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段々と,エナジー・ボトルのように扱う大地の礎。

眠気を抑えながら,抑え込みつつ低血糖のような気怠さを。
突き進みながら,癇癪を受容して,三島文学とゲオルゲの。
ゲオルグとゲオルゲの違いを調べても上手く説明できない,
しかしながら,太郎と次郎の違い位なのか,タカを括って
まだ,古書店には秋の小人の画文集の揃えてあるのを聞き耳を
置いて残しながら。いつか,段々と,エナジー・ボトルのように
扱う大地の礎。二時間も独り待ちぼうけを喰らって,その双方向。
双方向を求めて,結局辿り着くのは,自分で,いくらでもエナジー。
エナジーを操作するように体幹をコントロール調整することを,一貫。
一貫して,怒りに託さず,応酬にも天然頼らず,そうして武者震い。
段々と,エナジー・ボトルのように扱う大地の礎。ブルブルと,心の
ココロの,体幹を揺らしながら心中起こったことを綴りたい,そう思う。

会話の弾みと,気の応酬を行きつ戻りつ,往復させて。赤いビーツの
果汁のようなのを,ボルシチのシチューだけではなく,赤シソジュースの
ように,ただ順々にゴクゴクと呑み干す心地。意外と,野草・西瓜・葡萄の
ブレンド酵素などを,豆乳と割って深夜に呑んだりしていると,その鬱屈と
心理開放されるその情感を,ああ,それはタンパク質はバナナのように,
酵素を,デンプンと合わせたものに違いないのだ。納得して,プログラム上,
例えば,珈琲豆や,バナナなどを設計図を描いて品種改良された叡智人類の
食べやすくとゆうより,その願いのうえで達成した,本来の設計図のあるとして,
バナナは酵素と豆乳を割ったようなモノとゆうことと,何が例えばなのかは,
良く解からないけれども。豆乳珈琲などを毎晩晩酌のように造って口にして,
これがなきゃね,など桃園の誓いのようにして,三国志の義兄弟の絆を約束したり
もしかしたらこんな習慣的な奇特な発生の縁より,珈琲を割って豆乳と呑むにして,
やっぱりデンプンからタンパク質を数珠つなぎのように追求しているのではないか?
多分,継続的な気怠さや,低血糖のような目眩に親いフラフラは,新鮮なタンパク質に
よって,フイゴのようにクサビを淹れられて,生命力をあざやかに復帰させられるのでは?
こんな反射機能的な順序で。時期的な段々と,エナジー・ボトルのように扱う大地の礎。
段々と,身体の機序もすこしずつ回復するように帰納順応して行く。こんな,写真を撮る
事に対して,ロマネスクとノスタルジーと,切なさと,すこしの残酷さを含んだ美しさを
もとめてシャッター無音に切る時の,段々と,エナジー・ボトルのように扱う大地の礎。
身体を震わせるほどの親和と,切願するアウトプットを大地にもとめ,あとは順応する常に
心理を空っぽにできることを身体にまで調整させながら,ブルブルと,親和させる。ある意味,
心身の健康のために何らかの出口をもとめているのは違いない,それは,例えタンパク質を
綺麗なモノとして摂取していても,エナジーはとっても貯蓄される,震わせる必要のあるのだ,
平常機序としての代謝機能として,大地と親和する,ブルブルと震える,それは,会話と
奮発力の情熱発作のような融合にして,エンターテイメントも,そんな発火するほどの
発熱するコイルのお炬燵のホッコリする微睡みと昼寝にやがてつながるボタン雪の季節に
門松の横に椿の咲いている時期のお正月には,何かの耀いているはずなのだ。何か,あの
エンタメの文化に心を花開かせながら,そろそろ,リップ・サービスにもお正月の準備を
アウトプット出口の追求場所として,せいぜい耀きの出口のつながりへ結び付きさせて,
段々と,エナジー・ボトルのように扱う大地の礎。そのエナジー・ボトルとは,あの祠に
永続的に供えられているワン・カップのようなモノなのだ。


こちらは如何?

解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを

足元のゴキブリをきちんと処理できてからでないと、ものごとの全体的な オーガナイズなど、できたモノではない。かと、言って大きく自然は常に 世界にあるのだから、とりもなおせば、オーガナイズすなわち全体性とは 自然相手に行う人間の営為と言っていい。これは、自然相手の常識を壊す と称しても良いことで、その人間の中の自然、知性や、また、昆虫類の 自然と呼ぶにふさわしい集合意識的な流麗なエナジーに対しての、技術。 意志と呼べば、意志である。かと、言ってワガママには振る舞えない、 無意思の意志である。最近、穀物の喉元を通らないのは、こういった 自然への意志が挫かれている。むしろ、そういった意図を失うべきな 自然バランスの崩れを食欲不振や、情動麻痺に親い感情に観て取れる。 なので、その解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを起こして どうやったら貧血にならず、穀物も避けてよければ避けて通りもして この栄養失調との闘い、いや付き合い。にしても、快く自然のなかを 通り過ぎてゆけるか。酒でもない、薬でもない。とりあえず、イカの つまみでも摘んで、その勢いで、お豆腐、納豆。そうめんをすすいで 二束ほど掻き込んだ。これが精一杯だ。拒食の強い癖はないだろうが 温かい調理など食べられたモノではない。ましてやこれは過覚醒代謝 でもあるだろうが、意識を上向いていられる分、夏の大気は天国へと 持って行かれそうな暑い上昇気流をたずさえているのだから、すこし グラウンディングするように、穀物の製品も頂くべきだろう。夏の夜 昼間はラマダン期間のように食を細めていた自分の夜食に祈りの姿を みせて冷たい食品ばかり頂くのだから、自然の乱れとゆうよりそれは 自分の乱れである。そうして、呆然と朝を迎えて、鳥の声は盛んだ。

生命システムを収束させているようにも感じるのは、真夏の景色だ。 乱れは美しくもあるが、それは整えられた収束するシステムの過程を まざまざとミクロに見ているのだから、そう乱調の美を感受するのか とも思うのだった。いわずも全体性のオーガナイズは自然への技術的 意志の欠如のうちでは成立せず、そこには知恵の要る知的作業の求む らく、あの野草の薬壷へ手を突っ込むような感じで、よもぎ餅を摘む 大きな頬っぺたで味わう春の蠢きを再現させる作業を必要とするのだ。 夜食の後でアイスバーをたべた。空になったバーの木の匂いは象徴的に その感慨を現している。きっと、自然の芳香を実際…

珈琲プレグナンスとゆうは、地球号温室にて培う

さもなくば、右側頭部の情欲野ともとれる情緒的ヒステリクスは肝要。 男性性が這入りこむので、情念はヨコシマなアーリマン的要素をあらわすので、 いたって自然理にあれば、そのヒステリクスは肝要。アーリマンは赤鬼。 ともすれば、男性性を太宰など、イザナギ神話にあてはめまた、 女性性のイザナミ陣営を、アナトールと芥川氏のフレンチな文学に例えて、 大谷崎=イザナミ女神の文学性へ返すように、そうすれば、 自然体の情緒的ヒステリクスは肝要なのだった。能面が、般若に変るのは 黄泉比良坂において、三島文学=菊理媛の仲介役によって、その岩によって 光り輝く太宰のイザナギ男神的精悍さを、情緒の乱れによって見送る時に。 怒り狂えるイザナミ女神の発端は、男神の一枚岩の正義がわがままに響く その呆然とする知性に対しての怒りであって、それは何か裏腹への怒り。 表裏一体こその静けさであるのに、表面的な反射によって判断する誤りに。 この般若の相貌には、ひとかたならぬ静かな暮らしへの想いがあってこそ。
正しく、情念には破壊を浄化してゆく知恵のコントロール技術の含まれる。 そうして裏の循環摂理はなりたっているので、光りによってすべて消す といったようなのは、戦争経済と何も変わらない志向であって、情緒的な 日常の天然湿度の中で解決する身体由来の経過のあるとするなら、それは 情緒の情念的ないわゆる情欲循環コントロールによってしか、その常温は 保たれないのだった。般若は常に嫗である。いや、そうあるべきなのだ。 そうやって、いつも怒りに枯れている茫々と寂寥とした感慨を現すのが、 情念にはふさわしい。計らずも男性性は遠く彼方に押しやってしまえと、 巌に蓋をされた、彼らの国は、もう鉱物的なスピリチュアリティにしか、 含まれず囲われ、だき入れられてはいないようだが、そこに、男性性の 隔絶とした、中和され赤青に別れた大地と空との、水と風との調和は 有りえないのだった。珈琲プレグナンスとゆう造語を嗜好しだすのは、
そこに、情緒ヒステリクスの地球温室においてはぐくまれる暖かさの中で 結果的に正しさとは受容するのによって見出されるモノの多分に大きい、 そうして、正しさとは、ストレートさ素直さ一面性のたぐいにはなく、 多面性を受け容れること。情念コントロールは情欲循環的な何かでは、 そうして破壊を調整してゆく暮らしの技術におきながら、戦争経済とは 一線を画す技術の生活意欲として、裏側の…

業の泉へと向かう身体の、ラッセルと太宰に寄せて

ラッセルは、聖パウロのようで、太宰はイスキリのようで。
だんだん、平和への祈り道が、業の泉に到着しそうな予感がして、 潔癖症なくらいの綺麗好きなのが、人間臭さとゆうか、仏の道などと 融和して行きそうな気のする、不可思議な強靭さを呈している例え頓挫しても 身体は、もっとマジカルなパラレルトリックの物質ベースで核融合する、 そんなカルマベースで行ける世代的にも壮年期である、現代生活ではある。 その業の泉に予め潜ってゆけば、クリームチーズのしっとりパンを食べて 抹茶の豆乳ラテを片手に吸いこんでいるこの孤独なポルターガイストに、 あるいは、怖いは好きの裏返しと言うのは、殺意さえも愛情ではあるが それに対して、業の泉に融けこんでゆくのが、ひとつの世相ではある。 こうして美女と野獣をみながら、眠りに親づいてたまの孤高にある夜中。 ロマンチックにあればまたも安心するが、しかしながらも文学にあっても まだ安堵の嘆息ついてはいられもするのに、ソファに横たわりながら、 空調を点けて念じることのあるならば、やっぱり安寧はここかしこの 瞑目してみえてくる、あるいは知性はラッセルにも、太宰にもある。
鋭意において、横になり手に余るほどの情報を世界は2つか3つあるのか、 この希望ともとれる情報存在は世界を意識すれば動じて溢れ出てくるのだった。 ロバは、四肢によって人間と同じように体幹を感じているのか?とは言えば、 幸福論を読むラッセル的知性は、太宰のアフォリズムによってもまた違う感じ を抱かせている。この感じは綺麗なのと、情熱的な愛のカルマとまた似ている 希薄で軽やかな明度の高さと、低部にありながら、渾々と湧く泉の如く、 頂上と伏流水の部分には地点的に密度は違えど、空間も時間速度も違えど、 知識として共有している何かの輝きのあるのだから、例え山頂と麓にでも 星はみえるのだから。この星とゆう知性の知悉するファンタジーを大切に してゆこう。これは、いつも知識はこの魂にあるゆえの共通地点。なので その叡智によって、wisdomを捨てるとこまで行かなければならないのだ。 Let it beも、風に吹かれて、にゆかなければ、その先は普通の生活なので その繰り返しながら発生する風の地点。送風の生起される場所が好きで、 それでも同じく普通の生活の繰り返しながら、叡智を捨てる所にいれば 叡智を捨てて風の起こ…