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情況浪漫エッセイ,

サヨナラ珈琲,こんな気持ちで,梅雨の再来のような,あの
涼やかで飴玉みたいに甘い,チラチラと虫の音の耀く湿原を,
扇風ファンのガヤガヤとした音色の裏で響く,あの涼やかで
飴玉みたいに甘い,チラチラと虫の音の耀く湿原を,追悼の。
このさなかではお盆前に感じる,ひやひやと美しい虫の音を,
そんなに殊更騒ぐほどでもない。けれど,サヨナラ珈琲,
こんな気持ちで,梅雨の再来のような,静かな弔いのムードは
幽冥の,一種の安らぎにも親い。ただ,安らぎに任せて,心臓も
ぎゅっと掴まれたようなそんな心地で,言葉をうしなう。この,
無抵抗な,あのヒステリクスにはヒステリクスで任せてしまうこの,
元来,ぼやあっとしているには変わりないのだから,任せてしまう。
サナトリウム文学の窓辺のような,哀切の芳香を漂わせる何らかの,
不思議,不可思議。夜は,眠りに就くもので,朝には目覚める,そんな
魂には。夜露を呑むコオロギの気持ちはワカルマイ。宇宙船が跳んで,
スペース・シップの鳴く,こんな草原の,夜の演奏会は観らるまい。

哀愁だ,虫の音は哀切な,宇宙も言葉もリズムさえもない,その哀切な,
ロゴス=心臓をうしなった世界では,はても無いようで,果てに居るから,
もうすぐ晴れやかな気持ちはするにしても,甘いフレイバード・ミルクティ。
ブラウンシュガー・シラップでも掛けて凍えた,両脚を暖めて,バンビ。
凍てつく現場では,そうしたファンシーな文化は起こるものなんだ。やっぱり
究極には,人間性の現場で生きる者にはファンタジック・メルヘンチックな,
何かの芳香的な薬味の必要になってくる。人間性<メルヘンなのだな。こう,
孤独や,嘆息と失語の中に見え隠れするのは,ロシア文学のようなメルヘン。
メルヘンと言っては,凍える事に疎そうに見えるけれども,人間性の夜に,
爆裂音楽のような,クラシカルな調べの起こるのは,そういったバイキングの
あるいは貴族的な海賊の以て産まれた癒しの調べなのだろう。ロシアの春,
とゆうものがあれば,それは,春地帯でも良いのだけれど,あるいは北欧の,
海の碧さを直視できる一瞬の晴合いでもいいでしょうが,それは,無我の瞬間。
漱石の無我の境地は晩年は常にそうだったのだろう,そうして,堀辰雄よりの,
創作めいた,芥川からの直系で,遠藤周作までの殉教詩譚に移ってゆくのだろう,
喜び?飽和?漫談閑談?こんな,富栄養に親い,国譲りのようなご歓談はここには,
もう,用はないのだろう。情況浪漫エッセイ,願わくば,お盆甘露時代詩。

本当に,何らかの富栄養化した,時代の露呈は終わろうとしている。これは,正答。
心臓は止まってしまったかのそんな調べをよく聞くのだ。鼓動のような,虫の音。
何だろう,ロマネスクではないのだったら,失語の果てに,何をみるのだろう?
すやすやと眠る,寝息のさざめき。これで一応は安心できる。無理をすると,胸の
辺りの締め付けられる。これは,きっと身もふたもなく無理をしてきたからだろう?
身体の苦難とゆうよりは,飲み会の席で話される,心の無理とゆうやつです。こんな
取り繕っても意味はない,無理をしても意味はない。これは,愚鈍とゆうより,あんな
ノンシュガーの,低脂肪の凍り過ぎないヌルめの何かで,ゆっくり融かしてゆく,その
ザラメ入りのかき氷のようなものです,私は愚鈍ならば,サービス精神もないはずなのだ
だから,こうして,サービス<心臓=ハート=ロゴスの帳尻を付けようと画策している,
あくまでも冷静に,したり顔で,河童のように,カワウソと地底の国でバチバチ飛ばしてる。
タイガの解けてゆくような,そんな瞬間は必要だろう,こころの凍土は消えてゆく,
なのでだから,そんなに追及してゆくこともない。結局のところはロマネスク<哀悼の
このさなかにあって,時代は,どんどん進行してゆく逆戻りに。お盆甘露時代詩。
願わくば,情況浪漫エッセイ,停車場まで送ってくれませんか?あるいは,この栗饅頭,
あの停車場にまで,届けてくれやせんか?きっと,疲れて帰って来てるはずなんです,
栗の顔した,熊みたいな奴ですから。

こちらは如何?

KARMA SPRINGとゆう、LONDON ONEの書類群。

腸がつまる、など。必然的な兆候を含む、現代のシンドロームには業の湯浴み、として。沢山の娯楽をエンターテイメントのように軽く、 楽しめるかとゆう、趣味の時間を1分2分。どうしようか? ほんとうに湯舟に浸かれる瞬間は、ご褒美だけれど、郵便物を 受け取るための深夜窓口も、寒くって伺う気にはならない。
疲れている?いいや、眠たいのはいちばんのご褒美で、またあの 思考を放棄する瞬間にこそ、曖昧で朦朧とした意識の、それは、 諦念する、問題も、なにもかもなくしてしまわれるのだから、 業の問題を考えるにしても、その問題をこそ、考える理由にこそ、 思考をなくしてしまえる瞬間に、解決されるとゆう、自己回帰。
スムーズに、ヨーグルトのプレーンを朝食に、必然的にも トーストの欲しくなるのは不可思議以上の不思議な事で、 思考し過ぎる事かあ、趣味と言えば趣味らしいモノだろうけれど 逆に、その時期を通りすぎれば、遺産として、KARMA SPRINGとゆう あの書類群の、ギフトだったのだな、ギフトだったのだ。 LONDON ONEとゆう、思考の山人による、最高の贈り物。
篤姫や、真田丸のあとには、足利学校のテーマなどみられる のでは、など、そんな、太陽悪魔や、オロチ伝説の、赤猪岩受難の、 岩戸伝説や、岩窟の聖母像と重ねて、ヒトの受難は、獣神化する道程を 経て、進む。確実な過程として、行程は、目的地の、アマテラスへ。 太陽の夜明けに繋がるのは、そんな、獣神の角と眼の筋の取られて ヒトよりも人らしい、そのグラウンドダウンしてゆく人間性の、 これは、地味に滋味栄養のある、豊富な、例えば、あの古い語の 富国強兵論なども、こうした、筋肉質な糖質制限や、あるいはまた 腸の詰まりは、富国強兵に、カルマ・クリーニングを一跳びして パクチーのコンソメスープなどを啜る朝に、やはりあの、 トーストを欲しくなる、都市街の朝食風景は、ループする。あんな ループする朝食を求めて、世界は廻り続けているとしたら、 このグラウンディング指向も、また、おんなじ様に、新年のお雑煮を、 頂けそうな、そんな年末のグツグツ、カマドは周るのである。

跳び込んで、さては越えてゆこう、あの倫敦の壁。

反射式灯油ストーブとゆう、電池が2本あれば着火して、延々と火が灯して居続けられるとゆう、あの暖かい暖房器具に換えて、 けれども、いくら火が自慢してきたって、この寒さにはギャップの ありすぎて、孤高の熱源とさえ言える。そうとも思えなくない。 例えば、こんな夜に、ジョナサン・スウィフトのガリバー旅行記や、 ジェイムズ・ジョイスの、ダブリナーズや、ブルネルの蒸気機関の、 あのシラノドベルジュラックの引いては切なさとゆうものへ。 たどり着いては、首を振る。僕の、ポートレイト?これは、いや。 むしろ、地底のレストランへの入店チケットに違いない。 ペイパーバックライターのイントロを奏でながら、いらっしゃい!と。
そんな中で、また別の系譜へと、この流れでして、目をやると、 ジョンのピースプレイトと、プルーストの時のない、そんな エル・グレコの静止画と、フェルメールの祈りのない静止画と、 そうして、カスパーダーヴィドフリードリヒの動画のような、 祈りを、静止画と動画に織り交ぜて平和を祈った、ダンテの あの、天国と地獄には、とにもかくにも、動きの中の静けさ。
大晦日を迎えられたのは、身体に感謝とはいえ、なぜかしらの 糖分がすべて抜けたかのように、フニャっとしてしまったので 何かしら食べていようと、寝正月とお正月料理を拝借する。 魚卵は、女性ホルモンにて情緒安定し、かまぼこ、お餅などは 練り上げる消化力を推し進める。とにもかくにも年末から三が日は ほんとうに終わりと始まりをないまぜにして、全然のとやかくゆう、 あのサナギの産褥の時期である。もう、ほんとうに生まれ変わって 蝶に羽ばたくこと、はばしく麗しやかに、その飛翔は、まるで
カルマクリーニングをひとっ跳びして、掻き削がれたオーラの 全体性の発露とはかくゆうこんな、絶対的に阻まれた主観性だ。 何かが、1年の糖分のあまさとして、大晦日の業火に灰と化し、 新年の三が日はとにかく、食べて寝て、練り上げて、寝て。 そうして、思考知性の小さなままの、不死鳥のヒナまでが、何か 新しいスタートのしるべのようにして、現れてくる。そんな、 切なさではいられない。けれども、業火には、もう絶やされない。 すべての出逢いと別れは、一新され、そうして、知性の発現している この、小さな飛翔体によって、希望を持ち抱きながら、すすむ。
こんな、混沌とした新年には、もうすぐ、何か道しるべを掴める。 といって、希望を持ち抱きながら、…