スキップしてメイン コンテンツに移動

神話性には仮説親和を湯に浸かりながら。

三島文学より芥川氏,太宰の門をくぐり,漱石山人の内へスライディング。
自己と犠牲よりの,詩情ポエジー。そうして,人間性より,宇宙自我へ。
自己より,情緒に,そうして,そこから全体主観の全人格的にユニバース。
逆戻りにみえて,物質的にグラウンディングするには,そういった,固形化する
何かのプロセスを必要とするらしいので,”自動化する思考について”は,
それでも,お風呂の湯は止めなければ沸き続ける。そうなれば,地球自然の
そういった水源は元を辿ればシステムそのものか。漱石山人は太閤秀吉の面影を,
何故ならば,戦国の世に照らし合わせば,その桐の花の咲いたようなスサノオの
彼を,ニギハヤヒとゆうなれば,そんな個性化された一般人間個性は,他にない。
皆,全体的な人格思惟に留まって,自然神のイザナミ=太陽神母に,なじむのなら
何故だか,ボーイッシュな”人間個性”はいかにも大事そうに,ミニマルに扱われる。
漱石山人=小林一茶=太閤秀吉=後醍醐天皇=源実朝=平宗盛=怪僧道鏡,
=初代アウグストゥス=バルタザアル(ヘロディヤの父)といった,何の関連性の
ない或る仮説神話性を見詰めては,これぞ宇宙自我だ,叫びたくては,風呂に入る。
バルタザアルはヘロディヤの父と仮説物語りすれば,ヘロディヤの娘のサロメーに
討たれた,バプテスマのヨハネに責任を追及される,そういった祖父また父としての
呪詛を受けるだろう,悔悟の前半生もあながち間違いもなく,垣間見られるものである。
『学生時代』には,整った文明開化を迎えるはずの生誕地に,何故か犠牲を求める開花。
木の燻されたような跡には,ロマネスクの干物のような,自己開花のチャペル・プレイヤ
その教会群に,ユリの香りと,芳醇なブランディのような匂いの漂う。あれは,告解だ。

だから,寝る前には,かならず三島文学の香りの訪れるのだ。起きれば抜けるようにして
身体から立ち去って行くその芳香に,いいや,もっとスパイシーなその神秘性に,まだ
飽き足らぬ情熱の感慨を抱き締めて。まだ,起きる事のない自然の宇宙大の開花を夢みて
その自然の開花した時に見られる壮大な芳香性の発露は,いかにも多分,ユートピアな
何かだろう,それで,珈琲豆乳を呑んで,チャペルの事も何もかも忘れる瞬間。僕は,
幸せだったのだ,そのロマネスク芳香に包まれて,出立する汽車に,いつも乗っていた。
毎朝,ユリの香りのする濃霧の中を,ずっと汽車はすすんでいって,その客室にはやはり
ユリの花いっぱいに敷き詰められて,歩く隙もないほどの芳香。そうして,咆哮のような
アクビして,呟く。『眠たいな。まだ寝たりないな。けれど良い匂い。』こんな旅をまた
チャペルまで。ずっと,乗って毎日往復しては夜を迎えるのだ。夜とゆう生命体には,
感謝しては珈琲豆乳を呑んで,朝霧にも見違うことない神秘,あの思考を伴った生命感に
不思議だなあ,不可思議だなあ。朝霧の蒸せる匂いにも敗けずに,余韻を曳き続ける生命
の,エネルギッシュで,何と詩情の溢れる中間地点の駅舎模様だろう。夜の生命体駅舎,
こんな駅名あったもの?とは言え,いつか,かならずは着くであろう終着地は幽玄の犠牲
に付き添った,チャペル駅。僕を引き連れて,燻香の花嫁は,もう,黄泉がえりの鉄の
表情のように,巨きな姿で,中心の玉座に座る。彼女は,神秘の体験を中枢に担う,夢の
女神は,イザナミ=太陽神母の,自然を,夢の掟を護る,境域の守護聖人なのであった。
情緒の芥川も,イザナミの大谷崎にいつも見守られていただろう。

こんなディスライクな境涯において,それは,深夜を迎える0:00に当って,もう身体は
この時刻を布団の中で迎えたかった,とゆう安寧の希望を打ち砕く,深夜の鐘の音は,
しかしながら,年中除夜の年始の気分なのだ。この,技術は身体性を超えたと言われる
前世紀よりの遺産を垣間見ては,年中除夜を繰り返す,文化の”自由=喜び”を歌うように
すでに産業革命の黎明に,彼のベートーヴェン閣下も,”自由=喜び”を天譜に刻印した
その夜明けに,ほんとうに夜が明けようとしている。そうだ,そうなのだ。核の夜明けで
あろうと,遺伝子や,宇宙船の夜明けにあろうと,常に,僕らは,その文化の除夜の鐘を
鳴らし続けている。慣例や,伝統は,その例えばしきたりめいた噂話は,それはいつも
法則として,そこにある。なので,その法則性に,突然種としての,新”法則”を(ここで
あえて,”法則”なのである,)付け加えてゆくものは,文化の鐘である。法則は贅沢を
(これは,いつぞやの戦前の例にみられるように,)否定的にみるだろう,それは,
あながち,心理学的”法則”にはのっとっているのだが,しかしながら,夢みる”法則”などと
ゆうもののあるなら,夢には不断の”新”法則の宝庫を抱えて,突き進む母神の汽車みたく
黎明の中を駆け抜ける,何かの”法則”が,ここであえての”何かの自由=喜び”の存在の
その酒宴や,醸造一般の,また水源や,持続的な循環の日夜繰り返される”夢の世界”の
実在が,隠れている。その中には,チケット発行権はきっと自分の内面にしか見出せない
そんな覚悟を試される,自己を貫く宇宙まで,神話性には仮説親和を湯に浸かりながら。
お風呂に入りながら,デカフェ珈琲豆乳を呑む,その”法則”には,どれだけの克己感性の
含まれている事か,ジャズを時たま聴きながら,慣れない現代の”新法則”を手なづけて。

こちらは如何?

とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。

白黒の隈を着けて,いつもよりも浅煎りの珈琲豆を一杯のお代わりを 受けて,淹れなおす。家の台所は,さながらカレー屋さん気取りの, とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。 とにかくもゴッコ気取りで楽しみながら遣りすごす,台所での一時。 ダサいと言っては,何だけれど,バランスの好いのはそうゆうことだ。 そうして,そうゆうダサさをこそ,落ち着いているとして好む,そんな 白と黒を半分ずつ割って入れるようにして,豆乳オーレにして頂く珈琲は, 真皮に黒を抱きながら,表面きっての自分自身は,笑顔で白を通す,その 面白さは微笑みより訪れるので,にっこり気持ちは構えて,ダサさを通す。 それでしか淹れられない,なかなか浅煎りは,カフェオーレでしか入らない。
追及しては,戻ってくるのは番犬や番猫で,何だよとゆうばかり,番猫なら 招き猫みたいにスレンダーな物腰で,いいやスレンダーではないか,でも。 多分,何にもいないのだから,彼らにとって,虫の知らせは,いわゆる枯れ尾花 であって,そのざわめきや囁きのようにして聴こえる,彼らにとっては雑貨店。 トフィーのような濃厚な滑り出しで,カフェオレに合わせながら眺める,こんな 洋菓子店をめぐるように猫などの物腰の豊かさを側に置いて,ぼくは先日のあの ロイヤルウェディングの様子を想いだす。白馬のリードしている子の,ちょっと 荒れているのには,繁華街に急に放り込まれた武士のようなイメージで,そりゃあ 興奮し,混乱もなさるでしょう?とは,そればかり心配してはいなくても,やっぱり パレードの壮大さは計り知れない。ダイナミックであり,本当に生命力学的にもっとも ハラハラもし,手に汗握る。この悠長にはPCの前に座りながら,安堵して,折り畳む。

基本的にはまた紅茶とキャラメルを合わせる感じで良いと思うのだった。ちょっとした
あの渋味と,焦げているような甘味のあいだで,切なさと勇気を半分ずつにおおげさに
振る舞っている。週末を終えて,家族サービスとゆう毎度のほどでもないのだけれど,
毎日に平日のスタートを切る僕にとっては火曜日。風邪を引いてると体力よりも果敢に
すすめないのでこうゆう話題になっているけれど,それも治った後の話として,本当に
スタートを切られることに,爽やかな活発さをさえ抱いている,早速まだ沸かしたてで
すこし温湯のお茶を頂い…

憑依するとゆう言葉には,入り神級と創作ウォークイン。トリップなど様々

前世ゲームとは言え,嵌入しきって書物の渉猟をすることは,最も
アクティブな瞬間で,それはインナーに居て,集中度の高まる体験。
憑依するとゆう言葉には,入り神級と創作ウォークイン。トリップなど
様々あるけれど,それは研究意欲としてそうなのであって,きっと以て
どれでも良いはずの日常と,外側の経験則のなかでは処世術としては
仲介されえない範囲の事柄ではある。なので,運筆とゆう詩性に向かって
コンスタントに埋没しきることのなかにも夕暮れ時に適うような,そんな
”前世”=書物文化のあって良いはずだ。転生とゆうことは,それほどまでに
コンセントレーションの中に含まれていて,一種の隠喩のようにそこにある。
それで,いま没我した自分は転生している,うん。それで良いじゃないのか?
例えば,自意識のうちで,第一に身体を漱石山人より,次に生命力を太宰さんに
三番目には意識的に明るさを芥川氏より頂き,個我みたいなモノは三島文学より。
僕の竜退治のミカエルは彫刻家のロダン=文学にF.ラブレー=透視にスウェーデンボリと
言った大家より受け賜って,ジヨットのイコンにおける精神性において開花する。など
ここまで自意識的に説明したところで,それらは”前世”とは関連のないことではある。
集中力に謎解きの扉を開く鍵のあることを知悉して,ようやく,眠りに就けそうである。
渾然一体となってファンタジーは,一度死に,二度目に産まれる魂に対して,何らかの
ギフトを与える。集中力によって,ソウルは再び現れた記念として,”前世”の贈り物を
授かるのだった。そうやってゆこう。黄昏に,贈り物としての言葉を貰うようにして,
やっぱり夕餉の匂いは良いモノである。そこかしこに湯気の上がって,昔はさながらの
薪のくべられた薫りなど漂っていたろう。こうやって,時代は溯られれば,魂のうちに
何らかの,記憶=ファンタジーを得ることのできるはず。

急に,突然の報せのように,白い聖母信仰のほうへ寄りかかって行きそうな気さえして。
夕餉の匂いにのせられて,それらは,ふわりふわり声明を携えて近づいてくる。夕暮れに
不可思議な想いを感じ取らせながら。この白い芳香は何処から遣って来て,今さらながら
ついにこの辺りまで,ついの最近までは,いったい何処に居られたのでしょうくらいの,
何だか不可思議にふわりふわりと感じられる香りなのであった。良い…

季節を描写するのみで良い,そんな甘露の雨粒と,上がった後の煙。

人文的な要素のないと言葉の発想も浮かんではこないもので,なおさら まだまだメモしておきたいことのありそうで,けれども,もうこんなにも 季節を描写するのみで良い,そんな甘露の雨粒と,上がった後の煙。雨煙に 合わせて,ヒーリングのアロマ・ミュージックなる分厚い音楽を掛けながら そのブランケットにくるまれて温かい心持ちをして,人文的より,また素描。 ああいう荒野にそっくり掘り込まれた教会遺跡群などは,もうイニシエートの それら現代のクラブシーンだったのだろうか?僕はその際,家で,お茶を啜る あのインナースタイルの静かなもんだったろう。なんて,基本的に動くとゆうか 家の中を満たすひとつの酵素で生きていたい。生活の匂いは,家の樹々の香り。 肉食には,昔の突っかかりを感じて,なかなか馴染めないけれど,元気は出る。 美味しさに賦活されて,文化的に色々楽しめることを良しとしては,けれども 今となっては,雨に巻かれてウッディな温もりに浸透されることの,浄福なので。

咳や熱風邪も,一度肺炎になった?と感じ始めたところで,一気にスノーマンの 夢を見て瓦解するように退けて行った。その余韻に燻製チップのような薫香の, ハートあたりに漂って,それはまた幸せな健全さの回復を予想させるので,納得。 燻製や北国のイメージは,やがてその厚くなった肺や気管の様子を想像させて, それでロマネスクなのだった。北国は,やがて魔の山も克服して,こうして篤く 人のこころを暖めてくれる。けれど,だからといって,こうゆう時に何かお肉食を 試みたくなる。本当に,篤い人生を効果的に造りだしたいのだ。むしろ,厚く強く。 豚肉の小間切れを,醤油麹とみりんで,お酒を加えながら,すこし甘味噌など足して 玉ねぎ,白ネギと共に炒めてみたのだった。奥さんは仮眠中なので,起こして頂ける ような料理だとは思えないので,ソファの近く,炊き込みご飯を解凍したのと,側で 摘んでいた。明日は英国のロイヤルウェディングだと,ニュースでしていて,思わず 感涙してしまい,僕も不可思議ながら,少しく傷付いた思春期に,感情移入しては, いかばかりか砕けた心持で経過を感じていたので,何だか,ホッとして,うるっと。

すべてお肉食で感情までも呑み込んで,取込んでしまえたらそれで良いのだけれど,
切なさや,哀しさ。鎮魂の想いまでは,そんなに簡単に解消していったり…