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桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。

気づいたら,安吾の地粉のような練り方と,三島文学の諧謔に,
独特の美学とを合わせたような感じで,堀ロマネスクの蕩尽と,
川端ホムダワケの浄霊効果の上には,芥川氏の論理性の教育の,
漱石山人の桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。大谷崎には,
またもイザナミの刻印を授かって,さあ。太宰のその中立中和,
親和調和のみごとな無頓着さを,さあ。中心軸に添えられたら,
酢豚のような酸味には,パイン・フルーツのトロピカル郷土の
山岳料理などを嗜めて,たまのデカフェ珈琲にミルクを割ったり,
そうやって,身体中をサラサラにしたいと望みながらも,郷土の
強烈な土着酵素のロマンチシズムを鑑みては,夜型の自分の昼は
こうして,夜食の片付けや,湯沸かしや,買い物に鍵締めなどを
する自分の夕刻に遣って来て。けれども,決して暗いのの好きじゃ
ない訳ではないのだから。カフェオーレを傍に置きながら,この
CD造りや,簡単なスケジュール調整などをモノづくりに照らしては
考える,何だかジャコピーナッツのような,そんなつまみの時間が
好きなのだった。モーレツに,そう。好きなのだった。

考えたり,それを過ぎて考えなくなったり。考えなくなったりもする,
この時間は,とっても好きなのだ。素敵な本とは,どうゆうものだろう
とは,イメージしてみるのに,絵のない絵本。とは,アンデルセンなどは
ほんとうに絵のない絵本があったら,どれほどすばらしい本の出来上がるか?
こうやって想像して,冒頭の月のシーンなどはそのヴィジョンだけで,もう
一介の,その一遇を照らす,すばらしい本を頭脳の書棚に掛けていてくれる。
詩学とゆうのは考えないところから始まり,意味の詩学があるのなら,それは
哲学・文学の境遇に身を置いているとゆう証左になっているので,考えなくなったり。
そうして,詩学の始まり,結局は月の登場する冒頭のシーンへと還ってゆく。
メルヘンが必要なのだとはゆうけれども,メルヘンである日常に追加するのは,
コッテリした童話である必要はない,そんな意味深な調味料は眼をつぶしてしまうので,
それこそ,気づかずにいる,本体の”メルヘンである日常”に,気づかせる,お酢のような
そんな,目覚めの香辛料をこそ,普段の何気ない詩学としての香辛料こそ,やはり
頭脳の書棚には掛けておきたい。スパイスのある風景には,意味より香りの詩学。

ようやく湿気の程度が許してくれるほどの,長袖を着ていても気持ちのわるくない季節に
なって来たような気のする,静かな秋には。カリンの酵素漬けや,ハチミツ・シロップに
ミニ・ナタを握って,堅い果実を割って行ってはすこしずつ浸してゆく。柚子も美味しい
この時節にいたって,お茶っ葉が切れたので,一時的にクマザサの茶パックを買ってきて
石けんのような匂いのするそのパックを煮出して沢山のお茶を造ってみた。熊になった,
とゆうのはすこしちがう気分かもしれないけれど,チマキの風味をそのまま啜るようで,
とっても,さっぱりと美味しいのだった。オレンジシフォンなどをほお張りながら,この
お茶を啜る心地は最高だろう。どこが夜型なのか?身体をサラサラにしたいのか?こんな
昼の果汁を吸っているような,朝の陽ざしに顔を翳して,お昼の全体性に解けてしまう,
そうして,ダックワーズなども大抵はアーモンドやピスタチオのプードルなどが,入って
これは,お決まりの事なんだろうな?モンマルトルの日が差して,聖トーマスの旋律が,
聴こえてくる,こんな,不可思議な夢を見る,昼間のように夜間には,皓々と冬の前に
夜露のながれ付いてくる。汽笛の聞こえる,これは,真冬には精神の逝ってしまう恐怖を
みな感じてきたのだから,こんな夢を見ていたっていい。
桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。クマザサのお茶を啜りながら。

・・・気づいたら,安吾の地粉のような練り方と,三島文学の諧謔に,・・・
こんな,桐の葉と,鳥獣戯画と,八束の剣と。



こちらは如何?

解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを

足元のゴキブリをきちんと処理できてからでないと、ものごとの全体的な オーガナイズなど、できたモノではない。かと、言って大きく自然は常に 世界にあるのだから、とりもなおせば、オーガナイズすなわち全体性とは 自然相手に行う人間の営為と言っていい。これは、自然相手の常識を壊す と称しても良いことで、その人間の中の自然、知性や、また、昆虫類の 自然と呼ぶにふさわしい集合意識的な流麗なエナジーに対しての、技術。 意志と呼べば、意志である。かと、言ってワガママには振る舞えない、 無意思の意志である。最近、穀物の喉元を通らないのは、こういった 自然への意志が挫かれている。むしろ、そういった意図を失うべきな 自然バランスの崩れを食欲不振や、情動麻痺に親い感情に観て取れる。 なので、その解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを起こして どうやったら貧血にならず、穀物も避けてよければ避けて通りもして この栄養失調との闘い、いや付き合い。にしても、快く自然のなかを 通り過ぎてゆけるか。酒でもない、薬でもない。とりあえず、イカの つまみでも摘んで、その勢いで、お豆腐、納豆。そうめんをすすいで 二束ほど掻き込んだ。これが精一杯だ。拒食の強い癖はないだろうが 温かい調理など食べられたモノではない。ましてやこれは過覚醒代謝 でもあるだろうが、意識を上向いていられる分、夏の大気は天国へと 持って行かれそうな暑い上昇気流をたずさえているのだから、すこし グラウンディングするように、穀物の製品も頂くべきだろう。夏の夜 昼間はラマダン期間のように食を細めていた自分の夜食に祈りの姿を みせて冷たい食品ばかり頂くのだから、自然の乱れとゆうよりそれは 自分の乱れである。そうして、呆然と朝を迎えて、鳥の声は盛んだ。

生命システムを収束させているようにも感じるのは、真夏の景色だ。 乱れは美しくもあるが、それは整えられた収束するシステムの過程を まざまざとミクロに見ているのだから、そう乱調の美を感受するのか とも思うのだった。いわずも全体性のオーガナイズは自然への技術的 意志の欠如のうちでは成立せず、そこには知恵の要る知的作業の求む らく、あの野草の薬壷へ手を突っ込むような感じで、よもぎ餅を摘む 大きな頬っぺたで味わう春の蠢きを再現させる作業を必要とするのだ。 夜食の後でアイスバーをたべた。空になったバーの木の匂いは象徴的に その感慨を現している。きっと、自然の芳香を実際…

珈琲プレグナンスとゆうは、地球号温室にて培う

さもなくば、右側頭部の情欲野ともとれる情緒的ヒステリクスは肝要。 男性性が這入りこむので、情念はヨコシマなアーリマン的要素をあらわすので、 いたって自然理にあれば、そのヒステリクスは肝要。アーリマンは赤鬼。 ともすれば、男性性を太宰など、イザナギ神話にあてはめまた、 女性性のイザナミ陣営を、アナトールと芥川氏のフレンチな文学に例えて、 大谷崎=イザナミ女神の文学性へ返すように、そうすれば、 自然体の情緒的ヒステリクスは肝要なのだった。能面が、般若に変るのは 黄泉比良坂において、三島文学=菊理媛の仲介役によって、その岩によって 光り輝く太宰のイザナギ男神的精悍さを、情緒の乱れによって見送る時に。 怒り狂えるイザナミ女神の発端は、男神の一枚岩の正義がわがままに響く その呆然とする知性に対しての怒りであって、それは何か裏腹への怒り。 表裏一体こその静けさであるのに、表面的な反射によって判断する誤りに。 この般若の相貌には、ひとかたならぬ静かな暮らしへの想いがあってこそ。
正しく、情念には破壊を浄化してゆく知恵のコントロール技術の含まれる。 そうして裏の循環摂理はなりたっているので、光りによってすべて消す といったようなのは、戦争経済と何も変わらない志向であって、情緒的な 日常の天然湿度の中で解決する身体由来の経過のあるとするなら、それは 情緒の情念的ないわゆる情欲循環コントロールによってしか、その常温は 保たれないのだった。般若は常に嫗である。いや、そうあるべきなのだ。 そうやって、いつも怒りに枯れている茫々と寂寥とした感慨を現すのが、 情念にはふさわしい。計らずも男性性は遠く彼方に押しやってしまえと、 巌に蓋をされた、彼らの国は、もう鉱物的なスピリチュアリティにしか、 含まれず囲われ、だき入れられてはいないようだが、そこに、男性性の 隔絶とした、中和され赤青に別れた大地と空との、水と風との調和は 有りえないのだった。珈琲プレグナンスとゆう造語を嗜好しだすのは、
そこに、情緒ヒステリクスの地球温室においてはぐくまれる暖かさの中で 結果的に正しさとは受容するのによって見出されるモノの多分に大きい、 そうして、正しさとは、ストレートさ素直さ一面性のたぐいにはなく、 多面性を受け容れること。情念コントロールは情欲循環的な何かでは、 そうして破壊を調整してゆく暮らしの技術におきながら、戦争経済とは 一線を画す技術の生活意欲として、裏側の…

業の泉へと向かう身体の、ラッセルと太宰に寄せて

ラッセルは、聖パウロのようで、太宰はイスキリのようで。
だんだん、平和への祈り道が、業の泉に到着しそうな予感がして、 潔癖症なくらいの綺麗好きなのが、人間臭さとゆうか、仏の道などと 融和して行きそうな気のする、不可思議な強靭さを呈している例え頓挫しても 身体は、もっとマジカルなパラレルトリックの物質ベースで核融合する、 そんなカルマベースで行ける世代的にも壮年期である、現代生活ではある。 その業の泉に予め潜ってゆけば、クリームチーズのしっとりパンを食べて 抹茶の豆乳ラテを片手に吸いこんでいるこの孤独なポルターガイストに、 あるいは、怖いは好きの裏返しと言うのは、殺意さえも愛情ではあるが それに対して、業の泉に融けこんでゆくのが、ひとつの世相ではある。 こうして美女と野獣をみながら、眠りに親づいてたまの孤高にある夜中。 ロマンチックにあればまたも安心するが、しかしながらも文学にあっても まだ安堵の嘆息ついてはいられもするのに、ソファに横たわりながら、 空調を点けて念じることのあるならば、やっぱり安寧はここかしこの 瞑目してみえてくる、あるいは知性はラッセルにも、太宰にもある。
鋭意において、横になり手に余るほどの情報を世界は2つか3つあるのか、 この希望ともとれる情報存在は世界を意識すれば動じて溢れ出てくるのだった。 ロバは、四肢によって人間と同じように体幹を感じているのか?とは言えば、 幸福論を読むラッセル的知性は、太宰のアフォリズムによってもまた違う感じ を抱かせている。この感じは綺麗なのと、情熱的な愛のカルマとまた似ている 希薄で軽やかな明度の高さと、低部にありながら、渾々と湧く泉の如く、 頂上と伏流水の部分には地点的に密度は違えど、空間も時間速度も違えど、 知識として共有している何かの輝きのあるのだから、例え山頂と麓にでも 星はみえるのだから。この星とゆう知性の知悉するファンタジーを大切に してゆこう。これは、いつも知識はこの魂にあるゆえの共通地点。なので その叡智によって、wisdomを捨てるとこまで行かなければならないのだ。 Let it beも、風に吹かれて、にゆかなければ、その先は普通の生活なので その繰り返しながら発生する風の地点。送風の生起される場所が好きで、 それでも同じく普通の生活の繰り返しながら、叡智を捨てる所にいれば 叡智を捨てて風の起こ…