スキップしてメイン コンテンツに移動

糸を撚る,念じる=朝焼け

念じることは,日がたつに連れて,執念深さからは離れて
更には,すず風の感じられる頃になって,念じなくなってくる。
糸を撚る。強撚糸(きょうねんし)などとゆうが,糸を撚(よ)る。
念じることは,そのまま糸をつむぐことと同義で,あの糸車を以て,
がらがらグルグルと廻転させる,あの風車小屋のような,強風には
いくら要請されても,撚れなくなってくるのは,実態である。しかし
衣服は,強靭な,強撚糸をある程度は要求されるもの。なので,あの
衣服は,強い風や,太陽の熱射線にも耐えられる,念(撚)じ方を,
されているのである。まだ,糸をつむぐことのあるとしたら,本当に
意地でも生きて遣る。そう言って,魂の入ったように,目が覚めた時。
執着を離れて,豪奢に諦念する,そうして,ふっと,我に還った時には
また糸をつむぐのだろうか?恋をわすれて,人を想わなくなったとき,
ぼくらは”人間”になるとおもってきたのだけれど,そうやって,固形の
コンソメ出汁のように,スープに溶ける瞬間の遣って来た時には,また
芳醇な,発酵パンにも合う,秋風を日差しに融け込んで,露わにするの
だろうか?これは,念じることのテーマであるので,そうやって,撚じ
に返って来た時,いまはそれが大人風に失われそうになっている頃合いは
解らないだろうなりに言うのだけれど,”糸を撚る念じる朝焼け。”

ほんとうに人のことを想う,とゆうことに焦点を合わせて,考えてみる。
考えるとゆうより,思いを馳せてみる。もう,ひさしく諦めてしまった。
なにかの恐怖を入り口に,文明社会の嚆矢となることは,諦めること,と
人間真情の嚆矢となることからは離れて,いつしか,弓を弾く手になって,
いつも,肩を痛めて,常には動じることのなくなってしまった。そうして,
あれは”想い”だったか?すでにわすれられそうな,完全に失いそうになって
念じる,お腹の魂胆とやらを手放そうと身体のおもう瞬間,”想いの念じ”は
最期に挨拶をしに遣って来ているようだ。ほんとうに,良いのだろうか?
恋することと,執着と,人を想うことより,はなれて良いのだろうか?ぼくは
もう,文明社会に酔っぱらって,”想う”ことの我執を,放念してしまいそうだ。
今日は,もう,眠るからね,さようなら。こうやって,毎日我執とお別れして
いるのだろうな。そんな程度に,”想い”にお別れを言って,今日はそんな気分。
我執に対して,眠ることを優先して,生きることはやすむこと。と,言いつつ
なぜだか知らない送別会を,俗世界の思念としずかに執り行っている。今日は,
ほんとうに想像以上に,人のことを”想って”いたようだ。なにも執着がないので。

自動的に,意図的に生きる。こうやって,時間軸は,支柱を失って,非物質に
その執着をはなれて,お風呂に浸かるその瞬間には,触覚は温度感覚と一緒に
教えてくれる。この世界は,”想い”によって,見える彩りや,色感覚を備える。
情緒か,思いやりか,習慣的にあいさつするような感じで,その言葉を扱って
いたようだ。それでいいのだけれど,別段不自然には感じられない,習慣的な想い,
うん,それで,良い。大人の情緒は,『自動的な意思=習慣的な思いやり。』の
それでいいのだ,・・・かと言って,『想い』にこだわる私の思い。これは何だろう?
瞬発力,本気。情熱的な悲愴感のある行動に,それらを求めているらしいのだ。
そうゆう例えば,仮説=芸術をもとめる人の本性論,をモノにして,一説を唱える。
いいや,そんなのでもない,傍らにサッシ越し,訪問者のように盗人が鎮座まして,
彼とともにお茶を啜っている。そんな気分なのだ。この情熱に火種を発する,こんな
”想い”は何なのか?わからないけれど,何かを懐妊したような,こんな”情熱”の孕み
は,一体なんなのだろう?きっと,追及すれば頭では解らない。お風呂に這入ろう。
這入れば,判る。きっと,歯磨きをしたかっただけだ。何も,進歩はしてない,期待は
しないほうだ。歯の奥に何かの挟まっている感じ。これがただ表現したくて,1ページ
使ってみているだけだ。いいや,ほんとうにそうだろうか?多分,そこには感謝の一言が
隠されている。ぼくが”感謝”を言うべき,たくさんの人は,それだけ,黙想する以上に
ぼくに想いを掛けてくれていた。たくさんの宇宙にたくさんの人たち。こうして,それら
点をつなぐ線は,感謝線によってつながれている。支配ではないだろう?ほんとうの目的は,
きっと愛だったろう。愛は,恋して産まれるから,何かを孕んだ気持ちにもなっている。
感謝の産婆さんによって,産まれた愛の,心地よさにほれぼれするのなら,おやすみを
言う前に,ありがとう,を唱えよう。





こちらは如何?

解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを

足元のゴキブリをきちんと処理できてからでないと、ものごとの全体的な オーガナイズなど、できたモノではない。かと、言って大きく自然は常に 世界にあるのだから、とりもなおせば、オーガナイズすなわち全体性とは 自然相手に行う人間の営為と言っていい。これは、自然相手の常識を壊す と称しても良いことで、その人間の中の自然、知性や、また、昆虫類の 自然と呼ぶにふさわしい集合意識的な流麗なエナジーに対しての、技術。 意志と呼べば、意志である。かと、言ってワガママには振る舞えない、 無意思の意志である。最近、穀物の喉元を通らないのは、こういった 自然への意志が挫かれている。むしろ、そういった意図を失うべきな 自然バランスの崩れを食欲不振や、情動麻痺に親い感情に観て取れる。 なので、その解決に意欲を燃やす自己循環に対して嬉しさを起こして どうやったら貧血にならず、穀物も避けてよければ避けて通りもして この栄養失調との闘い、いや付き合い。にしても、快く自然のなかを 通り過ぎてゆけるか。酒でもない、薬でもない。とりあえず、イカの つまみでも摘んで、その勢いで、お豆腐、納豆。そうめんをすすいで 二束ほど掻き込んだ。これが精一杯だ。拒食の強い癖はないだろうが 温かい調理など食べられたモノではない。ましてやこれは過覚醒代謝 でもあるだろうが、意識を上向いていられる分、夏の大気は天国へと 持って行かれそうな暑い上昇気流をたずさえているのだから、すこし グラウンディングするように、穀物の製品も頂くべきだろう。夏の夜 昼間はラマダン期間のように食を細めていた自分の夜食に祈りの姿を みせて冷たい食品ばかり頂くのだから、自然の乱れとゆうよりそれは 自分の乱れである。そうして、呆然と朝を迎えて、鳥の声は盛んだ。

生命システムを収束させているようにも感じるのは、真夏の景色だ。 乱れは美しくもあるが、それは整えられた収束するシステムの過程を まざまざとミクロに見ているのだから、そう乱調の美を感受するのか とも思うのだった。いわずも全体性のオーガナイズは自然への技術的 意志の欠如のうちでは成立せず、そこには知恵の要る知的作業の求む らく、あの野草の薬壷へ手を突っ込むような感じで、よもぎ餅を摘む 大きな頬っぺたで味わう春の蠢きを再現させる作業を必要とするのだ。 夜食の後でアイスバーをたべた。空になったバーの木の匂いは象徴的に その感慨を現している。きっと、自然の芳香を実際…

珈琲プレグナンスとゆうは、地球号温室にて培う

さもなくば、右側頭部の情欲野ともとれる情緒的ヒステリクスは肝要。 男性性が這入りこむので、情念はヨコシマなアーリマン的要素をあらわすので、 いたって自然理にあれば、そのヒステリクスは肝要。アーリマンは赤鬼。 ともすれば、男性性を太宰など、イザナギ神話にあてはめまた、 女性性のイザナミ陣営を、アナトールと芥川氏のフレンチな文学に例えて、 大谷崎=イザナミ女神の文学性へ返すように、そうすれば、 自然体の情緒的ヒステリクスは肝要なのだった。能面が、般若に変るのは 黄泉比良坂において、三島文学=菊理媛の仲介役によって、その岩によって 光り輝く太宰のイザナギ男神的精悍さを、情緒の乱れによって見送る時に。 怒り狂えるイザナミ女神の発端は、男神の一枚岩の正義がわがままに響く その呆然とする知性に対しての怒りであって、それは何か裏腹への怒り。 表裏一体こその静けさであるのに、表面的な反射によって判断する誤りに。 この般若の相貌には、ひとかたならぬ静かな暮らしへの想いがあってこそ。
正しく、情念には破壊を浄化してゆく知恵のコントロール技術の含まれる。 そうして裏の循環摂理はなりたっているので、光りによってすべて消す といったようなのは、戦争経済と何も変わらない志向であって、情緒的な 日常の天然湿度の中で解決する身体由来の経過のあるとするなら、それは 情緒の情念的ないわゆる情欲循環コントロールによってしか、その常温は 保たれないのだった。般若は常に嫗である。いや、そうあるべきなのだ。 そうやって、いつも怒りに枯れている茫々と寂寥とした感慨を現すのが、 情念にはふさわしい。計らずも男性性は遠く彼方に押しやってしまえと、 巌に蓋をされた、彼らの国は、もう鉱物的なスピリチュアリティにしか、 含まれず囲われ、だき入れられてはいないようだが、そこに、男性性の 隔絶とした、中和され赤青に別れた大地と空との、水と風との調和は 有りえないのだった。珈琲プレグナンスとゆう造語を嗜好しだすのは、
そこに、情緒ヒステリクスの地球温室においてはぐくまれる暖かさの中で 結果的に正しさとは受容するのによって見出されるモノの多分に大きい、 そうして、正しさとは、ストレートさ素直さ一面性のたぐいにはなく、 多面性を受け容れること。情念コントロールは情欲循環的な何かでは、 そうして破壊を調整してゆく暮らしの技術におきながら、戦争経済とは 一線を画す技術の生活意欲として、裏側の…

業の泉へと向かう身体の、ラッセルと太宰に寄せて

ラッセルは、聖パウロのようで、太宰はイスキリのようで。
だんだん、平和への祈り道が、業の泉に到着しそうな予感がして、 潔癖症なくらいの綺麗好きなのが、人間臭さとゆうか、仏の道などと 融和して行きそうな気のする、不可思議な強靭さを呈している例え頓挫しても 身体は、もっとマジカルなパラレルトリックの物質ベースで核融合する、 そんなカルマベースで行ける世代的にも壮年期である、現代生活ではある。 その業の泉に予め潜ってゆけば、クリームチーズのしっとりパンを食べて 抹茶の豆乳ラテを片手に吸いこんでいるこの孤独なポルターガイストに、 あるいは、怖いは好きの裏返しと言うのは、殺意さえも愛情ではあるが それに対して、業の泉に融けこんでゆくのが、ひとつの世相ではある。 こうして美女と野獣をみながら、眠りに親づいてたまの孤高にある夜中。 ロマンチックにあればまたも安心するが、しかしながらも文学にあっても まだ安堵の嘆息ついてはいられもするのに、ソファに横たわりながら、 空調を点けて念じることのあるならば、やっぱり安寧はここかしこの 瞑目してみえてくる、あるいは知性はラッセルにも、太宰にもある。
鋭意において、横になり手に余るほどの情報を世界は2つか3つあるのか、 この希望ともとれる情報存在は世界を意識すれば動じて溢れ出てくるのだった。 ロバは、四肢によって人間と同じように体幹を感じているのか?とは言えば、 幸福論を読むラッセル的知性は、太宰のアフォリズムによってもまた違う感じ を抱かせている。この感じは綺麗なのと、情熱的な愛のカルマとまた似ている 希薄で軽やかな明度の高さと、低部にありながら、渾々と湧く泉の如く、 頂上と伏流水の部分には地点的に密度は違えど、空間も時間速度も違えど、 知識として共有している何かの輝きのあるのだから、例え山頂と麓にでも 星はみえるのだから。この星とゆう知性の知悉するファンタジーを大切に してゆこう。これは、いつも知識はこの魂にあるゆえの共通地点。なので その叡智によって、wisdomを捨てるとこまで行かなければならないのだ。 Let it beも、風に吹かれて、にゆかなければ、その先は普通の生活なので その繰り返しながら発生する風の地点。送風の生起される場所が好きで、 それでも同じく普通の生活の繰り返しながら、叡智を捨てる所にいれば 叡智を捨てて風の起こ…