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ハイドクネヒト氏のよって立つ,崖の上の尖塔に。

夜中に,なかば変態的な習慣を以て,アラビカ豆100%の
ブラジル&エチオピア豆を手挽きミルで擦って,アイスにして,
(結局,欲に敗けて,業の姿でこのアラビカ豆を頂いている。)
一度,自分の幽体離脱したように,凝りもほぐれて残ったもの,
ジキルクロース&ハイドクネヒト氏の対比は,いかにしてなのか,
このように,白い,ピカソ=ブリューゲル=デューラーの聖マタイと
それから,あの黒い,ゴッホ=ロベスピエール=シレジウス=カエサルの
聖ルカの対比による,”妄想癖”による贈り物に,一瞬の”ソレ”として。
バーンスタインと,カラヤンの,雌雄対決する,そのトランスパーソナル。
やがては,イザナミ大谷崎と,イザナギ太宰を訪れる,聖マルコ川端康成の
では,聖ヨハネの誰であるかとは,クリストフ・マーロウの”ソレ”である。
いわば,アラビカ豆のことを,生産地名であると勘違いしてはいたものの,
ようやく購ってみる段階にいたって,ブラジル産の銘柄と誤って認識して,
そのことに気づけたことでも,勘違いも,はなはだ美しく思えるほど,ホント
実際は,記憶の筋違いは良くあることで,恥ずかしい事この上ない次第。
誰を,理想とするか?”転生譚”は,きっと,パズルのピースのようで,
多分は,歴史を振り返って,ぼくはジグゾーの組み合わせのように考えるもので,
きっと,そこには現在進行形の,偶然な千載一遇しかない,偶然の代物である,
としか言いようのない,記憶の錯そう,多次元体の体験相議,そうして偶然に,
必然の糸を加えるモノが”歴史”である。と,天邪鬼な事しか言えそうにもない。
”転生譚”の,理想を言えば,(そうゆう意味での,パズルピース合わせをして,)
カラヤン=セガンティーニ=ペスタロッチー=ヨハネス・タウラーを,子羊として,
バーンスタイン=ゴッホ=ロベスピエール=シレジウス=カエサルの,聖ルカには
”記憶の入れ換わり”作用として,そのぼくの”妄想癖”の,深夜アラビアン・ナイトの
”贈り物”とは言ってのなんのそんのなんだけれど,と言い訳でもして,一瞬の”ソレ”を
頂いたように語りたいのである。誰が,そう言おうとしても,語れない”歴史”を,その
”ストーリー”として,組み合わせて語る。それこそが”転生譚”だろう。そうゆう文化も
あって良いだろう。けれども,語り部になるまでは,甚だ,以て迷惑千万なジャンル。
ハイドクネヒト氏よって立つ,の上の尖塔に。とは,題して贈る,この”転生譚”では
あるのだけれど,カラヤンに憧れつつ(それは,牧者としての祈りの田園風景を待って)
バーンスタインの自由を身体に宿す,そういった革命精神,詩的熱情の深夜の珈琲滴下。
慈しみの聖ルカには,そういった哲学の堅実さは欠かさずある。子羊とゆうワンダラーの
宇宙遊泳たのしむ高い波長の妖精には露知れず,深夜の珈琲滴下に,甘い夢をみるのは,
ハイドクネヒト氏の夜営幻影。つまり,『私』は,誰をか信奉するのを問われれば,その
アラビカ豆より醒めてみれば,だれでもない。あえて言うなら,『珈琲』を信奉するので
あって,そこより醒めてみたら,元も子もない一瞬の流れ星のサナカを旅した,余韻で。
画日記のように,とりあえずは一服しながら,そのコリのほぐれる体験を賦与した描画,
こうした一瞬の軌跡は,やはりゴッホにあらずは,ほかの誰にも真似できないのだろう。



こちらは如何?

とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。

白黒の隈を着けて,いつもよりも浅煎りの珈琲豆を一杯のお代わりを 受けて,淹れなおす。家の台所は,さながらカレー屋さん気取りの, とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。 とにかくもゴッコ気取りで楽しみながら遣りすごす,台所での一時。 ダサいと言っては,何だけれど,バランスの好いのはそうゆうことだ。 そうして,そうゆうダサさをこそ,落ち着いているとして好む,そんな 白と黒を半分ずつ割って入れるようにして,豆乳オーレにして頂く珈琲は, 真皮に黒を抱きながら,表面きっての自分自身は,笑顔で白を通す,その 面白さは微笑みより訪れるので,にっこり気持ちは構えて,ダサさを通す。 それでしか淹れられない,なかなか浅煎りは,カフェオーレでしか入らない。
追及しては,戻ってくるのは番犬や番猫で,何だよとゆうばかり,番猫なら 招き猫みたいにスレンダーな物腰で,いいやスレンダーではないか,でも。 多分,何にもいないのだから,彼らにとって,虫の知らせは,いわゆる枯れ尾花 であって,そのざわめきや囁きのようにして聴こえる,彼らにとっては雑貨店。 トフィーのような濃厚な滑り出しで,カフェオレに合わせながら眺める,こんな 洋菓子店をめぐるように猫などの物腰の豊かさを側に置いて,ぼくは先日のあの ロイヤルウェディングの様子を想いだす。白馬のリードしている子の,ちょっと 荒れているのには,繁華街に急に放り込まれた武士のようなイメージで,そりゃあ 興奮し,混乱もなさるでしょう?とは,そればかり心配してはいなくても,やっぱり パレードの壮大さは計り知れない。ダイナミックであり,本当に生命力学的にもっとも ハラハラもし,手に汗握る。この悠長にはPCの前に座りながら,安堵して,折り畳む。

基本的にはまた紅茶とキャラメルを合わせる感じで良いと思うのだった。ちょっとした
あの渋味と,焦げているような甘味のあいだで,切なさと勇気を半分ずつにおおげさに
振る舞っている。週末を終えて,家族サービスとゆう毎度のほどでもないのだけれど,
毎日に平日のスタートを切る僕にとっては火曜日。風邪を引いてると体力よりも果敢に
すすめないのでこうゆう話題になっているけれど,それも治った後の話として,本当に
スタートを切られることに,爽やかな活発さをさえ抱いている,早速まだ沸かしたてで
すこし温湯のお茶を頂い…

憑依するとゆう言葉には,入り神級と創作ウォークイン。トリップなど様々

前世ゲームとは言え,嵌入しきって書物の渉猟をすることは,最も
アクティブな瞬間で,それはインナーに居て,集中度の高まる体験。
憑依するとゆう言葉には,入り神級と創作ウォークイン。トリップなど
様々あるけれど,それは研究意欲としてそうなのであって,きっと以て
どれでも良いはずの日常と,外側の経験則のなかでは処世術としては
仲介されえない範囲の事柄ではある。なので,運筆とゆう詩性に向かって
コンスタントに埋没しきることのなかにも夕暮れ時に適うような,そんな
”前世”=書物文化のあって良いはずだ。転生とゆうことは,それほどまでに
コンセントレーションの中に含まれていて,一種の隠喩のようにそこにある。
それで,いま没我した自分は転生している,うん。それで良いじゃないのか?
例えば,自意識のうちで,第一に身体を漱石山人より,次に生命力を太宰さんに
三番目には意識的に明るさを芥川氏より頂き,個我みたいなモノは三島文学より。
僕の竜退治のミカエルは彫刻家のロダン=文学にF.ラブレー=透視にスウェーデンボリと
言った大家より受け賜って,ジヨットのイコンにおける精神性において開花する。など
ここまで自意識的に説明したところで,それらは”前世”とは関連のないことではある。
集中力に謎解きの扉を開く鍵のあることを知悉して,ようやく,眠りに就けそうである。
渾然一体となってファンタジーは,一度死に,二度目に産まれる魂に対して,何らかの
ギフトを与える。集中力によって,ソウルは再び現れた記念として,”前世”の贈り物を
授かるのだった。そうやってゆこう。黄昏に,贈り物としての言葉を貰うようにして,
やっぱり夕餉の匂いは良いモノである。そこかしこに湯気の上がって,昔はさながらの
薪のくべられた薫りなど漂っていたろう。こうやって,時代は溯られれば,魂のうちに
何らかの,記憶=ファンタジーを得ることのできるはず。

急に,突然の報せのように,白い聖母信仰のほうへ寄りかかって行きそうな気さえして。
夕餉の匂いにのせられて,それらは,ふわりふわり声明を携えて近づいてくる。夕暮れに
不可思議な想いを感じ取らせながら。この白い芳香は何処から遣って来て,今さらながら
ついにこの辺りまで,ついの最近までは,いったい何処に居られたのでしょうくらいの,
何だか不可思議にふわりふわりと感じられる香りなのであった。良い…

季節を描写するのみで良い,そんな甘露の雨粒と,上がった後の煙。

人文的な要素のないと言葉の発想も浮かんではこないもので,なおさら まだまだメモしておきたいことのありそうで,けれども,もうこんなにも 季節を描写するのみで良い,そんな甘露の雨粒と,上がった後の煙。雨煙に 合わせて,ヒーリングのアロマ・ミュージックなる分厚い音楽を掛けながら そのブランケットにくるまれて温かい心持ちをして,人文的より,また素描。 ああいう荒野にそっくり掘り込まれた教会遺跡群などは,もうイニシエートの それら現代のクラブシーンだったのだろうか?僕はその際,家で,お茶を啜る あのインナースタイルの静かなもんだったろう。なんて,基本的に動くとゆうか 家の中を満たすひとつの酵素で生きていたい。生活の匂いは,家の樹々の香り。 肉食には,昔の突っかかりを感じて,なかなか馴染めないけれど,元気は出る。 美味しさに賦活されて,文化的に色々楽しめることを良しとしては,けれども 今となっては,雨に巻かれてウッディな温もりに浸透されることの,浄福なので。

咳や熱風邪も,一度肺炎になった?と感じ始めたところで,一気にスノーマンの 夢を見て瓦解するように退けて行った。その余韻に燻製チップのような薫香の, ハートあたりに漂って,それはまた幸せな健全さの回復を予想させるので,納得。 燻製や北国のイメージは,やがてその厚くなった肺や気管の様子を想像させて, それでロマネスクなのだった。北国は,やがて魔の山も克服して,こうして篤く 人のこころを暖めてくれる。けれど,だからといって,こうゆう時に何かお肉食を 試みたくなる。本当に,篤い人生を効果的に造りだしたいのだ。むしろ,厚く強く。 豚肉の小間切れを,醤油麹とみりんで,お酒を加えながら,すこし甘味噌など足して 玉ねぎ,白ネギと共に炒めてみたのだった。奥さんは仮眠中なので,起こして頂ける ような料理だとは思えないので,ソファの近く,炊き込みご飯を解凍したのと,側で 摘んでいた。明日は英国のロイヤルウェディングだと,ニュースでしていて,思わず 感涙してしまい,僕も不可思議ながら,少しく傷付いた思春期に,感情移入しては, いかばかりか砕けた心持で経過を感じていたので,何だか,ホッとして,うるっと。

すべてお肉食で感情までも呑み込んで,取込んでしまえたらそれで良いのだけれど,
切なさや,哀しさ。鎮魂の想いまでは,そんなに簡単に解消していったり…