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愛の色は銀。珈琲豆乳のみながらの稲荷ずし

五輪の書を読みながら,信玄墓について調べる川端翁の執筆は
やがて法然和尚の伝記に向かう。『立原道造の稲田姫。まるで,
彼の千葉さなのようであるとは堀辰雄の南洲翁であるごとく,
愛の色は銀。珈琲豆乳のみながらの稲荷ずしには,稲田姫の
愛が銀色の光りにあるごとくの彼は跳び続けるバッタのよう。
ここで,バッタは何者だろうとゆう想いには,またのことでも
いいようだけれどバッタは何者とゆう想いには,聖マルコのあの
ような,海外に外泊するような心地で,無関連に筆を置く佇まいで
石膏を舐める漱石山人の,立原と縁があるなら,スサノオみたく
振る舞い,ニギハヤヒの三輪山に居続けるすまいには,堀くんの
イワナガ姫を迎えての立原氏はコノハナサクヤで。』まるで,
ニニギに三島さんを迎え入れることに意義はないかのよう。太宰氏
はトビナガスネヒコのように退いて行き,やがてコノハナサクヤ姫は
ナガスネヒコに恋していたことを告げる。ここで,川端氏は,いかに
自身の彼女の呪詛を受けていたか計り知れないこのカラクリを見出して
塩焚きをしてより,ストーブには湯沸かしをしていたほうが温まることを
慣行している,烏龍茶でドリップする珈琲は格別のことで,葬儀は参列せず
その慣行的に別世界を強靭な知性故にリアリスティックに視察する洞察の,
もう逸脱した自我の,五輪の書を読みながら,信玄墓について調べる
川端翁の執筆はやがて法然和尚の伝記に向かう。と,こんな妄想をしながら,
「雪国」の朗読を図書館より借りて,スマートフォンに移して聴き入る心地。

稲田姫は何故イナリの稲荷神と,稲の穂のイメージを共同しているのか,なんて
不思議に思う。千葉さな子の,こんなイメージと,龍馬や太宰や立原の感情的な
印象を想い起して”想起する”とはこんなイマジネーションのくすぐったい感傷なのだ
など逗子アリーナでの氏の自死の謎を想起している。きっと,”愛”に浸って死なれた,
そんな歓喜の表情を浮かべるあたり僕の想起力も否定しがたい幸せな銀色をしている,
川端翁の文学が社会と繋がった哀切と交歓した情緒の幸せは多分こんな冬景色にも,
どんなにか響いて,切ない,切ないのである。隔絶された境遇とは自ら創出するようで
それは自死を択ぶほどの究極の霊界参入のようである。中心軸などもってのほかである,
この隔絶された参入様式には,きっとそれはリアリスト境涯よりも,もっと「雪国」の
朗読を聴きながら,それは,雪に融ける泥水の気配,一蓮托生より,もっと外の清濁併呑
される泥水の気配のその心地に身を委ねて,そのまま土に吸われてしまえば,どんなにか
楽な事か?逸脱した自我とは,これは国土に活きる事ではないのだ,こんなような身上に
融ける泥水のように現実より乖離して,剥離した姿よりみえるものは,それは歓喜の情。
太宰にひたっていた。けれども行き着いた駅は,「雪国」の川端翁による,国土先端駅。
愛の色は銀。珈琲豆乳のみながらの稲荷ずしの,これからは,濁った銀色の吸い付いた者
の,そんな哀切の情に限りなく親づいてゆこう。ロマン?ジャーマン・ロマンティシズム
より,アナトール?フランスのエスプリより。ヤーパン?極東の辺境で良い。この地には
融け合う銀色の,歓喜と哀切のダークにビターの味がする。崩壊する慣習の,哀切とは,
ペーソスとゆう,と,こんな妄想をしながら,「雪国」の朗読を図書館より借りて,
スマートフォンに移して聴き入る心地。

まずもって,哀切に融け行ってしまうことの肝要。肝に五輪の書の刻まれて,稲荷神の
右耳よりずっと抜けてゆく春の気配はまだまだ匂わない切なさにどんどん分け入って。
これは落ち着きぐあいにとっても良い宿である。この切なさのお宿には,安寧よりも,
安心の,安堵する無一物の境涯を用意してくれているから,恥じずともどんどん嵌り込み
こうやって,切なさに無頓着に恬淡と,静かな微笑で眼に点灯しない,静かな微笑で。
切なさに寄せる詩を描きたい。
『秋には甘柿頬張る心地
 冬にはもう実らない
 とは言え木には
 ぶらさがっている
 写真に撮りたい
 自動車で通り過ぎる
 それは実の落ちる時 きっとこの
 熟した甘味は 歓喜と哀切の
 ぐるぐる落っこちて 人間不忖度
 どっちみち 喰う事もいっしょ』
なんだかの珈琲を呑みすぎることも,柿と共に吸い付けることもまた,
まったく同一である。すごく濃いダークチョコレイトをかじる事ともまた,
深夜に昼光灯を眩しく感じる事と,風呂に入る準備を強かにたのしみにして。
一枚いちまい服を脱いで行く,想起するその感情は哀切。











こちらは如何?

解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを

足元のゴキブリをきちんと処理できてからでないと、ものごとの全体的な オーガナイズなど、できたモノではない。かと、言って大きく自然は常に 世界にあるのだから、とりもなおせば、オーガナイズすなわち全体性とは 自然相手に行う人間の営為と言っていい。これは、自然相手の常識を壊す と称しても良いことで、その人間の中の自然、知性や、また、昆虫類の 自然と呼ぶにふさわしい集合意識的な流麗なエナジーに対しての、技術。 意志と呼べば、意志である。かと、言ってワガママには振る舞えない、 無意思の意志である。最近、穀物の喉元を通らないのは、こういった 自然への意志が挫かれている。むしろ、そういった意図を失うべきな 自然バランスの崩れを食欲不振や、情動麻痺に親い感情に観て取れる。 なので、その解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを起こして どうやったら貧血にならず、穀物も避けてよければ避けて通りもして この栄養失調との闘い、いや付き合い。にしても、快く自然のなかを 通り過ぎてゆけるか。酒でもない、薬でもない。とりあえず、イカの つまみでも摘んで、その勢いで、お豆腐、納豆。そうめんをすすいで 二束ほど掻き込んだ。これが精一杯だ。拒食の強い癖はないだろうが 温かい調理など食べられたモノではない。ましてやこれは過覚醒代謝 でもあるだろうが、意識を上向いていられる分、夏の大気は天国へと 持って行かれそうな暑い上昇気流をたずさえているのだから、すこし グラウンディングするように、穀物の製品も頂くべきだろう。夏の夜 昼間はラマダン期間のように食を細めていた自分の夜食に祈りの姿を みせて冷たい食品ばかり頂くのだから、自然の乱れとゆうよりそれは 自分の乱れである。そうして、呆然と朝を迎えて、鳥の声は盛んだ。

生命システムを収束させているようにも感じるのは、真夏の景色だ。 乱れは美しくもあるが、それは整えられた収束するシステムの過程を まざまざとミクロに見ているのだから、そう乱調の美を感受するのか とも思うのだった。いわずも全体性のオーガナイズは自然への技術的 意志の欠如のうちでは成立せず、そこには知恵の要る知的作業の求む らく、あの野草の薬壷へ手を突っ込むような感じで、よもぎ餅を摘む 大きな頬っぺたで味わう春の蠢きを再現させる作業を必要とするのだ。 夜食の後でアイスバーをたべた。空になったバーの木の匂いは象徴的に その感慨を現している。きっと、自然の芳香を実際…

珈琲プレグナンスとゆうは、地球号温室にて培う

さもなくば、右側頭部の情欲野ともとれる情緒的ヒステリクスは肝要。 男性性が這入りこむので、情念はヨコシマなアーリマン的要素をあらわすので、 いたって自然理にあれば、そのヒステリクスは肝要。アーリマンは赤鬼。 ともすれば、男性性を太宰など、イザナギ神話にあてはめまた、 女性性のイザナミ陣営を、アナトールと芥川氏のフレンチな文学に例えて、 大谷崎=イザナミ女神の文学性へ返すように、そうすれば、 自然体の情緒的ヒステリクスは肝要なのだった。能面が、般若に変るのは 黄泉比良坂において、三島文学=菊理媛の仲介役によって、その岩によって 光り輝く太宰のイザナギ男神的精悍さを、情緒の乱れによって見送る時に。 怒り狂えるイザナミ女神の発端は、男神の一枚岩の正義がわがままに響く その呆然とする知性に対しての怒りであって、それは何か裏腹への怒り。 表裏一体こその静けさであるのに、表面的な反射によって判断する誤りに。 この般若の相貌には、ひとかたならぬ静かな暮らしへの想いがあってこそ。
正しく、情念には破壊を浄化してゆく知恵のコントロール技術の含まれる。 そうして裏の循環摂理はなりたっているので、光りによってすべて消す といったようなのは、戦争経済と何も変わらない志向であって、情緒的な 日常の天然湿度の中で解決する身体由来の経過のあるとするなら、それは 情緒の情念的ないわゆる情欲循環コントロールによってしか、その常温は 保たれないのだった。般若は常に嫗である。いや、そうあるべきなのだ。 そうやって、いつも怒りに枯れている茫々と寂寥とした感慨を現すのが、 情念にはふさわしい。計らずも男性性は遠く彼方に押しやってしまえと、 巌に蓋をされた、彼らの国は、もう鉱物的なスピリチュアリティにしか、 含まれず囲われ、だき入れられてはいないようだが、そこに、男性性の 隔絶とした、中和され赤青に別れた大地と空との、水と風との調和は 有りえないのだった。珈琲プレグナンスとゆう造語を嗜好しだすのは、
そこに、情緒ヒステリクスの地球温室においてはぐくまれる暖かさの中で 結果的に正しさとは受容するのによって見出されるモノの多分に大きい、 そうして、正しさとは、ストレートさ素直さ一面性のたぐいにはなく、 多面性を受け容れること。情念コントロールは情欲循環的な何かでは、 そうして破壊を調整してゆく暮らしの技術におきながら、戦争経済とは 一線を画す技術の生活意欲として、裏側の…

業の泉へと向かう身体の、ラッセルと太宰に寄せて

ラッセルは、聖パウロのようで、太宰はイスキリのようで。
だんだん、平和への祈り道が、業の泉に到着しそうな予感がして、 潔癖症なくらいの綺麗好きなのが、人間臭さとゆうか、仏の道などと 融和して行きそうな気のする、不可思議な強靭さを呈している例え頓挫しても 身体は、もっとマジカルなパラレルトリックの物質ベースで核融合する、 そんなカルマベースで行ける世代的にも壮年期である、現代生活ではある。 その業の泉に予め潜ってゆけば、クリームチーズのしっとりパンを食べて 抹茶の豆乳ラテを片手に吸いこんでいるこの孤独なポルターガイストに、 あるいは、怖いは好きの裏返しと言うのは、殺意さえも愛情ではあるが それに対して、業の泉に融けこんでゆくのが、ひとつの世相ではある。 こうして美女と野獣をみながら、眠りに親づいてたまの孤高にある夜中。 ロマンチックにあればまたも安心するが、しかしながらも文学にあっても まだ安堵の嘆息ついてはいられもするのに、ソファに横たわりながら、 空調を点けて念じることのあるならば、やっぱり安寧はここかしこの 瞑目してみえてくる、あるいは知性はラッセルにも、太宰にもある。
鋭意において、横になり手に余るほどの情報を世界は2つか3つあるのか、 この希望ともとれる情報存在は世界を意識すれば動じて溢れ出てくるのだった。 ロバは、四肢によって人間と同じように体幹を感じているのか?とは言えば、 幸福論を読むラッセル的知性は、太宰のアフォリズムによってもまた違う感じ を抱かせている。この感じは綺麗なのと、情熱的な愛のカルマとまた似ている 希薄で軽やかな明度の高さと、低部にありながら、渾々と湧く泉の如く、 頂上と伏流水の部分には地点的に密度は違えど、空間も時間速度も違えど、 知識として共有している何かの輝きのあるのだから、例え山頂と麓にでも 星はみえるのだから。この星とゆう知性の知悉するファンタジーを大切に してゆこう。これは、いつも知識はこの魂にあるゆえの共通地点。なので その叡智によって、wisdomを捨てるとこまで行かなければならないのだ。 Let it beも、風に吹かれて、にゆかなければ、その先は普通の生活なので その繰り返しながら発生する風の地点。送風の生起される場所が好きで、 それでも同じく普通の生活の繰り返しながら、叡智を捨てる所にいれば 叡智を捨てて風の起こ…