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窓を開ける,お茶沸かす,かさぶた取れる。

ひさしぶりに仮眠を取ることのできた昼間の安寧。それは,
いまだかつて,病の時ほど寝られず,安寧とゆうのは昼間の
仮眠にあらわれる,健康の証だと気づいた三十路の夜明けなり。
こころの調子も良いとゆう事だな,こんな感じをもって,午睡の
できる精神的な調子,サードアイチャクラとゆう第六チャクラなる
ものは,第三の眼と言って,松果体と関わりのある,うんぬん。
何だか,調子の悪い時,夢の中で母親が,家庭とゆうスペースシップの
船長さんで,ちょっとやつれたおじさんだった事を思いだして,そんな
夢の情報に,夢うつつの朝方には夢の現実との境の付かず,そうゆう価値観も
あり,か。と,心中つぶやいた時だった。ふっと,それは松果体なのか,この
開いた感じ,ぱぁーっと,ロマネスク開いて,カラッと健やかな妄想癖より
離れるこの視界の開けた感じ。サードアイか,何かはわからないけれど,ぱあっと
それは,”ひらけた”のだ。なので,風邪のクセのある咳は残るけれども,だいぶ
ブリ返しよりは,距離を離して,快方に向かっている。なので,昼間の仮眠に
非常なる安寧を抱いて,ああ,これぞ昼行燈,世も平和なる証なり。自他共にある。

春菊を炒めて頂いた。ご飯を炊いて,塩昆布を加えて,昼の食卓は以上に健やか。
フライパンが,鉄鍋のようにしっかりしたモノに換わり,近くのスーパーのフェアで
ポイントによって半額になるとゆうお目玉の品。ところが,家に来てみると,この
重厚感は民芸風で実にすこぶるコレクター精神に適う。青菜を,油で炒めるのが今の
ところ一番旨い。ほんとうにそうなので,ご飯に乗っけて食べる。アジアの家庭料理の
一味唐辛子などを加えて頂くあの食卓にお邪魔して,ほんとうに青菜炒めのレシピを
是非教わってきたいものだ,などうそぶいてみては,面白いほど旨い,昼の青菜炒め。
窓を開ける,お茶沸かす,かさぶた取れる。病が治るとは,気の持ちようも強いのだけど
それに関わらず,ほんとうに一様に平和を感じる,ホログラムは共鳴して,ぼくは平和に
いま健康になる,とゆうことに,平和を感じる。銀行の振り込みなどに出掛けて,夕方の
下校中の子供たちに『こんにちわ』,あいさつ交わす。「アカシアの雨」の現代カバーを
聴きながら,現代には違いないけれど,過去の時代の何が素晴らしいって,ロマネスクの
重みの果てしない,松果体パラダイス。みな第六チャクラの開いていた時代の,そんな
過去の時代の,もう繰り返したくない,そうゆう意味を越えながら,峠を越えれば,また
それは歴史となって降積もる雪のように非常なロマンチックさを感じさせて,雪の日には
朝日にチラチラと南天と,小鳥のはばたきと,雪被る椿の,しずく垂れて,雨水まじれば
ココロに太陽の昇る。島崎藤村の想いは,文学的な話しになるけれど,雪の日にも温かい意志を忘れなかった,そんなシズカな過酷さに堪えて薫陶を錬成して行った,そうゆう
意志の練り上げにあったと感じる。匂い春けき,露ほどの喜びも知らず歩くココロにも,
しずごころなき,太陽の昇る,朝には,窓を開ける,お茶沸かす,かさぶた取れる。

もう絶望しても良いから,昼行燈で好いのである。ほんとうにそう思った。平和を証して
いる。ほんとうに証している。平和は昼行燈のあかりよりもたらされるモノ。絶望の陰に
したすらな灯明のこぼれて,このココロは安寧に帰す。眠られることは,ほんとうに平和
だ。うつくしい,それは感性の機敏な所よりやってくる,そう想像しがちだけれど,その
実,安寧以外の所より,ぼくの美学によれば,安寧より美はやってくるのであって,そこ
には,安寧以外の穏やかさや,平和の伴って,温かい美のやってくるはずである。この,
ほんとうに,ごはんも,無農薬でなくとも,湧き水や,雑穀などを加えれば,すこやかに
美味しく炊ける,とゆう事実。環境はモノを言わない。あえてゆうのなら,安寧がモノを
ゆう時代。安寧は,どこよりやってくるか?すこしの工夫。多分,透かしてズラすことの
諦めや遅延のなかにこそ,環境を凌駕する安寧の強烈疾風怒濤の嵐さえ後退する,平和の
訪れを証するこの,安寧の強い温かさ。諦めは大事なのだ。なので,放念して,諦念する
昼間のしずけさには,革命のにおいがぷんぷんと,いびきの音とともに香り立っている。
これは反骨的な革命精神と言わずして,何と呼ぼう。諦めの中に,眠ってしまう。それは
一度,昼間に世界は終わるのだ。自分の居ない昼間は過ぎて行く。この世に居ない自分の
眼を醒ませば,リセットされてその革命は一部の修了を試みた。ああ,終わったか。この
安寧の諦めの中に鎮座して,世界を眺める時,窓を開ける,お茶沸かす,かさぶた取れる。
平和な,かさぶたの取れて,あたたかいお茶を沸かすと,窓より諦めのムードとともに,
回復に観念は,落着き払って修了宣言を与えてくれる。世界に,与したくないし,その
与されたくもない。こう言って,いいや。そうではないのは,自分が与(くみ)さない,
のではなくって,関与しないのは,”執着”は,もう”世界に”くみさない。このようにして
段々と”自分の執着が世界に”くみさなくなってくる,と。確実に世界に平和はやってくる。
何故なら,我執の世界における割合は減ってゆく。比率の減って来た,世界のかるさは,
やがて,別の天体に飛翔し,軽くなった世界はフワフワと,安寧のなかをただよっている。

こちらは如何?

解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを

足元のゴキブリをきちんと処理できてからでないと、ものごとの全体的な オーガナイズなど、できたモノではない。かと、言って大きく自然は常に 世界にあるのだから、とりもなおせば、オーガナイズすなわち全体性とは 自然相手に行う人間の営為と言っていい。これは、自然相手の常識を壊す と称しても良いことで、その人間の中の自然、知性や、また、昆虫類の 自然と呼ぶにふさわしい集合意識的な流麗なエナジーに対しての、技術。 意志と呼べば、意志である。かと、言ってワガママには振る舞えない、 無意思の意志である。最近、穀物の喉元を通らないのは、こういった 自然への意志が挫かれている。むしろ、そういった意図を失うべきな 自然バランスの崩れを食欲不振や、情動麻痺に親い感情に観て取れる。 なので、その解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを起こして どうやったら貧血にならず、穀物も避けてよければ避けて通りもして この栄養失調との闘い、いや付き合い。にしても、快く自然のなかを 通り過ぎてゆけるか。酒でもない、薬でもない。とりあえず、イカの つまみでも摘んで、その勢いで、お豆腐、納豆。そうめんをすすいで 二束ほど掻き込んだ。これが精一杯だ。拒食の強い癖はないだろうが 温かい調理など食べられたモノではない。ましてやこれは過覚醒代謝 でもあるだろうが、意識を上向いていられる分、夏の大気は天国へと 持って行かれそうな暑い上昇気流をたずさえているのだから、すこし グラウンディングするように、穀物の製品も頂くべきだろう。夏の夜 昼間はラマダン期間のように食を細めていた自分の夜食に祈りの姿を みせて冷たい食品ばかり頂くのだから、自然の乱れとゆうよりそれは 自分の乱れである。そうして、呆然と朝を迎えて、鳥の声は盛んだ。

生命システムを収束させているようにも感じるのは、真夏の景色だ。 乱れは美しくもあるが、それは整えられた収束するシステムの過程を まざまざとミクロに見ているのだから、そう乱調の美を感受するのか とも思うのだった。いわずも全体性のオーガナイズは自然への技術的 意志の欠如のうちでは成立せず、そこには知恵の要る知的作業の求む らく、あの野草の薬壷へ手を突っ込むような感じで、よもぎ餅を摘む 大きな頬っぺたで味わう春の蠢きを再現させる作業を必要とするのだ。 夜食の後でアイスバーをたべた。空になったバーの木の匂いは象徴的に その感慨を現している。きっと、自然の芳香を実際…

珈琲プレグナンスとゆうは、地球号温室にて培う

さもなくば、右側頭部の情欲野ともとれる情緒的ヒステリクスは肝要。 男性性が這入りこむので、情念はヨコシマなアーリマン的要素をあらわすので、 いたって自然理にあれば、そのヒステリクスは肝要。アーリマンは赤鬼。 ともすれば、男性性を太宰など、イザナギ神話にあてはめまた、 女性性のイザナミ陣営を、アナトールと芥川氏のフレンチな文学に例えて、 大谷崎=イザナミ女神の文学性へ返すように、そうすれば、 自然体の情緒的ヒステリクスは肝要なのだった。能面が、般若に変るのは 黄泉比良坂において、三島文学=菊理媛の仲介役によって、その岩によって 光り輝く太宰のイザナギ男神的精悍さを、情緒の乱れによって見送る時に。 怒り狂えるイザナミ女神の発端は、男神の一枚岩の正義がわがままに響く その呆然とする知性に対しての怒りであって、それは何か裏腹への怒り。 表裏一体こその静けさであるのに、表面的な反射によって判断する誤りに。 この般若の相貌には、ひとかたならぬ静かな暮らしへの想いがあってこそ。
正しく、情念には破壊を浄化してゆく知恵のコントロール技術の含まれる。 そうして裏の循環摂理はなりたっているので、光りによってすべて消す といったようなのは、戦争経済と何も変わらない志向であって、情緒的な 日常の天然湿度の中で解決する身体由来の経過のあるとするなら、それは 情緒の情念的ないわゆる情欲循環コントロールによってしか、その常温は 保たれないのだった。般若は常に嫗である。いや、そうあるべきなのだ。 そうやって、いつも怒りに枯れている茫々と寂寥とした感慨を現すのが、 情念にはふさわしい。計らずも男性性は遠く彼方に押しやってしまえと、 巌に蓋をされた、彼らの国は、もう鉱物的なスピリチュアリティにしか、 含まれず囲われ、だき入れられてはいないようだが、そこに、男性性の 隔絶とした、中和され赤青に別れた大地と空との、水と風との調和は 有りえないのだった。珈琲プレグナンスとゆう造語を嗜好しだすのは、
そこに、情緒ヒステリクスの地球温室においてはぐくまれる暖かさの中で 結果的に正しさとは受容するのによって見出されるモノの多分に大きい、 そうして、正しさとは、ストレートさ素直さ一面性のたぐいにはなく、 多面性を受け容れること。情念コントロールは情欲循環的な何かでは、 そうして破壊を調整してゆく暮らしの技術におきながら、戦争経済とは 一線を画す技術の生活意欲として、裏側の…

業の泉へと向かう身体の、ラッセルと太宰に寄せて

ラッセルは、聖パウロのようで、太宰はイスキリのようで。
だんだん、平和への祈り道が、業の泉に到着しそうな予感がして、 潔癖症なくらいの綺麗好きなのが、人間臭さとゆうか、仏の道などと 融和して行きそうな気のする、不可思議な強靭さを呈している例え頓挫しても 身体は、もっとマジカルなパラレルトリックの物質ベースで核融合する、 そんなカルマベースで行ける世代的にも壮年期である、現代生活ではある。 その業の泉に予め潜ってゆけば、クリームチーズのしっとりパンを食べて 抹茶の豆乳ラテを片手に吸いこんでいるこの孤独なポルターガイストに、 あるいは、怖いは好きの裏返しと言うのは、殺意さえも愛情ではあるが それに対して、業の泉に融けこんでゆくのが、ひとつの世相ではある。 こうして美女と野獣をみながら、眠りに親づいてたまの孤高にある夜中。 ロマンチックにあればまたも安心するが、しかしながらも文学にあっても まだ安堵の嘆息ついてはいられもするのに、ソファに横たわりながら、 空調を点けて念じることのあるならば、やっぱり安寧はここかしこの 瞑目してみえてくる、あるいは知性はラッセルにも、太宰にもある。
鋭意において、横になり手に余るほどの情報を世界は2つか3つあるのか、 この希望ともとれる情報存在は世界を意識すれば動じて溢れ出てくるのだった。 ロバは、四肢によって人間と同じように体幹を感じているのか?とは言えば、 幸福論を読むラッセル的知性は、太宰のアフォリズムによってもまた違う感じ を抱かせている。この感じは綺麗なのと、情熱的な愛のカルマとまた似ている 希薄で軽やかな明度の高さと、低部にありながら、渾々と湧く泉の如く、 頂上と伏流水の部分には地点的に密度は違えど、空間も時間速度も違えど、 知識として共有している何かの輝きのあるのだから、例え山頂と麓にでも 星はみえるのだから。この星とゆう知性の知悉するファンタジーを大切に してゆこう。これは、いつも知識はこの魂にあるゆえの共通地点。なので その叡智によって、wisdomを捨てるとこまで行かなければならないのだ。 Let it beも、風に吹かれて、にゆかなければ、その先は普通の生活なので その繰り返しながら発生する風の地点。送風の生起される場所が好きで、 それでも同じく普通の生活の繰り返しながら、叡智を捨てる所にいれば 叡智を捨てて風の起こ…