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ある,ザクロのジュースの刻印づける記憶の跡。

トーマス・マンによる,実吉捷郎・訳の短編を紐解いて,
その瞬間に,なんだかロマネスク一言では片付かない,あの
ビロードのくれないに,幾層もザクロのジュースを染め付けたみたい
な,そんな重さや鋭さを感じるうち,なんだか,太宰の確執は,
とんと抜けて行き,そうしてその確執は人間性への追及であったのに
同じ人間性へのテーマを以ても,太宰のそれより,ある種の父親の眼で
確執を覆っているようなそんなロマネスクをトーマス・マンに感じる。
しっくり効いてきたような腑に落ちた知性を刺戟されて,僕は闘病中,
百日咳になる前に何とかカムバックしよう,と丁度ウチも一日独りに
なるはずだし,電子書籍でも,紙の書籍でも手っ取り早く手に入ったものを
読んでしまおう。一度は,『トニオ・クレーゲル』を,最近は『ヴェニスに死す』
を読んだ者としては,勿論のこと実吉・訳はないにしても,『魔の山』には
取り組んでいるものの,こんな身につまされて,自分の事を指している位の
文学を提示されて(いる気分の上には)”読まない訳にはいかないだろう”。
”この孤独”を感じる文学夜話は,どうしてか,日本の太宰と訣別する位なのだから,
何かを刻み付ける,ある,ザクロのジュースの刻印づける記憶の跡。を,提示して,
その終結を,持って行きたいと思う所存なのであるが,そんなことを言っても,

何故かしら,軍服姿を映し出すマンの手法に当っては,そのベルフォールのライオン像
孤高に,勇壮な軍壁を呈して,その前に確固と鎮座まします,獅子の像に思い到り,
何か,孤高の,とゆうにふさわしい,時代背景のそんな頃だったのだろうか?勿論,
マンの孤独に関しては,人一倍知らなくてはいけない奥深い記憶は沢山の犠牲の上に
傷付けられた記憶の山積しているはず。消化するとか,そういった前提の話題ではない,
そうではないのだけれど,マンの背景に,なぜライオン像のような孤絶がみられる?
マンは=大ゲーテ=ミケランジェロ=シェイクスピア=征服王ギョーム2世の陰影を,
そのルーツ印象的にみるのだけれど,一種ぼくのなかでは伝説じみたその聖ヨゼフの翳を
殊更,文学史を眺める中でも気にしているつもりのなかったはずだった。しかしながら,
全体主観,この巨視的思考のなかで,闇に入り込んでゆくエンパス共感的指向を携えて,
ようやく犯罪史などの,心理的探究の奥にある,その強靭なオリジナリティ,それは,
とある,強靭な普遍的オリジナリティとして,人類の代表者=トーマス・マンに到った時,
非常な孤独と,それに伴って現れる,あの軍服姿の騎兵隊たち,『ある幸福』などを
眼を通せば,思うだろう,ヒステリクスや共感を超えて,楽隊の鳴らす,騒ぎのなかで
最も,孤独なのは,作者の精神的なその視点。視点はどこに据えてあるか,きっとミロの
ヴィーナス像か何かの胸の中心からレーザー光線のように忍び寄る彼の作者自身の非常に
孤高な視線には,なにか色ごとめいたロマンチックな情景にも,グルメに忍ばせる空腹も
満たせない,必要とあらば,その風邪,百日咳になる前に治してあげますぞ,と言った,
彼の作者自身による,知的犠牲投身の一本の旗に換る,彼の身体は一本の旗手を持って
それ自身のフラッグを揚げた汽船になるような,だから,ジブリはすごいなあ,あれえ,
変な方向に行ったな,とゆう感じだけれど,すでに日本は,知性の投身は終えていて,早
何時の頃から,三島文学やジブリの登場で十分に人類の代表者を身を以て任じる,そんな
生産者的国体になっていたのだった。

マンは決して堅い人間だったわけではない。けれど,もう一本の旗になってしまった。
それは,その知性の陶冶薫陶は,もう知性の投身までなって,いちど,藻屑化している。
だから,咳風邪に身を焦がされ胸を焼かれてしんどくなった辛い心情には,耽溺しながら
彼に就いて行こう,とゆう気概を感じさせる,胸の特効薬がある。だから,文学史に耀く
『魔の山』としてサナトリウム文学を華開かせたのだろう,彼は,蕩尽した真情の魅力が
いつかまた潤うように,ああいった文学を華開かせた。胸が焼けるとゆうのは色んな意味で
蕩尽し,使い果たすこととよく似ている。それは,消化器官においても,一度は人生で
訪れる,消耗性の疾患にも親いはずであるのだ。
ある,ザクロのジュースの刻印づける記憶の跡。あんな酵素の塊のような,ルビーの果汁
を,幾重にもかさねた糖蜜があるのなら?そうやって,いつまでも咳込んでいるよりも,
眠っていても辛いはず。現実にはどうにもならない,そんな時代も幾瞬間,繰り返されて
いまやっと,その想いを体験できたので,咳風邪には感謝してるし,太宰への人間性にも
振り返りながら,ここまでの水先案内ナビゲーターをしてくれた大国魂の太宰にも感謝。

他者への関心に拘泥することはないのだな,それがとりあえずのコミュニケーションだと
そう思って,ここまでやってきたのだけれど,咳風邪をして,胸は焦げて,世界的な文学に
逢えて,そのサナトリウム文学は,いかにも筆致を情緒エモーションにだけは向けない。
ただ,世界的な結核を治そうとだけして描いている。ここだけは意図を汲み違えてない。
文学をして,病を治すその理由や,きっかけとしてあるのは,共感する情緒ではなくって
そこにロゴスとゆう絶対客観視による筆致,この描写する筆致にこその,治癒力なのだ。
治すことに掛けて,マンはきっと,優しくて,しかし蕩尽している世間を眺めながらの
無化した精神体の裡に,やがて,彼は何故どうして,サナトリウムの描けるのだろう?
主体者は客観視できないのではないのか?もはや,同化していた?いいや,それも違う。
きっと,文字や文学やロゴスといった,知的投身後の,ある知性はやはり彼の中に到って
ある,ザクロのジュースの刻印づける記憶の跡。香りのぼる様に,甦ってきたのだろう。

こちらは如何?

とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。

白黒の隈を着けて,いつもよりも浅煎りの珈琲豆を一杯のお代わりを 受けて,淹れなおす。家の台所は,さながらカレー屋さん気取りの, とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。 とにかくもゴッコ気取りで楽しみながら遣りすごす,台所での一時。 ダサいと言っては,何だけれど,バランスの好いのはそうゆうことだ。 そうして,そうゆうダサさをこそ,落ち着いているとして好む,そんな 白と黒を半分ずつ割って入れるようにして,豆乳オーレにして頂く珈琲は, 真皮に黒を抱きながら,表面きっての自分自身は,笑顔で白を通す,その 面白さは微笑みより訪れるので,にっこり気持ちは構えて,ダサさを通す。 それでしか淹れられない,なかなか浅煎りは,カフェオーレでしか入らない。
追及しては,戻ってくるのは番犬や番猫で,何だよとゆうばかり,番猫なら 招き猫みたいにスレンダーな物腰で,いいやスレンダーではないか,でも。 多分,何にもいないのだから,彼らにとって,虫の知らせは,いわゆる枯れ尾花 であって,そのざわめきや囁きのようにして聴こえる,彼らにとっては雑貨店。 トフィーのような濃厚な滑り出しで,カフェオレに合わせながら眺める,こんな 洋菓子店をめぐるように猫などの物腰の豊かさを側に置いて,ぼくは先日のあの ロイヤルウェディングの様子を想いだす。白馬のリードしている子の,ちょっと 荒れているのには,繁華街に急に放り込まれた武士のようなイメージで,そりゃあ 興奮し,混乱もなさるでしょう?とは,そればかり心配してはいなくても,やっぱり パレードの壮大さは計り知れない。ダイナミックであり,本当に生命力学的にもっとも ハラハラもし,手に汗握る。この悠長にはPCの前に座りながら,安堵して,折り畳む。

基本的にはまた紅茶とキャラメルを合わせる感じで良いと思うのだった。ちょっとした
あの渋味と,焦げているような甘味のあいだで,切なさと勇気を半分ずつにおおげさに
振る舞っている。週末を終えて,家族サービスとゆう毎度のほどでもないのだけれど,
毎日に平日のスタートを切る僕にとっては火曜日。風邪を引いてると体力よりも果敢に
すすめないのでこうゆう話題になっているけれど,それも治った後の話として,本当に
スタートを切られることに,爽やかな活発さをさえ抱いている,早速まだ沸かしたてで
すこし温湯のお茶を頂い…

憑依するとゆう言葉には,入り神級と創作ウォークイン。トリップなど様々

前世ゲームとは言え,嵌入しきって書物の渉猟をすることは,最も
アクティブな瞬間で,それはインナーに居て,集中度の高まる体験。
憑依するとゆう言葉には,入り神級と創作ウォークイン。トリップなど
様々あるけれど,それは研究意欲としてそうなのであって,きっと以て
どれでも良いはずの日常と,外側の経験則のなかでは処世術としては
仲介されえない範囲の事柄ではある。なので,運筆とゆう詩性に向かって
コンスタントに埋没しきることのなかにも夕暮れ時に適うような,そんな
”前世”=書物文化のあって良いはずだ。転生とゆうことは,それほどまでに
コンセントレーションの中に含まれていて,一種の隠喩のようにそこにある。
それで,いま没我した自分は転生している,うん。それで良いじゃないのか?
例えば,自意識のうちで,第一に身体を漱石山人より,次に生命力を太宰さんに
三番目には意識的に明るさを芥川氏より頂き,個我みたいなモノは三島文学より。
僕の竜退治のミカエルは彫刻家のロダン=文学にF.ラブレー=透視にスウェーデンボリと
言った大家より受け賜って,ジヨットのイコンにおける精神性において開花する。など
ここまで自意識的に説明したところで,それらは”前世”とは関連のないことではある。
集中力に謎解きの扉を開く鍵のあることを知悉して,ようやく,眠りに就けそうである。
渾然一体となってファンタジーは,一度死に,二度目に産まれる魂に対して,何らかの
ギフトを与える。集中力によって,ソウルは再び現れた記念として,”前世”の贈り物を
授かるのだった。そうやってゆこう。黄昏に,贈り物としての言葉を貰うようにして,
やっぱり夕餉の匂いは良いモノである。そこかしこに湯気の上がって,昔はさながらの
薪のくべられた薫りなど漂っていたろう。こうやって,時代は溯られれば,魂のうちに
何らかの,記憶=ファンタジーを得ることのできるはず。

急に,突然の報せのように,白い聖母信仰のほうへ寄りかかって行きそうな気さえして。
夕餉の匂いにのせられて,それらは,ふわりふわり声明を携えて近づいてくる。夕暮れに
不可思議な想いを感じ取らせながら。この白い芳香は何処から遣って来て,今さらながら
ついにこの辺りまで,ついの最近までは,いったい何処に居られたのでしょうくらいの,
何だか不可思議にふわりふわりと感じられる香りなのであった。良い…

季節を描写するのみで良い,そんな甘露の雨粒と,上がった後の煙。

人文的な要素のないと言葉の発想も浮かんではこないもので,なおさら まだまだメモしておきたいことのありそうで,けれども,もうこんなにも 季節を描写するのみで良い,そんな甘露の雨粒と,上がった後の煙。雨煙に 合わせて,ヒーリングのアロマ・ミュージックなる分厚い音楽を掛けながら そのブランケットにくるまれて温かい心持ちをして,人文的より,また素描。 ああいう荒野にそっくり掘り込まれた教会遺跡群などは,もうイニシエートの それら現代のクラブシーンだったのだろうか?僕はその際,家で,お茶を啜る あのインナースタイルの静かなもんだったろう。なんて,基本的に動くとゆうか 家の中を満たすひとつの酵素で生きていたい。生活の匂いは,家の樹々の香り。 肉食には,昔の突っかかりを感じて,なかなか馴染めないけれど,元気は出る。 美味しさに賦活されて,文化的に色々楽しめることを良しとしては,けれども 今となっては,雨に巻かれてウッディな温もりに浸透されることの,浄福なので。

咳や熱風邪も,一度肺炎になった?と感じ始めたところで,一気にスノーマンの 夢を見て瓦解するように退けて行った。その余韻に燻製チップのような薫香の, ハートあたりに漂って,それはまた幸せな健全さの回復を予想させるので,納得。 燻製や北国のイメージは,やがてその厚くなった肺や気管の様子を想像させて, それでロマネスクなのだった。北国は,やがて魔の山も克服して,こうして篤く 人のこころを暖めてくれる。けれど,だからといって,こうゆう時に何かお肉食を 試みたくなる。本当に,篤い人生を効果的に造りだしたいのだ。むしろ,厚く強く。 豚肉の小間切れを,醤油麹とみりんで,お酒を加えながら,すこし甘味噌など足して 玉ねぎ,白ネギと共に炒めてみたのだった。奥さんは仮眠中なので,起こして頂ける ような料理だとは思えないので,ソファの近く,炊き込みご飯を解凍したのと,側で 摘んでいた。明日は英国のロイヤルウェディングだと,ニュースでしていて,思わず 感涙してしまい,僕も不可思議ながら,少しく傷付いた思春期に,感情移入しては, いかばかりか砕けた心持で経過を感じていたので,何だか,ホッとして,うるっと。

すべてお肉食で感情までも呑み込んで,取込んでしまえたらそれで良いのだけれど,
切なさや,哀しさ。鎮魂の想いまでは,そんなに簡単に解消していったり…