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恬淡として糖蜜を舐める,寺の山上には夕日。

ふと,目が覚めて,次元相位とでもゆうのだろうか?何だか
今日は,はじめてこの夜にこの家で独り夜を過ごす日となって
ラップ現象などの多いこの家で,もう慣れてしまったとゆうか,
自分の脳単位の,微調整のようなものは出来てしまっている,と
十分安心して過ごしてしまっていたのだが,怖い,とも,思わず
なぜだか具体的には描写しづらいのだけれど,そういったちょっと
した,この変位のようなものに関して楽しもうとも,思われる,
それだけ胸の風邪をしたことで,『自分』とゆうものの,守るべき
”エゴ”の意識が抜けてしまっている,薄れて存在の重さは,薄れて
軽くなっていき。なんだか,ダブ・ミュージックと,クラシックの
ような中間地帯の不可思議なBGMを聴きながら,そんな,時間帯に
もう一度,そのラップ現象など,起こってしまったら,ぼくは嬉しく
マイタケを発見した古人のように,まるでもう舞い踊ってしまいそうな
そんな,ちょっとやばい時間を過ごしているのである。

そんな所にやってきても,不可思議に,「草枕」に出てきそうな,禅寺の
山寺にのぼって来たような心地になっている。日本の風情はもともとの所,
やはりUFO的な,不可思議現象に対しても,寛容に好奇の眼を,もって,
そうして,禅ではなくとも,踊り念仏なども,そういったラップ現象との
付き合いのなかで産まれた,非常にエキゾチックな遊戯衝動より起こったもの?
なんだか,ぼくは山寺にやってきたような気分でここに居て,そうして思う,
はてな?ここで,何がしたかった?そうだ,これぞ,一休さんの心地だろう。
そうして,なぞ解きを始めるのだろう。そうだ,一休の心地に非常に親い。
非常にエキゾチックな哲学的問答を始めるのだ。『幽玄のもとは何だろ?』と
”幽玄さは,恬淡として糖蜜を舐める,寺の山上には夕日。この部屋で現代は
ヒップホップの山寺ロックをかなでているような,そんなラップ現象の夜明け”
けれど,『淋しさと執着は何処で解きほぐれる?』といって,”その通りで,
ラップ現象は,おおむね,淋しさと執着よりやってきて,恬淡として糖蜜を舐める,
寺の山上には夕日。何だか,わからぬままにアイスクリームを舐めていれば,明ける
夜も,(夜がなかったかのように,)明けるものである。からして,淋しさと執着は
朝が来れば解きほぐれる。朝のようで,あれ。そうでなくば,アイスクリームを。”
『最後に,執着なくして,生命はある?』と訊いて,”あるとも,あるとも。こんな
恬淡として糖蜜を舐める,寺の山上には夕日。どっちでも良いんだけれど,執着が
嫌であれば,アイスクリームを食べていなさい,食べていれば,執着を忘れるだろう。
生命は,執着か,言葉か,どちらから,来るか。なので,執着は,我慢の多い事自体。
言葉は,アイスクリーム。どっちでも良いんだけれど,そんなことを考えるくらいなら
風邪でも引いてるんだろう。アイスクリーム食べなさい。”

こんな問答を繰り返し,熱病の独り夜は過ぎて行き,やがて眠たくなる。何だか,歌は
(と,言って,すぐにもっぱら話題の”歌理論”に入ってゆくのだけれど)歌は,口先から
吹いてくる風なので,風邪ひきの病み上がりには,きっと風の源である,歌の行為より,
そうして,世界に風の吹き渡る心地よく涼やかな初夏の草原のような,歌が席巻するこの
この世の中の,”音楽”のスタイルのおごそかなフィーリング,どれだけの咳込んではあの
辛い,”歌”を唄ってきただろう?だから,心地よい”歌”も聴いていたい。咳込む”闇の中”
と,口ずさむ”夜明けの暁”に対して,両者の,生命の両面性,執着の咳込み,言葉の旋律
に到って,本当に豊かな讃辞を加えて,筆を置きたい。咳込み闇がなければ,体験できない,
こんな”歌”もあったろう?祝いの”歌”には裏側に,あの苦しい,嘆きと切ない叫びの聴こえる,
それは”ない”とは,言えない。苦しみは換わってあげられないから苦しみとも感じられる,
だからこそ,祝祭の歌声を聴いた時には,何故か,心から祝える気のする,それが,なので
苦しみの賛歌でもなんでも良いのだけれども,そういった,なにかの,賛美をくわえるには
はっきり裏側を記憶しているのだ,記憶している,そう。嫌なので,”しない”のではない,
そこに”ある”,記憶をしている。こうゆうことは,”記憶と祝祭”の関係性を保存しておく
上で,確かな理由となる,最後に『苦しみに関して,』”なくなることは,ないにしても
なくなる努力を促してゆくことは,自然の必然的衝動で。その衝動は確実に進行している
けれども,そうして,苦しみの対義は,安寧ではあるにしても,娯楽ではないはずなので
歌を口ずさむように進むその必然的衝動を,横目に眺めやるそれ位でいいじゃない?”とゆう
そんな,読経の聴こえてきそうな朝であるから,恬淡として糖蜜を舐める,寺の山上には夕日。
山寺の和尚さんは,甘味を大好きであられる,とゆうようなそんな妄想は必然的に容易に
頭に,浮かぶそんな夜明けには空っ風吹く。

こちらは如何?

意味深長に珈琲=胆汁と,虚空アカシャの転生色彩譚

自分の中より明白に,何かの意味とゆうのが抜けてから,もう ひさしく感じる。意味がないのは,基本的に穏やかな静かさ。 意味深長に珈琲=胆汁と,虚空アカシャの転生色彩譚を標榜して, このBlogを,ただ描き切っていた頃合いが懐かしく,今もまた デカフェの珈琲豆乳を呑んではいるが,その懐かしさは過去による モノだ。大抵は,すでに生豆の焙煎などの200℃にコンベクションで 送風して,ゴーゴーと30分やそこらで終えてしまうようになってから 浅煎りなのだか焦げているのやら解らないように感じるのだけれど, それはそれでコーヒーの味わいには届いているのやら?割ってしまえば 飲むことはできるので,有り難く美味しそうに頂いてはいるのだった。
西郷どんを堀辰雄氏に当て嵌めて,萩原朔太郎氏は近藤勇になって, 谷崎潤一郎氏は高杉晋作=イザナミ女神的な,太宰に龍馬伝説を, 立原に乾退助の影あれば,川端翁は松陰先生で,三島に桂小五郎の 余韻を曳いて,それは歴史の風韻の現す,ラッキョウの砂丘には彼の 風紋を遺す,風の報せ。むしろの虫の知らせなのだった。また戦国には 堀さんは信長公,萩原さんは上杉謙信。大谷崎は下って8代吉宗公に, 太宰の独眼竜を供えれば,立原=千利休=秀頼公の,川端翁の信玄=武蔵。 三島文学は遠くサド侯爵=マキャベリまで溯る。付随して,漱石山人には 太閤秀吉=一茶によって,東照宮には芥川氏とアマテラス=恵比須さんの この豊かな不老不死伝説までも含めて,さては,宮沢賢治=清正の井戸。 ここまでよくぞ堪えてくださった,とばかり。意味深長に珈琲=胆汁と, 虚空アカシャの転生色彩譚を,計らずも与えて下すった”歴史絵巻”に謝々。

フォーの麺のあって,それに合うスープを造って頂きましょう,とゆうことに 昨晩も今晩も量はあまり摂らずに,眠りやすい環境を整えてゆこうと言っては, 胡麻味噌や,コチュジャン。鳥ガラスープに醤油みりん。ヌクナムなどに塩胡椒で ネギとニラ,油揚げを加えて,胡麻味噌には八角など,山椒の粉も入ってるので 大事なのは麺がゆるゆるにも芯残りにもならずに好い茹で加減でできるとなとゆう ところで,食卓には何とか一緒に楽しめるほどの時間は過ごせたのだった。あと, お風呂も沸かして,コトコト響いてくるような背景音に合わせて,こうして夕暮れに タイプして行く心地。あまりに最近お喋りもすすま…

とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。

白黒の隈を着けて,いつもよりも浅煎りの珈琲豆を一杯のお代わりを 受けて,淹れなおす。家の台所は,さながらカレー屋さん気取りの, とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。 とにかくもゴッコ気取りで楽しみながら遣りすごす,台所での一時。 ダサいと言っては,何だけれど,バランスの好いのはそうゆうことだ。 そうして,そうゆうダサさをこそ,落ち着いているとして好む,そんな 白と黒を半分ずつ割って入れるようにして,豆乳オーレにして頂く珈琲は, 真皮に黒を抱きながら,表面きっての自分自身は,笑顔で白を通す,その 面白さは微笑みより訪れるので,にっこり気持ちは構えて,ダサさを通す。 それでしか淹れられない,なかなか浅煎りは,カフェオーレでしか入らない。
追及しては,戻ってくるのは番犬や番猫で,何だよとゆうばかり,番猫なら 招き猫みたいにスレンダーな物腰で,いいやスレンダーではないか,でも。 多分,何にもいないのだから,彼らにとって,虫の知らせは,いわゆる枯れ尾花 であって,そのざわめきや囁きのようにして聴こえる,彼らにとっては雑貨店。 トフィーのような濃厚な滑り出しで,カフェオレに合わせながら眺める,こんな 洋菓子店をめぐるように猫などの物腰の豊かさを側に置いて,ぼくは先日のあの ロイヤルウェディングの様子を想いだす。白馬のリードしている子の,ちょっと 荒れているのには,繁華街に急に放り込まれた武士のようなイメージで,そりゃあ 興奮し,混乱もなさるでしょう?とは,そればかり心配してはいなくても,やっぱり パレードの壮大さは計り知れない。ダイナミックであり,本当に生命力学的にもっとも ハラハラもし,手に汗握る。この悠長にはPCの前に座りながら,安堵して,折り畳む。

基本的にはまた紅茶とキャラメルを合わせる感じで良いと思うのだった。ちょっとした
あの渋味と,焦げているような甘味のあいだで,切なさと勇気を半分ずつにおおげさに
振る舞っている。週末を終えて,家族サービスとゆう毎度のほどでもないのだけれど,
毎日に平日のスタートを切る僕にとっては火曜日。風邪を引いてると体力よりも果敢に
すすめないのでこうゆう話題になっているけれど,それも治った後の話として,本当に
スタートを切られることに,爽やかな活発さをさえ抱いている,早速まだ沸かしたてで
すこし温湯のお茶を頂い…

木星のユピテルは王者かオロチか。いままでの振り返りに三島文学

T.マンを聖ヨゼフのように置いてみて,またヘッセを聖母のように, アナトール・フランスはヘロディヤみたいだけれど,いつも伴侶として そうして,その木星のユピテルは王者かオロチか。いままでの振り返りに 三島文学を紐解いて,ユピテルはまたタウルスのように,虎獅子ドラゴン。 角をむいて,ひづめを鳴らしてる。平家はいまは民間のほうにあり,どちらか と言えば,源氏のほうが官になってる印象のあり,それはあくまでイメージ上の 捉え方だけれど,どちらが良いとゆうこともない。ぼくらは二分法のうちに, その掻き鳴らされたひずめの行方を案じて低頭に砂ぼこりへ咳込むばかりだ。 夜にはウーロン茶と豆乳を半々に割ってノンシュガーで少しずつ呑んでいる。 そんな頃合いに,どこまで行っても,この純粋な文学にあって,サド侯爵の 影をあたえて吹いている風のごとき三島さんのヨーロピアニズムと芸術指向に, はたまた,煤をいつも被って,ミサの毎に薫香の匂いを帯びて黄金にむしろ耀く。 この敗退の一途にしては,耀きをつづけるニーチェのゆうルサンチマンと呼ぶ辺り。 低頭に砂ぼこりを吸い続ける民衆のところどころに不毛の荒野に一輪のデイジー。 敗退の一途,か。攻撃性を否定すれば,いくら批准したところで世間体は常に彼の 後ろをついて,本来の王はあなたです,とは日常にあたえられる平和は文学に。 三島文学=マキャベリズム=武蔵坊弁慶=木戸孝允・桂小五郎=サド侯爵には, またフラ・アンジェリコの天使画の数々。この鈍いほどの重い香りを携えて,自宅には 芍薬を飾って,いまもまた鑑真香を焚いてすごす。彼の芳香には,恬淡と跪きながら。
三島さんは相当に筆のすすみの早かったように感じる。義務的にも遂行できる運筆の, そんなようなのを,良く感じる。葉隠入門などを読んでいると,まるで演算機のように すすんでいくタイプのリズムを感じる。むしろいつもそうだったかもしれず,無論のまた 抒情に浸ればひたるほど遅かったのではないか?とゆうには想像に難くないのだけれども 論調において,平和のために攻撃性を辞さなかった,その激しさに透徹した陽光の春めき などは,きっとこのあたり,彼の時間の調子と合わせられる特異性までゆかないまでも, 才能のごとき調和の一手のあったから。若きサムライのために,などは,僕自身のぱかっ と頭脳の開いた時にはことごとく濫読して…