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秋の日に,拘る太陽神ラー。

秋の日を,受け容れて愛でている自分が居たのか,と半ば
気づかずにも,陶酔していたのに関わらず,秋のあたたかさ,
この太陽の造りだす,あたたかなポカポカには,どうも拒否の
気持ちを持ってしまうのだと感じ,秋の日の太陽とは何者か?
と,悪者をさぐるかのように,秋の日の太陽を,集中力探検。
宇宙船か何かを調査するような心地で,太陽の正体を見付けて,
それは,その悪者の太陽は,自分の中にある,身体の一部の何か,
そうだと気づいた行く末は,秋の日に,拘る太陽神ラー。やはり,
秋ののどかさに安心しきらない自分の不安は,神経症に親い身体の
凝りのようなものの原因によって,ぼくはその不安を取り除こう,と
きっと不安はなくなれば,必要以上にのどかな秋を感じなくなるのだ,
だから,季節感とゆうモノは,必要以上に世界を感じすぎること,で
幸せの前兆に,世界全体に融けだしてゆく依存する世界への宥和状態で。
世界観,季節感より離れてゆこうとする,きっかけに,この,秋の日の
秋の日に,拘る太陽神ラー。幸せを,悪者だ,と。思っていたのか?
感じすぎる心には,解ることは悪だから。

工業的に,計算ずくで,PCに向かって工業思想デザインをしてゆく工程に,
優しさや,多感さ,幸せなど,要らないもの?普通であれば,要らないのだ。
この,普通は,わかりすぎる感性と比べれば,それに対して非常に,強靭で。
しなやかにしなる,アルミ製の竿を思い浮かべてもらえれば,それは鋭利で,
つめたい印象を与えはしても,美しく,無感情に照明を映し,そうして静か。
堅実とゆうより,堅牢。硬質のパスタのように,粉っぽく。すると,どこより
お茶を運んできて,持って帰ってゆく以前のぼくのような柔らかさは,いまは
もう,どこにもない。工業デザインに,人の姿はないように見える,けれども
工業=人の結ばれた世界は,気丈に,無感情にはない,爽やかさを持っている。
なにかを求めている,アルミ製の工業製品に,マットなツヤをみた時に感じた,
あの工業性の匂いの安心感。それは,依存しない強さ。優しさより,爽やかさ。
秋の日は,太陽神ラーにおいて,造りだされて,疑われて,また消化されては
循環してゆかれる,自然の生命的な発酵循環過程を,繰り返してゆくのならば
それを嫌った,ぼくの感性は,ようやく硬質の思考を以て,繰り返すあの自然に
NO!を言いつつ,感情の世界より返っていきそうなのだ。帰ってゆく,場所は
口元の締まった,あの静謐の自室に瞑目する堅い独居神のようなのだろうか?

一度,硬質の世界へ,自我を超えてすすんで,放念してしまっていいはずである。
放念とゆうより,自失,それよりも自棄とゆうべきか?感情を産み出す自我感情を
一度,放棄してしまって,忘我してゆく姿の中に,気絶する自分の寝姿を傍観して
安らかに,休息してよいはずである。これは,ほんとうに共感作用よりの少年時代の
脱皮とゆうようなものなので,きっと得度するとかより,よっぽど工業的で,さらに
時代の移り変わりとともにぼくも,ようやく大人の頑丈さを持ちうるとゆうような,
そんな論考である。工業的デザイン,自我感情スタイルの,工業的デザインをする,
そこに,硬質な堅牢さで身を護る,ヘルメット姿の手を組む,ぼくがいるような気の
するのである。

こちらは如何?

意味深長に珈琲=胆汁と,虚空アカシャの転生色彩譚

自分の中より明白に,何かの意味とゆうのが抜けてから,もう ひさしく感じる。意味がないのは,基本的に穏やかな静かさ。 意味深長に珈琲=胆汁と,虚空アカシャの転生色彩譚を標榜して, このBlogを,ただ描き切っていた頃合いが懐かしく,今もまた デカフェの珈琲豆乳を呑んではいるが,その懐かしさは過去による モノだ。大抵は,すでに生豆の焙煎などの200℃にコンベクションで 送風して,ゴーゴーと30分やそこらで終えてしまうようになってから 浅煎りなのだか焦げているのやら解らないように感じるのだけれど, それはそれでコーヒーの味わいには届いているのやら?割ってしまえば 飲むことはできるので,有り難く美味しそうに頂いてはいるのだった。
西郷どんを堀辰雄氏に当て嵌めて,萩原朔太郎氏は近藤勇になって, 谷崎潤一郎氏は高杉晋作=イザナミ女神的な,太宰に龍馬伝説を, 立原に乾退助の影あれば,川端翁は松陰先生で,三島に桂小五郎の 余韻を曳いて,それは歴史の風韻の現す,ラッキョウの砂丘には彼の 風紋を遺す,風の報せ。むしろの虫の知らせなのだった。また戦国には 堀さんは信長公,萩原さんは上杉謙信。大谷崎は下って8代吉宗公に, 太宰の独眼竜を供えれば,立原=千利休=秀頼公の,川端翁の信玄=武蔵。 三島文学は遠くサド侯爵=マキャベリまで溯る。付随して,漱石山人には 太閤秀吉=一茶によって,東照宮には芥川氏とアマテラス=恵比須さんの この豊かな不老不死伝説までも含めて,さては,宮沢賢治=清正の井戸。 ここまでよくぞ堪えてくださった,とばかり。意味深長に珈琲=胆汁と, 虚空アカシャの転生色彩譚を,計らずも与えて下すった”歴史絵巻”に謝々。

フォーの麺のあって,それに合うスープを造って頂きましょう,とゆうことに 昨晩も今晩も量はあまり摂らずに,眠りやすい環境を整えてゆこうと言っては, 胡麻味噌や,コチュジャン。鳥ガラスープに醤油みりん。ヌクナムなどに塩胡椒で ネギとニラ,油揚げを加えて,胡麻味噌には八角など,山椒の粉も入ってるので 大事なのは麺がゆるゆるにも芯残りにもならずに好い茹で加減でできるとなとゆう ところで,食卓には何とか一緒に楽しめるほどの時間は過ごせたのだった。あと, お風呂も沸かして,コトコト響いてくるような背景音に合わせて,こうして夕暮れに タイプして行く心地。あまりに最近お喋りもすすま…

とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。

白黒の隈を着けて,いつもよりも浅煎りの珈琲豆を一杯のお代わりを 受けて,淹れなおす。家の台所は,さながらカレー屋さん気取りの, とにかくもパンダの真似をして遣りすごす,カレー屋さんでの一時。 とにかくもゴッコ気取りで楽しみながら遣りすごす,台所での一時。 ダサいと言っては,何だけれど,バランスの好いのはそうゆうことだ。 そうして,そうゆうダサさをこそ,落ち着いているとして好む,そんな 白と黒を半分ずつ割って入れるようにして,豆乳オーレにして頂く珈琲は, 真皮に黒を抱きながら,表面きっての自分自身は,笑顔で白を通す,その 面白さは微笑みより訪れるので,にっこり気持ちは構えて,ダサさを通す。 それでしか淹れられない,なかなか浅煎りは,カフェオーレでしか入らない。
追及しては,戻ってくるのは番犬や番猫で,何だよとゆうばかり,番猫なら 招き猫みたいにスレンダーな物腰で,いいやスレンダーではないか,でも。 多分,何にもいないのだから,彼らにとって,虫の知らせは,いわゆる枯れ尾花 であって,そのざわめきや囁きのようにして聴こえる,彼らにとっては雑貨店。 トフィーのような濃厚な滑り出しで,カフェオレに合わせながら眺める,こんな 洋菓子店をめぐるように猫などの物腰の豊かさを側に置いて,ぼくは先日のあの ロイヤルウェディングの様子を想いだす。白馬のリードしている子の,ちょっと 荒れているのには,繁華街に急に放り込まれた武士のようなイメージで,そりゃあ 興奮し,混乱もなさるでしょう?とは,そればかり心配してはいなくても,やっぱり パレードの壮大さは計り知れない。ダイナミックであり,本当に生命力学的にもっとも ハラハラもし,手に汗握る。この悠長にはPCの前に座りながら,安堵して,折り畳む。

基本的にはまた紅茶とキャラメルを合わせる感じで良いと思うのだった。ちょっとした
あの渋味と,焦げているような甘味のあいだで,切なさと勇気を半分ずつにおおげさに
振る舞っている。週末を終えて,家族サービスとゆう毎度のほどでもないのだけれど,
毎日に平日のスタートを切る僕にとっては火曜日。風邪を引いてると体力よりも果敢に
すすめないのでこうゆう話題になっているけれど,それも治った後の話として,本当に
スタートを切られることに,爽やかな活発さをさえ抱いている,早速まだ沸かしたてで
すこし温湯のお茶を頂い…

木星のユピテルは王者かオロチか。いままでの振り返りに三島文学

T.マンを聖ヨゼフのように置いてみて,またヘッセを聖母のように, アナトール・フランスはヘロディヤみたいだけれど,いつも伴侶として そうして,その木星のユピテルは王者かオロチか。いままでの振り返りに 三島文学を紐解いて,ユピテルはまたタウルスのように,虎獅子ドラゴン。 角をむいて,ひづめを鳴らしてる。平家はいまは民間のほうにあり,どちらか と言えば,源氏のほうが官になってる印象のあり,それはあくまでイメージ上の 捉え方だけれど,どちらが良いとゆうこともない。ぼくらは二分法のうちに, その掻き鳴らされたひずめの行方を案じて低頭に砂ぼこりへ咳込むばかりだ。 夜にはウーロン茶と豆乳を半々に割ってノンシュガーで少しずつ呑んでいる。 そんな頃合いに,どこまで行っても,この純粋な文学にあって,サド侯爵の 影をあたえて吹いている風のごとき三島さんのヨーロピアニズムと芸術指向に, はたまた,煤をいつも被って,ミサの毎に薫香の匂いを帯びて黄金にむしろ耀く。 この敗退の一途にしては,耀きをつづけるニーチェのゆうルサンチマンと呼ぶ辺り。 低頭に砂ぼこりを吸い続ける民衆のところどころに不毛の荒野に一輪のデイジー。 敗退の一途,か。攻撃性を否定すれば,いくら批准したところで世間体は常に彼の 後ろをついて,本来の王はあなたです,とは日常にあたえられる平和は文学に。 三島文学=マキャベリズム=武蔵坊弁慶=木戸孝允・桂小五郎=サド侯爵には, またフラ・アンジェリコの天使画の数々。この鈍いほどの重い香りを携えて,自宅には 芍薬を飾って,いまもまた鑑真香を焚いてすごす。彼の芳香には,恬淡と跪きながら。
三島さんは相当に筆のすすみの早かったように感じる。義務的にも遂行できる運筆の, そんなようなのを,良く感じる。葉隠入門などを読んでいると,まるで演算機のように すすんでいくタイプのリズムを感じる。むしろいつもそうだったかもしれず,無論のまた 抒情に浸ればひたるほど遅かったのではないか?とゆうには想像に難くないのだけれども 論調において,平和のために攻撃性を辞さなかった,その激しさに透徹した陽光の春めき などは,きっとこのあたり,彼の時間の調子と合わせられる特異性までゆかないまでも, 才能のごとき調和の一手のあったから。若きサムライのために,などは,僕自身のぱかっ と頭脳の開いた時にはことごとく濫読して…