを訪ねて頂きたいとゆう。童謡牧歌な
堀辰雄氏にいたって,立原君のコノハナサクヤであろうとゆうことに
ついても,はなはだ同感である。三島文学はニニギであろうとゆうことに
むしろ共感するより,トビナガスネヒコであるように太宰氏は呻吟する。
LONDON ONEのスサノオ(ニギハヤヒ)漱石山人に常に瞠目されては
弥山に登る弘法大師の心地をして,さあ登り切ったところに富岳百景の
朗読など待っていようものか?不可思議ながら,雪国の朗読は用意されては
いるものの太宰文学はヒューマニズムに適う分にあまり朗読にまで手の伸びる
代物ではないような,そんな慇懃な情感を彷彿として,さあ雪被る山を見つめて
珈琲の一杯でも啜りだす,そんな透明な冬に一瞥するのだった。珈琲の一杯は,
”挽き立て,淹れたて,甘い水で”とは言いつつ,もうブラックで,烏龍茶割りを
ずいぶんと前より試みている,その濃い味は堪らない。むしろ,ウーロンドリップ。
昼寝の過ぎた夜には,アルコールよりも濃い珈琲をして,眠りに就くのだ。

太宰のヒューマニズムは甘い水のしたたる天然無頓着の心地をして,本当に甘い。
ようやくこの甘味にまで帰ってこられた。夕日に耀く漆黒の珈琲一杯を目の前にして
さあどこやら,ひょっとこの鳴らす太鼓の風は乗せてくる縁日のどこ吹く風も今日には
暖かい。ひょっとこひょっとこ,どこ吹く風とは,暖かい。グラウンディングする,あの
太宰の甘い温風に。定着し,グラウンディングし,甘い滴を,苦汁一滴になるまで堪能し
苦しみは,依存より産まれるものより,自立心より起こってくること間違いない事の由。
自然相応には,雪国の朗読を携えて歩く心地。これは,やはり川端翁の実力の計り知れず
大器とは,その寒風にも屹然と聳え立つあの雪山の風光明媚な颯爽と吹き荒ぶ嵐にも雪山
の,そんな大器晩成とは言いつつ,それは歴史蒼然と佇まい正してのこってゆく本当の美
である。からには,ヒューマニズムより,哀切の,また。情熱愛情よりも,天然自然の,
あの大器晩成する無頓着相応の美学。もちろん,どこ吹く風の<飄々として哀切とした,
剽窃されて漂泊する自我>の象徴のような美学が世を征するの内,世の中この世は安泰で
ヒューマニズムは鯉のように,昇っては揺蕩うこの春ののどかな風には,識別される冬の
凍てついた池の氷まで。いかに井伏氏に叱咤されようとも,千葉さなの好奇に比して格別
愛嬌を感じるのなら,何事も龍馬に大人しく人の着いて行く心持の良しあしなどは,また
別の問題で運筆の悪い太宰氏のヒューマニズムに至って,このままで良いものが描けると
頷く一方の信頼も想像に値する。冬の日の甘いヒューマニズム。この太宰文学の余韻は。

深夜夜半,もう一杯の珈琲を,と試みる。苦汁一滴,にがみの本当に美味いと思われる,
その一滴は,ウーロンドリップによる,また挽き立て,さらにエコフィルターで,濾過の
粗い目で淹れていることに由来するのかもしれない。挽き立てとは言っても,ステンレス
フィルターの,粗目の濾過で起こすドリップには,もちろんのこと荒挽きで,そんな感じ
で良いものと思われるのだけれど,寒風は山肌により強く当たるのだろうとは感じられて
その寒風でさらに温まれる必須にこの一杯を培おう。こうして,山肌に当った珈琲の一杯
の実に苦いとゆう現象の現われてくるこの一歩手前にはやがてありふれた静けさの始まり
まずは歯磨きをして,奥さんに毛布を掛け直して,自分はまだ起きたりないのだ,とゆう
そのステップを踏む,この一歩一歩の階段をのぼるこの,このワンステップ。わるいが,
名を何と言った?いいや,太宰龍馬である。致し方ないが,もう一杯。もう,眠る前には
こんな妄想で十分である。ひたすらに,冷えてくる夜半には,もうすぐステップアップの
予兆を垣間見る,炬燵の階梯音譜。また,ブランケットの半ば折り畳まれたコンパクトな
ゆるい流動低音,すべては温かく,そうしてこのステップに跳び乗る階梯音譜の流動低音
をさあ,乗り過ごすことなく,太宰龍馬氏に逢えたのだから夢に滑り込もう。珈琲はさあ
その一杯は夢の如し。

深夜夜半,もう一杯の珈琲を,と試みる。苦汁一滴,にがみの本当に美味いと思われる,
その一滴は,ウーロンドリップによる,また挽き立て,さらにエコフィルターで,濾過の
粗い目で淹れていることに由来するのかもしれない。挽き立てとは言っても,ステンレス
フィルターの,粗目の濾過で起こすドリップには,もちろんのこと荒挽きで,そんな感じ
で良いものと思われるのだけれど,寒風は山肌により強く当たるのだろうとは感じられて
その寒風でさらに温まれる必須にこの一杯を培おう。こうして,山肌に当った珈琲の一杯
の実に苦いとゆう現象の現われてくるこの一歩手前にはやがてありふれた静けさの始まり
まずは歯磨きをして,奥さんに毛布を掛け直して,自分はまだ起きたりないのだ,とゆう
そのステップを踏む,この一歩一歩の階段をのぼるこの,このワンステップ。

言葉の珈琲,とゆうのもあるかも知れない。なぜだか描くだけでロゴスによるドリップも
あるのかもしれない。ウーロンドリップをロゴスドリップにして,さらには,眠る前に
いただくトイレ間近の一杯よりも,それを想定して苦汁一滴を再現するイマジネーション
の珈琲もあっていいのかもしれない。ウーロン・ロゴス・イマジネーション。こんなまた
珈琲に一杯のドリップする言葉の余韻は,さらには発展して啜りだす,寝息のスタートに
よってつぎつぎ滴下されてゆくだろう,とは運筆の遅い太宰氏を見習っての,かの文豪は
富士の茶屋で何を呑んで防寒していたのだろう,とは思うのだった。





こちらは如何?

解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを

足元のゴキブリをきちんと処理できてからでないと、ものごとの全体的な オーガナイズなど、できたモノではない。かと、言って大きく自然は常に 世界にあるのだから、とりもなおせば、オーガナイズすなわち全体性とは 自然相手に行う人間の営為と言っていい。これは、自然相手の常識を壊す と称しても良いことで、その人間の中の自然、知性や、また、昆虫類の 自然と呼ぶにふさわしい集合意識的な流麗なエナジーに対しての、技術。 意志と呼べば、意志である。かと、言ってワガママには振る舞えない、 無意思の意志である。最近、穀物の喉元を通らないのは、こういった 自然への意志が挫かれている。むしろ、そういった意図を失うべきな 自然バランスの崩れを食欲不振や、情動麻痺に親い感情に観て取れる。 なので、その解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを起こして どうやったら貧血にならず、穀物も避けてよければ避けて通りもして この栄養失調との闘い、いや付き合い。にしても、快く自然のなかを 通り過ぎてゆけるか。酒でもない、薬でもない。とりあえず、イカの つまみでも摘んで、その勢いで、お豆腐、納豆。そうめんをすすいで 二束ほど掻き込んだ。これが精一杯だ。拒食の強い癖はないだろうが 温かい調理など食べられたモノではない。ましてやこれは過覚醒代謝 でもあるだろうが、意識を上向いていられる分、夏の大気は天国へと 持って行かれそうな暑い上昇気流をたずさえているのだから、すこし グラウンディングするように、穀物の製品も頂くべきだろう。夏の夜 昼間はラマダン期間のように食を細めていた自分の夜食に祈りの姿を みせて冷たい食品ばかり頂くのだから、自然の乱れとゆうよりそれは 自分の乱れである。そうして、呆然と朝を迎えて、鳥の声は盛んだ。

生命システムを収束させているようにも感じるのは、真夏の景色だ。 乱れは美しくもあるが、それは整えられた収束するシステムの過程を まざまざとミクロに見ているのだから、そう乱調の美を感受するのか とも思うのだった。いわずも全体性のオーガナイズは自然への技術的 意志の欠如のうちでは成立せず、そこには知恵の要る知的作業の求む らく、あの野草の薬壷へ手を突っ込むような感じで、よもぎ餅を摘む 大きな頬っぺたで味わう春の蠢きを再現させる作業を必要とするのだ。 夜食の後でアイスバーをたべた。空になったバーの木の匂いは象徴的に その感慨を現している。きっと、自然の芳香を実際…

珈琲プレグナンスとゆうは、地球号温室にて培う

さもなくば、右側頭部の情欲野ともとれる情緒的ヒステリクスは肝要。 男性性が這入りこむので、情念はヨコシマなアーリマン的要素をあらわすので、 いたって自然理にあれば、そのヒステリクスは肝要。アーリマンは赤鬼。 ともすれば、男性性を太宰など、イザナギ神話にあてはめまた、 女性性のイザナミ陣営を、アナトールと芥川氏のフレンチな文学に例えて、 大谷崎=イザナミ女神の文学性へ返すように、そうすれば、 自然体の情緒的ヒステリクスは肝要なのだった。能面が、般若に変るのは 黄泉比良坂において、三島文学=菊理媛の仲介役によって、その岩によって 光り輝く太宰のイザナギ男神的精悍さを、情緒の乱れによって見送る時に。 怒り狂えるイザナミ女神の発端は、男神の一枚岩の正義がわがままに響く その呆然とする知性に対しての怒りであって、それは何か裏腹への怒り。 表裏一体こその静けさであるのに、表面的な反射によって判断する誤りに。 この般若の相貌には、ひとかたならぬ静かな暮らしへの想いがあってこそ。
正しく、情念には破壊を浄化してゆく知恵のコントロール技術の含まれる。 そうして裏の循環摂理はなりたっているので、光りによってすべて消す といったようなのは、戦争経済と何も変わらない志向であって、情緒的な 日常の天然湿度の中で解決する身体由来の経過のあるとするなら、それは 情緒の情念的ないわゆる情欲循環コントロールによってしか、その常温は 保たれないのだった。般若は常に嫗である。いや、そうあるべきなのだ。 そうやって、いつも怒りに枯れている茫々と寂寥とした感慨を現すのが、 情念にはふさわしい。計らずも男性性は遠く彼方に押しやってしまえと、 巌に蓋をされた、彼らの国は、もう鉱物的なスピリチュアリティにしか、 含まれず囲われ、だき入れられてはいないようだが、そこに、男性性の 隔絶とした、中和され赤青に別れた大地と空との、水と風との調和は 有りえないのだった。珈琲プレグナンスとゆう造語を嗜好しだすのは、
そこに、情緒ヒステリクスの地球温室においてはぐくまれる暖かさの中で 結果的に正しさとは受容するのによって見出されるモノの多分に大きい、 そうして、正しさとは、ストレートさ素直さ一面性のたぐいにはなく、 多面性を受け容れること。情念コントロールは情欲循環的な何かでは、 そうして破壊を調整してゆく暮らしの技術におきながら、戦争経済とは 一線を画す技術の生活意欲として、裏側の…

業の泉へと向かう身体の、ラッセルと太宰に寄せて

ラッセルは、聖パウロのようで、太宰はイスキリのようで。
だんだん、平和への祈り道が、業の泉に到着しそうな予感がして、 潔癖症なくらいの綺麗好きなのが、人間臭さとゆうか、仏の道などと 融和して行きそうな気のする、不可思議な強靭さを呈している例え頓挫しても 身体は、もっとマジカルなパラレルトリックの物質ベースで核融合する、 そんなカルマベースで行ける世代的にも壮年期である、現代生活ではある。 その業の泉に予め潜ってゆけば、クリームチーズのしっとりパンを食べて 抹茶の豆乳ラテを片手に吸いこんでいるこの孤独なポルターガイストに、 あるいは、怖いは好きの裏返しと言うのは、殺意さえも愛情ではあるが それに対して、業の泉に融けこんでゆくのが、ひとつの世相ではある。 こうして美女と野獣をみながら、眠りに親づいてたまの孤高にある夜中。 ロマンチックにあればまたも安心するが、しかしながらも文学にあっても まだ安堵の嘆息ついてはいられもするのに、ソファに横たわりながら、 空調を点けて念じることのあるならば、やっぱり安寧はここかしこの 瞑目してみえてくる、あるいは知性はラッセルにも、太宰にもある。
鋭意において、横になり手に余るほどの情報を世界は2つか3つあるのか、 この希望ともとれる情報存在は世界を意識すれば動じて溢れ出てくるのだった。 ロバは、四肢によって人間と同じように体幹を感じているのか?とは言えば、 幸福論を読むラッセル的知性は、太宰のアフォリズムによってもまた違う感じ を抱かせている。この感じは綺麗なのと、情熱的な愛のカルマとまた似ている 希薄で軽やかな明度の高さと、低部にありながら、渾々と湧く泉の如く、 頂上と伏流水の部分には地点的に密度は違えど、空間も時間速度も違えど、 知識として共有している何かの輝きのあるのだから、例え山頂と麓にでも 星はみえるのだから。この星とゆう知性の知悉するファンタジーを大切に してゆこう。これは、いつも知識はこの魂にあるゆえの共通地点。なので その叡智によって、wisdomを捨てるとこまで行かなければならないのだ。 Let it beも、風に吹かれて、にゆかなければ、その先は普通の生活なので その繰り返しながら発生する風の地点。送風の生起される場所が好きで、 それでも同じく普通の生活の繰り返しながら、叡智を捨てる所にいれば 叡智を捨てて風の起こ…