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10月, 2017の投稿を表示しています

飴玉の女神と,蜜柑の女神と,珈琲の女神。

ヒステリクスにテーマを置いて,結局は自分にヒステリーを, 鏡のように鑑みて,そこに映った自分は,ヒステリクスだと。 本来の観光などをして,大地の親和性を持ち帰ったまま,その リンパを流すように,心のストレッチをして,その試みののち, 土地爾来の,自分のヒステリーの対置融合などこころみるのは, 最高の旅の土産話だったりする。それは,旅に行った自分への。 旅の途上では,時間の無駄を最大限に遊興するその感慨に浸る, そうして,人間性や現地の親和性を感じて,それぞれに蓄電し, それらを持ち帰って,やはり鏡のように鑑みるヒステリクスと 対置させる。勘違いだって思うけど,そのヒステリクスの姿は 変容させられて,それは,旅の最高のお土産になったりするのだ。
勿論,土地のヒステリー=鏡としてのヒステリクスなどは,旅の 前もってでも,既に洒落っ気などでカワしては来たものに違いない。 違いないがしかし,ヤマタノオロチ退治の伝承のように,旅よりの 土産物のように,スサノオが退治するオロチ=ヒステリクスの姿は 洒落っ気でカワしていた自分も含めて爽快の一途を,垣間見させる 非常にスリリングな旅のお土産話の道程である。飴玉の女神と, 蜜柑の女神と,珈琲の女神。正直に旅のお供はこんな非常に甘い, 一粒一粒の,一かけ一かけの,一滴一滴の,甘い甘い女神の恩恵で, 例えば,女神とは,スサノオと対峙するように双竜として機能する, 月の女神に違いない。そうやって,旅より持ち帰るお土産じたいの, それは月の女神以外の何者にも違いないのだ。それでは,いつも洒落で カワす,お子様としてのヒステリーの逃亡者は何か?それはまた自分の オリジナリティでもあって,旅は,親神を連れて帰る,さとがえりとは ある意味親い関係を持っていると思う。飴玉の女神と,蜜柑の女神と, 珈琲の女神。退治するのは,また意味合いの違う話には,なるけれど。
それは,決して逃亡者は,オロチより逃げているより,そこに居ながら 避けているのだ,飄々と逃げながら,お洒落にカワしている可愛い者。 太宰が,マント姿で呑みながら,ニコニコと街頭をあるいていたような, 彼はヒステリーよりの逃亡者だったろう?けれども,旅に出ると,百景の 要旨で,あんな御坂峠の不可思議うつくしいイチ・シーンの描けたりする。 秋の行楽に,イチ・シーズンは,まるでそんな逗留執筆を…

段々と,エナジー・ボトルのように扱う大地の礎。

眠気を抑えながら,抑え込みつつ低血糖のような気怠さを。 突き進みながら,癇癪を受容して,三島文学とゲオルゲの。 ゲオルグとゲオルゲの違いを調べても上手く説明できない, しかしながら,太郎と次郎の違い位なのか,タカを括って まだ,古書店には秋の小人の画文集の揃えてあるのを聞き耳を 置いて残しながら。いつか,段々と,エナジー・ボトルのように 扱う大地の礎。二時間も独り待ちぼうけを喰らって,その双方向。 双方向を求めて,結局辿り着くのは,自分で,いくらでもエナジー。 エナジーを操作するように体幹をコントロール調整することを,一貫。 一貫して,怒りに託さず,応酬にも天然頼らず,そうして武者震い。 段々と,エナジー・ボトルのように扱う大地の礎。ブルブルと,心の ココロの,体幹を揺らしながら心中起こったことを綴りたい,そう思う。
会話の弾みと,気の応酬を行きつ戻りつ,往復させて。赤いビーツの 果汁のようなのを,ボルシチのシチューだけではなく,赤シソジュースの ように,ただ順々にゴクゴクと呑み干す心地。意外と,野草・西瓜・葡萄の ブレンド酵素などを,豆乳と割って深夜に呑んだりしていると,その鬱屈と 心理開放されるその情感を,ああ,それはタンパク質はバナナのように, 酵素を,デンプンと合わせたものに違いないのだ。納得して,プログラム上, 例えば,珈琲豆や,バナナなどを設計図を描いて品種改良された叡智人類の 食べやすくとゆうより,その願いのうえで達成した,本来の設計図のあるとして, バナナは酵素と豆乳を割ったようなモノとゆうことと,何が例えばなのかは, 良く解からないけれども。豆乳珈琲などを毎晩晩酌のように造って口にして, これがなきゃね,など桃園の誓いのようにして,三国志の義兄弟の絆を約束したり もしかしたらこんな習慣的な奇特な発生の縁より,珈琲を割って豆乳と呑むにして, やっぱりデンプンからタンパク質を数珠つなぎのように追求しているのではないか? 多分,継続的な気怠さや,低血糖のような目眩に親いフラフラは,新鮮なタンパク質に よって,フイゴのようにクサビを淹れられて,生命力をあざやかに復帰させられるのでは? こんな反射機能的な順序で。時期的な段々と,エナジー・ボトルのように扱う大地の礎。 段々と,身体の機序もすこしずつ回復するように帰納順応して行く。こんな,写真を撮る 事に対…

非常に護られた空間で運筆す,珈琲豆乳啜り

むしろ護られた空間でなければ,ロゴスを運搬する役割など, 任せられる訳はない,何処かのスペースシップの船長さんは, そう言って,港町より頂いたスルメなど美味しそうにたべている。 何だか,宇宙空間のごっそり反転するような夢をみて,眠られずに ぼーっと目を開けながら,これは,風邪でも,ぶり返したか?また 案の定,朝掃除をやすんでしまって,ネギ抜きも雨天中止をよいことに 一日中ぐったりと,寝具に横たえていた。何か,胃腸の大掃除でもして 免疫機能の総入れ替えをしているような,そんな不可思議な感慨を以て, フシギでもなんでもない,日常の静かな室内をながめて,やっぱり一息。 夕方には,お茶を三リットルわかして,お米を三合ほど炊いてから,ああ そうだなあ,まだやり残してはいないか?とくに静かな室内からはそんな, オファーは届かないものの,けれども,夕食のお買いもの用に着替えたり, 今夜は,気分を一新してタートルネックとジャケットなど合わせようとして, ネイビーの組み合わせで髭を当たってから,チャコールグレーのデニムなど 履き込んで,奥さんの先日髪の毛をカットしてくれたので,余計に似合ってる, そういぶかしく自ずからなにをそんなに気張っているのだろう?靴下には穴が 開いているのを,すこし可笑しく感じながら。お茶は沸いて,ご飯もうまい具合, まだ六時だとゆうのに,夜は早く訪れて,何か焦ってる,なにも無いはずなのに。
『今日は,豚肉と白菜のミルフィーユ鍋にしよう,』そう提案されて,珈琲豆と, 豆乳も欠かさず,しかし白菜は用意せずに帰ったため,すこしの芯の周りの白菜と あとは,キャベツ,そうしてイレギュラーの春菊を多用して,豚バラで肉厚の鍋を また,焼酎やお酒もなかったため,みりんをすこし加えて約束通りの無加水で蒸す ようにして,ひと煮立ちさせると,良い具合に水蒸気の春菊の香りがしてきて,さて。 あとは,ブラックペッパーも最期のあたりに,すかさず振りかけて蒸してゆき,さあ, いただきます。とっても,美味しく。シンプルなんだけれど,一層何だか永遠に続く, 病み上がりの体質には,野菜のミストのように滲み渡って響いた。簡単に浸け置きで 鍋を片付けておくと,所望される珈琲豆乳を淹れながら,上手くいったぞ。湧き水も あるし,三拍子揃って,珈琲豆・豆乳・湧き水も思い通りに用意万端,アフター珈琲。 …

青い珈琲豆乳と,存在遊戯

どうもヒステリーとゆうのは,人道的なヒューマニティと親い, そうゆう関係性には,どうしても情熱と,優しさの必要なようで, 青い珈琲豆乳と,存在遊戯を試みるうちに,だんだん三種のストーンを ブレスレットで,ガチャガチャと着けている作文途中の自分の風景にも 微笑み可笑しさを投げかけてしまう,客観的な青い珈琲豆乳と,存在遊戯。 今日は白ネギの収穫作業の初日で,何だか,調子がくるってしまうほど, 暑かったし,せわしなく気だるくなる夜半のこんな内省のうちにも,豆乳を 珈琲と割って,青いまま頂く豆乳のアイスの半々に珈琲を薄く淹れて混ぜ, 半生な酵素のたっぷり摂れる珈琲豆乳で一服する。静電気の多いような1日, 僕は一瞬のうえにも我を忘れるほどのリフレッシュを,こうして文章を表す ことで行えているけれど,家族は溜め込んだまま頭が痛いなど言っている。 そんなような,妄想に親い,けれども。それを眺める自分の視点からすれば, そうゆう時,家族は妙に焦って,何かをしなければならないとゆうような感じ, せわしなくしていたのは一緒なのだろうけど,ああ,溜め込んでいるなあ。と, そんな印象で観察している。焦る必要はないのに,いいや,もうちょっと水分を 摂らなければならない,叫びを上げているのが,焦っているように見えるだけだ。
だから,転機は急にやってくるとは言うけれど,一生懸命になるべき一瞬は唐突に 瞬間的,瞬発的に訪れるもの。何か,ほかのことに,しかもそれはとっても重要な ほかの何かに集中しながら,エッセイの感性を試みて,一生懸命になる心地は, やがて豆乳オーレのなくなってしまう器を横目にやりながら,さしおいては,そう。 この,お茶を運んでは,お灸をすえるために,駆け回り,やっぱり最近も,家で灸を するときに限っては,あまり火災報知機など親い所にある部屋は外れて,そうして, こちらの寝室でなど窓を開けて,と。パートナーを誘導して,お茶を摂って,お灸を すえながら,もう眠ってしまわれたらよろしいようで,別に疲れてるわけじゃない, いいや,いやいや,はいはい。それはオツカレのしるしなのです。ゆっくり,睡眠を。 ぼくの場合に限ってではないようです,やっぱり手先を使って,準備や算段を図ること より,何か,エッセイを描くような,こんな心地でエッセイを造るように,頭の中を, ある意味からっぽにして,そ…

夕焼けには酵素ドリンクを掲げて,天に地に情熱の挨拶

以前,六十センチ幅の卓上機で,結局五十センチ位には なったけれど,割と大きなキャンバス生地を織って,彩色を 試みて,飾らせてもらったことがある。手織りキャンバス画, とそう題して,展示をさせて頂きました。今でも,部屋に飾って 大事に写真に撮っては,さらにそれを画像加工して,遊んだり。 念入りな作業には,心地いい余韻の残るもので,そのなかには バテてしまって,低血糖のような情況で途方に暮れることもあり, 決して,良い思い出には,など思っていたとしても,それはもう, 情緒の溢れる感じで,甦ってくる。夕焼けには酵素ドリンクを掲げて, 天に地に情熱の挨拶を投げかけるような感じ。交わすエモーショナルに 交わすパッショネイトする,農作業に当って帰る道すがらの,そんな 夕日には一瞥の,挨拶ならぬアイサツを,交通状況によって投射しても 殊更の,程よい酸味と芳醇な香りに至って,情熱は切なくても温かい。
シンパシー,とゆう言葉について,情緒はやはり,確かに実存であって, 妄想虚実の区別は付かなくとも,それはやはり確立された人間性である。 艶っぽさはなくっても,情緒に至って,それは,色と空の,あいだに いつも佇んでいる,そんなエモーションの実在形態なので,ときには 発酵食品にヨーグルトなど欲しくなる時でも,夕日を背に受けて,おにぎりを ひとつカブりつきながら,ゆっくりと自家製のお茶を啜って,ハンドルを 握り廻している。夕焼けには酵素ドリンクを掲げて,天に地に情熱の挨拶を, 攻撃的であることはリーダーシップには乖離した事柄で,むしろ控えめで, 遠心力を用いたひとの方が,ずっと統率に向いているらしい。最近,気づき ぼくは,そんななかでも,リーダーとゆうより,こまごまとした,皿洗いや 荷造りや,掃除の役目を担って,それは1日千円ほどで成り立ってしまうような そんな役割であってほしい。それは,ぼくの人生の課題である,しかしながら, 自信のなかに,願望を以て,ぼくの願いは,リーダーシップの支え役である。 さておいて,珈琲豆は切れてしまって,ひさしいが,なかなか次のストックには めぐり会えずにいる。それは出逢いである,珈琲豆は多分各種の産地にしても きっと神さまを帯びて,ひとを択んで出逢っている。ぼくは,しばらく距離を 置かれているらしい。暴飲暴食ほどの,消費を適えてしまって,やっぱりすこし 新…

ざくろ果汁を呑みながら,したたかにお風呂入れる時の

今日は,筆が重い。こんな格好いいことを言おうとしては, ざくろ果汁を呑みながら,したたかにお風呂入れる時の, ほんとうにお風呂につかることだけを楽しみにしているほど。 ちょっと1日愉快でもあったけれど,感情的に緊張度合いの 強い日だったようだ。帰って,お買い物をして,上の空とゆうか 火照ったような,つらうつら,と歩いていたのだけれど,そうか 夕食に,チーズフォンデュをしつらえて,パクパクと口元に運び, 急に,その張りつめた糸のほどけたのか,お手洗いに駆け込んで, ざくろ果汁を呑みながら,したたかにお風呂入れる時の, ほんとうにお風呂につかることだけを楽しみにしているほど。 あんまり真面目になったことは,なかったし,自分でもそんなに 緊張しているほど,真剣な事柄だけではないと思っていたのに, そうゆう人間ドックのような検診には,したすらに全力投球によって ぶち当たっていたようだ。スムーズに,ほんとうに万全な運気の様子で 抱えていた問題もクリアして,新しい爽やかな健康を維持保存していけそう。 みな医療従事者も,30代の方が多くなった。同時代人として,世知辛くは ない,その潔癖ともいえる噂話のない仕事ぶりを見ると,ほんとうに世相は 医療にしたって替わり始めて,それは屹然とした現実なのだから,否めない。
薬とゆうのは何にせよ,良性に敢えて言うのなら,良薬口に苦しと言えども, 快方に働くものとは,言わざるを得ない。副作用のある時ほど,治癒過程なので ある程度細胞レベルの回復してくれば,それは良薬口に苦しと言えども,やはり 快方に働くものとは,言わざるを得ない。依存などしてはいないけれど,それは 薬学は,確実に文化的素養も内含して,好奇心を満たす,知的にも快癒への働きかけ にも,両面において。金剛杵(空海などが持っている)を,川端康成翁も傍らに 置いていた,とは言うのだけれど,昔通販でたのんだ金剛杵は手元にあって,ぼくは 新しくタイガーアイや,オニキスを巻き付けて,変った呪具みたいにして,文豪の如く 側において離さなかった。けれども,奥さんがお土産に名刹のクリスタル念珠を購って 帰って来てくれた節,ぼくは,全部ほどいて,3種の巻き付けを,両手首につけてみた。 何が換わることでもないのだけれど,とっても豪華な気がして,ソロモンやダヴィデの 宝石リングのように悦に浸って,ほくそ…

エーテル体質は,お炬燵の昼間意識

経済的な観念の上に,聴覚を用いるのか,さて,視覚は, エーテル体質は,お炬燵の昼間意識によって,幻視の ように進む,エーテル的経済体質の,それは秋の日の 田園風景。かくのごとく,瞑想式にモノを考えるのならば 幻視を支える頭の各種感性は,まず水分補給をし,深呼吸, それよりの座敷に座ってモノを描く,そんな執筆習慣より。 視覚によって,経済を支えず。聴覚によっても,まだ頼らず。 手先指先に慣性を集中して,集中力によって慣性的に支える, それが,エーテル体質は,お炬燵の昼間意識の幻視経済体質。 大地の親和を図るのと同時に,何によって浪費するのかさえ, 気力=生命力=エーテル式にモノを把えて,消費を試みる, それが,エーテル式経済体質。瞑想的でもあるけれど,ようやく そういった,安心できる,精神的な自給自足の循環性に至った。
何か,糖代謝とか,セロトニンのような,そういった自給式の 安定した生活を可能にする,消化一般耐性の,農耕定住化なので, エーテル体質は,お炬燵の昼間意識による,この例えば糖質制限など 肉食や,生食菜食との関連は,一般の三食常識による栄養補給に よっても解決される,ハイキングと,ふくらはぎマッサージと, 咳風邪の過程に,何とか自力で治した,トンカツや,アイスクリームを 臆さない,常識的な栄養補給の何と功を奏したことなのか,多分は。 そうして,一般常識としての経済は,消費者としての住民は一律とゆう 真逆に把えれば『生産者としての人間性は多種多様で掴めない。』って, 言っていることの常識性は,つねに循環していなかったのだけれど, 何故か,昨今台風の通り過ぎたあとでは,そんな国土親和性とゆう磁気的 変化とともに,再編成する転換変貌する,消費社会の姿を,垣間見る,その 訪れは,夢見るイマジネーションの世界を連想させて,それはほぼ瞑想的な 幻視経済体質の到来,いわんや生産者の対置されない経済の薄明僥倖なのだ。 くらげのように生きる必要が,災害時の自然一体化には,必要であるから。
なにがそんなに,エーテルとか,大地との親和性を感じ考えさせるのだろう?
そうして,経済性や精神性の一貫した循環を垣間見させてくれる,この幻視は
一体どうして,瞑想的に安定して一体訪れるのだろう?ひとつは,そんなに,
ふくらはぎのマッサージの効果のあったのだろうか?とゆうことと,そうゆう

開口一番,陰が陽に転ずる秋日に自己主張しない

ふくらはぎのマッサージ機のようなものが出てきて,それは 掃除した後の戦利品のようなものであった。親くの,神社の 奥の宮まで,友だちを連れて参った,台風後の杉の葉,枯れ枝。 故郷に帰ったような心地で,そこの幣殿に昇殿観光させて頂き, 脚が痛くて,一日たった今でも,なんだか鎖に結ばれたように, ジリジリと,根気の良い観光案内を余韻に浸るほど感じさせる, そうゆう,開口一番,陰が陽に転ずる秋日に自己主張しないことを 感じさせる,イベント用に沸かした3クールの珈琲豆使い果たして, 要らないとなったので一日で呑み干したその嗜好の曳波を,ずるずる 引きずっていないかの疑いを晴らそうとゆうかのように,秋の日は。 珈琲豆がなくなってしまったのだ。欲しかったので,行きつけの大事な 珈琲屋さんでは,しかしながら,観光途中だったので所望することは, なかなか控えめに適わず,開口一番,陰が陽に転ずる秋日に自己主張しない しかしながら,掃除の際にもそうだけれど,一瞬のタイミングのうちに, 珈琲豆を本当に,きっちり使い切る刹那のリセット力は,一瞬はかどる位。 その感じさせる,感じさせる位の,珈琲には感謝を以て,一礼二拍手。
ホログラムとゆう指向のあって,極端にピュアなエンパス指向とも言える, 大国魂とゆう概念は,古来より日本にあって,その使い方は,各自国民の フラクタル構造を指示した,そんなミクロ宇宙は,大国マクロな,日本の 支点に,暮らしは,そのまま生活の基準を基盤とする,何らかの清潔さの そんな生活水準を支える個々の想いのありように,少しの願いを嵌めながら。 何だか,脚の筋肉痛に思うのは,やっぱりそうゆう,大地の磁気のようであり, 人の願いのような,そういった国土親和性のようなモノが,常に生活体である, 僕たちの周囲を取り囲んでいる,とゆうような,地元観光以来の余韻のように。 なので,ふくらはぎはとっても大事と聴きながら,そういった,身体の軸に, 脚がコテコテ筋肉痛になる位,歩いたり,地味に腰を据えて,意地の張りようの ある,キツキツの概念を,頭頂に昇る位の堅持していても良い。意志の問題, キチッとした,意図の在処に,テーマは収束されるようである。大地と親和して, あまり海外を体験していないので解らないけれど,自己同一性は,地磁気同調する 国土親和性として,もともと,生活者に備わってい…

台風に連なる,珈琲の苦み。思わず,アイスに。

とんでもない様相をしてきたものである。この台風に,無力なる
人為の,嵐に対する虚脱的インドア・ステーション。虚脱的とは,
台風に連なる,珈琲の苦み。思わず,アイスに。珈琲の苦みほど
身に滲みてくる,或いは骨肉に沁みてくる。年末さながら,明日は
お蕎麦を頂きたいものである。気持ちだけでも落ち着いて,五穀の
豊穣さを追憶していたいものである。さように,スーパーは雨漏りを,
傘は骨の折れて,いつの間にやら暴風警報。思わず,落ち着いて,とは
言ってみたものの,電子書籍にて『吾輩は猫である』を手にして,嬉しく
最初のヤカンの顔にみえる,あの節は,小学生の時に目を通してさっぱり,
理解も意味も露ほど分らなかったあの時よりこんなに嬉しく触れられる,
昨今の猫ブームで更に読みやすくは,感情的に浸っていられそうな感じ。
珈琲が不味いほど苦く感じるのである。その苦みはしかし後になって旨い。
この渋さは解るまい。漱石山人にはそう言われているかのように,飄々と
語って聴かせる,イロニー・ヒューマニズムの名手にして,さながら渋い。

暴風域の中では,ほんとうの想いも筆もすすまない。身体の心理的な作用に, 非常事態の染みてきて,やっぱり流暢な言葉遊びは可能性として,それどころじゃ ない,って言われてるようなので,読書に興ずる気休めも,そろそろ,眠るように 促される。促されるのは,苦い汁を啜った後のような,感情的に渋みのある重みの そんなさながら,眠りにしたって,何だか落ち着かない。嬉しくはあるはずはないが, なぜ顫動するように,はらはらドキドキしている?こんなに,無意識に響くくらい, 台風に連なる,珈琲の苦み。思わず,アイスに。氷を六個も入れてしまって,渋味も ひややかに消えてしまうような思惑を無視して,もう無感情に親いこの感じは,何だ。 正直に,赤信号の,武者震いだ。レッドカードのチリペッパー・ビーフジャーキーだ。 何だか,パートナーの手を付けてない,軽いカフェオレさえも,手を伸ばして,一気に 呑み干してしまおう。そんな気概で,こんな時にライトな味わいはどうしたって呑めない とは。思っていたのに一番旨いのは,クリーミーな豆乳ラテの,ぐいぐい勧むこの感じ。 無理をしないでいいのだ。はらはらしたって,ドキドキしていても,軽快豆乳な感じで。 今日は,半分休止となった公民館祭の出店で,初めてのミカン…

明け方に親い,淹れるレアリズモの

現実主事,その響きは,ロマネスクより産まれた強さの証。その, 明け方に親い,淹れるレアリズモの,虫の響きに酔っぱらうよりも 安い珈琲豆の美しさの豆乳を割って頂く,淹れるレアリズモの。 強さは欲しがったわけではないのに,ロマネスクより,産まれきて, 安い珈琲豆は,何か割った方が旨いとゆうのは,アメリカーナにも 多分,割っていただく方の好きなかたは,たくさんいられると思う。 その,高躁状態にあるのが必要なのではなくって,何か描く場合, 外側への出入り口の通り抜けて,現実主事に到る道程のすくなからず 要り様とされるのであって,強靭さロマネスク=現実主事なのだった。
ちょうど,ポピュラー・ミュージックに親い,輪郭はハッキリしている それに引き換え,輪郭を凌駕して拡がる,さりげない宇宙大の表現には 大衆派のカンムリを頂戴して,さらに演繹する奉仕精神の他者への音楽。 強さは,最大の防御のようにして,他者のためにあるものなのだ,って 結果論は語るだろう。そろそろ夢をみて,忘我のスタイルよりはなれて, 独りで,前世ゲームを語り合った日々より出発してゆかなければならない。 それは,一時的なものにはせよ,強さの,とある奉仕精神の終着駅へと。 それは,強さを持つとゆうことは,ポピュラー・ミュージックのように, いっときにせよ,他者への儀礼的精神である。と,そう,思うのだった。
教えは,身近なところにある。もう,教えを請いたくはないだろう,って
自分の精神は,昔から語ってきたのだけど,そんな精神にも,そんな教えは,
身近になところにあるって,伝えてくれたポップスの,あながち嗜虐的な
放射線状を描いて響きわたる,奉仕の精神。西部劇の面白さは,つとには,
もうあまり見る機会のすくなくなった今でも,その大衆性に,ロカビリーの
素敵な,放縦な芳醇さを,聴いては反復する,手織りブランケットのゴワゴワ。

自分で,珈琲を淹れるように。お腹は,空けば何かを食べたいと感じるように。 風邪を引けばやすむように。昨日は,我流旬彩,自分で料理をしてみたのだ。 丸い手で絞ったようなコンニャクを,白菜の細切れと,ごま油&醤油&みりんで, 煮つけにして。あとは,わかめと,あごの焼きと,大根を擦って,強めの米酢で, さっぱり酢の物。それから,トマトパックと,キュウリとタコの身を,にんにく, 油をしいて,海鮮煮込み風。…

窓を開ける,お茶沸かす,かさぶた取れる。

ひさしぶりに仮眠を取ることのできた昼間の安寧。それは, いまだかつて,病の時ほど寝られず,安寧とゆうのは昼間の 仮眠にあらわれる,健康の証だと気づいた三十路の夜明けなり。 こころの調子も良いとゆう事だな,こんな感じをもって,午睡の できる精神的な調子,サードアイチャクラとゆう第六チャクラなる ものは,第三の眼と言って,松果体と関わりのある,うんぬん。 何だか,調子の悪い時,夢の中で母親が,家庭とゆうスペースシップの 船長さんで,ちょっとやつれたおじさんだった事を思いだして,そんな 夢の情報に,夢うつつの朝方には夢の現実との境の付かず,そうゆう価値観も あり,か。と,心中つぶやいた時だった。ふっと,それは松果体なのか,この 開いた感じ,ぱぁーっと,ロマネスク開いて,カラッと健やかな妄想癖より 離れるこの視界の開けた感じ。サードアイか,何かはわからないけれど,ぱあっと それは,”ひらけた”のだ。なので,風邪のクセのある咳は残るけれども,だいぶ ブリ返しよりは,距離を離して,快方に向かっている。なので,昼間の仮眠に 非常なる安寧を抱いて,ああ,これぞ昼行燈,世も平和なる証なり。自他共にある。
春菊を炒めて頂いた。ご飯を炊いて,塩昆布を加えて,昼の食卓は以上に健やか。 フライパンが,鉄鍋のようにしっかりしたモノに換わり,近くのスーパーのフェアで ポイントによって半額になるとゆうお目玉の品。ところが,家に来てみると,この 重厚感は民芸風で実にすこぶるコレクター精神に適う。青菜を,油で炒めるのが今の ところ一番旨い。ほんとうにそうなので,ご飯に乗っけて食べる。アジアの家庭料理の 一味唐辛子などを加えて頂くあの食卓にお邪魔して,ほんとうに青菜炒めのレシピを 是非教わってきたいものだ,などうそぶいてみては,面白いほど旨い,昼の青菜炒め。 窓を開ける,お茶沸かす,かさぶた取れる。病が治るとは,気の持ちようも強いのだけど それに関わらず,ほんとうに一様に平和を感じる,ホログラムは共鳴して,ぼくは平和に いま健康になる,とゆうことに,平和を感じる。銀行の振り込みなどに出掛けて,夕方の 下校中の子供たちに『こんにちわ』,あいさつ交わす。「アカシアの雨」の現代カバーを 聴きながら,現代には違いないけれど,過去の時代の何が素晴らしいって,ロマネスクの 重みの果てしない,松果体パラダイス。み…

搾乳するように珈琲を淹れる秋の日に

いよいよ堰を切ったかのように,珈琲をドリップする習慣の 再スタートで,しばらく保存してあった豆は,実際にはあまり 美味く感じられなかった。三島由紀夫のインタビューなどを, きつっと聴いていて,急に呑みたくなったし,限定的な,その 口調の良く言えばハッキリしたモノの喋り方にしても,本当に 良い面しか受け取られない,そんな夕べをシトシト降りながらの 珈琲も,搾乳するように珈琲を淹れる秋の日にと言った,そんな 感じに,一気飲みぐい呑みに,したたかに喉を通る,粗挽きの ドリップしたその苦汁の一滴一滴には,桎梏の作文作業の映る。
小説は,潮騒ほどしか実際の所,読んだことはなかった。むしろ, 触発されるのは,若きサムライのために,など人文的な論壇における 口調に到って思春期のかくあるべく触発されていたので,本当に され過ぎない程度に,書を置いて,なんだか,しっちゃかめっちゃか 動き廻っていた二十代には感謝しつつ,今となって,まだ三十代半ばの 今更サムライになれる訳もない,とゆう体力に限界を設けては,実に 電子書籍には著作権の問題なのか,ほぼ三島文学はないのであって, なので,ぼくはフラ・アンジェリコの画集や,サド侯爵の著作検索など 行きあたって君主論など探ってはみたものの,今より三島文学の面から 文芸的な,歴史著作群に思い当たる所はないはずだったので,さては 美しい星などの,最近の映像作品などを当たるか,このヨーロッパ主義の 苦汁のロマンチシズムの匂いのする,雨の日の淹れる珈琲の余韻に浸って, とにかく,神棚に三島文学を形骸的にも据えて,ぼくも精神的に復活しないと いけないのではないか?
珈琲は出口を造る。快楽物質の感受性ポイントを,少なからず開いてくれる。 美味しくない珈琲などありはせぬ,自然の象徴は人間にとっての美味の成否よりも, そこに現象化する珈琲豆の神秘そのものだ。 モカの産地は,エチオピアとイエメンの両者に渡っての生産者によるモノで, イエメン産は,あまり量販店では目にかかることのないように感じるのだけれど ドイツ的なイエメンと,フレンチなエチオピアの印象のする,そんな感じによって, エチオピアのキリスト教会遺跡群に,地下に渡って掘られた礼拝堂にて,イマジン, 祈りに徹する機会はことごとく消えた。なので,ドイツ的なイエメン産の豆によって 祈祷よりダンシングして,…

かかる調子の,トマトソースにベーコンを,

すこし調子にのってしまい,書店などを訪れた際には,喉の 乾燥して誘発したのか,咳のすこしブリ返してしまった。やっぱり すこし,この乾燥性の風邪みたいなモノは,ちょっと流行っている位, それでも,届け物があったので,片道五分位の道程を歩いて,渡すために 散歩しながらフラフラしてゆく。外の大気を吸い込んで,楽になるのはいい, 気分転換に身体も動かさなきゃなあ,そんな気持ちで歩いてみるのだけれど, 道程その道のり,意外と軽い気持ちで,帰って来ては,昨今三島文学の,その ファッションとゆうものに惹かれて,サド侯爵や,フィレンツェの光景など, あるいはフラ・アンジェリコの天使像を思い描きながら,上滑りして,業の 上にも三年,淡々と軽快な,渡り歩いて行く文学性の姿を想像しながら,遂に その切なさ,胸の痛み,茫洋とした感受性のくびきより,何か統合されるような そんな,幸せと喜びの邂逅を,僕自身の想いを連れてきては反芻する文学性の そんな最中に美味しい珈琲を,頂きたくなる,茫洋とした感受性とは,晴れる前の 霧の摩周湖,晴れる頃には本当に日本晴れの空気を漂わせて,かかる調子の, トマトソースにベーコンを,半生のチーズを加えて,酸味だけを体験する,その かっちりと,グッタリした身体の骨組みを直すような感性で,帰り道を歩いて行く。
カマンベールチーズとザクロ果汁,厚切りベーコンと完熟バナナの取り合わせなどを
イメージしては,実際はザクロのジュースを呑むだけで満足し,ベーコンはそのまま,
完熟のバナナにいたっては,まったく普通に豆乳とミックスして頂く次第,単品からも
色々な取り合わせに感じられる食材の神秘は,実際にするかどうかではない,そう何かの
物語り性を潜めて持っている。こんな食材談義を病み上がりの中でしながら,本当の
休息とは何か?を考えてすすんでゆく。散歩は良かった。歩き過ぎはキツイかも知れない
けれども,喉も変声期みたいに潰してしまってこの方,表現はこの位何気なく始められる
タブの樹の大きく実る親くの公園に行っては,上を見やりながら握り飯をほお張る気分は
家の中に滞りながらだって,感じられる。そうやって,無理にでも出かけて,今の時期は
急に冷えたりもするでしょう?おにぎりも,冷めてしまっては,美味しくないはずなので
いや,いやいや。冷めて頂くのがおにぎりとゆうものでしょう。だ…

終電間に合うように,お抹茶啜りドアを蹴る

あまりに神経質になっていたせいか,肝臓の疲れなのか,また プライドや,思考癖に潔癖症を付け加えたものも,その肝臓の 疲れによるもの,と独断に断定を加え,また終電間に合うように, お抹茶啜りドアを蹴る。揚げ煎餅か,あられなのか,あまり区別の 付かないお茶菓子を頂いて,実際にお茶を啜り,帰りに会釈して エシャロットの塩漬けなどをパリパリ噛むことを心待ちに楽しみに, パスタも細麺であれば,ツルツルとコシのある(,とゆうのか) のど越しを感じながら食べられそうだ。茹でたてのパスタの事を 想像しながら,帰途に着く。
珈琲を,病み上がりに,どうしても受けつけなくなってしまった。 多分,あまり良い豆を択んで来なかったせいであろう,そう合点は いくのだけれど,本来,情報産業のPCを点ける位なら,当然のように 行う事のできる感性にも,なかなか自動車を駆け出させて, 行楽にゆくというような気分には,悠長にも,そうして,うかうか, 言ってられないような,そんな気分なのである。
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お茶を,啜る。本来水分を摂る目的の生理欲求に親い行為のその事は,
いかに贅沢に映る,まるで小春日和,春一番の吹き荒れそうな,こんな
のどかな秋の昼間に,Wi-Fiが入ったり,はいらなくなったりしている,
端末の選択画面に構うことなしに,実は,焦燥感にあふれた我が感性も,
ちょっとは睡眠に興じてみたくもなるのである。昔は,すこし暇のあれば
スヤスヤと仮眠を執っていたものだ。けれども,実に五年くらいのこの方,
緊張感に苛まれて,なかなか,リラックスしてないのは,肝臓の疲れの,
昼に頂く,おにぎりに具を何を挟むのかさえ悩んでしまうのである,それは
美味しさへの追及か?はては,すこし眠りを誘うような,消化の心地いい
そんな具合いを目指しているのか。

脳内のはみだす勢いを,とりもなおさず快楽と称して,暴飲暴食していたのを 祟られてのことだろう,風邪を引いたのも,そういったすこしのちょっとした, 隙の空いての事で,罹ってしまったので,その脳の調整機能は,はみだすことを 躊躇して,敬遠しているようなのである,だからこそ食事が旨いので,もう, そんな空腹時以外の嗜好は,誰かと楽しむ以外にはさておいてとっておき,ある 諦めのムードといったもののなかに,ミニマルな自…

幻燈ひかるは,秋日にのぼるお茶の香り。

表現,とゆうあふれだす何かの想い,エゴイズムより,もっと
何か繊細で,吐露してしまうような,自他一体となっているような。
表現自体は,恢復期によく産まれてくるような感じで,病み上がりの
克服して,憔悴からの燃え尽きてしまった塵灰の精神からはあまりに
みずみずしい潤った表現は,発生しにくいようである。そうなので,
もう,あまり欲しなくなったアイスクリームを朝ご飯の代わりに,
それでも何か摂っておこうと口元まで持っていくと,すこし黙想する。

ヒステリックと呼べば,悩み多く感じられるとは言え,そんな尖った, いたずら心を,強気に隠しているような所は,魅力に感じるし,そして 賦活されて惹かれるし,精神的な問題にしても,そうゆう,いたいけな 悩みのほうに,悩み自体のヒステリックさの方へ,段々みちびかれてゆく。 ヒステリックな悩みとゆうもののあるとすれば,それらは,細胞分裂の豊かに 起こっている,身体の節々に,何らかの酵素などの誘発されて感じる,あの 生命力の一部を,とっさに,そうゆう風に感じているだけなのかもしれない。
相変わらずも,まだ,身体のコンディション調整は終わってないと感じるためか 珈琲を挽いてドリップするまでの習慣は戻ってはおらず,始まっていない。それで お茶を目の前に置いて,パシャパシャと,眼前の情景を写真に,撮ってみては その裡,何かに感情を加えて加工して投稿しようとゆう気で,自然に置いている。 アイスクリームをつまめば,すこし食べておかないと,くらいの前向きさは浮かんで ほんとうに不可思議である。食欲はないことは,ないこと自体の不可思議さである。 そうめんを堅めに湯掻いて,ひきわりの納豆とぶっかけで合わせて頂く。すこしの 元気は出てきそうで,なんだかほんとうに気力も萎えているのか?よくわからないほど。
ヒステリックな悩みとは,言ってみたものの,朝の外気に,樹々の囁き掛けてくるような そんな気概も,そういった,爽やかな鋭さを感じさせて,それらの尖った感じでさえも, すこし強烈に火傷してしまう点,自然が換わってしまったのか,はて,自分自身が懐疑の 精神に寄りかかって,鋭い視線を他者に向けまくってしまっているのかさえ,それ自体の よくわからないままなのだ。幻燈ひかるは,秋日にのぼるお茶の香り。月の明りでさえ, 肌の灼けることを,つい最近のお月見で知った。お茶の香…

『朝は,天台の香りして,日中は,真言の想いの届き,』

『朝は,天台の香りして,日中は,真言の想いの届き,』と, こんな一節を諳んじてみては,確かに起きた頃は女神のような と,ある種ヒステリックな情感ほども感じさせる情緒を体験して 段々,覚醒してくる毎に,業のエネルギーとでも言うのだろうか? なにかしら轟音を携えて何かの天体の廻る気のする,そんな日頃。 気にならない場合も,多々あるかもしれないが,肩の凝りのピークに 達した頃には,神経の尖って,繊細なこんな事さえ気にしてしまうのだ。 だから,何故?を繰返して,自分のオリジナリティやルーツの謎解きに 矛先を傾けて,そっちのルーツ探しに躍起になっている振りをして, その神経質な風体から逃れるようにして,潜りこんでしまう精神衛生。
ひとつは,妄想癖についても,空気が読めないなど,昨今言われた状態に, 似ている部分はあるにせよ,妄想癖によって,他者とのコミュニケーションが 計りにくくなることになってくることについては避けたいし,そうゆう自然との 息の取り合いや,コミュニケーションとは言っても,世間からの風当たりに, まったく放屁して逃げるような体裁で対処するのは止めたいとも,感じるのだ。 傷ついた心は,傷の消えるまで,覆いかぶさるように被虐する他者を必要とする, それは,感情の処理の問題で不思議な事でもなんでもないのだけれど,何故? この傷ついた心に,一瞬の自己否定の産まれて,何故?と自問したココロのあれば, それは,妄想癖はあったにせよ,空気は読めているだろう,このふたつの結び付く時, ひとのこころは,分水嶺のように,我が精神の似たところへと結びついて拡がって行く。 感情のあふれるところに,ひとに届く奔流のあれば,やはり氾濫には違いないのだ。
感情の氾濫の人に届くところには,やはり当人に返って行く,奔流の戻り道もあって, それは,ぼくにとっては,恐ろしい姿でもある。そのシステムを,伝えてあげたい。 と,常に,『幸福は,耽溺しても良いものか?』とゆう議論は平行線をたどって来た。 喜びの絶頂は避けるべきだ,脳天にまで達してしまえば,忘我を超えて,我を失って, それは,退廃を産むだろう。とは,自論であった。家族の中には,いちばん身近な者の なかに,思春期の姿でもあるのだけど,喜びを否定するなんて,おかしい。と,有頂天の 喜びを追い求める兄弟など居たのだが,やはりそれは間違いだとも…

身体の中心をすえて読む,羅生門とトロッコ

このまま,外部との連携の取れた,ちょっと風邪っぽい時の,
何も考えずにひたすら自然だけ眺めている,そんな時には珈琲を,
とも,思うのだけれど,そんな遊興に時間を費やすことよりも,
風邪を完治させていたほうがいい。そうやって,身体の中心をすえて
読む,羅生門とトロッコを,ふたつを半分にして合わせたような心地。
二十幾らかの時に,書き上げてしまっているとゆうのだから,そんな
ロマネスクを,日本の土地にしっかりと,そうして文学としてちゃんと
座らせている,彼の文体に驚きをいつも隠せず,正直には朗読のような
感じで聴き入っているのが,いちばんロマネスクの感じがして美しい。
沢蟹なんて,特にお好きでいらしったのじゃないのか?芥川先生の好物は,
東照宮の茄子の天ぷらのように,また恵比寿さんの持つ,シカと鯛のように。
すこし風邪気味である,とゆうのが猪鹿蝶の大事な所だ。元伊勢宮の籠神社に
行った時の,ごみ拾いをして天橋立で持ち帰った中に,青磁の瓶底がまじって,
それをドライブにいつも傍らに置いていたことを忘れはしない。最近には,
初めてお伊勢参りをすることのできた折,岩戸開きをしよう,しようと既には
されてしまってるじゃないか?とは念頭にありつつ,何か持って帰りたい,と
感じてはしたすらに拘泥していた神事的な感性は,我ながら忘れることは出来ない。

羅生門は,実に雨の香りのするようで,秋の感覚に以てピッタリだ。それから, トロッコは,甘露煮のようなくすぐったい匂いの夜に親づいてしてくるよう。 このふたつの作品はテーマの惨めさに比べて,情緒のある香り高さの,白眉で とっても好きなのだ。これらの感性を早くも二十代やそこらで著しているのだから, 嗜好性の早熟度は如何なものか,相当の当時にしてもはやかったのではないのか? 朗読を完全に揃えてしまって,秋の夜長でもなくって,秋雨の朝にでも聴いていたい。 早く,金柑もほお張ってみたい,とそんなことさえ考えてしまう,驟雨の朝には, やっぱり,珈琲の一杯は呑んでいて欲しいと,この願望を授かって,手挽きしながら, ゆっくり雨水で淹れるような心地で,お土産の湧き水によって,ゆっくり沸かしたい。 漢方の観点では,喉風邪などには,鍼灸を合わせて,のど飴などで,潤すことは大事と 聴いていたのだけれど,飴は用意してあったのに,ごく普通のご飯と合わせて,くだん…

複雑な人の世にあって,シンプルな答え合せ。

人の世は,難解な姿をしてはいないと言っても,とってもな 複雑形姿をしているのは確かで,それぞれの業を担っては, そこに漂う,業の芳香をかおらせているのだから,ぼくたちは とってもな謎解き以前の受容を試みるべきなのである。それは, 当然と言えばそうかもしれないけれど,ただ陶然と,それを 受け容れるのには,ある一定の覚悟を持って謎解きに挑む勢いの あって,そうなるのだろう。だから,歴史の中に,あるいは転生譚 らしき,そういった謎解きの組み合わせを拘泥しては想像するのに, 複雑な人の世にあって,シンプルな答え合せ。具体的な答えはない, とまず言い合って確認したうえで,その答えを眺めやる。そうだ, 歴史の中に,自分の組み入れる必要があると感じるのは,転生譚に 具体的にエゴを組み入れる,そういったざっくばらんな適当さに加え, 自らを業の中に放り込む,そういった,カオスのうちに揺蕩う決意の そういった楽しむ余裕のあるところに,歴史は眼前表れてくるとゆう, 複雑な人の世にあって,シンプルな答え合せ。こんな,楽しむ余裕を 与えてくれたのは,複雑系の世界ではなくって,病み上がりの孤独感。 複雑系とゆう言葉が,あるはあるにしても,やっぱりシンプルさに任せて ロゴスがロゴスを語るくらいの,筆致における,シンプルな答え合わせを 言葉上の,論理によってツジツマや動機の合うようにしておく,この同期感は きっと,文学上も必需なものであっては,理由ときっかけを把んでおく。この きっちりハッキリとしたシンプルさは,答え合わせにピッタシくるよな気のする。
業を楽しむこと,と。シンプルに答えることは,余裕めいた体力のある時ほど,
余裕を持って,遂行できるよな,そんな『何もしないでは,意味を持たない』領域より
確固たる離れて距離を置きながら,ほんとうに何もしてない,そんな時に出来る,
なので,余裕とゆうのは不可思議きわまるもので。病み上がりほど余裕めいていたり。
そうして,食欲も,発作もなく眠れる夜も,だんだんやって来て,ほんとうに良かった。
ゆっくり休める,と時間の余裕より体力的な安寧のそれを促してくれるのだから,それは
ほんとうに,余裕である。時間の使い方もだけれど,体力の配分や,睡眠の気質のような
そんな状態には気を付けないといけないなあ。と,そう思うようになってきた。

納豆たまごかけご飯は好物…

引き出しより引っ張ってくる,白紙のページにインクの滲み

何故だか非常に焦っている。焦っているとゆうのは,きっと 描きたいものがあるから書くのではなくって,何も描きたいと 思うもののないことによって書きはじめるのだ。とゆう,そんな 井戸端会議のような風体の執筆論作が始まってくることに関して, 非常に忙しくなってきた。おしゃべりだ,おしゃべりし尽くして, きっと一冊の書籍など作り上げてやろうと思っているのだ。自分の 知的作業に関して,こんなおしゃべり文学をはじめようとする自分の 突き当たっては打ち身を致し,押し入ってはコブを造って帰ってゆく, こんなことで面白いのは僕自身の何かしら,楽しみとしてではあっても ほんとうにくだらないとゆうのは明言しないまでも,そんなこんなの いつものとおり曖昧なテーマで,決して目的性のない言葉を書き連ねる。
咳風邪は,起きているときはさほど,発作的に辛くはないのだけれど, なので,楽だなぁ,と思って,動いたり手伝ったりしていると,段々と 熱っぽくなって,そうして,眠りに就くころにはゲホゲホ,とやっていた。 最近は,アイスクリームを沢山たべながら,睡眠自体の欲求があふれてきて 段々の眠りの深さを誘発してくれそうな,こんな秋の夜中の睡眠道中である。 本当に,しずかだ。落ち葉のカサカサゆう音もしない。独り夜にいる,とゆう 感じはヒシヒシとやってきて,しかしながら夜中にまで,秋の陽の燦々とした 遠赤外線の温みは,伝わってくるのだから,孤独感とゆうものは露サラとない。 だから,非常に焦っている。温みの非常に伝わってくる最中だからこその焦り。 これが,寒々とした冷温のさらには更けてゆく日常に感じられたら,どうだ? 暖かい日差しの中で,切なさも感じられ,孤独も和らぎ,刹那の印象は,まだ 美しさと懐かしさと,そうゆうロマネスクに到っても感じさせてくれるのだった。
孤独への恐れを,感じさせてくれるほど,普段は,そんなに安心しきっていたのか,
それのどうなのか,風邪は,本当に睡眠不足を続けさせて憔悴しきった感性の裡に,
段々と,睡眠欲求の普段より深く誘い出てきて,睡眠それ自体の効能で,孤独感は
ねぎらわれそうである。咳風邪をしていたら孤独を恐れ初め,睡眠欲求によって,
それは補われるのだから,到ってのそれは普通のことなのだけれど,ここでソフト・
ランディングして,睡眠欲求まで風邪が安らいでくれたことが,何より普…

懐かしさの源泉は,縁日の調べ。

急に,自己浄化しなければとゆうので,宇宙交信ばりに,妙に
念じてみたりして,すこし腰が痛くなるほど,好転現象的には
身体より何か抜けたような気はして,実は,腰痛の兆候には,
食べすぎとゆう理由もないこともないのだろうけれど,えへ,
と,自分は浄化したのだ,と言い張ってみたくなる。そうして,
懐かしさの源泉は,縁日の調べ。急激に,ノスタルジックな,
祝祭のような,その日本の祝日のような涼風が吹いたと思いながら
お気に入りの,ロカビリーと純和風をニューミュージックで割った,
そんなアルバムを聴いて,何だろう,懐かしさの源泉は,縁日の調べ。

一度,当時は,まだ”オリエンテーリング”と呼ばれていた,地図を 目安に地域をグループ遠足する小学校のイベントで,何処かの山寺に, 鐘の下でおやつを食べたことを思いだしている。そのときに落ち葉の 匂いの,なんだかとってもノスタルジックだった。中学生に移っては 季節感とゆうモノは薄れてきたはずで,その時は妙に焦ってしまって 大人にならなくッとも,その落ち葉のノスタルジーを忘れたくなくて 季節感だけは手放すまい。そう決意して邁進した,思春期なのだった。
クリスマスもそういった,ノスタルジックな経験のひとつだったけど ノベルティで貰った,チキンとセットのグラスを,嬉しくて,走って そのまま床に落として,箱から流れるグキッとしたような,割れた姿を 見た時には物質的な儚さを感じた最初の体験だったっけ。
高校卒業する位の冬休みに,雪の降る,ボタン状のゆったりとそれを見て,
部屋の内に,コウコウと,水蒸気とともに暖気を吐くストーブのなかでは
正月もちかづく辺り,ほんとうにそれもノスタルジックな経験だった。その
休み中は,ただ童話やファンタジーの,それにまつわる映画や読書をした。

落ち葉とクリスマス,それだけでも,十分にもう,祝祭であるのだから, これ以上何を望もう,として,幼少期におもちゃを買ってもらえる機会に あれもクリスマスだった。その時には,なにかの拍子で,満天の星空より 椅子がたくさん降ってくる,とゆう絵本を読み聞かせてもらって帰る途中で もし,子供を育てることが出来たなら,あの童話だけは,そうゆう雰囲気は 伝えたい,懐かしさの源泉は,縁日の調べ。それ以上に椅子の降ってくる。
あなたでしたか?と,言いながら,その縁日の調べの訪れに挨拶をして…

恬淡として糖蜜を舐める,寺の山上には夕日。

ふと,目が覚めて,次元相位とでもゆうのだろうか?何だか 今日は,はじめてこの夜にこの家で独り夜を過ごす日となって ラップ現象などの多いこの家で,もう慣れてしまったとゆうか, 自分の脳単位の,微調整のようなものは出来てしまっている,と 十分安心して過ごしてしまっていたのだが,怖い,とも,思わず なぜだか具体的には描写しづらいのだけれど,そういったちょっと した,この変位のようなものに関して楽しもうとも,思われる, それだけ胸の風邪をしたことで,『自分』とゆうものの,守るべき ”エゴ”の意識が抜けてしまっている,薄れて存在の重さは,薄れて 軽くなっていき。なんだか,ダブ・ミュージックと,クラシックの ような中間地帯の不可思議なBGMを聴きながら,そんな,時間帯に もう一度,そのラップ現象など,起こってしまったら,ぼくは嬉しく マイタケを発見した古人のように,まるでもう舞い踊ってしまいそうな そんな,ちょっとやばい時間を過ごしているのである。
そんな所にやってきても,不可思議に,「草枕」に出てきそうな,禅寺の 山寺にのぼって来たような心地になっている。日本の風情はもともとの所, やはりUFO的な,不可思議現象に対しても,寛容に好奇の眼を,もって, そうして,禅ではなくとも,踊り念仏なども,そういったラップ現象との 付き合いのなかで産まれた,非常にエキゾチックな遊戯衝動より起こったもの? なんだか,ぼくは山寺にやってきたような気分でここに居て,そうして思う, はてな?ここで,何がしたかった?そうだ,これぞ,一休さんの心地だろう。 そうして,なぞ解きを始めるのだろう。そうだ,一休の心地に非常に親い。 非常にエキゾチックな哲学的問答を始めるのだ。『幽玄のもとは何だろ?』と ”幽玄さは,恬淡として糖蜜を舐める,寺の山上には夕日。この部屋で現代は ヒップホップの山寺ロックをかなでているような,そんなラップ現象の夜明け” けれど,『淋しさと執着は何処で解きほぐれる?』といって,”その通りで, ラップ現象は,おおむね,淋しさと執着よりやってきて,恬淡として糖蜜を舐める, 寺の山上には夕日。何だか,わからぬままにアイスクリームを舐めていれば,明ける 夜も,(夜がなかったかのように,)明けるものである。からして,淋しさと執着は 朝が来れば解きほぐれる。朝のようで,あれ。そうでなくば,ア…

ある,ザクロのジュースの刻印づける記憶の跡。

トーマス・マンによる,実吉捷郎・訳の短編を紐解いて, その瞬間に,なんだかロマネスク一言では片付かない,あの ビロードのくれないに,幾層もザクロのジュースを染め付けたみたい な,そんな重さや鋭さを感じるうち,なんだか,太宰の確執は, とんと抜けて行き,そうしてその確執は人間性への追及であったのに 同じ人間性へのテーマを以ても,太宰のそれより,ある種の父親の眼で 確執を覆っているようなそんなロマネスクをトーマス・マンに感じる。 しっくり効いてきたような腑に落ちた知性を刺戟されて,僕は闘病中, 百日咳になる前に何とかカムバックしよう,と丁度ウチも一日独りに なるはずだし,電子書籍でも,紙の書籍でも手っ取り早く手に入ったものを 読んでしまおう。一度は,『トニオ・クレーゲル』を,最近は『ヴェニスに死す』 を読んだ者としては,勿論のこと実吉・訳はないにしても,『魔の山』には 取り組んでいるものの,こんな身につまされて,自分の事を指している位の 文学を提示されて(いる気分の上には)”読まない訳にはいかないだろう”。 ”この孤独”を感じる文学夜話は,どうしてか,日本の太宰と訣別する位なのだから, 何かを刻み付ける,ある,ザクロのジュースの刻印づける記憶の跡。を,提示して, その終結を,持って行きたいと思う所存なのであるが,そんなことを言っても,
何故かしら,軍服姿を映し出すマンの手法に当っては,そのベルフォールのライオン像 孤高に,勇壮な軍壁を呈して,その前に確固と鎮座まします,獅子の像に思い到り, 何か,孤高の,とゆうにふさわしい,時代背景のそんな頃だったのだろうか?勿論, マンの孤独に関しては,人一倍知らなくてはいけない奥深い記憶は沢山の犠牲の上に 傷付けられた記憶の山積しているはず。消化するとか,そういった前提の話題ではない, そうではないのだけれど,マンの背景に,なぜライオン像のような孤絶がみられる? マンは=大ゲーテ=ミケランジェロ=シェイクスピア=征服王ギョーム2世の陰影を, そのルーツ印象的にみるのだけれど,一種ぼくのなかでは伝説じみたその聖ヨゼフの翳を 殊更,文学史を眺める中でも気にしているつもりのなかったはずだった。しかしながら, 全体主観,この巨視的思考のなかで,闇に入り込んでゆくエンパス共感的指向を携えて, ようやく犯罪史などの,心理的探究の奥にある,そ…

てんさい糖の蜜を頂く,手挽き・ドリップ・豆乳のあとに

懐手に,差し込んでみたいとは思いつつ,及ぶことなしに
それでもついて行きたいと感じる,そんな精神体のあることで,
本当は,打ち上げ花火を揚げたいので,そんな想いを感じているのか?
精神体を追いかけて,廃墟をくぐり抜けて,そんなサナカに,ふっと
打ち上げ花火を連想して,なんだ,お祭りがしたいだけだったのか。
我に返って,こんなことを思うのだ。風邪を引いているので,手挽きの
珈琲豆は扱えなかった。このきついのを毎晩のんでいたための,アレルギー
だったのか,と疑いもしつつ,それは生産者的な想いでの意味ではなく,
掃除を,ただして終わった後の脱力自味た心理を,そうそう庇いもせず,
ろくに珈琲も呑ませなかった,自分への八つ当たりを,今もしている。
そうやって,凝りなども溜まっていくのだろう。
自分のなかには,お祭り好きの,欲求のあふれていることに気づいた瞬間に,
何事も自分のうちからは無くなってしまった。
無くなった,いいや,空っぽに,現つ筒抜け,解りがたい難問をクリアした後で,
風邪を引き,いつになったら,珈琲を頂けるのやら?体調と,質問を繰り返しては,
こうやって,てんさい糖の蜜を頂く,手挽き・ドリップ・豆乳のあとに
などのことなど,思い浮かべ夢みるのである。

恋心,などのことを,描いているうち,それは心の奥で,やっぱり業の在処である,
そうやって,太田治子氏の『明るい方へ』なども,もういちど紐解いてみよう。彼は,
太宰は,とは言って,歴史上”太宰”と呼ばれる,津島さんは,その,作家名の独り歩きする
現代を,どう見ているのだろうか?

虚構だな,そして上滑りしていく夢のうえにも砂上の楼閣のようだ。
だから,恋心は,それはあなた,罪悪感の名残ですよ,と言われた時には
そうゆうことも,そうゆうヴァージョンの恋心もあるだろう,
とは思いつつ,それもそう。

お祭り好きの感性を発見してよりのちの人間性は,罪悪感で惚れるとゆうことの意味が,
まるで解らなくなって。

ブンガクに惚れるのでしょう,詩情に魅惑されるのでしょう。
この方が,魅惑される分のポエジーや,どんどん惚れてゆく芸術的な文言に対して,
少々のヤッカミや,眩惑を感じたにせよ,やはり転じてそれは,魅力に映るのだから。

アイスクリームを二個も食べてニコニコしてしまう風邪ひき習慣。
習慣にしてはみっともなく,けれどももう永続性まで感じてきてし…

何かの拍子で躓く,疲れは寒さの故か,抜ける耳栓。

また,何かの拍子で,喉を傷めてしまい,安静にしよう,と
空気清浄機の横で,咳など出ないように,うずくまっていた。
これは,わりかし成功し,本当に失礼な,話しなのだけれど
堀辰雄文学の抜粋などが,身に詰まるほど,納得・共感のできる
感じのして,身につまされるとゆう方が良いらしいけれど,いまは
そんな感じのする夕べなのだった。百日咳などは,本当に辛いだろう。
とは,ある種,ひとつの呼吸器官は停止する方向へむかうのならば
そういった,筋違いの感性錯誤より,ロマネスクの偶然を計る,一種の
美しさは産まれるのであろう,そういった,確信に錯誤するロマネスク。

アイスクリームの本当に美味しい季節なのだった。甘いものは異常に旨い。
覚悟して,自分の身体性の,お役に立てない能力の一度,腹をくくって,
覚悟の上に休んでみる。やすむどころか,アイスをたしなんでいるのだ。
なにかを秋の日は伝えようとしている。網戸越しに,おサルさんか,猫か。
足音がカサカサと落ち葉にきしんで,鳴っているのだけれど,大掃除をして
気分もスッキリしたためか,今日のゴミ出しも上手くいったようだし,何とか
もう一個,二個くらいは,アイスクリームの頂けたらなあ。など,塩味のモノ
より,冷たく甘い御菓子のようなモノの欲しい。ちょっと,熱も出るのだろう。
こんな甘党ではない,と言ったのは,甘いものを欲する体質ではなかったのに
本当に欲する秋風邪の日頃。もう悠久の時間はながれていったようで,そんな
こんな時間の過ぎてゆく最中,確実に耳栓の抜けて行くような,これは,何だ?
免疫性の変化でも起こってるのだろうか?不可思議に思いながらも,この体質の
痩身化してくる,精悍にこの,何かの拍子で躓く,疲れは寒さの故か,抜ける耳栓。
おサルさんの足音もふと,ロマネスクに疲れがちに聴こえる。足取りは依存性を含み,
人間社会でなくても,おサルさんもサヴァイバルに,努力家の精神は変らずなのか?

綿を摘んで,肺病になるケースもあるようだ。そんな悲惨な,とは言いつつも,
機織り染色のケース・バイ・ケースに,それほどの衣服に携わることの強靭さは
推して知るべし,衣服によって,太陽や,雨風を防ぐのだから,あながち,それは
経験されるべき,偉大な薫陶を,衣服や染織に関して教えてくれるに違いないのだ。
こんな咳の時期を体験していたり,虚弱な身体を,より…

栗の実に文章構成はありますか?と,問われ着る夕べにはチャンチャンコの

風邪を引いて,熱や頭痛を超えて,喉の腫れに到った時,それの
発破してしまわないように気を付けながら,ある意味,この正解。
イオン式加湿器を持って来て,寝室に置いて,まわしてみると,これ
呼吸も気にならずに出来るし,あまりにすがすがしく心地よかったので
眠れたはずのタイミングも目を開いて,黙想してしまったのだった。
風邪を引くと,迷惑をかけるモノだなあ。とか,身体が重たくなるのは
これは本当に,動けなくて辛いものだ。など,普段から怠け者で重病みたく
ロマンを追ってばかりいる事のそれとは比較にならない,やっぱり風邪って
痛いほど辛さの身に滲みるものだ。なので,加湿器を持ってきた途端に,
すっかり心地よくなって,いろいろと考えていた。今となっては,耳鳴りの
諸症状なのかもしれず,解らないなりにだけれど,小学生の後半あたりから
妙にヒステリックに右の側頭部に違和感を感じ,癇癪も酷くなってきた想い
のあって,暴力性の否定とか,スピリチュアルに哲学してゆく格好良く言えば
そうゆう思春期を過ごしてきて,暴力の否定。とゆうものに,焦点を向けてきた。

狐にはわるいのだけれど,狐憑きのようなモノ?とは,言っても自分の側頭部,
そうそう客観的にもなれなかった。そうして,昨晩は,そんな想いは,たぶん,
この辺りは,遺跡地帯,弥生のイザナミ文化に対して,ぼくは縄文ヒーリング。
男性性でゆきたいためか,縄文的にゆこう,そう決意した時だった。するする,と
耳の穴の開いて,何か出たと思ったら,それは,分泌液か何かだと推測するけれども
そんな縄文ヒーリング露知らず,ロマンも逃げて,一気に先ほどの事なのだけれど,
耳鳴りの諸症状とあとで枠づけては,そうゆうヒステリーは一応の解除を申し渡された
ところなのだった。

そうして,栗の実に文章構成はありますか?いまにもチャンチャンコを着ておもてに
でそうな感じのするこのフレーズに。今となっては,文章構成なんて,まっぴらゴメン!
ロマンも,『錠門=縄文の鍵を開く唯一の,堀辰雄ロマネスク』などと謳っていた,あの
イザナミもヒステリクスも飛び去ってしまって,お見舞いのチョコ・ミントアイスを頂き
ながら,あんまり甘いものを食べすぎたけど,あとで返ってきそうなこの糖分には,でも,
そんなアイスクリームの美味しい風邪ひき珍道中だった。今更ながら,心地よく耳も抜け
眠らず…

抑制の効いた風邪を貰う,忘我の告白と俗人的シェアリズムと

あらかじめ肺にカビの生えているかのごとくに,大掃除後
アレルギーみたく風邪を引いてしまった。こうゆうときは,
熱のでている感じは,むしろ排毒をしているように思えて
心地よかったりもする。喉の消毒だけして,スポーツ飲料の
摂取と,食事はできるようにしているつもりだけれど,この
抑制の効いた風邪を貰う,忘我の告白と俗人的シェアリズムと。

忘我の告白とゆうのは,自然一体化の方針に言えるような,その
月明りに,ぼーっと,風邪に酩酊して,忘我してしまおう,とゆう
そんなつもりで使っている。
かたや,いやいや,忘れるより,自分を持とう,平和には,それが
いちばんの近道だ。など,と俗人的シェアリズムと称して,下町の
風情に,うなぎ屋の一杯を加えたようなそんな心地で,一矢想念,
これは確実に造語だろうけれど,報いるような気持ちで想い念じる。

アイスクリームをとにかく所望して,買って帰って来てもらうのは,
なぜか,フルーツやスポーツ飲料を合わせて,インドアな裡に,あの
カフェの気分を味わいたいがため。夜には鍋を用意してもらって,朝も
昼も鍋でいいので,とっても温まりながら,うずくまって眠っている。
と,あるキッチンアイテムの会員様限定半額祭りなどがしていて,今月より
キャンペーンは開始されたのだけど,ほんとうに欲しいものは沢山あって。
いいものはいい。ってゆうのは,そういったスウィーツの匂い。そうして
ゴッホ=ロベスピエール=シレジウス=カエサルの彼の系譜に僕を携えて
半ば夢見がちに自分は,ケイトウの花を彼岸花のごとく描く癖がある。そう,
調子はわるいはずなのに,気が強いようで食べ過ぎてしまって,ちょっとお腹が
痛み出した時には,実際に,焦ってしまって,すぐに寝転んで眠ってしまった。

結果的には自分はゴッホだ,と行き着いて,離見の見(とは,仏様の話らしい
のだけれど,)よろしく,自らを離れて見てみて,ああ,こんなお家に住んで
るなあ,など,発熱のためなのか,そんなこともできたりする,ゴッホの夜明け。
風邪を引いていて『自分はゴッホだ』などと想えることも,ほんとうに真面目に
風邪を引いてるようで,嬉しい。そうして,ロベスピエールのような革命家精神も
自分にはあったのか,など。シレジウスにはよく耽読させられて,瞑想詩集は濫読
していたなあ,など。足の右親指のあたりに,甲の内側には,産ま…

Mr.SOLと,LONDON ONEと,IZABERA DIVAのブギウギ

A.シュテッフェン,夏目漱石,バートランド・ラッセル

F.v.シラー,小林一茶,アイザック・ニュートン

M.エックハルト,太閤秀吉,ニコラウス・クザーヌス

Mr.SOLと,LONDON ONEと,IZABERA DIVAのブギウギは,

縁の下の偽悪者と,ロンドン者と,St.Pauloの化学の結婚。
黒い森を走らす,シラーの陰に,いつもロンドン漱石の未来を踏み, 女神のような,ディーヴァ・アイザックは,既にその神秘母性を携え
Mr.SOL=A.シュテッフェンの影に,小林一茶の影踏みは彩りを添え, 結局フェミニストに映る,そのラッセルの愛おしき,文通宣言計画。
エックハルトは偽悪者の面目を晴らすために,太閤秀吉の馬肉好きは ダンディズムの,なぜブランディー好きの葉巻好きを,クザーヌスは 対象にするの?愛の故,愛が語るの故。
風邪を,引いてしまって,コンソメスープにトロトロの豆腐を加えて, 温まる夜食を啜ってみては,千切りのオニオン,土の匂いのキャロット, キャベツの甘さなどは本当に身に滲みる。もう,昨夜の,トンテキを, ポーク・ピカタばりに,作った折の,ボイルキャベツの茹で汁だったそう。 1枚の葉野菜のエキスの身に滲みる,サナギになる蝶の幼虫の,一歩一歩は 妖精スピリットの陽の光をいろどる唯一の香り。
食欲は涌いてきているのだから,喜んで,食事に向かうかどうかは別にして, もうすぐ眠りの瞬間に就く前に,お家の大掃除も済んだその為の風邪だったか, 景気づけに,文章を認めて,歯磨きをきちんとスッキリして眠りたいがために, 掃除の終えた瞬間,描く文章は換わるだろうな,と思った。そうして,整理の 付いた部屋からは,何も昇っては来ない,地下の帝国よりも,頭頂の彼方にある 太陽の神殿にこちらから昇ってゆこう,そう思った。ディーヴァのいる,彼女は 心底,加護者で,太陽への道筋を造ってくれた。そうやって,我が道は,我が身体の 古都の秒針より産まれるものと心得て,空への虹のレシピを教わりに行く。
掃除が終わったら,獅子像の王冠を戴いたジャケット箱のタオルなど,よく見かけた。 この宇宙は,脳内に省けるものあれば,カットしてしまう世界だ。脳内宇宙はそういった 簡略化を目指すものだ。夜空にチカチカと,目眩いサインをみる時などは,そんなはずだ と言い切って,歯磨きをして,きちんと眠ろう。
存在…

糸を撚る,念じる=朝焼け

念じることは,日がたつに連れて,執念深さからは離れて
更には,すず風の感じられる頃になって,念じなくなってくる。
糸を撚る。強撚糸(きょうねんし)などとゆうが,糸を撚(よ)る。
念じることは,そのまま糸をつむぐことと同義で,あの糸車を以て,
がらがらグルグルと廻転させる,あの風車小屋のような,強風には
いくら要請されても,撚れなくなってくるのは,実態である。しかし
衣服は,強靭な,強撚糸をある程度は要求されるもの。なので,あの
衣服は,強い風や,太陽の熱射線にも耐えられる,念(撚)じ方を,
されているのである。まだ,糸をつむぐことのあるとしたら,本当に
意地でも生きて遣る。そう言って,魂の入ったように,目が覚めた時。
執着を離れて,豪奢に諦念する,そうして,ふっと,我に還った時には
また糸をつむぐのだろうか?恋をわすれて,人を想わなくなったとき,
ぼくらは”人間”になるとおもってきたのだけれど,そうやって,固形の
コンソメ出汁のように,スープに溶ける瞬間の遣って来た時には,また
芳醇な,発酵パンにも合う,秋風を日差しに融け込んで,露わにするの
だろうか?これは,念じることのテーマであるので,そうやって,撚じ
に返って来た時,いまはそれが大人風に失われそうになっている頃合いは
解らないだろうなりに言うのだけれど,”糸を撚る,念じる=朝焼け。”

ほんとうに人のことを想う,とゆうことに焦点を合わせて,考えてみる。 考えるとゆうより,思いを馳せてみる。もう,ひさしく諦めてしまった。 なにかの恐怖を入り口に,文明社会の嚆矢となることは,諦めること,と 人間真情の嚆矢となることからは離れて,いつしか,弓を弾く手になって, いつも,肩を痛めて,常には動じることのなくなってしまった。そうして, あれは”想い”だったか?すでにわすれられそうな,完全に失いそうになって 念じる,お腹の魂胆とやらを手放そうと身体のおもう瞬間,”想いの念じ”は 最期に挨拶をしに遣って来ているようだ。ほんとうに,良いのだろうか? 恋することと,執着と,人を想うことより,はなれて良いのだろうか?ぼくは もう,文明社会に酔っぱらって,”想う”ことの我執を,放念してしまいそうだ。 今日は,もう,眠るからね,さようなら。こうやって,毎日我執とお別れして いるのだろうな。そんな程度に,”想い”にお別れを言って,今日は…

かっさらうハヤテの過ごし方を見直す。

仮眠をとっての昼間に起きてみたら,とっても穏やかな目醒め。
なかなか眠られず朝を迎えて,最近の珈琲ヘビー・ローテーションの
ためなのか,とか,アレルゲンを秋日の大掃除・大整理によって,吸い
ポヤポヤとしているのか。わからず,こんな,ことを考えるのだ。

パスカル・シルレルのローザ・レッジーナ騎士道を,
ニュートン・マラルメでマグダレーナ・パウロの獅子が追う。

天の岩戸はオロチ退治と,国譲り。

空海の灌頂に,最澄は何かを感じ取ったか?

白玉の雫を,朝露とともに,口にする。

オオクニヌシに,アマテラスの憑依する,岩戸開きと

オロチ退治,国譲りによって,白玉は大地に落ちる。

忘却の薬が,蕩尽して国に帰る,放蕩息子の説話に,
天の岩戸が解除する,潮風呂の半身浴。それに,
朝の珈琲を,付け加えての,添えるクッキーには,
岩塩・全粒粉・杏子ジャム。

石切伝説には,大人の中の子供。子供のなかの大人。
遊戯衝動に,全体的主観を以て,ミクロコスモスの思惑,
すべて解放されて,太陽の光線は,放射状にコロナと化して,
熱くなくなる秋の燦々と果実の爛熟する。
収穫祭には,麦の大祭。ジャムを舐めて,ゴスペルを歌おう。

仮眠をとっての昼間に起きてみたら,とっても穏やかな目醒め。
とは,いえ。悪口を衝くわけではないのだけれど,目醒めは
突然のように遣って来た。奥さんが,彼女の妹さんを連れて,
寝間着姿の,僕が玄関を開けると,二人で並んでいる。『アッチャー。』
起きた感じは,爽やかだけれど,ちょっと動揺しながら,上機嫌で
珈琲を淹れたり,煮卵をふたっつに割ったり,マドレーヌやクッキーの
お盆に載せたりしながら,彼女たちの,妹さんの結婚式の準備とやら,
仮眠していた部屋を換気して,すこし肌寒い中を,ブランケット一枚,
着々,準備をすすめていられる。

そんなサナカでダラダラの部屋着で給仕していた僕は,判断が付かずに
寝ぼけマナコで,いろいろ動き回っていたのだけれど,このまま,妹夫婦の
ふたりと,姪っ子の娘ちゃんも,また別に誘って,一緒に焼き肉に行こう,
となったとき,ようやく髭を当たって,(実はシミの付いていた)セーターの
まだ春物に着替えて,ジャケットまで準備していた時,(そうして今は,帰宅後で)
ああ,瞬間を行為していることに楽しみを感じられる。そうして,起きっぱしでも
ここまで,時間の流れに身を…