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珈琲を淹れる時雨どきにロマネスク

九月にも入れば,残り湯に浸かってはそこから,這い出る朝。
妙な虫の声と,不可思議な花の匂いに突き動かされて,寂しさ。
妙に寂しさつのるそんな秋の入口。珈琲を淹れる時雨どきにロマネスク
お腹の中に豆乳オーレにしてはいって来るその生温かささえ,淋しい。
それは夜も昼も変わりないのだけれど,朝のそんな切なさならぬ,
冷寥として珈琲を淹れる時雨どきにロマネスク珈琲の香りがもう,
寂しく淋しく虫の声と花の匂いに生温かくロマネスク。この切なさ,
何だろうなこの切なさは,秋の入口,身体の質実に根本より骨身に,
何かのメロディーさえもついに聴こえてくるロマネスクに,さあ。
とどのつまるロマネスクとは秋の入口に立つ蓄音のメロディー。

肩の背中にかけて,凝りのほぐれて行く感じ。とんでもない凝りだったとは
正直に皆の口をそろえては仰る常套句なのだけれど,面白い文庫本を手にして,
帰りに道すがら,カフェに寄ってカウンター越し,珈琲の落ちる滴の音色。
そのアーケードの架橋下みたいなイメージの広島あたりにありそうな,昔は
そんなインドカリーの店に寄った節の初めてのグリーンカレーの香りや,
またチキンカリーのさらさらとした感じに目を見張らせながら,なんで,この
次に行った時,2階のカフェーに寄って夏の涼を取った思い出など,家族の
こんな裡にも,奇跡のようなファミリー・フェスタ・フェスティバルのような,
そんな奇跡の思い出もあるもんだ。それなりに悩んでは居た,悩んでいた,は
いたけれどもそこに思い出の残る事には一言の疑問も挟めない。挟む余地のない
なので,都市文化は非常にロマネスクで流暢に風情を情趣深く演出してくれる。

何故かしらそんな都市圏に問いも解らず遊びに行った際に思春期の家族の想い,
この情趣を想い出す,これが淋しいロマネスク。秋の入口に立ってメロディー。
凝りをほぐし終わったら僕達は何処へ行くのだろう?蓄音機よりの旋律よりも
果てに果てシテ,草原の地平線より行き着くその到着地点は,地中に掘られた,あの
教会とでも言えるのだろうか?いまになってようやく気付く。深夜の珈琲は,あれ,
もともと原型の信仰告白に親いのだ。夜に更けるまで珈琲を楽しんで,ドーパミンの
盛んに放出される夜半にはきっと,神が自分に降りて非常に豊穣の収穫祭なので,
僕は,独りの晩になると,常に深夜珈琲を試みてしまう癖のあったのは,元来修道士に
憧れていて,原始キリスト教のエチオピアの地中寺院にビックリしていてそのまま。
ようやくそれが信仰告白に珈琲の遣われていた起源と一致したのだ。だから,そうだな。
もう,イエス・キリストとゆう人は,きっとロマネスクの権化のような神さまで,多分
秋の豊穣とも関わりのある大天使ミカエルのような存在で,そうして,その存在はきっと
『学生時代』や『喝采』のような昭和歌謡のあの津和野・乙女峠や,長崎の慰霊にまつわる
凄い切なさをダイナミズムを以て連れて,そうして,ドーパミン・ヒーリング。この,
連綿と昭和時代より続いているロマネスク。

こうした,必須な時代の要求はきっと今も生き続ける。

なので,切なさは収穫しなけりゃぁ。


こちらは如何?

意味深長に珈琲=胆汁と,虚空アカシャの転生色彩譚

自分の中より明白に,何かの意味とゆうのが抜けてから,もう ひさしく感じる。意味がないのは,基本的に穏やかな静かさ。 意味深長に珈琲=胆汁と,虚空アカシャの転生色彩譚を標榜して, このBlogを,ただ描き切っていた頃合いが懐かしく,今もまた デカフェの珈琲豆乳を呑んではいるが,その懐かしさは過去による モノだ。大抵は,すでに生豆の焙煎などの200℃にコンベクションで 送風して,ゴーゴーと30分やそこらで終えてしまうようになってから 浅煎りなのだか焦げているのやら解らないように感じるのだけれど, それはそれでコーヒーの味わいには届いているのやら?割ってしまえば 飲むことはできるので,有り難く美味しそうに頂いてはいるのだった。
西郷どんを堀辰雄氏に当て嵌めて,萩原朔太郎氏は近藤勇になって, 谷崎潤一郎氏は高杉晋作=イザナミ女神的な,太宰に龍馬伝説を, 立原に乾退助の影あれば,川端翁は松陰先生で,三島に桂小五郎の 余韻を曳いて,それは歴史の風韻の現す,ラッキョウの砂丘には彼の 風紋を遺す,風の報せ。むしろの虫の知らせなのだった。また戦国には 堀さんは信長公,萩原さんは上杉謙信。大谷崎は下って8代吉宗公に, 太宰の独眼竜を供えれば,立原=千利休=秀頼公の,川端翁の信玄=武蔵。 三島文学は遠くサド侯爵=マキャベリまで溯る。付随して,漱石山人には 太閤秀吉=一茶によって,東照宮には芥川氏とアマテラス=恵比須さんの この豊かな不老不死伝説までも含めて,さては,宮沢賢治=清正の井戸。 ここまでよくぞ堪えてくださった,とばかり。意味深長に珈琲=胆汁と, 虚空アカシャの転生色彩譚を,計らずも与えて下すった”歴史絵巻”に謝々。

フォーの麺のあって,それに合うスープを造って頂きましょう,とゆうことに 昨晩も今晩も量はあまり摂らずに,眠りやすい環境を整えてゆこうと言っては, 胡麻味噌や,コチュジャン。鳥ガラスープに醤油みりん。ヌクナムなどに塩胡椒で ネギとニラ,油揚げを加えて,胡麻味噌には八角など,山椒の粉も入ってるので 大事なのは麺がゆるゆるにも芯残りにもならずに好い茹で加減でできるとなとゆう ところで,食卓には何とか一緒に楽しめるほどの時間は過ごせたのだった。あと, お風呂も沸かして,コトコト響いてくるような背景音に合わせて,こうして夕暮れに タイプして行く心地。あまりに最近お喋りもすすま…

すんなりと快く、イメージは秋の日の香りのように

湧水を汲んできて ひと安心する
焙煎するデカフェの珈琲豆のホッとする
炬燵をしまってしまっても まだ暖かいいつものように ウーロンドリップ珈琲豆乳を
汲んできた 湧水によって淹れる夜には
もう寒くもないので 一枚板のお爺ちゃんの机の
スースー通る 足元の風の心地よく生活を成り立たせるひとつひとっつの
優しさは そのまま豊かさ意識へと結び、
切なさより以上の 強い 安定へのステップを
ひと刻みずつ 記憶させる
豊かさとは 優しさのことなのだこうやって日記はポエジーを含んできて
大事なことは少しずつ練り上げなければ造られず
拘泥して 舞い上がるのにも飽きてようやく出来上がる
切なさは悲惨さの産む副作用のようなカサブタみたい
それはやはり必要なモノでもあるし
それでこそ クリエイトされる犠牲と朝焼けの意味とビスケットを摘まんで カステラを買って帰って
仮眠の前などは食べない方が 胃のもたれるのは必至
それでも 珈琲は欲しい すこし氷を足して一気にのむ眠気の晴れた辺り空腹の時間は快癒の知らせ
深く暗い海よりあがってきて吸い込む地上の空気は
新しく鮮やかに彩られた空模様の 天候だけでなく 空模様の
ビスケットはどこだろう? 摘まもうにもまだうつろクジラのようには食べ続けられないので
空模様には 雲のような あの大食いのかたちをして
希薄な体積をあらわしてるので 希薄とゆうか 息の切れる
そんな夢のなかでは呼吸をしながら潜水できるのだ
こうゆうふうにして 珈琲をのもう救いは喫茶で 自然採取の何らかの 足元を通る風の
スースーとしているイオン系の感触なので それから通る
感傷にひたって やっぱりここを通りすぎるのは 風とイオン
風とイオンは 趣味と思考 風とイオンは サイダーと飴のこと思考するとき 四股を踏む 眠る前には 歯磨きする趣味
雨のなかには佇まえず しかしながら家のなかの 雨のごとく
雨模様 雨模様 そうなのだ 傷の癒えるそんな頃合いには
心模様 空模様 雨模様 思考様々 趣味様々 飴様々
ビスケット カステラ デカフェ珈琲 歯磨きの前に珈琲のんで 雨のなか 歯磨きをする

木星のユピテルは王者かオロチか。いままでの振り返りに三島文学

T.マンを聖ヨゼフのように置いてみて,またヘッセを聖母のように, アナトール・フランスはヘロディヤみたいだけれど,いつも伴侶として そうして,その木星のユピテルは王者かオロチか。いままでの振り返りに 三島文学を紐解いて,ユピテルはまたタウルスのように,虎獅子ドラゴン。 角をむいて,ひづめを鳴らしてる。平家はいまは民間のほうにあり,どちらか と言えば,源氏のほうが官になってる印象のあり,それはあくまでイメージ上の 捉え方だけれど,どちらが良いとゆうこともない。ぼくらは二分法のうちに, その掻き鳴らされたひずめの行方を案じて低頭に砂ぼこりへ咳込むばかりだ。 夜にはウーロン茶と豆乳を半々に割ってノンシュガーで少しずつ呑んでいる。 そんな頃合いに,どこまで行っても,この純粋な文学にあって,サド侯爵の 影をあたえて吹いている風のごとき三島さんのヨーロピアニズムと芸術指向に, はたまた,煤をいつも被って,ミサの毎に薫香の匂いを帯びて黄金にむしろ耀く。 この敗退の一途にしては,耀きをつづけるニーチェのゆうルサンチマンと呼ぶ辺り。 低頭に砂ぼこりを吸い続ける民衆のところどころに不毛の荒野に一輪のデイジー。 敗退の一途,か。攻撃性を否定すれば,いくら批准したところで世間体は常に彼の 後ろをついて,本来の王はあなたです,とは日常にあたえられる平和は文学に。 三島文学=マキャベリズム=武蔵坊弁慶=木戸孝允・桂小五郎=サド侯爵には, またフラ・アンジェリコの天使画の数々。この鈍いほどの重い香りを携えて,自宅には 芍薬を飾って,いまもまた鑑真香を焚いてすごす。彼の芳香には,恬淡と跪きながら。
三島さんは相当に筆のすすみの早かったように感じる。義務的にも遂行できる運筆の, そんなようなのを,良く感じる。葉隠入門などを読んでいると,まるで演算機のように すすんでいくタイプのリズムを感じる。むしろいつもそうだったかもしれず,無論のまた 抒情に浸ればひたるほど遅かったのではないか?とゆうには想像に難くないのだけれども 論調において,平和のために攻撃性を辞さなかった,その激しさに透徹した陽光の春めき などは,きっとこのあたり,彼の時間の調子と合わせられる特異性までゆかないまでも, 才能のごとき調和の一手のあったから。若きサムライのために,などは,僕自身のぱかっ と頭脳の開いた時にはことごとく濫読して…