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三島文学におけるニニギとジングウの関わりにつき。

三島文学におけるニニギとジングウの関わりについて,その
両者の,ニニギとジングウの異性同士の神々の天孫と八幡神の
つながる所に,甘酒より酵母を採ることと,お米を炊いて頂くことの
その両面性のつながるような気のして,抑圧の残酷に響く時も,
それの獅子と舞うような心地。また,女神のスピリチュアリティと,
咳込む男神の綿帽子に,無論,秋の木陰にもう舞い散ってしまう紅葉の
ダンスさえも,そのように,むろんの事。それは残酷な抑圧ではなし,
トビナガスネヒコ=大黒=タケミナカタ,ニニギ=神功=タケミカヅチの,
そういった,縄文と弥生の入れ替わりのあったとしても,果たしての
自分のジャーマンポテトとバゲット・サンドの対比を好き嫌いしてみたって,
濃いブラック・コーヒーはフランスパンには合うものだし,ビターなチョコも
リンゴのシードルなどの酸味も欲しくなるところ。まだ,酸味の必要な時期に
でも,いくらそれだって,にゅうめんにはカツオ出汁だしビネガーは入れない。
決して,そうめんにも,暑いからと言って,オイスター・ソースのつゆは,あまり
ススまないので,和食を冬に,中華を夏に食べるにあたって,季節自体は入れ替わる
ことは,ないのだから。時代性として,ポスト・天孫降臨などは起こりそうもない。

キッチンの照明を換えてもらった節,知り合いの電器屋さんから,父と同い年と伺って
驚いた折には『私も,入換え時で,車も,この間あと先あまり要らないのに替えました』
と聴いて,ああ,そうか。IH調理器も見てもらって,ガスに替える話をしていた矢先
前回のその話題を踏んで,よもやま話をして下さったのだなあ,紅葉の季節に実に風情の
あって,落ち葉も,そのように電器を換えて行くさまにも似て,季節と入れ替わり移る。
家の奥さんの,朝の出勤時に,目の前で接触事故をした折などは,正直ぼくの方の動揺は
あまりに動転して激しく,それで,奥さんは冷静だったらしい。昼にもなって,ようやく
電器屋さんに渡し余った珈琲缶などを啜って一息つく心地。その車で先週よりの,旅行を
予定していたあげく,天孫降臨の名所旧跡めぐり観光を考えていたものの中止になって,
なぜかぼくの方は,ホッとしている。不可思議なくらいホッとしている。それはたぶんの
小難に切り替わったように,無意識は安堵しているのだろう。ガスに替えるようにして,
祖父母からの引継ぎで遣わせて頂いていたIH調理も,なんだか熱い習慣の調理料理法に
一転して,真冬などはキッチンも明るく,天孫降臨も起こりそうにないぼくの心地よりも
そうして,インドアに暖かい炊事と,照明の温かい調理場で,良い料理週間の始まりそう
である,大難は小難に。僕は,ニニギ派?大黒派?きっと,言って貰わないと解らない,
普通に赤ちゃんになって産まれて,獅子のアザを右足に受けて,その足がつり始めたのは
必死にこむら返りか?など,痛みに開放傾向のもみほぐしなどを試みる昨今の,この記憶
は,言って貰わないと解らないので,『秋の日に,落ち葉の散る如くの,オオナムチは,
縄文形と弥生式との,そのはざまの,きっと,彼らは,米を育てるから。』ってゆう。

結局のところは,とどのつまるアマテラス論に移るのだろう。神功皇后の祀った天照は,
エビス神とも置き換えられること多し。天の橋立の,͡籠神社なども,元伊勢と言っては
猪鹿蝶のエビス神を祀っている御所。結局のところ,つまり,大黒神であった,エビスの
何かしらのアケビの熟れて割れるかのような,爛熟してゆく過程において,三島文学に
おけるニニギとジングウの関わりにつき。『神の子を人の子に』とゆうのは自由教育の
R.シュタイナーにおける発言だけれど,未開の地とゆうモノが,開拓民族によって見出す
このプロセスによって,爛熟してゆく人の子の弥生文化とゆうモノに関しては,金閣寺の
燃える必要があった,潮騒の波濤には青い空の,サド侯爵夫人によって,描かれる本性の
その,大黒エビス神の大人になる過程において,都会化してゆく日本の歴史の観点はそう
やって,破裂するヒューマニズムに以て『狂気について』の渡辺一夫さんのような大人の
意見を参考にして,『破裂する人間性は,人口の増加によって,破裂する人間性である』
と言ったような,もちろん引用でも何でもないのだけれど,そういった解釈で,神道にも
都市化する文明の遍歴を以て,歴史は神話を創成してきたのだ,と,そう思いたいのだ。
三島は,ここでジングウ=ニニギである,そうして,桂小五郎である。そういっては,
大黒=ナガスネヒコは,縄文の太宰である。太宰は,明治の坂本龍馬,そのひとだろう。
だから,龍虎相槌つでも良いけれど,例え獅子のモール(アザ)のある右足をみてぼくは
その変遷において,犬猿の仲でも良いけれど,太宰派か,三島文学ファンかは,明言する
ことは決してできない。それは,児か母か?夫の聴かれて,お父さんでしょ!そう言われ
『はい,』-「ママは何処?」そう問われて,『あすこだよ,』どうとも,つかないのに
よく似ている。アマテラスはニニギであり父母の精神だろう?弁慶の見詰める九郎義経の
親心にも酷似する。そうして鬼子母神のテーマは,そこに縄文の,またアベルの伝統の
そこの息子や娘の成長をながめる素朴な揚げドーナツの風景へと,何故お菓子を造るのか
は,きっと子育てのファンタジーそのもの,守護聖人の発想のもともと,ファンタジーの
そのもの。ようやく母神の元を離れることのできた子神の龍神殿は,白玉も滝壺も捨てて
三島文学におけるニニギとジングウの関わりにつき。本来の,人の子=石ころに,戻って
いることだろう?これは平和なのだ。


こちらは如何?

解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを

足元のゴキブリをきちんと処理できてからでないと、ものごとの全体的な オーガナイズなど、できたモノではない。かと、言って大きく自然は常に 世界にあるのだから、とりもなおせば、オーガナイズすなわち全体性とは 自然相手に行う人間の営為と言っていい。これは、自然相手の常識を壊す と称しても良いことで、その人間の中の自然、知性や、また、昆虫類の 自然と呼ぶにふさわしい集合意識的な流麗なエナジーに対しての、技術。 意志と呼べば、意志である。かと、言ってワガママには振る舞えない、 無意思の意志である。最近、穀物の喉元を通らないのは、こういった 自然への意志が挫かれている。むしろ、そういった意図を失うべきな 自然バランスの崩れを食欲不振や、情動麻痺に親い感情に観て取れる。 なので、その解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを起こして どうやったら貧血にならず、穀物も避けてよければ避けて通りもして この栄養失調との闘い、いや付き合い。にしても、快く自然のなかを 通り過ぎてゆけるか。酒でもない、薬でもない。とりあえず、イカの つまみでも摘んで、その勢いで、お豆腐、納豆。そうめんをすすいで 二束ほど掻き込んだ。これが精一杯だ。拒食の強い癖はないだろうが 温かい調理など食べられたモノではない。ましてやこれは過覚醒代謝 でもあるだろうが、意識を上向いていられる分、夏の大気は天国へと 持って行かれそうな暑い上昇気流をたずさえているのだから、すこし グラウンディングするように、穀物の製品も頂くべきだろう。夏の夜 昼間はラマダン期間のように食を細めていた自分の夜食に祈りの姿を みせて冷たい食品ばかり頂くのだから、自然の乱れとゆうよりそれは 自分の乱れである。そうして、呆然と朝を迎えて、鳥の声は盛んだ。

生命システムを収束させているようにも感じるのは、真夏の景色だ。 乱れは美しくもあるが、それは整えられた収束するシステムの過程を まざまざとミクロに見ているのだから、そう乱調の美を感受するのか とも思うのだった。いわずも全体性のオーガナイズは自然への技術的 意志の欠如のうちでは成立せず、そこには知恵の要る知的作業の求む らく、あの野草の薬壷へ手を突っ込むような感じで、よもぎ餅を摘む 大きな頬っぺたで味わう春の蠢きを再現させる作業を必要とするのだ。 夜食の後でアイスバーをたべた。空になったバーの木の匂いは象徴的に その感慨を現している。きっと、自然の芳香を実際…

珈琲プレグナンスとゆうは、地球号温室にて培う

さもなくば、右側頭部の情欲野ともとれる情緒的ヒステリクスは肝要。 男性性が這入りこむので、情念はヨコシマなアーリマン的要素をあらわすので、 いたって自然理にあれば、そのヒステリクスは肝要。アーリマンは赤鬼。 ともすれば、男性性を太宰など、イザナギ神話にあてはめまた、 女性性のイザナミ陣営を、アナトールと芥川氏のフレンチな文学に例えて、 大谷崎=イザナミ女神の文学性へ返すように、そうすれば、 自然体の情緒的ヒステリクスは肝要なのだった。能面が、般若に変るのは 黄泉比良坂において、三島文学=菊理媛の仲介役によって、その岩によって 光り輝く太宰のイザナギ男神的精悍さを、情緒の乱れによって見送る時に。 怒り狂えるイザナミ女神の発端は、男神の一枚岩の正義がわがままに響く その呆然とする知性に対しての怒りであって、それは何か裏腹への怒り。 表裏一体こその静けさであるのに、表面的な反射によって判断する誤りに。 この般若の相貌には、ひとかたならぬ静かな暮らしへの想いがあってこそ。
正しく、情念には破壊を浄化してゆく知恵のコントロール技術の含まれる。 そうして裏の循環摂理はなりたっているので、光りによってすべて消す といったようなのは、戦争経済と何も変わらない志向であって、情緒的な 日常の天然湿度の中で解決する身体由来の経過のあるとするなら、それは 情緒の情念的ないわゆる情欲循環コントロールによってしか、その常温は 保たれないのだった。般若は常に嫗である。いや、そうあるべきなのだ。 そうやって、いつも怒りに枯れている茫々と寂寥とした感慨を現すのが、 情念にはふさわしい。計らずも男性性は遠く彼方に押しやってしまえと、 巌に蓋をされた、彼らの国は、もう鉱物的なスピリチュアリティにしか、 含まれず囲われ、だき入れられてはいないようだが、そこに、男性性の 隔絶とした、中和され赤青に別れた大地と空との、水と風との調和は 有りえないのだった。珈琲プレグナンスとゆう造語を嗜好しだすのは、
そこに、情緒ヒステリクスの地球温室においてはぐくまれる暖かさの中で 結果的に正しさとは受容するのによって見出されるモノの多分に大きい、 そうして、正しさとは、ストレートさ素直さ一面性のたぐいにはなく、 多面性を受け容れること。情念コントロールは情欲循環的な何かでは、 そうして破壊を調整してゆく暮らしの技術におきながら、戦争経済とは 一線を画す技術の生活意欲として、裏側の…

業の泉へと向かう身体の、ラッセルと太宰に寄せて

ラッセルは、聖パウロのようで、太宰はイスキリのようで。
だんだん、平和への祈り道が、業の泉に到着しそうな予感がして、 潔癖症なくらいの綺麗好きなのが、人間臭さとゆうか、仏の道などと 融和して行きそうな気のする、不可思議な強靭さを呈している例え頓挫しても 身体は、もっとマジカルなパラレルトリックの物質ベースで核融合する、 そんなカルマベースで行ける世代的にも壮年期である、現代生活ではある。 その業の泉に予め潜ってゆけば、クリームチーズのしっとりパンを食べて 抹茶の豆乳ラテを片手に吸いこんでいるこの孤独なポルターガイストに、 あるいは、怖いは好きの裏返しと言うのは、殺意さえも愛情ではあるが それに対して、業の泉に融けこんでゆくのが、ひとつの世相ではある。 こうして美女と野獣をみながら、眠りに親づいてたまの孤高にある夜中。 ロマンチックにあればまたも安心するが、しかしながらも文学にあっても まだ安堵の嘆息ついてはいられもするのに、ソファに横たわりながら、 空調を点けて念じることのあるならば、やっぱり安寧はここかしこの 瞑目してみえてくる、あるいは知性はラッセルにも、太宰にもある。
鋭意において、横になり手に余るほどの情報を世界は2つか3つあるのか、 この希望ともとれる情報存在は世界を意識すれば動じて溢れ出てくるのだった。 ロバは、四肢によって人間と同じように体幹を感じているのか?とは言えば、 幸福論を読むラッセル的知性は、太宰のアフォリズムによってもまた違う感じ を抱かせている。この感じは綺麗なのと、情熱的な愛のカルマとまた似ている 希薄で軽やかな明度の高さと、低部にありながら、渾々と湧く泉の如く、 頂上と伏流水の部分には地点的に密度は違えど、空間も時間速度も違えど、 知識として共有している何かの輝きのあるのだから、例え山頂と麓にでも 星はみえるのだから。この星とゆう知性の知悉するファンタジーを大切に してゆこう。これは、いつも知識はこの魂にあるゆえの共通地点。なので その叡智によって、wisdomを捨てるとこまで行かなければならないのだ。 Let it beも、風に吹かれて、にゆかなければ、その先は普通の生活なので その繰り返しながら発生する風の地点。送風の生起される場所が好きで、 それでも同じく普通の生活の繰り返しながら、叡智を捨てる所にいれば 叡智を捨てて風の起こ…