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Mr.SOLと,LONDON ONEと,IZABERA DIVAのブギウギ

A.シュテッフェン,夏目漱石,バートランド・ラッセル

F.v.シラー,小林一茶,アイザック・ニュートン

M.エックハルト,太閤秀吉,ニコラウス・クザーヌス

Mr.SOLと,LONDON ONEと,IZABERA DIVAのブギウギは,

縁の下の偽悪者と,ロンドン者と,St.Pauloの化学の結婚。

黒い森を走らす,シラーの陰に,いつもロンドン漱石の未来を踏み,
女神のような,ディーヴァ・アイザックは,既にその神秘母性を携え

Mr.SOL=A.シュテッフェンの影に,小林一茶の影踏みは彩りを添え,
結局フェミニストに映る,そのラッセルの愛おしき,文通宣言計画。

エックハルトは偽悪者の面目を晴らすために,太閤秀吉の馬肉好きは
ダンディズムの,なぜブランディー好きの葉巻好きを,クザーヌスは
対象にするの?愛の故,愛が語るの故。

風邪を,引いてしまって,コンソメスープにトロトロの豆腐を加えて,
温まる夜食を啜ってみては,千切りのオニオン,土の匂いのキャロット,
キャベツの甘さなどは本当に身に滲みる。もう,昨夜の,トンテキを,
ポーク・ピカタばりに,作った折の,ボイルキャベツの茹で汁だったそう。
1枚の葉野菜のエキスの身に滲みる,サナギになる蝶の幼虫の,一歩一歩は
妖精スピリットの陽の光をいろどる唯一の香り。

食欲は涌いてきているのだから,喜んで,食事に向かうかどうかは別にして,
もうすぐ眠りの瞬間に就く前に,お家の大掃除も済んだその為の風邪だったか,
景気づけに,文章を認めて,歯磨きをきちんとスッキリして眠りたいがために,
掃除の終えた瞬間,描く文章は換わるだろうな,と思った。そうして,整理の
付いた部屋からは,何も昇っては来ない,地下の帝国よりも,頭頂の彼方にある
太陽の神殿にこちらから昇ってゆこう,そう思った。ディーヴァのいる,彼女は
心底,加護者で,太陽への道筋を造ってくれた。そうやって,我が道は,我が身体の
古都の秒針より産まれるものと心得て,空への虹のレシピを教わりに行く。

掃除が終わったら,獅子像の王冠を戴いたジャケット箱のタオルなど,よく見かけた。
この宇宙は,脳内に省けるものあれば,カットしてしまう世界だ。脳内宇宙はそういった
簡略化を目指すものだ。夜空にチカチカと,目眩いサインをみる時などは,そんなはずだ
と言い切って,歯磨きをして,きちんと眠ろう。

存在の呵責は,しらふの酩酊,自我の奪い去られた個我,異常な消化不良などとなって
顕れて,抗うこともできない状態で,そのまま行くこともできないので,どうしたら?
ひたすら恋愛を楽しんで,お茶を嗜み,珈琲の味も憶えて,あとは,わがままを言わずに
しかしながら相当な勝手さで進んできた。いまだに,人の眼を見て話す素敵さは解らず,
運命の思し召しとゆう『存在の呵責』は,存在の大掃除とゆう形で省かれて,戴冠した。

歯磨きをしている瞬間は,唯一,自分とゆうモノ=神性に出逢える,唯一の貴重な存在の
目と目の合う瞬間。風邪は,自分の酔っぱらって,不明に酩酊するように,分別のなくなる,
自我の蒙昧,酩酊する自分,また。明瞭に活きられない,霧の摩周湖のようなルビーを
隠しているから,角砂糖の結晶くらいは舐めて砕けるように過ごせそうだから,その感じ
魍魎と化した自分は,迷妄の濃霧から果たして返り切って,風邪の濃霧自体になっている。

Mr.SOLと,LONDON ONEと,IZABERA DIVAのブギウギ。
風邪を引きながら,彼らの進退は僕らの身体を携えて,きっとどこまで。
行く末は多分。酔いから醒めればきっとここまで来た自分の曖昧さに一言。
『よくやってきたね,』と,葡萄の酵素でも呑んでいる姿を,垣間みるその,

『コア』とゆうものは『存在の喜びではなくって,淋しさ切なさをもたらすもの』,
『能動性や,自発性』よりもむしろ,”自然や外界との直接の接点”を脳内に求めるのは,
そういった自虐性に,むしろの”能動性や,自発性よりの乖離”。他動説の誕生秘話を
もう一度,天動説のように天体や星の自動的に周る存在性より,地動説には自動的に
自我の廻るAutomatic Egoism(無意識的意図の)よりの回転の含まれているとして,
もう一度,自他即一体の他動説を戻って把握したい。そんな,心境の隠されているはずの
”ああ,歯磨きの面倒で,ここまで風邪に酔っぱらえる自分はスゴい!”って。




こちらは如何?

解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを

足元のゴキブリをきちんと処理できてからでないと、ものごとの全体的な オーガナイズなど、できたモノではない。かと、言って大きく自然は常に 世界にあるのだから、とりもなおせば、オーガナイズすなわち全体性とは 自然相手に行う人間の営為と言っていい。これは、自然相手の常識を壊す と称しても良いことで、その人間の中の自然、知性や、また、昆虫類の 自然と呼ぶにふさわしい集合意識的な流麗なエナジーに対しての、技術。 意志と呼べば、意志である。かと、言ってワガママには振る舞えない、 無意思の意志である。最近、穀物の喉元を通らないのは、こういった 自然への意志が挫かれている。むしろ、そういった意図を失うべきな 自然バランスの崩れを食欲不振や、情動麻痺に親い感情に観て取れる。 なので、その解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを起こして どうやったら貧血にならず、穀物も避けてよければ避けて通りもして この栄養失調との闘い、いや付き合い。にしても、快く自然のなかを 通り過ぎてゆけるか。酒でもない、薬でもない。とりあえず、イカの つまみでも摘んで、その勢いで、お豆腐、納豆。そうめんをすすいで 二束ほど掻き込んだ。これが精一杯だ。拒食の強い癖はないだろうが 温かい調理など食べられたモノではない。ましてやこれは過覚醒代謝 でもあるだろうが、意識を上向いていられる分、夏の大気は天国へと 持って行かれそうな暑い上昇気流をたずさえているのだから、すこし グラウンディングするように、穀物の製品も頂くべきだろう。夏の夜 昼間はラマダン期間のように食を細めていた自分の夜食に祈りの姿を みせて冷たい食品ばかり頂くのだから、自然の乱れとゆうよりそれは 自分の乱れである。そうして、呆然と朝を迎えて、鳥の声は盛んだ。

生命システムを収束させているようにも感じるのは、真夏の景色だ。 乱れは美しくもあるが、それは整えられた収束するシステムの過程を まざまざとミクロに見ているのだから、そう乱調の美を感受するのか とも思うのだった。いわずも全体性のオーガナイズは自然への技術的 意志の欠如のうちでは成立せず、そこには知恵の要る知的作業の求む らく、あの野草の薬壷へ手を突っ込むような感じで、よもぎ餅を摘む 大きな頬っぺたで味わう春の蠢きを再現させる作業を必要とするのだ。 夜食の後でアイスバーをたべた。空になったバーの木の匂いは象徴的に その感慨を現している。きっと、自然の芳香を実際…

珈琲プレグナンスとゆうは、地球号温室にて培う

さもなくば、右側頭部の情欲野ともとれる情緒的ヒステリクスは肝要。 男性性が這入りこむので、情念はヨコシマなアーリマン的要素をあらわすので、 いたって自然理にあれば、そのヒステリクスは肝要。アーリマンは赤鬼。 ともすれば、男性性を太宰など、イザナギ神話にあてはめまた、 女性性のイザナミ陣営を、アナトールと芥川氏のフレンチな文学に例えて、 大谷崎=イザナミ女神の文学性へ返すように、そうすれば、 自然体の情緒的ヒステリクスは肝要なのだった。能面が、般若に変るのは 黄泉比良坂において、三島文学=菊理媛の仲介役によって、その岩によって 光り輝く太宰のイザナギ男神的精悍さを、情緒の乱れによって見送る時に。 怒り狂えるイザナミ女神の発端は、男神の一枚岩の正義がわがままに響く その呆然とする知性に対しての怒りであって、それは何か裏腹への怒り。 表裏一体こその静けさであるのに、表面的な反射によって判断する誤りに。 この般若の相貌には、ひとかたならぬ静かな暮らしへの想いがあってこそ。
正しく、情念には破壊を浄化してゆく知恵のコントロール技術の含まれる。 そうして裏の循環摂理はなりたっているので、光りによってすべて消す といったようなのは、戦争経済と何も変わらない志向であって、情緒的な 日常の天然湿度の中で解決する身体由来の経過のあるとするなら、それは 情緒の情念的ないわゆる情欲循環コントロールによってしか、その常温は 保たれないのだった。般若は常に嫗である。いや、そうあるべきなのだ。 そうやって、いつも怒りに枯れている茫々と寂寥とした感慨を現すのが、 情念にはふさわしい。計らずも男性性は遠く彼方に押しやってしまえと、 巌に蓋をされた、彼らの国は、もう鉱物的なスピリチュアリティにしか、 含まれず囲われ、だき入れられてはいないようだが、そこに、男性性の 隔絶とした、中和され赤青に別れた大地と空との、水と風との調和は 有りえないのだった。珈琲プレグナンスとゆう造語を嗜好しだすのは、
そこに、情緒ヒステリクスの地球温室においてはぐくまれる暖かさの中で 結果的に正しさとは受容するのによって見出されるモノの多分に大きい、 そうして、正しさとは、ストレートさ素直さ一面性のたぐいにはなく、 多面性を受け容れること。情念コントロールは情欲循環的な何かでは、 そうして破壊を調整してゆく暮らしの技術におきながら、戦争経済とは 一線を画す技術の生活意欲として、裏側の…

業の泉へと向かう身体の、ラッセルと太宰に寄せて

ラッセルは、聖パウロのようで、太宰はイスキリのようで。
だんだん、平和への祈り道が、業の泉に到着しそうな予感がして、 潔癖症なくらいの綺麗好きなのが、人間臭さとゆうか、仏の道などと 融和して行きそうな気のする、不可思議な強靭さを呈している例え頓挫しても 身体は、もっとマジカルなパラレルトリックの物質ベースで核融合する、 そんなカルマベースで行ける世代的にも壮年期である、現代生活ではある。 その業の泉に予め潜ってゆけば、クリームチーズのしっとりパンを食べて 抹茶の豆乳ラテを片手に吸いこんでいるこの孤独なポルターガイストに、 あるいは、怖いは好きの裏返しと言うのは、殺意さえも愛情ではあるが それに対して、業の泉に融けこんでゆくのが、ひとつの世相ではある。 こうして美女と野獣をみながら、眠りに親づいてたまの孤高にある夜中。 ロマンチックにあればまたも安心するが、しかしながらも文学にあっても まだ安堵の嘆息ついてはいられもするのに、ソファに横たわりながら、 空調を点けて念じることのあるならば、やっぱり安寧はここかしこの 瞑目してみえてくる、あるいは知性はラッセルにも、太宰にもある。
鋭意において、横になり手に余るほどの情報を世界は2つか3つあるのか、 この希望ともとれる情報存在は世界を意識すれば動じて溢れ出てくるのだった。 ロバは、四肢によって人間と同じように体幹を感じているのか?とは言えば、 幸福論を読むラッセル的知性は、太宰のアフォリズムによってもまた違う感じ を抱かせている。この感じは綺麗なのと、情熱的な愛のカルマとまた似ている 希薄で軽やかな明度の高さと、低部にありながら、渾々と湧く泉の如く、 頂上と伏流水の部分には地点的に密度は違えど、空間も時間速度も違えど、 知識として共有している何かの輝きのあるのだから、例え山頂と麓にでも 星はみえるのだから。この星とゆう知性の知悉するファンタジーを大切に してゆこう。これは、いつも知識はこの魂にあるゆえの共通地点。なので その叡智によって、wisdomを捨てるとこまで行かなければならないのだ。 Let it beも、風に吹かれて、にゆかなければ、その先は普通の生活なので その繰り返しながら発生する風の地点。送風の生起される場所が好きで、 それでも同じく普通の生活の繰り返しながら、叡智を捨てる所にいれば 叡智を捨てて風の起こ…